余談『剣に至る』・3(了)
約束の夜が訪れた。
江戸橋は神田川に掛かる橋の中でも規模が大きい。
既に日は暮れ、灯りは星と月のみ。昼間の喧騒はなく、月の光を映して流れる川のせせらぎだけが耳を擽る。
人の気配はない。おあつらえ向きとは正にこのような状況のことを言うのだろうと、甚夜は一人ごちた。
橋の中央で待ち構えてから一刻は経ったか。ようやく夜の闇に人影が揺れる。
ぎょろりとした目付きが印象的な男。腰には鉄鞘に納められた太刀。その歩みは無造作に見えて隙がない。武術の基本は歩法。ぶれのない歩みに男の実力が見て取れる。
男は甚夜の前でぴたりと足を止め、にやついた笑みを向けてきた。
いや、笑みというにはちと物騒だ。隠しきれぬ白刃のような殺気。その鋭さに理解する。この男が件の人斬りに相違あるまい。
「岡田貴一殿とお見受けする」
甚夜は夜来に手をかけ、鯉口を切った。
同時に左足へ軽く体重をかける。
「如何にも。貴殿は」
「深川の浪人、甚夜と申す。今宵は手合わせを願いたく参上仕った」
「ほう。いや、これは、とんだ御足労を恐縮、とでも返すべきかの」
茶番だ。二人が放つ殺気は既に抜身。
名乗りなど上げずとも死合はもう始まっている。
「手合わせを乞われたとあれば、無下に断る訳にもいかぬな」
春とはいえ吹く風は冷たい。
一種独特の緊張感が満ちた橋の上で、互いに間合いを測る。
まるで時間が止まってしまったような錯覚。
対峙はほんの一瞬だった。
ゆらりと貴一の体が揺れたかと思えば、瞬きの間に距離が詰まる。
前傾、踏み込み、速度を殺すことなく一歩目から最速へと達する。
肉薄し、間合いを潰し、振るわれた刀が狙うは首。下位の鬼と聞いたがその技は見事。
貴一の動きは速い。並みの相手ならば何が起こったか分からぬうちに斬られているだろう。
だが、速いだけの攻撃など見飽きている。
横薙ぎの一刀に夜来を割り込ませ防ぎ、下方に大きく払う。そして無防備になった貴一へ、袈裟掛けに斬り下す。
「ほう、なかなかにやる」
一太刀で首を落すつもりだったのだろう。それを容易に防いで見せたばかりか、すぐさま反撃に転じる。眼前の敵の思わぬ実力に愉悦の笑みが漏れた。
体勢を低く、左足を軸に半身となり、貴一は最低限の動作で甚夜の剣をやり過ごす。
だけでは終わらぬ。返す刀で逆風、下から上へと斬り上げる。
甚夜は一歩下がり、打ち据えるように刀を合わせる。膂力においてはこちらが勝るようだ。いとも簡単に貴一の刀は弾かれた。
しかし止まらない。
貴一は僅かな動揺も見せず、軸をずらし追撃を捌きながら、更に距離を詰める。
一足の踏み込みと同時に、心の臓を貫かんと放たれる刺突。
速い、いや、それ以上に無駄がない。
回避から構え直し、突きに入るまでの動作の隙が極端に少ない。その為に刺突自体が途方もなく速いと錯覚する。
振るわれる白刃以上に貴一の身のこなしは鋭利。恐るべきは一切の無駄のない、研ぎ澄まさされた挙動。洗練された肉体の運用。
疾風の如き刺突は心臓を喰らおうと迫り来る。
左足を一歩引き、迎撃の為に刀を振るおうとして、
「が、濁っておるな」
跳ね上がる切っ先。
心臓を穿つ筈だった刺突は突如として軌道を変え、甚夜の首を食い破ろうと襲い掛かった。
咄嗟に体を捌く、だが少しばかり遅かった。
なりふり構わず上体を横に反らし、それでも避けきれず僅かに首の肉が抉れ、鉄錆のような血液の匂いが鼻腔を擽る。
甚夜の反応が遅れたのは軌道の変化があまりにも滑らかだった為。ごく自然に、あたかも初めからそうだったかのように、刃は翻った。滑らか過ぎて怖気が走る程に、貴一の剣には無駄がなかった。
貴一の攻めは終わらない。突き出した刀は紫電の如く、執拗に甚夜の首を狙う。
だがここで為すがままになるようであればこの身はとっくに死に絶えていた。
崩れた体勢のまま追撃を打ち落とそうと甚夜は刀を片腕で振り下す。だが容易に見切られ、斬ったのは空。
