『流転』・3
この店はこんなに広かっただろうか。
蕎麦屋『喜兵衛』。見慣れた筈の店内を眺めて抱いたのはそんな感想だった。
店主の葬儀はしめやかに行われた。
彼の家族はいないも同然。かつての友人との交流もない。大げさなものではなく、取り敢えず形だけはという程度の葬儀だ。
出棺を終え、一先ずは片付いた。野茉莉は葬儀が長くなりそうだったので直次の妻、きぬに預けてある。
店に残されたのは甚夜とおふうの二人だけ。
疲労からか、喪失感からか、おふうは沈んだ面持ちで呆然と立ち尽くす。視線は定まらず、ぼんやりと店内を眺めている。
甚夜も何をするでもなく、立ったまま壁にもたれ掛かっていた。
「広い、な」
おふうに話しかけた訳ではない。ただ思ったことがそのまま口から零れた。
店主の死は甚夜にとっても想像以上の傷となったらしい。沈み込んでしまい、何かをしようという気にはなれなかった。
「本当に。こんなに、広かったんですね」
主のいない店は、何も変わっていない筈なのに少しだけ広く見える。
九月の涼やかな空気がいやに冷たい。おふうもきっと同じように感じている。
彼女は一度だけ自身を抱きしめるようにして肩を震わせた。……あの振るえは寒さのせいなのだと、そう思うことにした。
「本当は、分かってたんです」
つい、と店内の卓を指でなぞりながらおふうは言う
「私達は寿命が違う。いつまでも一緒にいられない。だから、私はずっとお父さんを……兵馬を幸福の庭から追い出したかった」
独白、いや懺悔だったのかもしれない。
泣き笑うような表情に、悲嘆に暮れる心がよく表れている。
「なのに、結局あの人の優しさに甘えて。分かってた筈の別れに傷付いて。駄目ですね。私は、昔から何も変わってない」
本当の両親を亡くした時のことを指しているのだろう。
おふうは家を、両親を失った絶望から鬼へ転じた。本当に大切だったから、失くした絶望は深かった。
そして今、再び父を亡くした。
本当に店主───三浦定長兵馬のことを慕っていたからこそ、両親を失った時に比肩する悲哀は、彼女の心を苛む。
瞬きもせず、瞳から涙が流れる。痛ましい佇まいに、胸が締め付けられた。そう感じた時には無意識に足は動いていた。
傍まで近付き、そっと肩に触れる。慰めの言葉など持ち合わせてはいない。それでも近くに居てやりたかった。
「甚夜君」
おふうは倒れ込むように、縋りつくように甚夜の胸元に体を寄せた。
傍目には男女の抱擁にも映るかもしれない。しかし甚夜には腕の中にいる彼女が、道に迷った幼子のように見えた。
「少しだけ、こうさせてください」
振るえる肩。泣き腫らし、それでも零れる涙。
胸に縋りつくおふうの姿は頼りなく、ほんの少しでも力を籠めれば壊れてしまいそうだ。
何百年と生きても、彼女はやはり少女だった。
「店主は、よく言っていた。お前を嫁にしないかと」
「ええ。そう、ですね」
「今になって分かる。あれは冗談などではなく、真にお前を慮ってのことだったのだな」
二人は同じく鬼。
互いに長命、ならばこれから続く長い時を共に渡っていける。たとえ自分が死んでも、共に歩める者がいるならきっと寂しくはない筈だ。
大方そんな意図をもって二人を夫婦にしようとしていたに違いない。それに思い至り、小さく苦笑が漏れる。
「全く、店主は私のことを親馬鹿と言ったが、あの男の方が余程親馬鹿だ」
「はい。……本当に、あの人は。いつも、私のことばかりで」
少しだけ強く、おふうを自分の傍に引き寄せた。抱きしめる形にはなっているが、艶っぽさなど欠片もない。
彼女が迷子であるように、彼もまた迷子。どうすればいいか、何処へ行けばいいのか、まるで分からない迷子が二人で慰め合っている。
「私達はこうやって……多くのものを失っていくんだろうなぁ」
彼の遺言が脳裏を過る。
