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『二人静』・3




 昼の混雑がようやく落ち着いた頃、秋津染吾郎は店を訪れた。

 といっても特に何か用があった訳ではなく、弟子を伴い食事に来ただけである。

 彼はこの店の常連でよく昼夕に顔を出すのだが、連れて来られた弟子の方は不機嫌そうな面持ちで甚夜を睨んでいた。


「お師匠、他の店やったらいかんのですか?」

「なんや平吉、不満か? 折角奢ったるゆうとるのに」

「それは嬉しいですけど。なんで鬼の店なんかで……」

「こら、滅多なこと言いなや。今は他に客がおらんからええけど」

「そんくらい、俺かて分かってます」


 宇津木平吉。

 今年で十二になるこの少年は、染吾郎の下で根付づくりを学んでいる。

 もっとも、それにも不満がある様子。平吉は元々根付職人ではなく付喪神使いに憧れて師事を受けた。だというのに未だそれらしき術を教えて貰えないらしく、現状には納得がいかないのだろう。

 そして同じく、甚夜の存在にもまた納得がいっていないようだ。

 鬼でありながら人に紛れて暮らす甚夜の存在は平吉にとって許容し難く、いつも嫌悪感に満ちた目を向けてくる。


「きつね蕎麦、二つな。ほれ、平吉も座り」


 しかし染吾郎は弟子の不満を軽く無視して、さっさと注文をしてしまう。毎度のことなのでもはや取り合う気はないらしく、既に腰を下ろしていた。

 そうすれば平吉も従う他なく、隣の席に渋々座る。そこまでが定番の流れなので、甚夜も口を挟まず黙々と蕎麦の用意をしていた。


「きつね蕎麦二丁、お待ち」

「お、すまんね……なあ、今更なんやけど、なんできつね蕎麦? うどんの方が普通ちゃう?」

「そうだろうが、私の故郷では狐を神様と崇めていてな。あやかってみただけだ」


 甚夜が育った葛野では、マヒルさまと呼ばれる火を司る女神が信仰されていた。

 マヒルさまは元々森に住んでいた狐であるとする説話があり、思い付きできつね蕎麦を出してみたのだが、なかなか評判がいい。神仏の加護があったのか、今ではきつね蕎麦は『鬼そば』の一番人気である。


「はぁー、成程なぁ。平吉、はよ食べんと伸びるで?」

「分かってます。……食いもんに罪はないしな」


 言い訳するように呟き蕎麦を啜る。態度がいいとは言えない、しかし甚夜は然程気にしてはいなかった。

 江戸で過ごした日々のおかげか、単に歳を取ったからなのか。子供の無礼くらいは自然と受け入れられるようになった。

 少しずつだが、変わっている。その実感が確かにあった。


「相変わらずやね」

「そやかて、鬼は退治すべきやないんですか、お師匠」

「鬼をただ討ちたいだけなら“妖刀使い”の南雲や“勾玉”の久賀見あたりに養子にでもいきぃ。でも秋津は付喪神使い、物の想いを鬼へ変える。ほんなら、鬼を憎しと扱うのはなんや違うと思わん? 鬼は想いの果てに堕ちる場所。その是非はちゃんと見極めなあかん」

「それが付喪神使いの矜持ですか?」

「人としての、最低限の礼儀や。想いを力に変えるのが僕らなら、誰よりも僕らは想いを大切にせなな」


 穏やかに平吉を嗜める姿は、まさしく師匠といった風情だ。

 江戸で出会った時にはまだそこまでの貫録はなかったし、以前は染吾郎が「何処まで行っても鬼は倒される側の存在」だと言っていた。この男もまた歳月を重ね、少しずつ変わっていったのだろう。


