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『流転』・4(了)




「相変わらず、方々で動いているらしいな」


 目の前にいる七尺余りの大男───土浦つちうらは見下すような視線を送る。

 甚夜はずいと一歩前に出て、おふうや野茉莉を背に、守るように立った。

 左手は既に夜来へ掛かり、鯉口を切っている。いつでも抜刀できる状態を維持したまま、相手の一挙手一投足に細心の注意を払う。


「いい加減、私が目障りになってきたか?」

「私情は挟まん。我が主の邪魔にならん以上俺から言うべきことはない」


 互いの意見が合わないことは前回の邂逅で実証済み。ならばこそ再び相見える時には問答無用の殺し合いになると思っていたが、意外にも相手は冷静だ。

あからさまな警戒を目にしても態度が崩れない辺り、とりあえず今は甚夜と事を構えるつもりはないのだろう。


「用があるのはそちらの男だ」


 代わりに、冷たく直次を見据える。

びくりと体が震えた。それも仕方がない。土浦は鬼。その気になれば人を造作もなく殺すことができる。

 そういう存在から敵意をぶつけられて、本能的に恐怖を感じ委縮していた。


「私、ですか?」


 震えながらも何とか声を絞り出す。

 土浦はその様をつまらなそうに見ている。睨んだだけで怯える、取るに足らない相手だ。興味など欠片もない。


「我が主は当主の座を息子に譲り隠居してはいるが、今も幕府の要人と繋がりを持っている。先達てその伝手からある情報を手に入れた。とある武士が、幾つかの文書を外に持ち出そうとしている、と」


 しかし主の命だ。そこに不満はなく、違えるなどあろう筈もない。

 淡々とした物言いに、直次は動揺し冷や汗を垂らしている。その反応だけで十分。件の武士が彼であることは明らかだった。


「三浦家は表とはいえ代々続いた祐筆。城に納められている文書を簡単に得られる。その当主が京へ行き、薩長に付くのはちとまずい、というのが我が主のお考えだ」


 傍で聞いていた甚夜は微かに眉を顰めた。

 正直に言えば違和感があった。直次は所詮表祐筆。城の文書に触れられるとはいえ、その多くは一般的な目録でしかない。その彼が情報を倒幕派に渡したとしても然程の痛手ではない筈。

 畠山泰秀、佐幕攘夷を掲げる彼が気にする程のことではないと思うのだが。


「詰まる所、お前の主の狙いは直次の命か」


 土浦は頷いて肯定の意を示す。

 泰秀の意図は分からないが、三浦直次の命を狙っていることだけは確か。

 何故、とは思う。しかし考えても答えは出てこない。ならばいくら頭を捻ったところで無駄。分からないことに意識を割くよりも、今は眼前の鬼に注意を払うべきだろう。


「俺の役目は主の弊害となる者の排除』


 なにせ、相手は既に“やる”つもりだ。余計なことに囚われている余裕はない。

 改めて視線を向ければ、土浦の体は異形へと変化し始めていた。

 めきめきと気色の悪い音を立てて筋肉が膨張する。その圧力に押され着物は破れ、肌の色が変わり、四肢が異常に発達していく。

 一回り大きくなり、八尺近い巨躯。

 額辺りから生えた一角。

 鈍い、青銅の色をした肌。

 全身には円と曲線で構成された、漆黒を赤で縁取りした不気味な紋様が浮かび上がっている。


『故に、貴様は此処で潰す』


 そして瞳は、錆付いたような赤を呈していた。


「お、おいあれ」

「何だあの化け物……!?」


 町に動揺の声が走る。それも当然、いきなり町中に鬼が現れたのだ。悲鳴を上げながら町人達は散り散りに逃げてゆく。中には遠巻きに突如出現した異形を眺めている者達もいた。