過去を悲しむことが出来たならそれを誇れ。
しかし少なくとも今は無理そうだ。失くしたものに目を覆われて前が見えない。
「長いですね」
「ああ、長い」
お互いに主語はなかった。
言う必要があるとは思えないし、口にすれば店主の遺した心を汚してしまうような気がした。
────おそらく、これからも私は多くのものを失って。
いつかその重さに潰れて野垂れ死ぬのだろう。
ふと過った未来もまた、言葉にはならなかった。
しばらくの後、どちらからともなく二人の距離が離れる。
元々艶っぽい理由での抱擁ではなかった。二人の間に在ったのは恋愛感情ではなく単なる共感。離れる瞬間も実にあっさりとしたものだ。
それでも男と抱き合っていたことが恥ずかしかったのか、おふうの頬は朱に染まっていた。
「す、すみません……」
「いや、私こそ」
なんとなく滑稽な遣り取りを交わし、互いに顔を見合わせ苦笑する。
何かを失うことは悲しい。しかし同じように悲しいと思ってくれる誰かがいるということは、この上ない幸福なのかもしれない。だからきっと、いずれ別れが来ると知りながら、人と繋がっていたいと願ってしまうのだろう。
もう一度互いに笑みを零し、おふうは涙を拭った。
「ありがとうございます」
「私は何もしていない」
「でも、一緒にいてくれたじゃないですか」
それで充分です、と笑ったおふうはいつものようにたおやかで、ほんの少しだけ安堵する。
何もしてやれないと思っていた。けれど彼女は笑ってくれた。ならば、その笑顔の分くらいは誇ってもいいのかもしれない。
「失礼」
ちょうどその時、暖簾を潜り、糊のきいた着物を纏った生真面目そうな武士と童女が姿を見せた。
直次と野茉莉である。
「甚殿、おふうさん」
二人の姿を確認し、外見通りの生真面目さで直次は一礼する。その姿を見て野茉莉もまた頭を下げた。
見ると二人は手を繋いでいた。野茉莉は直次にもよく懐いている。案外彼の息子、忠信との縁談は野茉莉にとってもいい話かもしれない。そんな考えが過り、けれど冗談を口にできる程の余裕は今の彼にはなかった、
「三浦様、この度は」
「いえ。私も、この店で過ごす時間が好きでした。礼を言われるようなことではありません」
葬儀に参列した直次へ礼を言おうとしたのだろうが、おふうの言葉は途中で遮られた。
店主の最後に立ち会ったのは、社交辞令ではなく、本心から彼の死を悼んだからこそ。直次はそう言っている。
甚夜は小さく笑みを落した。此処で過ごす時間を大切に想っていたのは何も自分だけではなかった、それが嬉しかった。
「とうさま、ただいま」
舌足らずな幼い声で駆け寄ってくる愛娘に「おかえり」と言いながら頭を撫でる。
くすぐったそうに、けれど心地良さげに頬を緩ませる。何気ない仕種が心を暖かくしてくれた。
「直次。済まなかったな、無理を言って」
「いえ、構いませんよ。忠信も喜んでいましたし……ああ、ところで甚殿、話があるのですが」
気安い態度に見えて、口調はどことなく固い。
真っ直ぐな目は、今まで見たことが無いほどに真剣。何らかの決意をもってこの場に臨んだのは明白だった。
「分かった場所を変えよう」
「いえ、おふうさんにも聞いてほしいので、ここで」
「私も、ですか?」
「ええ。やはり私にとってこの場所は大切なものでしたから。お二人に聞いてほしいのです」
それは彼なりのけじめだったのかもしれない。
安息の時間の終わりを受け入れ、一歩を踏み出す。覚悟を確かなものにする、その為の宣言だ。
「私は弁が立ちません。ですから簡潔に言います」
前置きをして、直次は目を伏せた。
緊張に強張った表情。空気が幾分重くなった。
沈黙はどれくらい続いたのか。再び開けると同時に、確固たる意志を示すように、直次は口を開く。
「京へ行こうと思います」