「色々ゆうたけど、人に善人悪人がおるように、鬼にやって悪鬼も善鬼もおる。人やから鬼やから、なんて言うのは阿呆やと思うで?」

「……そやけど、納得はできません」

「あらま。ま、いつかは分かるようになるわ。出来れば、それが遅すぎた……なんてことにならんとええね」


 そう締め括り、蕎麦に向かい合う。

 甚夜にとっては油断のならない友人だが、平吉から見れば教え諭してくれる師匠。普段は触れることのない師としての染吾郎の姿は、なんとも微笑ましい。

 成程、野茉莉の父で在ろうとする自分を見ていたおふうや直次の気持ちもこうだったのかと、今更ながらに気付かされる。


「師というものも大変だな」

「はは、そやね。それ言うたら父親も相当もやと思うけどな」


 確かに彼のいう通り、父親も中々に難しい。

 大変なのはお互い様だと、二人して小さく苦笑し合う。なんだかんだと親交を結んできた、流れる空気はそれなりに和やかだった。


「……なんでお師匠は鬼なんかと」


 師と鬼のそういう気安い関係が平吉には面白くないようで、ぶつぶつと呟きながら恨みがましい目でこちらを見ている。

 年齢を考えれば仕方ないがまだまだ子供だ。甚夜は呆れたように溜息交じりの苦笑を零す。


「そう睨むな、秋津の弟子」

「うるさいわ」 


 にべもない。平吉は視線を切り、甚夜の方には目もくれず蕎麦を啜る。

 五月蠅く言っても意固地になるだけ、取り敢えずは放っておく。それよりも今は気になることがあった。


「染吾郎。聞きたいことがある」

「ん?」

「兼臣のことだ」


 一度箸を止め、染吾郎は顔を上げた。

 昨夜、彼は兼臣を「古い知り合い」と言っていた。ならば少しは彼女の人となりを知っているだろう。

 そう思っての問いだったが、何故か不思議そうな顔で返される。


「兼臣……って、なんや?」

「昨日の女だ。そう名乗った」

「あー、そういうや、あいつ兼臣ってゆうたか。久しぶりに会ったから忘れとったわ」


 取って付けたような言い訳。やはり偽名だったらしい。

 そこを指摘するつもりはない。うんうんと頷き、染吾郎は茶を一啜り。取り敢えず話す姿勢は見せてくれている。

 彼ならば明かすべき隠すべきの判断はしっかりとしてくれる筈。全てを知れなくてもそれで十分だ。


「そやけど僕もあんまり知らんよ? 別に個人的な付き合いがあった訳やないし」

「というと」

「正確に言うと、あの娘とやなくて主人の方と知り合いなんや。あの娘のご主人様は、まあ、ご同業でな」


 ご同業。当然裏の方で、だ。

 主人。その響きは意外だったが、同時に納得もする。

 身なりは兎も角、兼臣自身は十分美人と言える。結婚しているとは思わなかったが、よくよく考えればそう不思議でもないのかもしれない。


「何度か肩を並べたこともあったんやけど、鬼にやられてもうてなぁ」


 彼女の主人は、付喪神使いの三代目と肩を並べられるのならば、結構な腕の持ち主だったのだろう。

 しかし鬼の手にかかり命を落とした。

 一人になった兼臣は、僅かな縁を頼りに、主人と交友のあった染吾郎を訪ねる。

 そして甚夜の話を聞き、地縛という鬼の討伐を依頼した。


「つまり、仇討ちか」

「ま、な。それ以上のことは本人に聞きい。ほんで、出来れば気ぃ遣ったって。あの子は抜身の刀や。多分、君が思っとる以上に脆い」


 それだけ言って染吾郎は黙り込んだ。

 無理に聞き出す気にもなれず、蕎麦を啜る音だけが店内に響いていた。




 ◆




二人静ふたりしずかをご存知でしょうか」


 残寒が身に染みる春の夜だった。

 既に日付が変わり、巷は寝静まっている。整然とした京の町並みを歩く男女。しかし艶っぽい雰囲気はない。

 男は無表情、女は何処か物憂げな空気を纏わせている。その上共に帯刀しているのでは、とてもではないが浮いた話を想像することなど出来そうもない。


 夜になり、甚夜は兼臣と並び五条大橋へと向かっていた。


 夜毎出るという鬼───地縛。

 話によれば兼臣とよく似た鬼らしい。

 もっとも、それ以外には大した情報は得ていない。兼臣と地縛の間に何があったのか、どのような<力>を持っているのか。結局何一つ分からないままである。

 それはそれで構わない。二者の間に如何な因縁があろうとも、甚夜の為すべきに変わりはない。

 鬼を討ち、喰らう。

 その為に依頼を受けたのだ。余計な詮索は必要ないし、逃げる気なぞ端からない。甚夜の意識は鬼の絶殺へのみ傾けられていた。


「山野の日陰に自生する、白い小花だな。晩春から初夏にかけて咲く。『一人静』という花に似ているが、二つの花穂を付けることから『二人静』と呼ばれるようになったそうだ」


