『願い』・2
ざぁ、と雨音が聞こえた。
今迄気づかなかったが寺の外では雨が降り出したようだ。
おふうの肩も少しばかり濡れている。どうやら彼女はこの雨の中、甚夜のことを探していたらしい。
「ここにいたんですね」
柔らかな声。変わらない口調。この十年余り、彼女は何時だって姉が弟を心配するように気遣ってくれた。
それが懐かしいようで、けれどいつものことのような。胸には形容しがたい不思議な安堵があった。
「おふう……」
「探しましたよ? 急にいなくなるから」
何故と口にしようとして、意味のない問いだと気付く。
おふうは甚夜の正体について知っているし、彼女自身もまた鬼だ。
鬼と化した甚夜の姿を見たところで驚くほどのことではなかったのだろう。現に今も左右非対称の異形の鬼を前にして、いつも通り嫋やかに微笑んでいる。
「よく此処が分かったな」
「分かった訳じゃありません。ただ甚夜君が行きそうな場所を全部回ってみただけです」
くすくすと笑いながら近づいた彼女は甚夜の隣に腰を下ろした。
触れ合える距離に鬼と少女が並んで座る。傍から見れば随分と奇異なことだろう。
「大丈夫ですか」
「あの程度で死ねる程脆くはない」
「そっちじゃないです」
仕方がない人、とでも言わんばかりに苦笑する。
なんと返せばいいのか分からず甚夜は口を噤んだ。
しばらくの間二人はただ並んで座っていた。どちらも何も言わない。だが重苦しいとは思わなかった。
寧ろ沈黙が心地好い。言葉はなくとも同じ痛みを共有できる、同族だからこその安らかさが此処にはあった。
「これから、どうするんですか?」
ぽつり、思い出したようにおふうが問う。
正体を衆目に晒してしまったのだ。最早江戸には居られない。可能ならば早々にこの町を離れなければ。
しかし、その前にやり残したことがある。
「土浦……先刻の鬼を討つ」
力の籠らない、ひどく軽い調子だった。
おふうに驚いた様子はなく、けれど微かに俯いた。
意外だったのか、それとも予測していたのだろうか。その反応からは判別がつかない。
ただ彼女は表情を消して、淡々と、しかし不安に僅かながら声を震わせていた。
「……無茶です。甚夜君は、あの鬼に傷一つ付けられなかったじゃないですか」
彼女の言うことはもっともである。
現実として土浦の<力>、<不抜>を破る方法など見当もつかない。
しかしあれは討たねばならぬ。土浦が直次を狙ったのは泰秀の命令。奴は手駒の鬼を使って、直接的な行動に出始めた。
放っておけば土浦は討幕派の志士を悉く蹂躙するだろう。ならば結局は同じ。再び直次は危機に晒される。
動乱の中で命を落とすならばともかく、鬼の手によって虐殺されるなど、流石に認めることはできない。
「だとしても私自身の目的の為に、逃げる訳にはいかない」
なにより、鬼を討つのは彼の生業。
それは正義や道徳、倫理といった綺麗な動機ではなく、ごく個人的な目的から生まれた行動だ。誰に何を言われたところで止める気など端からなかった。
切って捨てるような甚夜の言葉に再び沈黙が鎮座する。先程までの心地好い沈黙ではなく、重苦しい、引き攣ったような空気だ。
少し雨が強くなったらしい。静まり返った本堂では雨音がやけに響く。二人は言葉もなく、降りしきる雨音に耳を傾けていた。
「甚夜君」
沈黙を破ったのはおふうの方だった。
普段より少しだけ低い声。緊張、それとも迷い。どちらかは分からないが、彼女には躊躇があった。
しかし逡巡の後、意を決したように一度頷き、隣に座っている甚夜へ視線を向けた。
「ずっと聞きたかったんです。貴方は、なんで鬼と戦うのですか?」
突き付けるような、まっすぐな問いだ。
おふうの目は真剣で、それがただの雑談のつもりではないのだと感じられる。
