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『流転』・2



 晩秋の折、触れる空気の冷たさが身に染みる午後の日。

 野茉莉と共に訪れた蕎麦屋『喜兵衛』ではいつも通りの、しかし最近では見ることのなくなっていた光景があった。

 店内にはすらりとした立ち姿の綺麗な細身の少女、おふうが。


「らっしゃい、旦那」


 そして厨房には、見慣れていた筈の、今では違和感のある景色。

 以前よりも痩せ衰え、手などは枯れ木のようになってしまっている。頬はこけ、皺だらけの顔で、それでも店主は昔を思い出させる快活な笑顔で甚夜を迎え入れた。


「大丈夫、なのか」


 近頃はずっと寝込んでいた。

 それが急に起き出して蕎麦を打っているのだ、驚かない訳がない。甚夜は微かな動揺に足を止め、見透かしたように店主は苦笑する。


「いやいや、今日はえらく調子が良くて。久々に蕎麦を打とうと思ったんですよ」


 言葉の通り、衰えた体ではあるがその表情は活力を感じさせる。

 話しながらも手は動き、既に板状に伸ばされた生地を包丁で切り揃えるところまで来ていた。


「お父さん……あまり無理はしないでくださいね」


 心配そうに視線を送るおふうに、軽い笑みで返し店主は作業を続ける。甚夜はその状況に何も言えず、取り敢えずは店内の椅子に座った。

 無言。隣に座っている野茉莉は声を出さずただ椅子の上で足をぶらぶらとさせている。おふうも目を伏せ、ただ成り行きを見守っていた。


「へい、おまち」


 かけ蕎麦である。此処に来るたびそれしか注文しないので、いつの間にか何も言わずとも出てくるようになってしまった。

 そうなってしまう程に長い時間をこの場所で過ごしたのだと、今更ながら意識する。


「どうぞ」

「……済まない」


 備え付けの箸を手に取り蕎麦を啜る。

 野茉莉の方には小さな丼が置かれている。おふうが、まだ幼い野茉莉のために準備してくれたものだ。これもまた此処で過ごした時間の長さ故にだろう。

 思えばこの店とは随分長い付き合いになった。

 初めは人目を避けるために客の少ない店を選んだだけ。だというのに足繁く通い続けたのは、口にはしなかったが、此処が甚夜にとって居心地の良い場所だったからに他ならない。

 率直に言えば、彼は喜兵衛で過ごす騒がしい時間が好きだったのだ。


 好き“だった”。


 無意識に過去形で考えていた。

 予感があった。この機を逃せば、もう好きだった時間が訪れることはない。それを訳もなく理解した。


「ほれ、おふうも」

「え、でも」


 更に二つの丼を用意した店主は甚夜達と同じ卓に座った。

 二つの蕎麦は当然店主とおふうの分だ。しかし肝心の娘はいきなりの提案に困惑し、困ったような顔をしていた。


「いいじゃねえか、偶には」

「そうだな。こんな機会は滅多にない」


 甚夜の同意もあり、戸惑ったままではあったがおふうも席に着く。

 それも仕方ないのかもしれない。一つの卓を四人で囲む。今迄一度もなかった状況に、奇妙なくすぐったさを感じた。


「しかし、旦那ともいい加減長い付き合いですねぇ」

「もう、十年以上になるか」

「ええ。初めての時も、旦那はここでかけ蕎麦を食っていた。今と全く同じ姿のままで。あの時嬢ちゃんはいませんでしたが」


 視線を向けられた野茉莉はその意味を理解できず小首を傾げる。

 それが妙に可愛らしく映って、甚夜は口元を緩めた。


「くくっ、旦那のそんなにやけた面を見れるなんて、長生きはするもんですねぇ」


 それを目敏く見付けた店主は噛み殺しきれなかった笑いを零している。


「そう言ってくれるな。自分でも似合わないと思っている」


 表情を引き締め、憮然とした態度を作ってみせる。

 もっとも今更そんなことをしても手遅れ。おふうもそんな甚夜の姿を見てくすくすと笑っていた。


「いえいえ、似合ってますよ。……多分、鬼退治なんかよりずっと」


 不意に笑いが途切れた。

 店主の発したあまりにも穏やかな声に店内が静まり返る。


「娘が出来たんだ。鬼と戦うなんて危ない真似、止めるには頃合だと思いますぜ。仕事がなくなるってんならうちの蕎麦屋で働いたっていい。そうですねぇ、ここはやっぱりおふうと一緒になってうちを継ぐってのはどうでしょう」