こちらの剣はすかされた……が、それでいい。刀を振るった勢いで無理矢理に上体を起こし、貴一が刀を引いた分両者の間に僅かな空間が出来る。
僅かな空白を利用して体を落とし、放つは左肩で鳩尾を穿つ全霊の当身。
しかし、またも空を切る。
捉えたと思った。高位の鬼さえ怯ませる体術だ、細い小男の体躯では耐えらぬ。
確信を持ち、完璧に放った。だから捉えたと思い、だというのに当身はほんの僅か、届かなかった。
一寸にも満たぬ隙間。余裕の表情で見下す男。
向けられた視線に理解する。完全に見切られた。悠々と後ろに退がり、十分に距離を照って人斬りが哂う。
「か、かかっ。成程、ぬしは強い。肉の持つ性能は儂をはるかに上回る……が、濁っておる」
……強い。
甚夜は口の中で転がすように呟いた。
畠山泰秀は岡田貴一を剣技のみで高位の鬼に匹敵する使い手と評したが、成程、確かに尋常ではない使い手だ。
甚夜とて度重なる実戦で剣を磨き、腕には少しばかり自信があった。
しかし剣術という土俵においては貴一の方が明らかに上。尋常の立ち合いでは十中八九どころか十中十まで負ける。
だから、それ以外の攻め手を使う。
<疾駆>
弾かれたように甚夜は駈け出す。
人を超える速度で間合いを侵し、その勢いを殺すことなく唐竹一閃。人を超えた膂力から斬撃が貴一の脳天目掛けて振り下される。
だが貴一はまるで涼風を受けるが如く平静だった。
「過剰な力」
『斬撃』などという表現では生温い。甚夜が振るうのは一太刀で敵を砕く豪撃だ。
まともにぶつかれば一瞬で終わる。もし完璧に攻撃を受け止めたとしても、力で押し切られるだろう。
故に貴一はまともにはぶつからない。
動きはあくまで小さく、あくまで丁寧に。まるで硝子細工を扱うような繊細さで攻撃を捌く。
「余分な所作」
刀の腹に沿わせほんの少しだけ軌道をずらし、出来た空白に潜り込む。
肘を視点に上腕を回し、摺足で進みながら逆袈裟の一刀へと可変させる。
防御から回避へ、進軍しながら攻撃へ。流れるような、無駄のなさすぎる挙動。
「浮動する心」
一瞬の動揺を見透かすように投げ掛けられる言葉。
咄嗟に体を捻るが避けられない。すれ違いざま、脇腹を刀が抉る。
熱い。臓器には達しなかったが肉を持っていかれ、じわりと纏う衣に赤が広がった。
返す刀、首を狙う一刀。貴一の追撃が迫り来るも、刀で受けに回りどうにか防ぎ、もう一度<疾駆>を使い距離を取る。
「まこと、濁っておる。ぬしには無駄が多すぎる。肉にも、心にもだ」
甚夜の攻めなど意に介さず、いっそ無防備とさえ思える構えで悠然と立つ。
今の立ち合いで理解した。貴一の身体能力はさほど高くない。無論人の限界値は超えている。それでも他の鬼と比べればせいぜいが中の上、高く見積もっても上の下といったところ。人智を超えるような代物ではなく、極めて常識的な範囲に留まっている。
それでも尚、強い。
膂力、速度ともに甚夜が上回り、特異な<力>も持たず。
その上で数多の鬼を打倒してきた甚夜を出し抜ける程の剣技。
見出したのは呆れるほどの練磨。純粋に剣を振り続けた年月。積み重ねた研鑚のみが岡田貴一という男の強さを支えている。
「……お前は、なぜ人を斬る」
自然と零れ出た言葉。責めるつもりはない、それは純粋な疑問だった。
不可解に思ったのか貴一は僅かに眉を顰めた。
「初めに人斬りと聞き、岡田貴一という男は粗野で残虐な気質なのだと想像した。だがお前の剣はあまりにも清廉だ。歳月を積み重ね、呆れるほどの練磨を繰り返せねばこうはなるまい。そこまで真摯に剣に向き合える男が、何故殺戮に興じる?」
甚夜にとっては至極当然の疑問、しかし貴一は哂う。
見当外れの問いをする愚か者に、侮蔑の視線を向けていた。
「何故斬る? これは異なことを。寧ろ問おう、何故斬らぬ。刀は人を斬る為のもの。儂にはぬしの言こそ理解できぬ」
語気は至って穏やか。