そう言えば、今まで話したことはなかったか。いい加減付き合いも長い。彼女になら話してもいいだろう。甚夜は中空で視線をさ迷わせたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
「今から二十年以上前の話だ。私は葛野という集落に住んでいた」
そうして口にする、己の始まり。
何一つ守ることが出来なかった。
どうしようもなく醜い“鬼人”の話。
「葛野は産鉄の集落。しかし私には職人としての才能はなくてな。幸い剣が立ったから、いつきひめ……集落の巫女の護衛についていた」
「巫女……」
「名を白夜、幼馴染だった」
雨音に紛れてしまうくらいか細いのに、驚くほどに暖かい。
其処には隠しきれない愛しさがあって、答えなど聞かなくても分かっているが、おふうは敢えてその質問を口にする。
「あの。好き、だったんですか?」
「……ああ。彼女は、葛野の未来のために自身の幸福を捨て巫女となった。それを尊いと思い、だからこそ護りたいと願った」
結局、それは叶わなかったが。
漏れた声に力はない。かつての光景を思い出しているのか、此処ではない何処を眺めるような遠い目だった。
「ある日、葛野を鬼が襲撃した。私は巫女守として彼女の護衛についていたが、護り切ることが出来ず彼女を死なせ、結果全てを失った。彼女を殺した鬼は去り際に言ったよ。この世の全てを破壊し尽くすとな」
遠い夜。
愛した女を守れず、大切な家族を失い、自分自身さえ踏み躙られた。
残されたのはたった一つの感情のみ。
「私は、憎い。私から全てを奪った鬼が。今から百四十年以上後、そいつは全ての闇を統べる王、鬼神となって葛野の地に戻るらしい。……私は鬼神を止める。そのためだけに、今まで生きてきた」
だから力が欲しかった。
人を滅ぼす災厄と対峙するに足る力が。
鬼神へと堕ちた妹を止める力が。
……何を斬るか、何を憎むかなんて。
そんなこと、迷わないでいられるだけの力が、欲しかった。
「鬼を討つのは、彼らを喰らいその<力>を奪うため。私は、強くなりたかった」
鬼を、同胞を喰らい<力>を奪う。
下衆な所業に何も感じなかったと言えば嘘になる。茂助や夕凪、喰らった中には大切だと思える者達もいた。
それさえ斬り捨て、踏み躙り、ただ只管に力を求めた。
強くなれば、振るう刀を疑わなくて済むと思った。
他の生き方など、選べなかった。
「白夜を殺した鬼の名は鈴音。……私の、妹だ」
鈴音、と。
口にしただけで憎悪が胸を焦がす。二十年以上経った今でも妹に対する憎しみが消えない。消えてくれない。
沸き上がる憎悪は感情ではなく機能。彼女を憎むことで鬼へと堕ちたこの身は、どれだけ心で許そうと思っても、憎しみから逃れることは出来ない。
「じゃあ、甚夜君は……自分の妹さんを殺すために、強くなりたかったんですか?」
『止める』と語った甚夜に対し、おふうは虚飾を取り去って『殺す』と言い切った。
責めるような調子ではなく、平静な、抑揚のない問いだった。
「さて、な」
口調はどうでもいいとでも言いたげだ。
投げやりな返しにおふうは少しだけ目を伏せた。宿る色は怒りではく、寂しさが近い。
お前では答えるには足らない、彼女はそう取ったのかもしれない。
けれど違った。ただ上手い言葉が見つからなかっただけ。甚夜自身、胸中を把握できていなかった。
「答えて、くれないのですか?」
「済まない。誤魔化した訳ではなく、なんと言えばいいのか分からないんだ」
それは情けないくらいに真実だった。
救いたいと願っても、身を焦がす憎悪は捨てられず。
殺したいと望んでも、かつての幸福が瞼にちらつく。
己が鈴音をどうしたいのか。
何のために刀を振るうのか。
