『願い』・1
強くなりたかった訳じゃない。
ただ、壊れない体が欲しかった。
◆
今も思い出す、美しい景色がある。
川のせせらぎを聞きながら、彼女と語り明かした日々のこと。
俺は彼女が好きで。
彼女も俺のことを好いてくれている筈で。
全てがうまくいっていた訳ではないけれど、俺は確かに幸せだった。
その日も彼女に呼び出され、いつものように川辺へ足を運ぶ。
彼女はいつものように俺を笑顔で迎え入れて、柔らかな笑顔で言った。
“あたし、あんたのことが好きだよ”
言葉を聞き終えると同時に痛みが走る。
振り返れば刀を持った数人の男。
血に塗れた白刃。
体に刀が突き立てられた。
でも、彼女には何の動揺もない。
だから気付く。
これは初めから画策されたこと。
ああ、俺は、騙されたんだ。
鋭い痛み。鈍い痛み。
痛かったのは体か。
それとも別の何かだったのか。
何かが壊れていく。
薄れていく意識。
“鬼め”
男達が発する雑音。
ひたすらに刻まれる自分。
これ以上は、死んでしまう。
そう思った瞬間、体は勝手に動いていた。
膨れ上がる憎悪。
薙ぎ払う。
血が飛び交う。
男達が死骸に変わる。
全て殺し、でも止まれなくて。
ずぶり。
嫌な感触。
俺の手が、彼女の体を貫いている。
俺を殺そうとしたのは彼女で。
だから俺のこの行為は正しい筈で。
なのに、彼女は。
やっぱり、柔らかい、笑顔で。
“ごめんね、あたしは、あんたみたいに強くなれなかった……”
響く残悔の声。
次第に動かなくなっていく彼女の体。
肌に触れる血液だけが温度を持っている。
其処に至りようやく正気を取り戻す。
俺は、一体、何を。
そして暗転。
夢が終わる。
あの日の美しい景色だけが、瞼の裏に残されて。
だから、俺は、願ったんだ───
◆
不意に思い出した遠い日のこと。
何故だろうか。
今更どうすることも出来ない、愚かな過去が脳裏に映る。
土浦は表情を変えず、思い出の中にいる女を掻き消した。
くだらない。最早どうでもいい話だ。
自身に言い聞かせ、意識を切り替える。顔を上げれば、眼前には忠誠を捧げた主の姿があった。
「ご苦労だった、土浦。して首尾は」
江戸藩邸、会津畠山家座敷。
傅く土浦の一間程先には、以前よりも皺の増えた細目の男。
会津畠山家前当主・畠山泰秀は、無表情を張り付けたまま、品定めするような視線を送っている。
「申し訳ありません。三浦直次を取り逃がしました」
額が畳に触れるほど深く頭を下げた。
土浦は泰秀の指示を受け、三浦直次を殺す為に動いた。
しかし甚夜に邪魔され、主命を果たせずおめおめと逃げ帰る形となってしまった。泰秀は彼の手腕を信じて任せたというのにこの様だ。言い訳のしようもない。
「全ては私の失態。如何様な処罰も賜る所存です」
頑とした物言い。
土浦は真剣だったが、それを聞いた泰秀は軽く笑い、穏やかに返す。
「土浦よ。私は、お前の忠心を疑ったことはない。そしてそんなお前に信頼を寄せている。その念は一度ばかりの失態で揺らぐことはないぞ。不始末は次の機会に取り返せばいい」
言葉通り、然程気にはしていない様子だった。
だが勘違いしてはいけない。畠山泰秀という男は決して甘くはない。寧ろ他人を簡単に切り捨てる冷徹さを持っている。
ただ同時にある意味では誰よりも公平であった。
泰秀は鬼であろうと人であろうと才能があれば登用するし、鬼であろうと人であろうと、或いは自分自身であろうと必要とあらば切り捨てる。
彼が土浦を処罰しなかったのは、まだ価値を認めている証拠。だからこそ思う。これ以上信頼を裏切る訳にはいかない。
