『流転』・1
それは何でもない日のことだった。
いつも通り甚夜は蕎麦屋『喜兵衛』に顔を出し、昼食をとっていた。
隣に座るのは
置かれた蕎麦へ手を付ければ野茉莉もそれに倣う。
以前は気にしなかったが今は人の親。子は親の真似をする、だから粗野な食べ方はせず箸使いも自然と丁寧になる。
勿論、そのあからさまな変化をおふう達に笑われたのは言うまでもない。
「おう、嬢ちゃん。うまいか?」
「んーと、ふつう」
「うん、この子、間違いなく旦那の娘ですね」
歯に衣着せぬ野茉莉の物言いに店主は乾いた笑みを浮かべた。
そう言えば昔同じように答えたことを思い出す。血は繋がらなくとも親娘というやつは似るのかもしれない。
野茉莉の使っている丼は以前おふうと買ったもの。小さくても深さがあり、この娘には丁度いい。
まだ箸が上手く扱えず、食べ物を口で迎えに行っているが、それも可愛らしいと思ってしまう。
まったく、父親とは難儀なものだと甚夜は内心苦笑を零した。
「ほら、野茉莉。口元」
言いながら汚れてしまった口元を拭う。
その姿があまりにも自然だったから、生暖かい視線が集まる。
「ほんと、お父さんですねぇ」
「なんというか、旦那が親馬鹿とか意外過ぎるんですが」
何処か呆れたように店主は言い、その隣では娘のおふうが優しい瞳で眺めている。
普段は無表情で、笑顔をあまり見せない。その自覚は十分にある。
やはりというかなんというか、甚夜が娘を見詰めて笑う姿は、彼等にはひどく奇異なものであるらしい。
「何とでも言え」
だが今更気にしても仕方がない。
知ったことか、開き直って野茉莉と戯れる。成程、その姿は立派な親馬鹿だった。
「ま、俺も人のことは言えませんがね。どうです旦那、娘ってのはいいものでしょう」
「ああ。父が娘を心配する気持ちも、今なら分かる」
実感の籠った言葉に、甚夜は深く頷く。
横目でちらりと店主を、おふうを盗み見る。そして野茉莉の方へ視線を戻し、軽い笑みを落した。
「とうさま、わたし、なにかした?」
「何もしていない。それでも、やはり心配はしてしまうものだ」
不思議そうにこてんと首を傾げる娘が愛らしくて、頭を軽く撫でる。
気持ちよさそうに野茉莉は目を細め、甚夜もまたその眩しさに、同じく目を細めた。
「はは、父親ってやつは無条件で娘の心配をしちまうもんですから。旦那も大変ですよ、これから」
「そうだな、だがそれも悪くない」
お互い娘を持つ身、一種の共感があるのか、分かり合うような二人の会話。
それを微笑ましく見つめる直次とおふう。店内の空気は暖かく柔らかい。
「ところで、その娘にも母親が必要だと思いませんか? ここはどうでしょう、うちのおふうを妻に迎えるってのは」
「……やっぱりそういう話になるんですね」
父親の馬鹿な発言におふうは溜息を吐いた。
店主は甚夜を婿に迎え入れ、蕎麦屋を継がせようとしているらしく、悉くおふうとの婚姻を勧めてくる。
初めのうちは顔を赤くして慌てていたおふうだが、今では「またか」と軽く流していた。
「いや、だがなおふう」
「はいはい、お話は後で聞きますから」
「……最近、おふうが冷たいような気がする」
「お父さんが馬鹿なことばかり言うからですよ」
すげない態度の娘に店主の表情は心なしか沈む。
見慣れた光景だ、以前は大して気にならなかったが、娘を持った今では見え方も変わってくる。
「……いずれ野茉莉も、ああやって父に冷たくなるのだろうか」
「いや甚殿。その心配はあまりに早すぎるかと」
何故か甚夜も若干沈んでいた。
しかもその顔を見るに冗談ではなく真面目に言っているらしい。それがおかしくて、おふうは堪えきれず噴き出した。
「じ、甚夜君、変わりましたね」
故郷を離れ随分と時間が経ち、ほんの少しだけ余裕ができて、今になって甚夜は考える。