ずっと探し続けてきた答えは今もまだ見つからない。
「そう、ですか……なら、もう一つ。聞きたいことがあるんです」
おふうは要領を得ない甚夜の言葉を聞き、何故か納得したように頷いた。
訝しげにその様を眺めれば、彼女はまっすぐな瞳で見詰め返してくる。
「<力>を得るために鬼と戦う。そして<力>を求めたのは妹さん……鈴音さんを止めるため。それなら、甚夜君は」
目を瞑り、何かを決意するように再度瞼を開く。
おふうは視線を逸らさず、
「なんで、鈴音さんを止めたいんですか?」
一点、急所を突き刺した。
頭の中が真っ白に塗り潰された。
鈴音を止めるという『目的』ではなく、その道を選ぶに至った『理由』。
彼女はそれを問うている。
「妹さんを止める。もしかしたら殺さないといけなくなる。それでも、その道を選んだ理由が、私には分からないんです」
「……それは」
「甚夜君は人を守るために戦うんですか?」
答えることは出来なかった。
かつて葛野を旅立つ時、甚夜は言った。
『幸いにしてこの身は鬼。寿命は千年以上ある。ですから、私は往きます。いずれこの地に現れるであろう鬼神を止めるために』
そこには、確かに鬼神を止めるという決意があって。
しかし、今はかつて口にした言葉を空々しく感じる。
人の為に、その気持ちがなかった訳ではない。
だとしても、誰かの為に、正義の為に。何かを守る為だけに剣を取ったのではなかった。
「それとも憎いから……貴方が望んだのは復讐ですか?」
勿論だ。
憎悪はあの夜と変わらぬまま胸に在る。だから復讐の為と言われれば否定できない。
同時に間違いでもあった。憎悪も復讐の念も確かにある。だがその為に刀を振るってきたならば、殺すことをこんなに迷わなかった筈だ。
それでも殺すにしろ、救うにしろ、最後の幕は己の手で下さねばならないと。
そう思って、ただ力を求めてきた。
けれどそれは何故だろう。
鈴音を止めて、どうしたかったのか。
私は、何故、刀を取ったのか。
考えた瞬間、
『私が其処まで追い詰めた。ならばこそ、けじめはつけねばなりません』
遠い昔、自分が語った言葉を思い出す。
「あ……」
そうして知る。
今まで気付かなかった、否、心の奥底では気付いていながらずっと眼を背けてきた理由を、甚夜はようやく理解した。
「なんで、貴方は。そこまで……」
心底理解できないといった様子だった。
理由もなく妹と殺し合おうなど正気の沙汰ではない。おふうには甚夜が訳の分からない化け物に見えているのかもしれない。
けれど理由が見つかった。気付いてしまった。
甚夜は絞り出した彼女の問いを、ゆっくりと首を振って否定する。
「違う。正義の為でも、復讐でもないんだ」
本当は、己の醜さを知られるのはとても怖くて、今までずっと気付かないふりをしてきた。
普段なら適当に誤魔化しただろう。
しかし不思議と今はそんな気分にならなかった。
思えば、おふうは何時だって気にかけてくれた。
彼女は大切なことを教えてくれた、いつも隣にいようと、居場所を作ろうしてくれた。
言葉にはしなかったが、甚夜はそれをずっと感謝していた。だから、彼女になら話してもいいと素直に思えた。
「私は、今でも鈴音を大切に想っている。だけど憎しみが消えてくれない。今この瞬間だって思っている。憎い、殺したい。大切な妹だと、そう想っているのに」
遠い雨の日に救われた。
共に過ごした日々の暖かさを覚えている。
しかし際限なく膨れ上がる憎悪が、かつての幸福さえ塗り潰す。
「なのに殺すことだって躊躇っている。私は何十年と生きて、自分がどうしたいのか、そんなことさえ分からない」
ずっと答えを探していた。
何のために刀を振るうのか、何に刀を向けるのか。
長い間その答えは見つからなかった。