 喧噪に包まれる大通り、土浦は周囲の騒ぎなど意にも介さず堂々と仁王立ちしている。

 ゆらり、鬼の体がぶれた。

 かと思えば巨躯は一直線に疾走。

 その先には、直次の姿が。

 直次も武士、剣術の嗜みはある。だが嗜み程度の剣術では鬼と戦うことなど出来ない。

 あまりにも早すぎる突進を前に直次は動けなかった。腰に差した刀を抜くどころか、指一本動かすことさえ出来ない。


 ───だが、させん。


 空気を裂く音。横から割り込んだ甚夜の一刀が土浦の進軍を止めた。

 唐竹に振るわれた、直次との稽古で見せたものより遥かに速い一撃。

 しかしそれを予見していたのか、土浦は勢いを殺すことなく横へ飛ぶ。大幅に距離を空け、不意を突いた一撃を悠々と躱してみせた。


『流石に鋭い太刀だ。刀一本で鬼を討つというだけはある』


 言いながらも大して慌てた様子もない。

 軽く躱しておいて流石もないだろう。内心悪態をつきながら眼前の鬼を睨み付ける。


「おふう、野茉莉を頼む」

「甚夜君……はい、わかりました」


 おふうは野茉莉の手を引き雑踏の中に紛れていく。

 娘は心配そうな顔をしていた。早急に終わらせ安心させてやらねば。

 甚夜は静かに夜来を構え、土浦と対峙する。


「直次、お前も離れていろ」

「ですが甚殿、あれは私を狙って」

「鬼を討つ。それが私の生業だ」


 土浦の挙動に注意を払ったまま、振り向きもせず直次の言葉を切って捨てる。

 申し訳ないが、彼ではみすみす死にに行くようなもの。本人もそれは分かっているのか、二の句は継げられない。

 頑なな背中に渋々ながらも直次は離れ、その気配を察した甚夜は、更に眦を鋭く変えた。


「土浦……貴様、正気か」


 真昼から、それも町中で堂々と鬼の姿を晒すとは。

 射殺さんばかりの視線を平然と受け止め、土浦は鼻を鳴らす。


『正気……? それはこちらの科白だ』


 直次を狙うよりも、まずはこちらを片付けると決めたらしい。

 それは甚夜にとっても好都合。左足を前に出し肩の力を抜く。そのまま刀は後ろに回し、とったのは脇構え。

 土浦もまた軽く拳を握り構える。軽く腰を落とし、左足は下げられている。

 重心はやや後ろ、しかしそれは防御を考えてのことではなく、左足で直ぐにでも地を蹴り駈け出すため。隙を見せれば瞬時にあの巨体は襲い掛かってくるだろう。


「結局はこうなったな」


 構えを崩さぬまま土浦は呟いた。

 予想通りと言えば予想通りだ。甚夜と土浦は同じく鬼。通すべき我があり、それが相容れぬならば衝突は必然。


『退け……といっても聞く気はなかろう』

「無論」


 ならば、後に待つのは殺し合い。

 言葉はいらぬ。

 道理道徳かなぐり捨てて、ただ対敵の絶殺にのみ専心する。


 短い問答を終え、先に仕掛けたのは土浦だった。

 摺足で距離を詰め、構えの姿勢から右拳を脇の下まで引いた。

 同時に逆の手は受けの形をとっている。 引き手とした拳を腰の回転を切り返しつつ、甚夜へ向けて最短距離で拳が突き出される。

 それに対し、甚夜は脇構えから左足を前へ進めると同時に白刃を翻す。

 狙うは右上腕、振るわれる拳を掻い潜り、その腕を落とす。


 交錯。


 結果だけ言えば互いの一撃は共に空振り。

 すれ違い、立ち位置を入れ替えるだけに終わった。

 放たれた拳を掻い潜ることは出来た。しかし腕を断つ程の斬撃を放つ余裕はなかった。


 土浦が見せたのは引手を重視し、体幹を軸とした螺旋の回転力を突き手に乗せた正拳。