近頃は皆が口を揃えて「変わった」と言う。けれど、本当に自分は変われたのだろうか。
正直に言えば、実感はない。
かつて想い人を殺した妹──鈴音。
彼女に対する憎しみは今も胸に在る。
鈴音を憎むことで鬼と成ったこの身は、その憎しみから逃れることは出来ない。
目を閉じれば瞼の裏で揺らめく憎悪。
許せないと。
それでも殺したくないと。
相反する感情を抱いたまま甚夜はこれまで生きてきた。
振るう刀の意味も見出せず、ただ無為に力を求めて。
確かに、多少の変化は在ったかもしれない。
だとしても生き方は今も変わらず、おそらくこれからも変わらないのだろう。
「変わった……そう、見えるか」
「はい、私はそう思います。前よりも優しく笑うようになりました」
「そう、か」
おふうの言葉が胸に染み入る。
結局、甚夜には刀を振るうことしか出来ないし、生き方は曲げられない。
遠い夜、抱いた憎しみは今も胸を焦がして。
だから、実感はない。
それでも変わっていくものはあるのだと。
僅かにでも変わっていくことが出来るのだと、半世紀近く生きてようやく信じられるようになった。
その是非を問うことは今の自分には出来ない。しかし胸には言い様のない暖かさがあった。
「ありがとう、おふう」
胸に灯る得も言われぬ感情を、少しでも伝えられるように甚夜は笑った。
いつもの落すような笑みではない。柔らかな表情。彼らしくない、しかし彼らしいと思わせる純朴な笑みだった。
それが嬉しくて、おふうもまた笑顔で返す。
穏やかな、ただ穏やかな午後の日。
うららかな陽射し。
心地よい緑風。
当たり前のように笑う、普段通りの店内。
それはいつもと何も変わらない、何でもない日のことだった。
何一つ特別なことなどない昼下がりは、こうして過ぎていった。
そうだ。
日々は過ぎていく。
苦痛に打ち拉がれても。
幸福に満ちていたとしても。
毎日は続き、そして流れ往く。
その是非を問うことは誰にもできず。
それでも歳月は無慈悲で。
あらゆるものは、流転する。
鬼人幻燈抄『流転』
慶応三年(1867年)・九月。
晩秋に差し掛かり、雲の厚くなった空が季節の終わりを感じさせる午後の日だった。
南の武家町にある三浦邸の庭では二人の男が切り結んでいた。と言っても獲物は木刀、詰まる所ただの鍛錬である。
しかし気迫は実戦さながら。庭の空気は冷たく張り詰めていた。
かんっ、と乾いた音が響いた。
「くぅ……!」
三浦直次在衛は苦悶に声を漏らす。
上段から唐竹割り、尋常ではない速度の振り下しが襲ってくるも、咄嗟に木刀を盾にして何とかそれを防ぐことが出来た。
だがそれは相手が手加減をしてくれたから防ぎ切れただけ。彼我の戦力差は歴然としている。
相対する敵───甚夜はいつも通り無表情のまま、その眼だけが刃物のように鋭く研ぎ澄まされている。
甚夜は木刀に力を籠め、直次の守りをこじ開けようとしている。
普段の彼ならば取らないであろう粗雑すぎる攻めは、直次がこの状態から如何な反撃をしてくるか期待しているためだ。
「さて、どうする?」
その言葉を機に、直次は一歩を踏み込み力付くで甚夜の木刀を跳ね除けた。
両者の腕力を比較すれば、確実に甚夜が上である。にも拘らず自分が押し勝てたのは何故だろうか?
いや、考えている暇などない。この隙は逃さない。左足で地を蹴り更に一歩踏み込み、左手の力で相手の肩口から斜めに切り下す。
お手本通りの袈裟掛け。この距離ならば確実に捉えた。
直次はそう確信し、
「青い」
だが現実とはならなかった。
直次が袈裟掛けの一刀を振り下すよりも速く、甚夜の木刀がぴたりと首に触れていたからである。
速過ぎる。
何故後から動いたはずの甚夜の方が自分よりも早く刀を突き付けている?