 押し黙って歩いていたかと思えば、急に話しかけてきた兼臣へ淡々と返す。

 以前知り合った女に様々な花の名を教えて貰った。その為よどみなく答えられたが、隣を歩く少女はくすりと小さく笑い、首を横に振って否定した。


「葛野様は花に詳しいのですね。ですが、私が言ったのは世阿弥の謡曲のことです」

「謡曲……」


 会話をしながらも足は止まらない。目線を合わさずに言葉を交わす。

 花はともかく、そちらの方は生憎と知らない。疑問に眉を顰めれば、兼臣は前を向いたままで語り始める。


「吉野の里にある勝手神社では、毎年正月七日に麓の菜摘川から菜を摘んで神前にそなえる風習があったそうです」


 ある一人の菜を摘む女───菜摘女は例年通り、菜摘川へと足を運ぶ。

 しばらく菜を摘んでいると、一人の女が姿を現した。


『吉野に帰るなら言付けて下さい。私の罪の深さを哀れんで、一日経を書いて弔って下さい』


 女は涙ながらに菜摘女へと頼み込む。

 名を尋ねると何も答えず、煙のように跡形もなく消えた。


 不思議な体験をした菜摘女は吉野に戻り、そのことを神職に報告する。

 しかしその途中、女の顔付きが、言葉遣いが変わっていくではないか。

 神職が驚き、『お前は何者だ』と問えば、菜摘女は『静だ』と名乗った。


 勝手神社には、義経と別れた静御前が荒法師に捕えられた時、雅やかな舞を披露したという説話があり、境内には舞塚がある。

 だから神職は一つの仮説を立てた。



 彼女に取り憑いたのは、静御前の霊ではないだろうか。



『弔う代わりに舞いを見せて欲しい』


 自身の仮説を確信へと変える為、神職はそう頼んだ。

 すると菜摘女は精好織りの袴や秋の野の花づくしの水干など、静御前が勝手明神に収めた舞いの衣装を宝蔵から取り出した。


 女は衣装を身に着け舞う。

 流麗にして典雅、それでいて艶を感じさせる菜摘女の……静御前の舞。


 皆一様に見惚れていたが、ふとおかしなことに気付く。

 舞い踊る菜摘女の後ろに何やら影が在る。

 目を凝らしてよく見れば、それはうっすらと透けた白拍子。


 其処にいたのは、静御前の霊だった。


 静御前に取り付かれた女。

 静御前の霊。

 二人の静は重なり合うように舞を披露したという。


「これが謡曲『二人静』の内容です」

「幽霊と共に舞う……なんとも奇怪な話だ」

「ええ。ですが、この話が本当に奇妙なのは、静御前の幽霊が現れた所ではないのです」


 兼臣の声は、何処か寂しげに聞こえる。


「菜摘女は静御前に取り付かれていたから彼女の舞を踊ることが出来た。けれど、途中で静御前の幽霊が現れ、それでも菜摘女は舞い続けます」


 指摘され、確かに奇妙だと甚夜も思った。

 菜摘女の舞は静御前のもの。彼女に取り憑かれていたからこその舞だ。そして静御前の幽霊が現れたというのなら。

 その時点で、菜摘女は取り憑かれていない筈なのだ。


「それなら、“何”が菜摘女を動かしていたのでしょうか」


 彼女の中に静御前の霊はいない。

 ならば彼女はどうやって舞った?