「は、ありがとうございます。次こそは三浦直次を」
「ああ、それはもういい。代わりに、お前には京へ行ってもらいたい」
「京へ?」
「うむ。今、京は荒れている。松平公が尊王攘夷派を抑えているのだが、やはり押されているようでな。お前の力が必要だ」
京都守護職に就任した会津藩主・松平容保は配下である新選組などを使い、京都市内の治安維持にあたっていた。
松平容保は幕府の主張する公武合体派の一員として、反幕派の尊王攘夷と敵対している。
しかしながら時代の流れは倒幕に傾いており、薩長同盟の締結や各地での農民反乱など幕府は、それに追従する会津藩は次第に進退窮まる状況へと追いやられようとしていた。
思った以上に事態は逼迫している。だが泰秀の表情には微塵の動揺もなかった。
「下位ではあるが、百ばかりの鬼を京へ送った。お前はそれを追い、京にて陰ながら反幕の士を討ってほしい。先に送った鬼は手駒として使え」
「は。……しかし百もの鬼をどうやって配下に?」
「なに、世には不思議な酒もあってな。もっとも、最早手に入れることは叶わんが」
答えの意味は分からなかったが追求しなかった。主がやれと言ったならばそれをやらぬ道理はない。
泰秀を信じると決めた。ならばこそ彼の言を疑わず、命ずるままに力を振るう。それこそが土浦が唯一抱く譲れない生き方だった。
実のところ土浦は開国だ攘夷だ、佐幕や倒幕といった思想には全く興味がない。彼が畠山泰秀に仕える理由はただ一点。
かつて人に裏切られ、全てを失った所を泰秀に拾われた。その恩義故である。
今から十年以上前、彼は土浦に手を差し伸べた。
『私を信じろ。鬼と武士は同じく時代に打ち捨てられようとしている。我らは旧世代の遺物、いわば同胞。ならば共に手を取り合うことが出来る筈だ』
信じろ、と。
裏切られ打ち捨てられ、当てもなく放浪していた土浦を前にして、泰秀は堂々と言い切ったのだ。
そのあまりにも傲慢な在り方が眩しくて、だからこそ彼は畠山泰秀という男に忠誠を誓った。
人でありながら、この男は自分にはない強さを持っている。
或いは、抱いた感情は憧憬だったのかもしれない。もしあのように強くあったなら、と。土浦は、決して揺らがぬ泰秀の在り方に憧れていた。
「では失礼いたします。京へ行き、泰秀様の敵を残らず討って見せましょう」
「うむ、頼んだ」
七尺を超える巨躯は淀みなく歩み、座敷を後にしようとする。
その途中、一度立ち止まり土浦は僅かに躊躇いながら信じるべき主へ声をかけた。
「泰秀様。一つだけ、お聞きしたいことが」
「なんだ」
「何故、あの男の前で三浦直次を襲う必要があったのでしょうか」
先刻の邂逅。
甚夜と直次が同道している最中の襲撃は偶然ではなかった。甚夜の前で三浦直次を襲い、彼の命を絶つ。それが泰秀の下した命令だった。
疑問が残る。その状況であれば甚夜が邪魔をするのは当然。本当に三浦直次を殺害したいのならば、なぜ態々あの男が傍にいる時を狙う必要があったのか。どれだけ考えても分からなかった。
「必要だったからだ。それが答えでは不満か」
返す言葉は実に簡素、その表情から内心を見通すことも出来ない。
「……いえ」
しかし土浦はそれ以上の追及はしなかった。
泰秀を信じると決めた。ならば彼がどんな命令を下そうとも、それに従う。信じるとは、そういうことだろう。
理由に関しても。土浦には分からないが、慧眼たる主の命令ならば、相応の理由があったに違いない。
そう自分に言い聞かせ、思考に区切りをつけ、土浦は今度こそ座敷を後にする。
「任せたぞ、土浦」
「は」