慶応に改号してから幕府と尊王攘夷派の争いは激化の一途をたどり、中でも京都は動乱の中心といっても過言ではない。
そんな時期に京へ行く。理由など簡単に想像がついた。
「江戸を離れ京へ行き、薩摩・長州と合流して倒幕に身を窶すつもりです。もっとも、友人らの伝手を頼ってのことなので、少しばかり情けなくはありますが」
三浦家は代々徳川に仕えて古い武家。
しかし直次は現在の幕府の在り方に疑問を持っていた。その選択は別段意外というほどでもなかった。
『私もまた、生き方を決定しなければならないのかもしれません』
以前、夜刀守兼臣という妖刀を巡る事件があった。その結末を知り、直次が漏らした言葉を思い出す。おそらくはその時、既に脱藩を考えてはいたのだろう。
急に稽古を申し出たのも、これから斬り合いをするかもしれないから。
つまりこの話は相談ではなく決定事項の通達に過ぎない。
彼はもう生き方を選んだのだ。
「いいのか」
短く問いは、それなりに長く付き合った友人だからこそ。
薩摩・長州につくのは、取りも直さず今まで仕えてきた徳川に弓引くことである。
それで本当にいいのか。刃のような鋭さで直次を見据えるが、彼は揺らがず。その立ち姿は実に堂々としたものである。
「はい。私は長らく徳川に仕えてきました。ですが、この動乱の世において幕府は既に機能していないと言っていい。事実江戸の人々の生活は困窮し、しかしそれでも幕府は諸外国のされるがままになっている。私は武士として徳川に、幕府に忠義を誓っていました。ですが武士が刀を持つのは、力なきものを守るため。この期に及んで徳川に縋りつき、多くの人々が苦しんでいるのを見て見ぬ振りするような生き方は出来ない」
真面目な彼のことだ、散々悩んで出した答えだろう。
今更誰に何を言われたところで結果は同じ、撤回などする筈もない。
それを証明するかのように、直次は力強く言い切る。
「だから私は倒幕のために戦います。そして、その果てに在る新時代を……未来を見てみたいのです」
「その為に命を落とすことになってもか」
「私の命が、未来への礎に為れるなら本望です」
彼はまさしく武士だった。
いつか、誰かが言った。武士は時代に取り残されようとしていると。それはどうしようもないくらいに真実だ。
掲げた生き方に身命を賭し、曲げられない己自身の為に死を選ぶ。
その生き様に思う。結局のところ武士という人種は、初めから滅びを約束されていたのだと。
けれど眩しいと感じた。
鬼となった甚夜にはない、人としての強さを見せつけられたような気がした。
「あの、きぬさんは」
「納得してくれています。京へ共に行ってくれると。……本当は、待っていてほしかったのですが、あれも武家の女。中々に強情で」
「そう、ですか」
おふうの表情が曇る。
妻が納得しそれを認めたならば、これ以上言えることなどない。
心配は尽きないが、黙って見送るのが友の役目だ。自分に言い聞かせ、甚夜は努めて無表情を作ってみせる。
「ならば行って来い。それがお前の決めた生き方なのだろう」
「はい。私は祐筆として徳川に仕えていましたから、刀を振るう機会など殆どありませんでした。そんな私が戦に出た所でどれだけ役に立てるかは分かりません」
それでも命懸けの戦いに身を投じる。
愚かだと思った。
生き方を曲げられない甚夜をして、理想のために殉ずる直次は愚かしく感じられる。
「ですが私は武士です。武士に生まれたからには、最後には誰かを守る“刀”で在りたい」
だが、その愚かしい決意を、一体誰に否定できるというのか。
誰かの為に。
直次の言葉は綺麗事ではない。もっと言えば、彼は真の意味で誰かの為にと語っているのではなかった。
彼は武士として生きると決めた。だからその生き方から食み出ることが出来ないだけ。人の為に戦うのもその一環に過ぎない。