けれど今なら分かる。
自分が、本当に斬りたいと願ったものが何なのか。
「それでも鈴音を止めると誓った。けれどそれはきっと、鈴音が憎いからでも人の為でもない。私は、私が刀を振るうのは」
─────此処に告解しよう。
この生き方を選んだのは。
人を守りたいという義心ではなく。
殺された白雪の復讐ではなく。
多分、想い人を殺した妹に対する憎悪の為でさえなくて。
「私は……ただ、己の生き方にけじめを付けたかった」
人を滅ぼす。
無邪気な妹にそんなことを言わせてしまったのは、あの娘をそこまで追いこんでしまったのは他ならぬ己自身。
だから鈴音を止めたかった。
そうすれば、かつて犯した過ちを払拭できるような気になっていた。
復讐だの、怪異の犠牲になる人を見たくないだの、そんなものは全てお為ごかし。
実際は、ただ鈴音の向こうに弱かった自身の影を見ていたに過ぎない。
そうだ、私が本当に斬りたかったのは。
何一つ守れず、自らの手で全てを壊してしまった。
鬼として憎悪に身を委ねることも、人として憎悪を飲み込むことも出来なかった。
意味もなく、意義もなく。
ただ無為に生きる醜い“鬼人”。
そんな弱い己をこそ、私は斬り捨てたかったのだ───
「……無様だな、私は。あの娘を憎み殺したいと思ったのも、出来れば許し救いたいと願ったのも事実。しかし結局それは鈴音の為ではなく、己の生き方を肯定する手段でしかなかった」
異形の鬼はその外見には似合わぬ弱々しい笑みを落とす。
「私は、始まりを間違えていた。だが今更生き方を変えることも出来ない。きっと私はこの憎悪を消せないまま、最悪の結末に辿り着く。……私の生き方は、間違っていたんだ」
不意に気付かされた己の真実は目を背けたくなる程に醜悪だった。それに気付かず刀を振るい、多くのものを斬り捨ててきた。
私は、今まで何をやってきたのだろう。
己の弱さから目を背けるように俯き、甚夜は嫌悪に表情を歪める。
「よかった」
彼の内心とは裏腹に、安心したようにおふうが息を吐いた。
「甚夜君は、やっぱり私の知っている甚夜君でした。貴方は自分の間違いをちゃんと認められる人」
顔を上げ隣に座る少女を見やれば、真実安堵に満ちた柔らかな笑顔がある。
何故彼女はそんな表情をしているのか。理解できず問いかけようとすれば、それを遮るようにおふうは言った。
「正しいことって、そんなに大切なんでしょうか?」
雨を通り抜け冷たくなった風が本堂を流れた。
心地良さは感じない。なのに、肌触りを優しいと感じる。
きっと優しいのは風ではなく空気。彼女のいるこの場所こそが、優しいのだろう。
「お父さんは……彼は、私のために全てを捨てました。今になって思いますけど、それは多分、人として間違っていたんだと思います」
「そんなことは」
「いいえ。自分を育んだ全てを、自分の勝手で捨てる。どんな理由があってもそれは間違い。……そのせいで、辛い思いをした人だっているんですから」
おふうの父、
それを切り捨てた定長は、確かに間違っていたのかもしれない。
敬愛する父を否定し、けれどおふうは嬉しそうに口元を緩めている。
「でも私は救われました」
彼女は、まるで鮮やかに咲く花のように微笑む。
いつか見た、見惚れる程に眩しい、童女の笑みだった。
「お父さんは間違っていたけど、それでも私は救われたんです。正しいことを正しく行うことが、必ずしも正しいとは限りませんよ。甚夜君は自分が間違っていると思っているかもしれません。事実間違っていたんでしょう。でも、間違いだとしても。それが悪いことなのかは、きっと誰にも分からないと思います」
間違いでもいいと、彼の醜さを少女は肯定する。
冷たい夜風以上に、暖かな言葉は体に染み渡って。