直次は訳が分からないといった顔だが、実の所甚夜がしたことは実に単純だった。
刀を押し返そうと直次が力を入れた瞬間、自ら力を緩めただけ。
押し退けるために全力を使った直次とすかした甚夜。次の行動は当然後者の方が一手早くなる。
その上で右足を下げ半身になり、両手を体に引きつけ、切っ先を相手に向ける。
形としては正眼の構えに近い。この動きも振り被って剣撃を放つ直次よりも遥かに早い。
何故直次よりも甚夜が刀を突き付ける方が先だったか。
それはより速かったからではなく、より無駄がなかった為。
結論だけ言えば、直次が一歩踏み込むより先に甚夜はこの構えを取っていたに過ぎない。
つまり、正確には甚夜が首元に木刀を突き付けたのではなく、突き出した木刀に直次が自分から突っ込んでいっただけである。
無駄を削ぎ落とした太刀。以前対峙した人斬りの技を真似てみたが、存外に上手くいった。
「ま、参りました」
冷や汗を垂らしながら直次が降参する。
その言葉を聞いて甚夜は、ゆっくりと息を吐き木刀を引いた。
「実直なのはお前の美徳だが同時に急所だな。狙いが分かりやすい」
「はは、面目ない。しかし流石に甚殿は強い。鬼をも打倒する剣、味あわせて頂きました」
「所詮我流だ。私こそお前の剣には学ぶことが多い」
甚夜の剣は幼い頃元治に教えられた剣術を我流で磨いたもの。
対して直次のそれは生真面目な彼らしく、剣術の基礎に忠実な、まるで教本のように綺麗な剣だ。
だからこそ基礎を学び直す上で彼は良い手本となる。
今回稽古をつけて欲しいと言い出したのは直次だが、彼との鍛錬は甚夜にとっても得る物があった。
「いえ、そんな。学ぶことが多いのは私の方です。我流だからこそ私には勉強になります。恥ずかしながら、この歳まで実戦を経験したことがありません故。実戦で練り上げた甚殿の剣は私にとって珠玉です」
「ならばいいのだが。しかしどうした、急に稽古をつけて欲しいなどと」
「少し体を動かしたかった。それだけですよ」
ふいと視線を逸らしながら直次は言う。
額面通り受け取った訳ではないが、追及はしなかった。この男は生真面目で当たりも柔らかいが、本質的には古い武士。問い詰めたところで話はしないだろう。
「力に為れることがあれば言え」
「そうさせて頂きます……近々、伝えられると思いますので」
今はそれくらいしか言えることがなかった。
だが十分だったらしい。不器用な甚夜の気遣いに直次は感謝をこめて一礼した。
「あなた。甚夜様も、お疲れ様です」
二人の会話が終わった頃を見計らって声をかけたのは、直次の妻・きぬである。
夫と同じく折り目の付いた立ち振る舞いの、元々は武家の出の女だ。
縁側には茶が用意されており、きぬは手拭を持って鍛錬の終わった直次に近付いた。
「きぬ、すまないね」
軽く微笑みながら手拭を受け取り、流れる汗を拭う。
既に一刻半は鍛錬を続けている。流石に疲れたようで、そのまま縁側に向かい腰を下ろす。すると流れるようにきぬがお茶を差し出した。ぴったりとはまった、夫婦の呼吸である。
「とうさま」
幼い声。とてとてと覚束ないながらも歩いてくるのは野茉莉。五歳になった甚夜の愛娘である。
黒髪を肩口まで伸ばした童女は満面の笑みである。膝をついて娘が自分の所に来るのを待つ。
その意を理解したのか野茉莉は少し足早になった。何とか甚夜の下まで辿り着き、そのまま胸元へ倒れ込んだ。
「危ないぞ」
思わず苦笑が漏れる。歩けるようになったが、まだまだ危なっかしい。
それとも父に抱き着きたかっただけなのだろうか。危なく転びそうだったというのに野茉莉はやけに嬉しそうだ。
「ん」
差し出したのは手拭。鍛錬の後ではあるが、甚夜は殆ど汗をかいていない。
正直に言えば必要ないのだが、礼を言って手拭を受け取った。折角持ってきてくれたのだ。いらないと突っぱねることもない。二、三度頭を撫でて抱え上げれば野茉莉は嬉しそうに微笑んだ。
「野茉莉、退屈させたか?」
ふるふると首を横に振る。
そうか、と小さく返し縁側へ向かう。そこではきぬが甚夜の分も茶を用意してくれていた。
「……きぬ殿、すまない」
「いえ、この度は夫が無茶を言ったようで」
「気にするな。私としても得る物はあった」
「そう言っていただければ幸いです」
安心したように彼女はゆっくりと頷いた。
直次に紹介され、きぬとは既に数度顔を合わせている。親としての経験が浅い甚夜に色々と助言をしてくれる貴重な人物だ。