物の道理が分からぬ童に教え諭すような語り口で貴一は言葉を続ける。
「頑強な鉄を造るには不純物を取り除かねばならぬ。旨い酒を造るには透き通った水が必要となる。それは我らとて同じとは思わぬか?」
返ってきた答えに甚夜は戸惑う。
けれど貴一は、己の正しさを知らしめるように、きっぱりと言い切る。
「余分は純度を下げる。ならば削ぎ落とさねばなるまいて」
哂う。
凄惨な、血の匂いのする笑みであった。
「武士として生まれた。故に剣を与えられ、故に剣を振るってきた。振るったからには人を斬らねばならぬ。刀を手にしたならば斬るのが道理であろう。その為の刀、その為の剣術よ」
成程、同意見だと甚夜も思う。
刀に出来るのは所詮斬るのみ。ならば如何な手段を用いたとて斬ってこその刀。故に否定はしない。
「初めて斬ったのは剣の師であったか。以来儂は人を斬り人を斬り、呆れる程に人を斬り、そして気付いた。武士で在らねば人を斬る為の刀は与えられず、にも拘らず人を斬るには武士の生き方は邪魔なのだとな」
だが肯定も出来なかった。
貴一に狂気はない。理路整然と、それが常識であるかのように、殺戮を是とする。
彼は狂っているのではなく、心底剣は人を斬るものだと考え、それを実践しているに過ぎない。
「忠義、名誉、信念、尊厳、道徳……あまりに無粋よ。そのようなものを剣に籠めるから人は濁る。刀は斬るもの、ならば斬ることを鈍らせる武士道なぞ唾棄すべき不純物にすぎぬ。故に儂は家を斬り捨て、武士である己を斬り捨てた」
何となくだが理解できた。
この男に目的などない。
攘夷や開国に興味はなく、それどころか未来にも過去にも自身の生き死ににすら興味はない。
敢えて目的を挙げるとするならば、死に絶えるその瞬間まで“岡田貴一”であり続けること。
剣に生きた、その道行き。
それが無意味ではないと証明する為に人を斬る。
この男にとっては、今迄続けてきた自身の歩みを汚さぬ事だけが唯一であり至上の誇りなのだ。
「師を斬り捨て、人を斬り捨て、家を斬り捨て、係累を斬り捨て、友を斬り捨て。最早何を斬り捨てたのか覚えていない程に斬り捨て、呆れる程に剣を振るってきた。かっ、かかっ、其処まで行くともはや人とは呼べぬらしい。いつの間にか鬼と成っておったわ」
負の感情ではなく、求道の果てに鬼へと堕ちた。
そうまで剣に拘った男は薄く笑い、斬って捨てるような鋭利さで語る。
「何故斬る、主はそう問うたな。答えよう。儂は人を捨て、鬼へ堕ち、その果てに……剣へと至る為に斬っておる。儂は剣に生きた。ならば只管に斬り、剣に至ってこそ意味のある命」
願ったのはただ一つ。剣に生きるということ。
刀は人を斬る為に造られた。ならばこそ斬る。
剣術はより上手く人を斬る為に生まれた術。ならばこそ斬る。
人であれ鬼であれ、武士であろうと町人であろうと、女子共であったとしても関係ない。
己が剣であるならば、ただ斬る。
倫理道徳を排した、その真理こそが岡田貴一の全て。
「剣に生きるとは、即ち剣に為ることであろう」
その言葉に打ちのめされた気がした。
対峙する敵、その眩しさに目を細める。
岡田貴一は甚夜の憧れの体現だった。
───人よ、何故刀を振るう。
遠い日に投げ掛けられた問いは今も耳に残っている。
曖昧な憎悪は今も胸に。だから、強くなりたかった。
強くなればきっと、振るう刀に疑いを持たずに在れると思った。
そうと信じ、力だけを求めてきた。
鬼を討つのも鍛錬に過ぎず、義心なぞ欠片もなかった。
それを間違いだとは思わない。かつて妹は現世を滅ぼすと言った。ならばこそ、けじめは付けねばならない。その為には力が必要で、他のものなぞ全て余分でしかない。
ただ、強くなりたかった。
強くなって、けじめをつけて。その為だけに生きてきた。
どこまでいっても、それが全てだった。
「そう、か」
けれどいつの間にか余分は増える。
憎しみの為に刀を振るってきた。