結局、三浦直次在衛という男は、自分が自分であるために、武士という在り方を曲げることが出来ないと言っているのだ。
「全く、難儀な男だ」
「自分でも思います。ですが、甚殿にだけは言われたくないですね」
間髪入れず返ってきた言葉に、一瞬店内の空気が緩む。
おふうなど「確かに、甚夜君こそ頑固者の代表格ですから」と微かに笑っている。
黙り込んだ甚夜を見て、直次もまた笑った。本当に楽しくて仕方がないという、底抜けに明るい笑いだった。
◆
そろそろ昼時、四人は蕎麦屋『喜兵衛』を離れ、深川にある料理茶屋・富善を目指していた。
「折角の門出だ。奢ろう」
言い出したのは珍しく甚夜である。
これから直次は京へ赴き戦に身を投じる。その結果、どうなるかは分からない。想像したくはないが、三日と経たず屍を晒すことになるかもしれないのだ。
それでも死地へ赴くと言った友に、せめて何かをしてやりたいと思った。
「すみません、気を遣っていただいて」
「気にするな。私が勝手にやることだ。それに、この子にも旨いものを食べさせてやりたい」
野茉莉を抱いたまま歩く甚夜は、視線は愛娘に置いたままで答えた。
「今日はごちそうだぞ」
「うんっ」
親娘遣り取りを見る直次の表情は綻んでいる。
雑談を交わしながら歩く江戸の町。続く内乱で疲弊した江戸に以前の賑やかさはないが、流石に昼食時。溢れ返るという程ではないが道行く人はそこそこ多かった。
「出立は何時されるのですか?」
「明日には。出来るだけ早い方がいいと思いまして」
「ならば明日に残さぬよう酒の量は抑えた方がいいな」
「いや、そもそも昼間から呑む気はありませんが……」
「む。そう、か」
いかにも残念といった様子だった。
甚夜は依然知り合った鬼の友人の影響か、それなりに酒を嗜んでいる。
本当は今日も直次と呑み明かすつもりだったのだが、いきなり本人に否定されてしまい、若干の落胆があった。
「甚夜君も今日くらいは我慢してくださいね」
「仕方ない、そうしよう」
おふうの念押しに渋々ながら頷く。その様がまるで姉と弟のように見えて、直次は笑った。
馬鹿にした訳ではなく、見慣れていた二人に遣り取りが、店主が死んだ今までも続いているのが嬉しかった。
「京へ行くと決めましたが、この景色が見られなくなるのだけは残念ですね」
そう思えるだけの時間を、彼らと過ごしてきた。
直次もまた蕎麦屋『喜兵衛』で過ごす時間を大切に想ってきたのだ。それが分かるからこそ、店主の死からまだ立ち直ってはいないだろうに、おふうもまた笑って言葉を返す。
「やめてくださいな、そんな言い方」
「全くだ。そんなに名残惜しいなら、早く終わらせて帰ってくればいい」
終わらせて、というのは幕府を倒して、という意味。為すべきことを為し生きて帰って来いという甚夜なりの激励なのだろう。
時代の節目、その動乱をまるで子供のお使いのように言う。全く、このお人は無茶なことを。思わず苦笑が直次の口元から漏れて、
「ほう、京へ行く、か」
雑踏に紛れ、しかしはっきりと。
後ろから無骨な声が響いた。
即座に野茉莉をおふうに預け、甚夜の左手が夜来に触れ、いつでも動けるように腰を落とす。声の方に向き直れば、其処には六尺を超え七尺に届くのではないかという長身の、肩幅の広い大男がいた。
帯刀をしていないところを見ると武士ではないのか、しかしその身なりは小奇麗ではあった。
とはいえその体躯のせいか纏った
髪は甚夜以上に乱雑で、縛ることもせず肩まで伸び放題になっている。
その男の風体には覚えがあった。以前訪れた会津藩の江戸住みの屋敷、畠山家で会ったことがある。
「随分と、面白い話をしている」
佐幕攘夷を掲げる先代畠山家当主、畠山泰秀。
彼に従い、その力を振るう鬼。
男の名は、土浦といった。