 しかもその全身連動がほぼ一瞬のうちに行われる、拳法の基礎をきっちりと抑えた手本通りの動きだ。

 繰り出される拳は速いのではなく早い。生物としての速度ではなく、術理に裏打ちされた早さ。鬼の身体能力ではなく、相応の鍛錬をもって練り上げた人の拳である。


 鬼の体躯を持ちながら、人の業をもって戦う。

 ある意味では以前戦った岡田貴一と同じだが、似ているというならば寧ろ甚夜自身の方が近いかもしれない。

 鬼の体躯と人の技、その両立。それはつまり、土浦は甚夜と同じ性質の強さを持っているということに他ならない。


 厄介だ、ともう一度思う。しかし愚痴を言っても仕方がない。更に意識を鋭く研ぎ澄ませ戦いに没頭する。

 振り返り、すぐさま踏み込むと同時に袈裟掛けの一刀。土浦はそれを右腕で薙ぎ払い、左拳を腹部に向けて突き出す。

 真面に喰らえば一撃で動けなくなるほどの剛腕。柄を握っていた右手を放し、今度は甚夜が掌底を放つ。攻撃の為ではない。相手の拳を躱し次の一手に繋げるための布石だ。

 振るわれた左腕、その前腕に当てると同時に一歩を進み、拳撃をいなしながら左側へ回り込む。


 視線が絡み合った。


 土浦は自身の左腕に邪魔をされる形となり、右腕を振るうことが出来ない。

 それこそが甚夜の狙い。

 柄に添えた左手は避けながら逆手に握り直されている。

 右手は土浦の腕を抑えたまま。

 右足半歩、僅かに間合いを詰め。

 沈み込むように腰を落とし、両の足はしっかりと大地を噛んでいる。全身の力を余すことなく乗せた逆手の一刀が、真っ直ぐに土浦の頸を狙って突き上げられた。

 この距離では防ぐことも躱すことも出来ない。絶対の自信を持って放たれた一閃。それは吸い込まれるように咽喉へ。


 その首、貰った。


 白刃が鈍く煌めいた。逆手で放たれた夜来は、視認すら難しい速度で土浦の首を斬りつける。それはまさに狙い通りだった。

 しかし狙い通りに放たれた一刀は、狙い通りの結果を齎さなかった。


 がきん、と。

 甲高い、鉄と鉄のぶつかり合う音が響く。


「な……」


 驚愕に目を見開く。

 甚夜の放った一刀は鬼の首を落とせなかった……それどころか、かすり傷さえつけられず、皮膚の上で止まっていた。


 鬼は人と比べて硬い表皮を持つ。生半な刃物では傷一つ付けられないのは事実だが、決して傷付かない訳ではない。

 名刀と謳われる業物ならば十分に切ることは可能だし、相応の技術さえあれば普通の刀でも皮膚を裂くくらいはできる。事実甚夜は葛野の太刀をもって数多の鬼を葬ってきた。

 それ故に驚愕する。

 葛野の技術の粋を集めた鍛えられた夜来。

 長年鬼を相手取ってきた業。

 二つを背景に放たれた一閃は、土浦の皮膚さえ傷つけることが出来なかったのだ。


 甚夜の斬撃など意に介さず、土浦は動いた。

 巨体が潜り込むように体を落としながら左腕を脇に引き付け、勢いのまま左足を軸に旋回する。

 まずい。

 首を落とす為に間合いを詰め過ぎた。この距離では刀よりも拳の方が速い。

 土浦は回転を殺さず小さな挙動で右腕を振るう。狙いは腹。敵の体を貫かんとばかりに放たれた拳。甚夜は重心を後ろに崩しながら地を蹴り、自由になる右腕でそれを防ぐ。


「ぐ……!」


 かの鬼の一撃は苛烈、堪えきれず苦悶の声が漏れた。

 防御など何の意味もない。受けた腕が軋み、防いだというのに衝撃が内臓を貫く。

 だが今度は此方の番だ。

 右手は柄に。片手ではなく両の腕で振り下す渾身の一刀。唐竹に放たれた甚夜の一閃は正確に土浦の頭蓋に叩きつけられ。