 冗談めかした言葉。

 しかしそれは何の裏もない、純粋に甚夜を心配してのものだ。

 いつ命を落とすともしれぬ戦いに身を置くよりも、平穏の中で緩やかに時を過ごした方がいい。店主はそう伝えてくれている。


 それは確かに真実だろう。

 甚夜自身、遠い昔願っていた。惚れた女と結ばれ穏やかに年老いていけたなら。そんな夢を見た。

 今は野茉莉もいる。争いから離れ平穏を求めることも然程悪くないかもしれないと、本心から思う。


「悪いな。それは出来そうにない」


 しかし固い声できっぱりと、暖かさを拒絶する。


「そう、ですか」


 答えは予想済みだったのだろう、深く追及はしてこなかった。眼には明らかな落胆があった。

 一瞬の躊躇い。このまま誤魔化そうとも思ったが、向けられた憂慮の視線を嬉しく思う自分がいた。

 店主は、ただの客でしかなかった甚夜を本気で慮ってくれている。それが感じられたから、少しでも報いようと彼は重々しく口を開いた。


「鬼は鬼である己から逃れられぬ」


 重い、鉄のような声だった。

 自身の左腕を見詰める。軽く開かれた掌に何を映しているのか、遠い、此処ではない何処かを眺めるような瞳。

 鉄のように張り付いた表情からは感情を読み取れない。いや、甚夜自身、己の感情を掴みかねていた。


「昔、そう語った鬼がいた。鬼はただ己の感情のために生き、成すべきを成すと決めたならば……その為に死ぬ。だから私はずっと思っていた。どれだけ歳月が流れても私は何一つ変えられず、胸に在る感情のまま生きて死ぬのだと」


 目を瞑れば映し出される、遠い記憶。

 あの夜抱いた憎悪は今も胸を焦がして。

 けれど憎しみに身を任せ、過去を切り捨てられる程、強くも為れなくて。

 未だ刀を振るう理由さえ見つけられぬまま、力だけを求めて。


 全ては、妹───鈴音を止めるために。


 殺すのか、救うのか。

 答えはまだ出ていない。

 けれど、それだけの為に生きてきた。


「でも、旦那は変わりましたよ」


 皆一様にそう言ってくれる。

 だが違うのだ。店主の言葉にゆっくりと首を振る。


「確かに、少しは変わることが出来たのかもしれない」


 この場所を心地好いと感じた。

 おかえり、そう言ってくれる女に会えた。

 共に笑うことのできる友を得た。

 嘘吐きな妻から娘を託された。

 そう在りたいと願った理想と対峙し、今の己の強さを証明してみせた。

 大切なものはいつの間にか増えて、その度に心は変わる。


 ───なのに、胸を焦がす憎悪だけが今も消えてくれなくて。


 心は変わってしまったから、それが余計に、痛い。


「だがどれだけ変わろうとも、生き方だけは曲げられない。結局私は、最後には自身の想いよりも自身の生き方を取ってしまう。私は、いずれ全てを……自ら斬り捨てることになるのだろう」