 舞は菜摘女の内から零れたのか。

 静御前の想いがその身に残されていたのか。

 それとも、彼女を動かしていたのは。



 ───もっと、得体の知れない“何か”だったのか。



「さて。生憎と浅学でな。小難しい話は分からん」


 いくら頭を悩ませても明確な答えなど出ない問い、まだ出たところで意味もない。

 益体のない問答は此処で終い、無駄な思考は振り払い、ぎろりと眼前を見据える。


「それに無駄話をしている暇もなさそうだ」


 気付けば視界の先には五条大橋が見えている。

 そして、其処に立つ女の姿も。

 遠目ではあったが、月明かりの夜だ。女の容貌がよく見える。

 若い女だった。

 年の頃は十七か、十八。背は五尺を下回る程度。細身な体と白い肌も相まって、繊細な少女と言った印象を受けた。

 服装の方は繊細とは程遠い。男物の羽織に袴をはいた姿は、見目麗しい顔立ちをしているからこそ殊更違和感があった。

 髪は短く整えられている。覗き込んだ瞳は、夜の闇の中で尚も赤々と輝いている。

 顔立ちは、傍らに立つ女と瓜二つだった。


「そら、静御前の御目見えだ」


 彼女が件の鬼で相違ないだろう。

 甚夜は夜来を抜刀し、その切っ先を眼前の鬼へ突き付け、鋭い目付きのまま皮肉げに言った。

 女の顔は、気味が悪いくらい兼臣に似ている。

 寸分違わぬと言っていい程に彼女達は同じだ。


「地縛っ……」


 端正な顔を歪め、兼臣は鬼を睨む。

 夜刀守兼臣を引き抜き、正眼に構える。ぴんと張った背筋、僅かな足さばきを見るに剣術は修めているのだろう。


「今日こそ返して貰います」

「あらあら、相変わらず無駄な努力が好きなのね」


 兼臣と顔は同じだが声は別のようだ。地縛の方が若干高く、口調とは違い子供っぽさを感じさせる。

 鬼ではあるが、反響するような、淀んだ声ではない。外見も声も、人としか思えなかった


「今日は男連れ?」


 嫌味な物言い。

 薄目で値踏みでもするような不躾な視線を送ってきた。


「私の名は葛野甚夜。鬼の討伐を生業としている」


 突き付けた刀を後ろに回し脇構えを取る。

 名乗れば地縛は目を見開いた。なにか引っ掛かることがあったのか、珍しいものでも見るように甚夜をしげしげと眺めている。


「あらまあ、貴方が……お噂はかねがね」


 どうやら名を聞き及んでいたらしい。

 鬼の身でありながら同胞を討つ男。案外鬼の間では悪名が鳴り響いているのかもしれない。

 今更だ。自嘲しながらも表情は変えず、僅かな動揺さえ彼は見せない。


「私は地縛。マガツメ様の命に従い、人を狩っております」


 ぴくりと眉が動く。

 芝居がかった仕種でお辞儀をする地縛。しかしそれよりも気になる言葉があった。

 また、マガツメ。しかも様付けで呼ばれるとは、この鬼はマガツメなる者の配下なのだろうか。


「マガツメとはお前の主か」

「いいえ? 違うわ」

「ならば」

「貴方はお喋りに来たのかしら?」


 くすくすと馬鹿にしたような笑いを零す。

 その態度を見るにこれ以上問い詰めても得るものはないだろう。


「そうだな、続きはお前を斬り伏せてからにしよう」


 ならばその身を喰らい、記憶ごと奪えばいいだけの話。

 意識を研ぎ澄ます。女であろうと関係ない。

 悪いが、討たせてもらう。


「葛野様、あの鬼は真面ではありません。どうか油断なさらぬよう」

「忠告感謝する」


 甚夜は冷静に地縛を観察していた

 彼女の体付きは兼臣と同じく細身であり、その立ち姿から武技を収めている様子もない。異形へと化す素振りも見せず、男物の羽織を纏っている以外は普通の娘としか思えない。

 しかし兼臣は地縛に負けたと言った。

 ならば何か隠し玉があるのだろう。

 十中八九それは彼女の<力>だ。 

 警戒を緩めず、摺足で間合いを縮める。


「っ!」


 もう一歩を進もうとした時、突如飛来した何かが進軍を止めた。

 甚夜目掛けて真っ直ぐに放たれた何かを、咄嗟に刀を振るい弾く。勢いを失くし地に転がったそれは、


「鎖……?」


 先端に小さな鉄球の付いた鎖だった。この鉄球が投げ付けられたらしい。

 一体いつの間にこんなものを。

 疑問に思う暇もなかった。次の瞬間、地面に転がっている筈の鎖は生き物のようにもう一度甚夜目掛けて飛来する。

 今度は弾けない。大きく後退し距離を空ける。一呼吸置き地縛を睨み付け、甚夜は大きく目を見開いた。


「な……」


 一本、二本、三本、四本、五本、先程放たれた六本目の鎖。

 それだけの鎖が彼女の周りでゆらゆらと揺れている。

 鎖の起点となっている場所も計六つ。そこには何もない。ただ黒っぽい球形の歪みが中空に浮いているだけ。

 何もないところから鎖が生えている。奇妙な言い方だが、そうとしか言いようがなかった。