 またも響く、甲高い鉄の音。


 やはり刃が皮膚で止まる。

 全霊をもって振るわれた剣戟でも通らなかった。ただ金属音が響くだけ。甚夜は間合いを取ろうと一歩下がる。


『無駄だ』


 土浦も合わせて距離を詰め、追撃の体勢をとる。

 決して特別な動きではなかった。

 左足はしっかりと地を噛み、右の摺足で距離を詰める。

 拳を脇の下まで引き、腰の回転を切り返しつつ、右拳を螺旋回転させながら捩じり込む。

 それは大仰なことではなく、あくまで基本の正拳の打ち方に過ぎない。

 だというのに、ぞくりと背筋に嫌なものが走った。


 両腕を交差し防御。更に後ろへ飛んで少しでも威力を減らす。

 しかしこちらの思惑などお構いなしに鬼の剛腕が振るわれる。

 正拳突き。

 何度も言うが、それは決して特別な動きではなく、同時に特別でもあった。

 恐るべきは技自体ではなく練度の高さ。

 正拳突きは腰の回転と拳の螺旋の力を正確に拳頭に集中し、当たった瞬間に炸裂させる技。

 土浦の動きはその基本から逸脱したものではなく、ただ要たる全身の連動、その完成度の高さに鳥肌が立つ。

 いったいどれだけの修練を積めばここまでのものを身に付けることができるのか。

 僅かに一瞬、刹那とも呼べる時間ではあったが、甚夜はその動きに見惚れた。


 そして、空気が唸りを上げる。


 防御の上からたたき込まれた鬼の拳。 

 両の腕が爆発したかと思うほどの衝撃が襲う。

 甚夜の体は吹き飛ばされ、二度ほど地面を無様に転がった。

 致死の一撃。それを受けて生きながらえたのは、甚夜が鬼であったからに他ならない。もし人であった頃に受けたならば紙屑のように体は千切れていただろう。

 地に伏したまま自身の状態を確認する。

 何とか腕は折れていないが、突き抜けるほどの衝撃が内臓を傷つけた。

 全身が痺れ、体を動かすことが出来なかった。口の中に鉄錆の味が広がる。溜まった血を吐き捨て、地に伏したまま視線を上げる。


『残念だったな、如何な名刀であっても俺を裂くことは叶わん。……この体は、決して壊れんのだ』


 そこには無表情に、無感情に、ただ事実を告げる鬼の姿が。

 骨は折れていないが内臓を幾らかやられている。何より全身を襲った衝撃が抜け切っていない。立ち上がるにはもう少し時間が必要だ。


 しかしそれを待つ理由など相手にはない。


 ゆっくりと土浦が近付いてくる。止めを刺そうというのだろう。

 無理矢理に立ち上がろうとすれば体が軋んだ。それでもこのまま寝転がっている訳にはいかない。


「ぐ、あああ……」


 走る激痛。駄目だ、立てない。焦燥。己は、こんなところで死ぬ訳には。内心の焦りとは裏腹に、体は思うように動いてくれない。そうこうしている間にも鬼は距離を詰め、


『ほう』


 途中で、足を止めた。

 面白そうに土浦が声を上げる。

 地に伏したまま動けず呻く。そんな彼をかばうように、三浦甚直次が土浦の前に立ちはだかったのだ。


『三浦直次。何のつもりだ』

「この方は私の友だ。やらせる訳にはいかない」


 腰の刀を抜き、正眼に構える。

 怯えはない。鬼を前にして、直次は堂々と向かい合っていた。


『笑わせる、お前如きが勝てるつもりか』


 嘲りの言葉は紛れもない真実だ。

 直次では土浦に及ばない。

 反論はしなかった。言われるまでもない。おそらく自分はあの鬼の攻撃を前に、反応することさえ許されず絶命する。こうやって立ちはだかること自体が度し難い愚挙。他ならぬ直次自身が一番よく分かっていた。