 此処で手に入れたものを本当に大切だと思えるのに。

 その全てを、いつか裏切ってしまう。

 それは予測ではなく予知。かつて相見えた<遠見>を持つ鬼と同じように、どうにもならない未来を見せつけられている。


「だから、普通の暮らしは出来ない?」

「ああ、そうだな」

「……旦那は、それでいいんですか」


 向けられた視線は憂慮よりも憐憫を感じさせて、ほんの少し胸が軋んだ。

 過る痛みに、僅かながらにも変わることが出来たのだと自覚する。その是非は理解できなくとも。


「辛いと思ったことはない。私には目的があり、そしてそれが全てだった。他のものなど全て余分と断じることが出来た」


 だから母の想い、その名残を斬り捨てることが出来た。

 友を、彼の妻を喰らった。 

 父を己が手で殺し、義妹に恨まれ、尚も強さだけを求めた。

 貫くと決めた生き方が在れば、揺らぐことのなく歩いて行けると思い、事実そうやって生きてきた。

 結局甚夜にとっては胸を焦がす憎悪だけが全てで。

 なのに──


「……なのに、何故だろうな。今は、そんな生き方が少しだけ重い」


 ──どうして、それでいいと思えないのだろう。


 どうしてなんて分かり切っている。大切な物が増えたから、斬り捨てることを躊躇ってしまうのだ。

 多分、いつか対峙した人斬りならば『濁っている』と評するだろう。

 大口を叩いて理想の己に斬り掛かった癖して、未だに迷っている。そんな自分があまりにも情けなく思えた。


「なら捨ててもいいでしょうに」

「それが出来れば鬼にはならなかった」


 毀れたのは乾いた声。自嘲するような響きに、しかし店主は快活に笑った。

 それは恐らく、三浦直次が憧れた通りの笑みだ。


「まあでも、嬉しい。俺は、そう思っちまいますね」


 その意味を理解できず怪訝な視線を送れば、店主はまるで父親のような目で甚夜を眺めている。


「旦那が今までの生き方を重く感じるのは、それだけ今の生活が気に入ってるってことでしょう。だから切り捨てるのが怖くなる。俺は、俺達は。旦那の目的に肩を並べるくらい価値のあるものになれたってことだ。嬉しくなるじゃねぇですか」


 頭が真っ白になる。

 その言葉は、的確に急所を突いていた。

 長々と語っても、結局はそういう話。

 詰まる所、甚夜という男は。


「そうか、私は寂しかったのか」


 終わりが訪れるのを寂しいと思ってしまうくらいに、この場所で過ごす時間に拘っていたのだ。

 鬼の寿命は長い。

 だから最初から分かっていた。どんなに長生きしたとしても、店主も直次も自分より先にいなくなってしまう。

 そうすれば終わりだ。

 同じ鬼であるおふうは一緒にいられたとしても、二人がいなくなれば蕎麦屋『喜兵衛』で過ごした穏やかな時間は消え去ってしまう。

 それが、たまらなく、寂しかった。


「相も変らぬ軟弱者だな、私は」


 不意に見せつけられた己の弱さ。

 少しだけ表情を和らげれば、店主はまるで息子の成長を喜ぶ父親のような顔でこちらを見つめている。


「おふう……それに旦那も」


 一度自分の娘に目をやり、店主は目を伏せた。

 空気が硬くなったのが分かる。ここからは、一言たりとも聞き逃してはいけない。何故かそう思った。


「二人は俺達よりも遥かに長い歳月を生きて、これから多くのものを失っていく。当たり前だが、失くしたもんは返ってこない。そして、なんでかな。得てしてそういうもんの方が綺麗に見えるんだ。悲しくて、寂しくて、泣きたくなる時もあるかもしれない」


 眩しさを避けるように店主の眼が細められた。

 うっすらと開かれた遠い瞳は何を映しているのだろうか。その心情を窺い知ることは出来ない。


「でもな、それは決して悪いことじゃない。もしもお前達がこれからの道行きの途中、ふと過去を振り返って泣きたくなったら、それを誇れ。その悲しみはお前達が、悲しむに足るだけのものをちゃんと築き上げてきた証だ。だから悲しいと思ったっていい、泣いたっていいんだ」