「私の名は地縛じしばり。<力>の名も……」


 余裕たっぷりの笑みで、見下したような目。

 鬼女は右腕でゆっくりと兼臣を、次に甚夜を指差した。


「<地縛>」


 鎖は蛇だった。

 じゃらじゃらと金属音を響かせながら襲い来る鉄球は、餌を求める蛇の咢に見えた。その牙は甚夜と兼臣を同時に狙っている。

 鎖を造り出し自在に操る<力>、といったところか。

 こういった<力>は初めて見るが、成程、あれならば本人の身体能力がどれだけ低くても戦える。

 地縛の意思で操れるなら紙一重で躱すのは危険。僅か数秒でそう判断し、甚夜は大きく横に飛び放たれた鎖を回避する。


 がきん、と鎖と刀がぶつかり合う。


 やはり思った通りある程度地縛の意思で操れるようだ。

 回避したはずの鉄球が背後から襲ってきた。それは予想通り。振り向きざまに夜来を一閃、鎖を弾くと、地縛は一度手元にそれを戻した。


「まぁ……貴方、後ろに目でも付いてるのかしら」

「さて、な」


 背後からの一撃を防がれたことに純粋な驚きを見せる。

 予想していたから防げただけ。だが敢えてそれを教えてやることもない。隣を見れば兼臣も鎖を回避し再度正眼に構えていた。見た目は少女だが剣の腕は確からしい。


「厄介な相手だ」

「はい。私では一太刀を浴びせることさえ出来ませんでした」

「なに、あれを相手取り生きているだけでお前は十分に強い」


 戦っている最中ではあったが、簡素な慰めに兼臣は小さく笑みを零す。

 彼女が次の言葉を紡ごうとした瞬間、重ねるように地縛の声が響いた。


「休んでる暇なんてあるのかしら?」


 言い放つと同時に空気が唸りを上げる。

 鞭のように振るわれた二本の鎖。直撃すればこの身を裂くであろう痛烈な鞭打、だが当たってやる訳にはいかない。


<疾駆>


 初速から最速を超える、人には為し得ぬ速さをもって掻い潜る。

 瞬きの間に間合いを侵し、唐竹。殺気を十分に込めた一刀だ。


「あっと……今のは、少し危なかったわね」


 しかし残る四本の鎖が盾になり、容易く防がれてしまった。 

 あの鎖を断ち切るのは難しいか。

 無表情で鎖の盾の奥にいる女を見据える。地縛は戦々恐々といった様子。この距離まで肉薄されたことが今までなかったのか、完全に防ぎながらも冷や汗を流していた。

 彼女は「ほぅ」と安堵の息を吐き、


「休んでいる暇があるのか?」


 刀は囮。地縛の細い体、その脇腹に蹴りを叩き込む。


「やぁっ!?」


 妙に可愛らしい声だった。

 焦りに顔を歪め、たたらを踏みながら再度鎖で防御。蹴りをなんとか防ぎ地縛は後退する。

 だが逃がさん。

 間合いから外れていく鬼女を睨み、<飛刃>。

 此度の目的はあくまで捕縛。殺してしまわぬよう腕に向けて斬撃を放つ。

 しかし追撃も通らなかった。腕を一本貰っておくつもりが、いつの間にか手元に戻っていた、二本の鎖に阻まれる。


「あっ、ぅ」


 苦悶に歪む表情。

 覚束ない足取りで、よろよろと体を揺らしながら、地縛はどうにか距離を取った。

 反応しただけ上等だが、一拍子遅い。自慢の鎖でも完全には防ぎきれていなかった。

 彼女の着物の袖口は僅かながらに裂かれ、その奥、白い肌には鋭利な刀傷がつけられていた。


「今のは……。あぁ、貴方様は鬼、でしたね」

「その通りだ」


<疾駆>の尋常ならざる速度、飛ぶ斬撃を見て兼臣は眉を潜める。

 対して甚夜は平然としていた。以前ならばもう少し気に病んでいた。

 しかし今は違う。鬼であっても受け入れてくれた者達がいる。だから鬼の<力>を晒すことに抵抗はなかった。

 ちらりと横目で兼臣の顔を覗き見れば、彼女は何かを訴えようとして、途中で思い直したように言い淀む。


「いえ、葛野様が何者であろうと、私に助力してくださったのは事実。ならば今はそれを信じます」


 それが本心か、自分一人では地縛に勝てないという打算かは分からない。

 彼女の主人は鬼を討つ者だったと聞いた。ならば兼臣にとっても鬼は敵だろう。

 とは言え、すぐに敵対する気はないらしい。ならばそれでいい。後のことを気にしても仕方がない、今は地縛を捕えることに専念する。


「さて、続きといこう」


 一歩を踏み出し、動揺から冷めやらぬ地縛を見る甚夜はいつも通りの平静な表情。

 と言ってもそれは傍目だけ、内心はかなり波立っている。


 あれは、厄介だ。


 優勢を保ってはいるが、その実甚夜は危機感を抱いていた。

 兼臣が負けたというだけはある。まさか二つの<力>を行使して捕えられぬとは思っていなかった。

 正直なところ地縛は然程強くはない。

 土浦のように練磨された体術を持たず、<同化>の鬼のように優れた膂力もなく、岡田貴一のようにそれらを覆す程の技もない。今迄相手取ってきた鬼を考えれば、その実力は高いと言えるようなものではなかった。