「勝てるとは思っていない。だが私も武士だ。勝てぬ相手と分かっていても退けぬ時がある……!」


 それでも、退かなかった。

 此処で退けば甚夜は無惨に殺される。ならば決して退く訳にはいかない。

 友を見捨て敵に背を向け生き長らえるなど、そんな恥を晒すならば、今ここで死んだ方がましだ。

 普段の彼からは想像もつかない程険しい表情で直次は刃を突き付ける。


『そうか……』


 その姿に思うことがあるのか、土浦は何処か遠い目をしていた。

 しかし一度目を伏せ、再び開いた時には凄惨な形相に変わった。直次を、敵と認めたのだ。


『ならば三浦直次。我が主の命にて、此処で死んでもらう』


 土浦は直次を叩き潰そうと一歩前に進んだ。

 ぎり、と唇を噛む。

 甚夜の脳裏に映るのはいつかの景色。


 想い人が目の前で心臓を貫かれる。

 それを何もできず呆然と眺める己。


 鬼と化した父。

 憎しみの目を向ける、もしかしたら妹になったかもしれない娘。


 状況は全く違うのに、いつかの絶望が目の前をちらつく。


「直次、退け。お前では……」

「言った筈です。私が武士である以上、退けません」


 思った以上に頑なだ。言葉通り、例え死んでも退くことはしないだろう。

 その結果は簡単に想像が出来る。一発。たった一発で彼は人から肉塊に変わる。


『潰す』


 土浦が拳を振り上げた。

 吹き飛ばされ地に伏した甚夜との距離は二間以上空いている。今からでは間に合わない。


 ───またか。また何一つ守れないのか。


 あの時と同じように。

 いや、違う。

 甚夜の目に活力が戻る。

 確かにあの時は何もできなかった。だが今の私には<力>がある。

 幸い土浦と直次の問答の間に少しは体も動くようになった。軋む体に鞭を打って無理矢理奮い立たせる。


「がぁああああ……っ!」


<飛刃>

 痛みを振り払い、立ち上がると同時に横凪の一閃を放つ。

 斬撃を飛ばす<力>。それは二間の距離を一瞬で零に変え、土浦の体躯に直撃する。

 だが無意味。やはり傷一つ付けることは出来ない。鬼は直次から甚夜へ再び視線を移した。


 それでいい。<飛刃>はあくまでも牽制。肝要なのは直次への攻撃を止めること。

 痛みはあるが動ける。軋む体を押して一直線に疾走する。

 甚夜はたった今、人外の業を使って見せた。その事実に直次は呆然とこちらを見ている。疑惑の視線も後回し。横を通り過ぎ、土浦の間合いを侵す。

 土浦は小さく眉を吊り上げる。先程の突きは決死の一撃だったのだろう。表情には意外さと、僅かな感嘆が見て取れた。


 ─────正気……? それはこちらの科白だ。


 その表情に、零した言葉の意味を理解する。

 認めよう。 

 正気を失っていたのはこちらの方だ。

 奴は今まで対峙した鬼の中でも強大な存在。それを人の姿で打倒しようとは我ながら傲慢が過ぎた。

 まして正体を隠す為に全力を出さぬまま相手取るなぞ、確かに正気ではなかった。


 めき。

 ただ走る。足は止まらぬままに、体から気色の悪い音が鳴った。

 筋肉が異常なほど隆起する。甚夜の体が人以外の存在に変わっていく。

 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。

 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。

 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。

 後ろで縛ってあった髪は紐が切れたせいで肩口までかかっている。次第に色素が抜け、黒髪が銀に変わる。


 ─────だから、此処からは出し惜しみしない。


 そしてその瞳は、鉄錆のように赤い。

 鬼と化し、変容は尚も止まらない。


<剛力>


 口の中で転がすように呟く。

 ぼこぼこと音を立てながら左腕が鳴動する。骨格すら捻じ曲げて肥大化する異形の腕。

 ぎしり、握り締めた拳が鳴った。


「今すぐ死ね」


<剛力>は甚夜が切ることのできる手札の中で最大の威力を持つ。

 赤く染まった両目が殺すべき者を捉えている。振るわれる剛腕。唸りを上げる空気。

 一撃で終わらせる。

 狙うは心臓、その体ごと打ち抜く。

 正確に心臓へ向けて放たれる、尋常ではない膂力を秘めた拳。並みの相手ならば風穴を空け、即刻死へ至らしめる程の剛撃は、確実に相手の左胸に打ち込まれ。



『<不抜>』



 それでも尚、無傷────

 二歩、三歩。

 甚夜の最大戦力を持って為せたのは三歩程の後退。たったそれだけだった。


「それが、貴様の」


<剛力>をもってしても貫けぬ堅牢な体躯。

 幾ら鬼とはいえそんな規格外の表皮を持っている訳がない。つまり土浦の言う<不抜>こそが、異常なまでの防御力の正体。


『如何にも。壊れない体こそが俺の<力>だ』


 壊れない体。

 単純にして明快過ぎる、絶対の優位である。 

 もしその言葉が本当ならば、甚夜に彼を倒す手段はない。<剛力>さえ通じなかったのだ。少なくとも現状において土浦を討つことは不可能だ。

 とは言え逃げるという選択肢はない。奴の目的は甚夜ではなく直次の命。此処で逃げれば自分の命が助かるだけ、直次は殺される。ならば、今出来ることは。


「直次、逃げろ」


 彼を逃がす。それくらいしか取れる手段はなかった。

 呼びかけるが、しかし反応はない。若干の焦り。直次が逃げれば取り敢えず土浦もの目的が達成されることはない。横目で彼を見据え、逃げろともう一度強く叫ぼうとして、


「甚、殿……?」


 その表情に言葉を失う。

 まるで、化け物を見るような目。

 其処に宿る恐怖。


「その姿は」


 いや、違った。

 まるでも何も、



 ────近寄らないで化け物ぉ!!