 ただ彼は、心底自分達を想い、その行く末を憂いてくれている。

 それが分かるから、口を挟むことはしなかった。


「ただ頼む。どうか、いつか来る別れに怯えて“今”をないがしろにしないでほしい。過去を、俺達を、お前達を悲しませるだけのものにしないでくれ」


 不意に止まり、目を閉じる。

 彼が脳裏に浮かべた景色は、いったいどのようなものだったろう。

 甚夜には、おふうにも、それは見えない。けれど店主は万感の意を言葉に込める。


「お前達は長くを生きる。いつか、失くしたものの重さに足を止める日も来るだろう。昔を思い出しては悲しくなって、何もかもが嫌になることだってあるさ」


 そして再び目を開き、穏やかな笑みを浮かべて。


「だけどお前達には、泣きたいときに泣いて、それ以外は誰かの隣で笑って。長くを生きるからこそ誰よりも“今”を大切に生きて欲しい」


 あまりにも優しい声で、彼はそう言った。

 過去に囚われることなく今を大切にできるような、そういう生き方をしてほしいと。 


「俺は、そう在ってほしいと思う」


 いずれ過去になる彼自身が、願う。

 その意味を噛み締める。忘れ得ぬように心へ刻む。

 語り終え、一息を吐く。そして、


「……なんてことを言ったら、ちょっとは親父らしく見えますかね?」


 片眉を吊り上げ、にぃと笑う。

 おどけたような仕草が店主らしいと思えて、張り詰めていた空気は途端に柔らかくなった。


「らしくも何も、お前はおふうの父だろう。ただ少し、始まりが他と違っただけだ」

「ええ、お父さんは私の自慢なんですから」


 例え血が繋がっていなくても、例え種族が違ったとしても。

 鬼と人は共に在れるのだと、この男は自身の生涯をもって証明して見せた。見せてくれた。

 それは多分、刀一本で鬼を討つよりも、遥かに強い在り方だった。


「と、そうだ。旦那、嬢ちゃんも。すいませんがちょっと立って貰えませんか」

「どうした」

「ちょっと、ね」


 悪戯小僧のような顔を浮かべる店主。

 その意図は分からないが、取り敢えずは言われた通りに立ち上がる。


「どうも。あと、おふう。お前は旦那の隣、そうそう、それくらいの位置に立ってくれ」


 身振り手振りで指示を出し、満足できる配置になったらしく満面の笑みで大きく頷く。

 店主の側から見れば厨房を背にして甚夜とおふうが肩が触れ合うくらいの距離で立ち並び、その間には野茉莉の姿がある。


「んで、最後は嬢ちゃん。父ちゃんとおふうの手を握ってやってくれるか?」

「こう?」


 素直に頷き、二人の間に立ったまま手を片方ずつ握る。そこで野茉莉が体重を預けるように力を抜いた。

 結果ほんの少しだけおふうが体勢を崩し、二人の距離が更に近付く。親しい相手とはいえ流石に気恥ずかしかったらしく、おふうの頬には少し赤みがさしていた。

 それを見詰める店主の視線はひどく柔らかい。

 二人の男女。

 間にいる童女。

 触れ合える距離。

 繋がれた手。

 その姿はまるで───



「ああ、本当に……いいもんを見せてもらいました」



 溢れる何かを吐き出すように、和やかに呟く。

 それは今まで見た表情の中で、最も優しく穏やかで、幸福に満ちた笑顔だった。


「あー、久々に働いてちっと疲れた。おふう、後片付けは頼まぁ」


 ぐぅ、と背筋を伸ばしてそう言った店主は、片手を挙げて寝床に戻った。


「そんじゃ、また明日」


 一度首だけで振り返り、今まで何度も見せてくれた快活な笑みを残して。






 それが最後。

 寝床に戻った店主───三浦定長兵馬は二度と目覚めることはなかった。

 鬼にその生を曲げられ、しかし今際の際にさえ恨み言一つ無く。

 彼は、おふうの父として、その生涯を終えた。



 晩秋の折、触れる空気の冷たさが身に染みる午後の日のことだった。




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