 だというのに結果はこの通り。

 掠り傷を負わせた程度で地縛は未だ健在、捕えることが出来ていない。


 理由は勿論<地縛>……鎖を操る<力>のせいだ。

 立ち振る舞いから想像するに、地縛は実戦経験が少ないのだろう。それでも縦横無尽に振るわれる鎖は、並みの使い手ならば一瞬で沈む程に苛烈である。

 地縛の練度が低い為、鎖を操る<力>も現状は多少厄介な程度。しかし経験を積み、状況に合わせた最適な<力>の行使を会得すれば、地縛はこの上ない脅威となるだろう。


 夜来を握る手に力が籠った。先は分からないが、今ならばまだこちらに分がある。故に、この機は逃さない。

 もう一度<疾駆>を使い攻め入り、今度こそ捕縛する。腰を落し、全速で駈け出そうとして。



「ね、言った通りでしょう?」



 舌足らずな、幼い声。

 どこかで聞いた声が、甚夜の足を止めた。

 自然と眼がその主を探す。地縛を視界の止めたまま周囲に意識を向ければ、すぐに一つの小さな影が見つかった。

 五条大橋の欄干に誰かが腰を下ろしている。


 たったそれだけ。なのに、心が揺れ動く。


 その理由は甚夜にも分からない。

 所詮一度会っただけ。思い入れなどない筈。なのに、らしくもなく動揺した。

 目の端に映ったのは、薄い青に宝相華の紋様、金糸をあしらった着物を纏った幼い娘だった。色素の薄い、波打つ栗色の髪は肩までかかっている。

 年齢は見た所八つか九つといったところだろう。

 大きな黒い瞳。まだ幼く見える背格好に反してほっそりとした顔の輪郭は、可愛らしさよりも綺麗という印象が強かった。


「あの娘は一体……」


 兼臣は怪訝そうに童女を見詰めている。甚夜もまた彼女に目を奪われていた。

 それは、つい昨日見たばかりの娘だった。


「向日葵……」


 何故、こんなところに。

 あまりの驚きに問い掛けることが出来なかった。そんな甚夜を尻目に、欄干に座ったまま、夏の花の笑顔を浮かべて童女が言う。


「こんばんわ、おじさま。昨日は有難うございました」


 まるで普通の挨拶だった。

 昨日出会った時と同じように彼女の笑顔は向日葵で、だからこそこの場では酷く歪に見える。


「流石おじさまですね。まさか妹がここまで追いつめられるなんて思ってもみませんでした」

「妹、だと?」

「はい。地縛は私の妹です。見えないかもしれませんけど、私、長女なんですよ?」


 冗談めかした彼女の言葉に、甚夜はなぜか納得してしまった。

 細切れだった情報が己の中でかみ合っていく。

 鬼の跋扈。マガツメ。それに従う地縛と、彼女を妹と呼ぶ向日葵。母と逸れた。鬼に怯えぬ様子。心配しなくても大丈夫。

 ああ、そうか。確かに、襲われることを心配する必要などない。


「成程、昨夜の鬼はお前を襲う為に囲んでいたのではなく」


 何故ならば、鬼達は向日葵に『従って』いた。

 取り囲まれていたのではなく、年端もいかぬこの娘こそが中心だったのだ。


「はい、あの子達は母からの預かりものです。でもですね、勘違いでしたけど、おじさまが私を心配して助けてくださったのは本当に嬉しかったんですよ?」


 その言葉は本心なのだろう、彼女は確かに嬉しそうに顔を綻ばせていた。

 仕草は無邪気で、少なくとも甚夜にはそれが無邪気に見えた。だから余計に気が重くなる。


「母、というのは」


 もう粗方の予想はついているのに、敢えて問うた。

 本当は、その答えを認めたくなかったのかもしれない。叶うならば、否定してほしかった。

 しかし現実はいつだって思うようにはならない。


「あ、まだ伝えていませんでしたね」


 向日葵は──宝玉の如く赤い瞳──にっこりと笑った。


「私の母は“マガツメ”と申します」



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