強くなりたくて、それだけが全てで。
なのに全てと思ったものに専心できなくなってしまった。
岡田貴一の生き方は、甚夜がそう在りたいと望んだ理想だ。
叶うならばあのように、一つの目的の為に全てを切り捨てられる己で在りたかった。
「問答は終わりか」
「ああ……。正直に言おう。私には、お前が眩しい。羨ましいとさえ思う」
その生き方は間違いなく甚夜が望んだものの筈で。
「だから、続きといこうか」
なのに何故だろう、それを歪と感じるのは。
「ほう」
貴一は感嘆の声を上げた。
侮蔑の色は消えている。首から、脇腹から血を流しながら甚夜は脇構えを取る。好んで使う構え。その堂々とした立ち姿に、凄惨な笑みを向ける。
「逃げぬか」
「無論。話を聞いて、是が非でもお前を斬ってみたくなった」
何故? 違う、理由は分かっている。
憧れた筈の生き方、その体現を美しいと思えないのは奴が語る濁りに価値を見出してしまったからだ。
花の名前。友と呑む酒。蕎麦の打ち方。今ではおしめだって替えられるようになった。
なにもかも無駄だ。全てと信じた生き方を濁らせる余分にすぎない。
だがそれを大切に想える自分がいる。
故に退けぬ。
剣の腕で劣るならば鬼と化し、<力>を使えばいい。
思いながらもそれを選ばなかった。勝つための手段を敢えて封じる、それもまた余分だ。
だとしても使う気にはなれない。奴のいう濁りによって弱くなった己が、かつて抱いた理想にどれだけ追い縋れるか。それが知りたかった。
その結果命を落としたとしても、納得できるような気がした。
「中々に澄んだ言葉を吐く。気に入ったぞ」
初めて貴一が構えた。
僅かに刀を左へ傾けた、変形の正眼。ようやく敵と認めて貰えたのだろう。甚夜は笑みを落した。
空気が凝固していく。
息が詰まる。口が渇く。
二人は微動だにせずに睨み合う。隙を窺っているのではなく、自身に力を溜め込んでいる。
斬る。ただその一点にのみ意識は向けられていた。
じり、と僅かに距離が詰まる。摺足で少しずつ間合いを測る。
沈黙はどれくらいだったろうか。
二人の間にひゅるりと夜風が吹いて。
それが合図となった。
甚夜は静止状態から一転、弾かれたように駆け出す。鍛え上げられた体躯、その力を余すことなく発揮した疾走だった。
対する貴一も一歩目から最速に達する。肉ではなく、鍛え上げられた技術における身体操作。同じ疾走であっても二人のそれは意味合いが違う。
距離は瞬きの内に零となり、互いに渾身の一刀を振るう。
「――――――っ!」
言葉にならない雄叫びを上げ、二匹の鬼が交錯する。
駆け抜け、足を止め、再び静まり返ったように立ち止まる。
そして、一匹の鬼が膝をついた。
「あ、ぐ」
遅れて鮮血が舞う。胸元が切り裂かれ、皮膚の下の血肉が露わになっていた。
二人は全霊の剣を見せ合った。
剣に至ろうとした男。力だけを求め、そう在れなかった男。
互いの道に優劣はない。
ただ大切なものが違っただけ。
どちらが正しいのかは誰にも、おそらくは彼等にも分からないことだ。
しかし、どうしようもなく勝敗というものは存在する。
血払いをして、刀を鉄鞘に納め鬼は言う。
「かっ、かかっ。見事、久々に“剣”を見た」
片膝をついたまま動けぬ甚夜に向けて、心からの賞賛を送る。
両の足で立っているのは岡田貴一。
全霊を尽くした。それでも尚、届かなかった。
ごふ、と口から血が零れ出る。
死に至る程ではないが傷は深い。すぐには動けず、無防備を晒してしまっている。
このままでは殺される。勝敗は決した。だが黙って殺されてなるものか。まだ目的がある。たとえいかに無様であろうと、足掻いて足掻いて、生にしがみ付かねばならぬ。
四肢に力を入れるが立ち上がれない。けれど、いつまで経っても追撃は来ない。
何故。疑問に思い顔を起こせば、貴一は甚夜に背を向け立ち去ろうとするところだった。
「何処へ…行く……」