短く返す。
そっと閉じられた襖。
かたりと僅かに音が鳴る。何故かそれを、寒々しく感じた。
◆
谷中の寺町にはうらぶれた廃寺がある。
瑞穂寺。
住職が随分前に亡くなって放置されたこの寺は、かつて人を喰う鬼が出るという噂が実しやかに流れた為、殆どの者が気味悪がって今では誰も近付くことはない。
そういう場所だから、身を隠すには丁度良かった。
黄昏が過ぎ辺りは黒に染まり、薄月の青白さがやけに目立つ。
夜が訪れてからしばらく経った頃、瑞穂寺の本堂には一匹の異形が在った。
甚夜は本堂の壁にもたれ掛かり、力なく座り込んでいる。鬼へと化したまま人に戻ることもせず、何をするでもなくただ中空に視線をさ迷わせていた。
土浦との戦いを経て、一直線にこの瑞穂寺へ逃げ込んだ。今は体を休めている最中、甚夜の呼吸音だけが本堂に響いている。
何故、逃げ場に此処を選んだのかは自分でも分からない。
ここが茂助の、“はつ”の最後の場所だからか。
夕凪と出会った場所だから、野茉莉を拾った場所だからか。
それとも人を喰う鬼が出るという寺が、自身に相応しいと思えてしまったからなのか。
つらつらと思考を巡らせて、どうでもいいことだと切って捨てる。
答えなど出る訳もなく、出た所で意味もない。正直に言えば無駄な思考に労力を費やす程の余裕はなかった。
あの後直次は何処へ行っただろう。
おふうと野茉莉は逃げてくれたのか。
心配ではあるが体は動かない。
土浦との戦いで負った傷は直撃こそ受けなかったが決して軽くはない。
骨は無事だったが内臓がいくつかやられた。幾ら頑強な鬼の体躯とはいえ無理が出来る状態ではなかった。
だが動けない理由はそれだけではない。
傷も理由ではあるが、何より精神的な負担が大きかった。
本当におふう達が心配ならば這ってでも確かめてこればいいだろうに、足は鉛のようで、立ち上がることさえままならない。
────また、全て失くしてしまったなぁ。
鬼と化した姿を衆目に晒した。
その事実が、思った以上に甚夜を打ちのめしていた。
町人達は皆恐怖や嫌悪をもって二匹の異形を眺めていた。
直次や野茉莉が浮かべた恐怖の視線は脳裏に焼き付いている。胸を刺す痛みは、土浦が放った拳を遥かに超えている。
覚悟を持って正体を晒したというのにこの体たらく。自嘲の笑みさえ浮かんでこない。
友も、娘も、異形を見て戦いていた。
当然だ。人は人でないものを忌み嫌う。
どれだけ取り繕おうと所詮は鬼。人と繋がっていようとすること自体がそもそも間違っていたのかもしれない。
突き付けられた現実に、一層体が重くなる。
頭を動かすのも億劫だ。
何もかもがどうでもよくなって思考を放棄すれば、心身の疲労からか少しずつ瞼が下がってきた。
何か、疲れた。
このまま眠ってしまおうか。
そうだな、そうしよう。
まだやらなければならないことが残っている。
その為には少しでも休息を取らないといけない。今は動けないが少し眠ったら為すべきを為そう。
想いながら瞼を閉じれば。
ふわりと、どこかで嗅いだことのある、甘い香りが鼻腔を擽った。
「これは……」
思わず目を見開く。懐かしい空気。遠い夜が思い出される。
確か、この花の香りは。
「……沈丁花」
そうだ。この甘やかな芳香は、春を告げる花の色。
何故九月に沈丁花が。
不思議に思い顔を上げれば、其処にはすらりとした立ち姿の、細面の美しい娘の姿があった。
彼女は甚夜の姿を認めると安堵から一息吐いて、穏やかに語りかける
「ここにいたんですね」
おふうは、本当にいつもと変わらない様子で、ゆったりと笑って見せた。