実際おむつの当て方を教えてくれたのも彼女。しかし甚夜は、どうにもきぬのことが苦手だった。
「ところで、甚夜様」
「……なんだ」
というのも、
「いい加減この喋り方やめてもいいかい、浪人?」
彼女は少し前まではあまりにも粗雑な遣り取りをしていた相手で、どういう顔で接すればいいのか分からなくなってしまうからだ。
「……そうしてくれた方が、有難い」
「あんたも夜鷹でいいんだよ?」
きぬ、というのは彼女の本名である。
しかし甚夜は名を教えて貰えず、ずっと夜鷹という名称を使ってきた。その為きぬと呼ぶのには未だに抵抗が在った。
とは言え夜鷹というのは最低位の売春婦を指す言葉、流石に夫の前でそんな呼び方をする訳にもいかない。
「人の妻を娼婦呼ばわりはできん」
「固いねぇ」
くすくすと笑う。以前の妖艶さは顔を顰め、無邪気ささえ感じさせる。
数年前、彼女は直次と結婚した。どうやら甚夜の知らぬところで二人は逢瀬を交わしていたらしく、結婚前に直次本人からの報告があるまで気付けなかった。
武士には珍しい恋愛結婚、無論すんなりといった訳ではない。
直次の母は古い武家の女であり、何処の馬の骨とも知れぬ夜鷹に強い拒否感を抱いていた。
結婚に至るまでは当然のごとく紆余曲折があり、直次は大層苦労をすることになったのだが、それはまた別の話である。
「息子はどうした?」
「忠信かい? 今は手習指南所、そろそろ帰ってくると思うんだけど」
手習指南所とは所謂寺子屋のことで、江戸近辺ではこの呼び方が一般的である。
直次の息子・
「甚夜さん、野茉莉ちゃん!」
「ああ、噂をすれば」
話をしていると、ちょうどよく件の忠信が帰ってきた。
母親似なのか、子供ながらに愛嬌のある顔立ちで、反面彼女とは違い人懐っこい。
父の友人である甚夜のことも随分と慕っていて、三浦家を訪ねるといつも笑顔で迎えてくれる。
「稽古ですか?」
「ああ、一段落ついたところだ」
「えー、見たかったのになぁ」
真面目ないい子ではあるのだが、こういうところは子供らしい。
忠信が甚夜を慕う理由の半分は、剣の腕にある。
子供にとって強いというのはそれだけで憧れの対象だ。
腕一つで身を立てる、「刀一本で鬼を討つ」とまで謳われた父の友人。どうやら忠信は無骨な太刀を操る剣豪の姿に微かな憧れを抱いているらしく、甚夜と話す時はいつも目を輝かせていた。
「野茉莉ちゃんも、こ、こんにちは!」
「こんにちはー」
もう半分は、野茉莉の存在だろう。
親の贔屓目を抜きしてもこの娘は可愛い。少年の関心を引くのはある意味当然だと、甚夜も納得している。
実際、野茉莉と話す時の忠信は照れのせいかどこか浮ついていて、微笑ましくなるくらいだ。
「忠信は野茉莉嬢がお気に入りのようで。どうですか甚殿? 娘を武家の嫁にする気はありませんか?」
仲良さげにしている子供達を眺めながら、冗談とも本気とも取れる口調でそんなことを言う。
しかし直次の性格上全くの冗談ということもないだろう。ふむ、と一度頷き甚夜もそれに返す。
「娘はやらんぞ。……と言いたいところだが、お前の息子ならばどこの馬の骨とも知れん輩よりは信が置けるか」
この男、やはり武家の当主らしく息子の教育に熱を入れており、普段の彼からは想像できないほど躾には厳しいのである。
義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。
己が矜持に身を費やし、それを侵されたならば、その一切を斬る“刀”とならん。
ただ己が信じたものの為に身命を賭すのが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。
まだ童の域を出ない息子・忠信に、直次は繰り返し教えていた。
その結果、忠信はまだ八歳でありながら生真面目で礼儀正しい、実に武士らしい性格に育っていた。
古臭いと言えばそれまでだが、甚夜自身頑固で不器用な古い男。幼いながらに一本筋の通った忠信の在り方は嫌いではない。このまま真っ直ぐ育てば、野茉莉を嫁に出してもいいとさえ思っていた。
「だが結局は野茉莉次第だ。大きくなった時、この娘自身が決めればいい」
庭では忠信と野茉莉が楽しそうに燥いでいる。
娘を嫁に。想像すれば少しだけ寂しくもあるが、この景色がこれからも続いていくというのなら、そう悲観したものでもない。