「妹さんを殺す為に戦う。鬼を喰らって<力>を奪う。……その理由は、全部自分の為。そうですね、甚夜君はきっと間違ってます。貴方の始まりも、歩んできた道も全部間違いだった」
言われないでも分かっている。
結局己がしてきたことに意味なんてなかった。
沈み込むように項垂れ、唇を噛む。その様を見てもおふうは嫋やかな笑みを崩さず、語り口は確信に満ち満ちている。
「でも、そんな貴方の間違いに救われたものだってあるんです」
そんなもの、ある訳が。
否定しようとして、しかしそれは言葉にならなかった。
ぎしりと床が鳴る。
目を向ければ、本堂には新しい二つの影があった。
影は見慣れた、もう二度と見ることのないと思っていた姿をしていた。
「直、次……野茉莉も。何故、此処に」
其処にいたのは、随分と長い付き合いになった、甚夜の友人だった。
愛娘もまた、まだ覚束ない歩きで湿った本堂の床をとてとてと歩いてくる。
気まずそうに曖昧な表情を浮かべる直次と、今にも泣きそうな野茉莉。今まで向けられたことのない視線が胸に痛い。
「すみません、実は途中から隠れて聞いていました」
「野茉莉ちゃんも三浦様も、甚夜君を探してくれたんですよ。謝りたいって」
直次の目を見据える。
異形を前に、ほんの少しの怯えはある。だがそれでも下がろうとはせず、彼はぐっと眦を強くした。
「正直に言います。私は、貴方の姿が怖い。私は人です。自分よりも遥かに強い理外の存在を前にして、怯えています。事実、私は貴方の前から逃げ出した」
「ああ……」
自分とは異なる、ということは十分に排斥の理由と成り得る。
それを責めることは出来ない。人とはそういう生き物なのだから。
「見ての通り、私は化け物だ。お前の感情は正しい」
「違うっ!」
けれど、それは違うと。
直次は激高したように大声で叫ぶ。
「甚殿は何が正しいのかを迷い、悩み。それでも曲げられない生き方のために命を懸けてきた。それは、私と何も変わらない。貴方は私と同じだ。鬼かもしれない。でも、化け物なんかじゃなかった……!」
初めて見る友人の激しさに驚き、反応できず固まる。
涙が浮かべ、自身の過ちを悔やむように奥歯を食い縛り。それでも直次は、目だけは逸らさない。
「甚殿、貴方は私の友人だ。一度は逃げてしまいました。だからもう逃げたくない。私は、最後まで貴方の友人でありたい」
絞り出した声は震えている。涙を流し、鼻水を垂らし、お世辞にも格好良いとは言えない。
なのに眩しい。
惨めな姿を晒しているというのに、どうしてこうも心が震えるのか。
「とうさま」
動けずにいる甚夜の胸元へ、倒れ込むように野茉莉は抱き付いてくる。
いや、縋っていたのかもしれない。子供らしい弱さが、余計に彼を戸惑わせる。
「野茉莉……私が怖くないのか」
怖くない。そう伝えようと、勢いよく何度も首を横に振る。
娘は泣いていた。小さな瞳は濡れて、後から後から涙が零れる。
拭ってやりたかった。けれど、この手で触るのは罪深いことのような気がして、甚夜は何もできなかった。
「とうさまは、とうさま」
しがみ付き、涙を流し。こんな野茉莉を見るのは初めてだ。
環境のせいか年の割に手のかからない娘に育った。
だから泣きじゃくり取り乱すなど見たことはなかったし、そもそも想像したことさえない。
「こわくなんてない。だから……」
しかしそこにいるのは年相応の童女だ。
甘えん坊で、わがままで。そういう、幼い娘だった。
「だからどこにもいかないで……」
そうして理解する。
娘は確かに怯えていた。だがそれは鬼である甚夜を、ではなく。自分とは違う父親が、どこかに行ってしまうのではないかと怯えていたのだ。
それがあの時の視線の意味。