 今の私は、化け物だったな。



 いつか叩き付けられた声がまだ聞こえている。

 ああ、そうか。だから私は。

 誰かの前でこの姿になることを無意識に避けていた。

 様々な鬼を喰らうことで得た、継ぎ接ぎだらけの異形の体躯。

 何一つ守れず、大切なものを切り捨てて、いつか自分自身さえ失った。

 そんな弱い自分を見られることがたまらなく嫌だった。


 己の醜さを曝け出すのが、本当はとても怖くて。


 彼のことを友と言いながら、出来るならば、ずっと真実を隠しておきたかったのだ。


「逃げろと言っている!」


 苦渋に歪む表情で声を絞り出す。

 その形相に、わなわなと震えながらも直次が走り出す。去り際「すみません……」と小さく呟いたのが聞こえた。

 それでいい。若干の痛みを感じながらも安堵する。安堵できた事実が、少しだけ嬉しかった。

 もう一度、土浦へ向き直る。

 直次は逃げた。次はこの鬼をどうにかせねばなるまい。

 とは言え今のままでは勝てない。それは分かっていた。何か策を考えねばならぬ、しかしそもそも攻撃の通じない相手をどうすれば打ち倒せるというのか。

 そこまで考えた時、土浦が構えを解き、だらりと両腕を放り出した。


「何のつもりだ」


 急に戦意を失った土浦へ問い詰めるが、相手はどうでもいいと言わんばかりの態度である。


『俺の目的は三浦直次。いなくなった以上争う意味はない』


 言いながら、背を向ける。

 それは<不抜>への自信だろう。たとえ背後から斬り掛かっても死なぬと言外に告げている。

 彼の突然すぎる行動に着いて行けず、甚夜は茫然とその背中を見送る。

 少し歩き、土浦は思い出したように振り返った。


『以前お前に言ったな。鬼は人と相容れぬと』


 先程まで戦っていたとは思えぬ程に平静な表情。

 その視線には何処か憐憫の色がある。


『どうだ、言った通りだったろう』


 遠巻きに見る町人たちを一瞥する。

 彼等の瞳には恐怖がありありと映し出されていた。土浦という鬼に対する……そして、甚夜の異形へ対する。

 当然だ。人は人と違うものを排斥する。

 彼等が己の姿を恐怖するのは至極真っ当な在り方だ。


「とう、さま」


 その中には、雑踏に紛れた愛娘の視線も含まれていて。

 だから、当然だと思っているのに、泣きたくなった。


『これも以前言ったが、我が主は受け入れてくださる。鬼だろうが人だろうが才あれば認める。そこに偏見は一切ない。逆に才が無ければ鬼でも人でも切り捨てるがな。その意味、考えておけ』


 それだけ残して、土浦はこの場から去った。

 残されたのは一匹の鬼。

 町人の視線は甚夜に集中している。恐怖。嫌悪。忌諱。負の感情がべったりと纏わりつく。


「化け物だ」

「知ってるぞ、あいつ」

「ああ、俺も見たことがある」

「鬼だったのかよ」


 口々に上がる、辛辣な言葉。

 痛む。

 土浦の一撃のせいか。

 それとも他に原因があるのかは、よく分からない。

 ただ、もう聞きたくなかった。


<隠行>


 小さく呟くと同時に甚夜の姿が背景に溶けていく。

 こうして二匹の鬼は姿を消した。

 昼下がり。

 九月の空には薄く墨を流したような雲が広がっていた。




 それで終わり。

 日々は過ぎていく。


 苦痛に打ち拉がれても。

 幸福に満ちていたとしても。

 毎日は続き、そして流れ往く。


 その是非を問うことは誰にもできず。

 それでも歳月は無慈悲で。



 ─────大切だった筈の平穏は、あまりにも脆くて。



 あらゆるものは、流転する。





『流転』・了




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