だからと言って、娘の意思にそぐわぬ婚約を押し付けるつもりもない。
なんにせよ、まだ先の話だろう。
「意外ですね。もっと反対すると思っていましたが」
「親馬鹿なのは認めるが、私自身が生き方を曲げられん男だ。娘が決めたことをどうこうしようとは思わん」
生き方なんぞ他人に何を言われたところで変わらないし、そもそも変える気もない。
甚夜自身がそう考えている。ならばこそ娘に自分の考えを無理強いするような真似はしたくない。
ただ、この話が現実になるのは、悪くないと思う。
野茉莉と忠信が結ばれれば、直次や夜鷹……きぬと家族になるということだ。それは案外面白いかもしれないと思えた。
暖かな夢想を浮かべていると、気付けば直次が笑っていた。本人は噛み殺しているつもりなのだろうが、隠しきれず肩が揺れている。
「何故笑う」
何かおかしなことを言っただろうか。
問い質せば、直次はゆっくりと首を振ってそれを否定した。
「すみません。別に甚殿がおかしなことを言った訳では。ただお互いの子供を結婚させよう、などと話し合っている今がどうにも不思議で」
堪えているつもりなのだろうが、口の端にまだ笑いが浮かべている。
成程、直次の言うことも分からないでもなかった。初めて会った時のことを思い出す。
二人が知り合ったのは今から十四年も前のこと。直次の兄・三浦定長兵馬の失踪事件がきっかけだった。
結局、彼の兄は生きていたものの三浦家に帰らなかったが、これを機に甚夜と直次は長らく友宜を結び、現在に至っている。
「確かに、初めて会った時からは想像も出来んな」
「でしょう? 私達も歳を取ったものです」
そうしてまた笑い、ふと直次の表情が陰った。
どうしたのか、問うよりも先に何処か寂しそうな視線を向けた友人は、小さくぽつりと呟いた。
「甚殿は……変わりませんね」
それは、いつかおふうが口にした言葉とは逆だった。
あの時彼女は甚夜の内面を指して変わったと言った。しかし今、直次のそれは外見を指している。
直次は今年で三十二となり、顔の皺も少しずつ目立ち始めている。歳月を重ねれば年老いていく。人として当たり前の変化だった。
しかし鬼の寿命は千年を超える。
未だ甚夜の外見は、十八の頃と変わっていなかった。
「済みません、忘れてください」
甚夜もおふうも人には鬼であるという事実を隠している。だが、長らく共に在れば老いぬ二人に違和感くらいは覚えるだろう。
彼も薄々二人の正体に気付いているのかもしれない。
「ああ。……さて、そろそろ失礼させて貰おう」
野茉莉に声をかければ、一直線に父の下まで駆けてくる。
忠信は残念そうだったが、帰ろうとする甚夜らにぺこりとお辞儀をしてくれていた。
それに軽く手を挙げて返し、娘をそのまま抱き上げる。まだまだ甘えたい盛り、だっこされたのが嬉しいようで、野茉莉は無言のまま父に頬を寄せてきた。
「待ってください、貴方を責めるつもりでは」
もう一度謝ろうとする直次に首を振って“気にするな”と示して見せる。
そうだ。気にしてなどいない。いつまでも歳を取らない自分に友人として接してくれた。直次にはそれだけでも感謝している。
しかし自身が鬼であるとは言い出せなかった。
彼を信頼していなかったからではない。正体を明かせなかったのは、話せばおふうが鬼であることも、果ては三浦定長についても語らねばならぬ事態を危惧したからだ。
……僅かに浮かんだ恐怖を、否定することは出来ないが。
「気にしてはいない。ただ、喜兵衛に顔を出そうと思っただけだ」
「そうですか……」
納得してくれたのか、少しだけ俯きそれ以上何も言わなかった。
そうして甚夜達は三浦家の庭を後にした。
もう、無理かもしれない。
不意に昏い不安が脳裏を過った。
「おや、もう帰るのかい?」
門を潜ろうというところできぬに呼び止められる。
ああ、と短く答え早々に立ち去ってもよかったが、次いで放たれた言葉に足を止められた。
「随分と暗い顔をしているけど、あの人が何か言った?」
感情を隠したつもりだが、きぬにはいとも容易く見破られてしまった。
そう言えば彼女は昔から表情を読むのが上手かった。夜鷹は仕事柄、心の機微に敏い。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物であった。
「特には」
「そうかい? ま、あの人が何を言ったかは知らないけど、懲りずに来てやっておくれよ」