馬鹿らしい。本当に怯えていたのは、甚夜の方だ。離れていく手が怖くて怖くて、自分から手を放そうとしてしまった。
心底情けない男だと思わず自嘲の笑みが零れる。
「……やっぱり、甚殿は親馬鹿ですね」
「そうですね。野茉莉ちゃんにとうさまって呼ばれただけで、そんな顔をするんですから」
鼻を啜ってから直次は何とか笑みを作り、おふうもまた親子の触れ合いを嬉しそうに眺めている。
言われて甚夜は口元に手をやった。
自嘲の笑みは形にならず、ただのにやけ面になってしまったらしい。娘に父と呼ばれただけでにやけるなど、これでは親馬鹿と言われても仕方ない
気恥ずかしくなって押し黙ると、直次は声を上げて笑い始めた。おふうもくすくすと笑いを口元に浮かべている。
腕の中の娘はようやく泣き止んでくれて、うらぶれた廃寺だというのに、流れる空気は蕎麦屋『喜兵衛』で過ごした暖かな時間を想起させた。
「これは貴方の間違いが作った景色です。ほら、そんなに悪いものじゃないでしょう?」
小さな笑みを噛み締めながら、悪戯っぽく片目を瞑る。
おどけた仕種に彼女の父親を思い出す。血は繋がっていなくても、父娘というのは似るものだと、甚夜は微かに肩を竦める。
「ああ、そうだな……本当に、そうだ」
そして、ようやく零れる朴訥とした笑み。
それは、いつかの少年が零したものだったのかもしれなかった。
『それでも、貴方は止まらないんだよね?』
遠く、声が聞こえる。
かつて愛した女は言った。
『貴方はいつまで此処にいられる人じゃないもの。だってそうでしょう? 甚太は私と同じ。自分の想いよりも、自分の生き方を優先してしまう人……だから立ち止まれないし、今まで貫いてきた生き方を変えられない』
それは事実だった。
間違っていると理解した今でも、生き方を曲げることは出来そうもない。
きっとこれからも、間違いを積み重ねて往くのだろう。
『ううん、違う。今はただ見失っただけ』
ああ、お前の言うことはいつも的を射ている。
大切な家族、守るべきもの、刀を振るう理由。私には、何一つ残ってない。
ずっとそう思っていた。
しかしそれもまた間違いだった。
彼女の言う通り、ただ見失っていただけ。
『そんなに怖がらないで。甚太ならきっと、答えを見つけることができるよ』
憎しみは消えない。鈴音をどうしたいのか、まだ答えは出ないけれど。
この手には大切なものが沢山ある。
こんなに弱く、醜悪な鬼人を心配してくれた。
異形を前にそれでも友だと言ってくれた。
とうさまはとうさまだと、まだ家族であろうとしてくれた。
『大丈夫、私の想いはずっと傍に在るから』
そして今も尚。
かつて愛した女の声は自分を奮い立たせてくれる。
全てを失くしたと思っていた。
事実多くのものを失ってきた。
だけど大切なものが此処にはまだ残っている。
そうだ、私は。
『貴方は、貴方の成すべきことを』
私は、失ってなどいなかった───
先程まであんなにも重かった四肢に力が籠る。痛みは残っていたが問題にもならない。
一度野茉莉に離れて貰い、床を踏み締め、ゆっくりと体を起こす。
迷いなど欠片もない。左右非対称の異形の鬼は堂々と、力強く立ち上がった。
「甚夜君……」
「認めよう。私は、間違っている。私は鈴音を止めるために生きる。<鬼>を喰らい、ただ<力>を求めた。そんな生き方は最初から間違っていたんだ」
思えば、強くなる事だけを考えてきた。
鬼を討って己を鍛え、来るべき時の為に強さだけを求めた。
……それしかないと、思っていた。
「だが間違いに気付いたとしても憎悪は消えず、生き方は曲げられない。おそらく私は憎しみを抱えたまま、百年の先、鈴音と殺し合うことになるだろう。それでも……」
血に塗れたこの手でも、救えるものがあるというのならば。