にっこりと顔を綻ばせる。
彼女にしては珍しい素直な笑みだった。それが意外過ぎて、思わず唖然となる。
「どうしたんだい?」
「ああ、その、なんだ。……正直に言えば、意外だ。私は歓迎されていないと思っていた」
「そんなことはないさ。浪人の方は、あたしのことが苦手なんだろうけど」
またも見透かされて言葉に窮する。
それがおかしかったのか、今度は声を上げて笑った。
「相変わらず分かり易いねぇ」
「だとしても、こうまで見透かすのはお前くらいだ」
「それは光栄だね。じゃあ見透かしたついでにもう一つ。あんたは少し自虐が過ぎると思うよ」
肩を竦めてそう言った夜鷹は、はにかんだような、困ったような、名状しがたい表情をしていた。
「生きてるんだ、良し悪しはあって当たり前だし、変わるものも変わらないもの同じようにあるさ。捨てようと思っても捨て切れないものがあったようにね」
すっと自然に手が伸びて、夜鷹のしなやかな指が甚夜の頬に触れる。
感触を確かめるように、頬から顎へ指は流れた。
「何を抱え込んでいるのかは知らないさ。でも、それをひっくるめてのあんただろう? 自分でどう思っていようが、あたしは浪人のことをそれなりに気に入ってるよ。多分あの人もね。それじゃあ、納得いかないかい?」
夜鷹は直次とのやり取りを聞いていた訳ではない。
だからこれは単に「何を悩んでるのかは分からないが、些細なことは気にしないでいい」という意味に過ぎない。だがそれでも、少しだけ気は楽になったような気がした。
「まさかお前に気遣われる日が来るとは」
ありがとう。口にするのはどうにも気恥ずかしくて、礼ではなくそんな憎まれ口を返してしまう。
だから夜鷹は笑った。彼女がこんな下手くそな照れ隠しを見破れない筈がなかった。
「つれないねぇ」
でも、その方があたし達らしいか。
そう付け加えた言葉が、何故か心地好く感じられた。
◆
三浦邸を離れ深川へと向かい、蕎麦屋『喜兵衛』を訪ねる。
いつもは暖簾を潜った所で店主が威勢のいい声で迎えてくれるのだが、今日は何も聞こえない。
店主がいつも立っている筈の厨房には誰もいなかった。
「甚夜君……野茉莉ちゃんも」
代わりに、店内の机で俯いている少女が一人。
疲れた表情で、何とか声を絞り出すおふうの姿があった。
「こんにちは」
甚夜の腕から離れとてとて歩き、お辞儀をしながら挨拶をする野茉莉。
おふうはそれに硬いながらも笑顔を作って返してくれた。
「はい、こんにちは。野茉莉ちゃんは礼儀正しいですね」
だがそれも一瞬、すぐさま陰鬱な雰囲気が彼女を包む。
その理由は分かっている。だからこそ甚夜は近頃、空いている時間には喜兵衛を訪れるよう心掛けていた。
「店主は」
「奥で寝ています」
目線を合わせることなく答える。
店の奥には普段店主やおふうが使っている寝床がある。よく見れば畳敷きの部屋には布団で店主は眠っていた。
「そう、か」
去年の暮辺りから、店主はこうやって寝込むことが多くなった。病気ではない。単に年老いただけ。人ならば逃れることのできぬ自然の摂理だ。
そして、それこそがおふうの憔悴の原因だった。
鬼と人では寿命が違う。おふうは店主のことを父として慕っていた。
それでも同じ時を生きることは叶わない。
彼女は、かつて己を救ってくれた父の死後、数百年という長い長い歳月を独りで生きていかなくてはならない。
刻々と近付く現実が、彼女を打ちのめしていた。
「私の、せいで……」
もう一つ、彼女を苦しめていることがあった。
店主の老衰には少なからずおふうが───彼女の<力>が関与していた。
本来ならば店主はもう二十歳ほど若く、まだ寿命を迎えるには早い筈だ。
しかし現実として彼は死に絶えようとしている。それ故に自責の念が彼女を必要以上に打ちのめしていた。
甚夜は黙っておふうの隣に腰を下ろした。だからと言って何か気の利いた言葉をかける訳ではない。本当に、ただ隣にいるだけ。沈黙の時間が長く続く。
「……何も言わないんですね」
重苦しい空気を破ったのはおふうの方だった。
「何か言ってほしいのか」
「いいえ。きっと、何を言われても素直には受け取れませんから」
そうしてまた押し黙る。
言えることなどある筈もなく、甚夜も口を噤んだままだった。
鬼と人。
悔しいが、異なる種族が真の意味で共に在ることは出来ないのかもしれない。
音のないかつての憩いの場で甚夜は静かにそう思った。