「……私はもう一度、この手を伸ばして。誰かを守りたいと願ってもいいのだろうか」
おふうの顔を見る。直次の、そして野茉莉の顔を見る。
異形のままの甚夜をまっすぐに見つめる六つの瞳。
皆穏やかに、優しく微笑んでいる。
「甚夜君は、今までだって多くのものを守ってきました。貴方がそれに気付いていなかっただけ」
その言葉に自然と笑みが零れる。
間違いの果て、それでも得ることのできた暖かさ。
だから信じられる。
「そうか。……たとえ間違えたままだとしても、救えるものはあるのだな」
何時までも間違えたままの愚かな男でも救えるものはあるのだと。
この道の果ては決して間違いだけではないのだと。
彼女の笑顔が、そう信じさせてくれた。
「……さて、行くか」
まるで散歩にでも行くかのような軽さだった。
動けるようになったからには、為すべきを為そう。
土浦は佐幕攘夷派の手駒。入京すれば必ず開国派の志士を討つために動く。それを放置する訳にはいかない。
直次は顔を顰め、悔しそうに歯噛みする。
「すみません……結局、貴方に頼ってしまう」
「気にするな。お前は京へ向かうのだろう。雑事に関わることはない」
「ですが」
「蛇の道は蛇、鬼は鬼に任せればいい」
「すみま……いえ、ありがとうございます」
「ああ。私は為すべきとを為す。お前も人として、武士として、為すべきを為せばいい」
直次の表情が引き締まり、甚夜は静かに頷いた。
彼らの為すべきは交わらない。
人だから、鬼だから、違うのではない。ただ選んだ道が違っただけ。だから卑下することはない。
互いに胸を張れる。為すべきは違えど、友だと、互いに認められた。
「おふう、野茉莉を頼む。いい子にしているんだぞ」
今度はおふう達に視線を移す。
野茉莉の頭を撫でてやれば今泣いた鳥がもう笑う。甚夜もまた微かな笑みを落とし、彼女達の横を通り過ぎ、本堂の外へと向かう。
「うん、とうさま」
「行ってらっしゃい、ちゃんと帰ってきてくださいね。待ってますから」
彼女はいつもそう言って、心配しながらも止めはせず見送ってくれる。
だから甚夜もいつものように、返事代わりに軽く手を上げた。
振り返りはせず足も止めない。
本堂を出て、雨に濡れながら荒れ放題の境内を進む。
人よ、何故刀を振るう。
雨音に紛れ聞こえてくる、いつかの問い。
異形の左腕の持ち主が投げかけた言葉に、以前の彼はきっぱりと答えた。
『他が為に。守るべきものの為に振るうのみ』
思えば、若かったのだろう。
自分の答えが間違いではないと訳もなく信じていた。
けれど時は流れ、多くを失って。
長い長い道の途中、憎悪故に刀を振るい、ただ斬り捨てたものだけを増やしてきた。
この手は血に塗れ過ぎて。
誰かの為になどおこがましくて、いつしか口にすることも出来なくなった。
失くしたものがある。切り捨てたものがある。
歳月は過ぎ、かつていた場所は遠くまで流されて戻れなくなってしまった。
誰かの為に、と。
真っ直ぐに言えたあの頃にはもう帰れない。
けれど、守りたいと思えるものが少しずつだけど増えた。
血塗れの手でも救えたものがあった。
それに気付けたから、少しだけ強くなれる。
今までの強さは鬼を討つ為で、妹を止める為だった。
力を求め生き方に拘ることで、他の誰かへ手を伸ばせない弱い自分に、気付かないふりをしていた。
けれど“これ”は違う。
彼女達がくれたほんの少しの強さは、守りたいものを素直に守りたいと言う為に。
降りしきる雨。雨足は更に強くなっていた。夜の闇も相まって、目指すべき道の先は僅かも見えない。しかし悪くない気分だった。
迷いはない。
踏み締めるように一歩を進む。
冷たい雨に打たれながら、しかし胸には遠い日に抱いた筈の熱が宿っていた。