息も絶え絶えになりながら、鞘を支えに無理矢理体を起こし、甚夜は小さくなる背中に声を投げ掛けた。
そこには怒りが混じっている。斬られなかった、命が助かった。だというのにそれが納得できず、真意を問い詰めようと語気を荒げた。
「お前の、勝ちだ。何故……斬らん」
「勝ち? 異なことを言う。剣の勝負とは即ち命の奪い合い。互いに生きておるのだ、勝ちも負けもあるまいて。それが濁っておるというのだ……が、ぬしは確かに儂を斬った」
そう言って、甚夜に向き直り、掲げるように腕を挙げた。
上腕の辺り、着物の袖が裂けている。僅かに切り口は赤い。見せつけるように袖をまくれば、そこには僅か二寸にも満たぬ切り傷があった。
「余分に塗れ濁ってはいるが、その剣の冴えは清澄。矛盾した剣との立ち合いは中々に楽しめた」
哂うではなく、笑う。ぎょろりとした目の小男は、まるで童のような無邪気さで笑う。
剣とは濁りなきもので在るべきだと貴一は考える。
しかし眼前の敵は、この中途半端な鬼は、濁りを抱えたまま剣に至ろうとしていると感じられた。
己とは異なる在り方。だからこそ、岡田貴一はその行く末を見て見たいと思った。
「ぬしの命、今は預けておこう」
だから斬らぬ。
貴一は純粋だ。結局のところ頭には剣のことしかない。そしてその純粋さ故に鬼となった。
鬼は己が生き方から逃げられぬ化生。ならばこの男はきっと、剣から逃げることは出来ず、また逃げる気もないのだろう。
「いずれ、再び相見えようぞ。その時には濁った剣の答え、改めて見せてもらうとしよう」
かっ、かかっ。
心底楽しそうに、空気が漏れるような気味の悪い笑い声を上げながら、貴一は去っていく。
畠山泰秀からの依頼は果たせず、件の人斬りは再び巷へと還った。
自身は完全に敗北し、何一つ得ることは出来なかった。
しかし何故か、心は晴れやかでさえあった。
橋の真中で甚夜は寝転がり夜空を見上げた。
瞬く星と青白い月を眺めながら先程の立ち合いを、そしていつか、雪柳の下で語り合った夜を思い出す。
「くっ、くく…ははは……」
甚夜もまた笑う。
負けた。だが余分に塗れ濁った剣で、理想の己を傷つけられたことが嬉しかった。
あの小さな傷の分くらいは、今までの生き方にも意味が在ったのだと思えたから。
「なんだ、やれるじゃないか」
この手で、それを証明が出来たたことが嬉しくて、甚夜は血だらけのまま笑い続けた。
◆
2009年 9月
さて、時間は五時。
そろそろ放課後の生徒達がこぞってこの店に訪れる。稼ぎ時がやってきた。
「店長、おつかれさまでーす」
声を掛けてきたのは夏休みから店に入ったアルバイトの少女。戻川高校の一年生である。
「ふむ、みやか君。今日は早かったの」
「急いできたので」
色素の薄い長い髪はうっすらとした茶色をしており、その容姿も相まって彼女を目当てに訪れる男子生徒もいる。なかなかに有難いことである。
しかし最近の娘は皆このように素っ気ないのだろうか。いやいや、どうもこの娘だけのような気もするが。
そのようなことを考えているとみやか君がレジに来た為、引き継ぎのレジチェックを行う。……うむ、一円の誤差もない。我ながら完璧であった。
「それでは品出しを」
「はい」
見た目は生意気そうな小娘だが、それに反して性格は素直で真面目に働く。
素っ気なくはあるが礼儀正しく、立ち振る舞いも若者らしからぬ。まったく他のアルバイトの者達も見習ってほしいものだ。
「あ、いらっしゃいま……う」
品出しの最中、客が入ってきた為みやか君は笑顔で挨拶をし、途中で表情をひきつらせた。
「みやかちゃーん、遊びに来たよー」
「邪魔しに来たぞ」
背の小さい、幼げな顔立ちの少女と厳めしい面をした男。なんともちぐはぐな男女である。
制服は共に戻川高校のもの。おそらくはみやか君と友人同士なのだろう。この男が友人だなどと、なかなかに信じがたいものはあるが。
「やめてよ、恥ずかしい。……というか二人とも、相変わらず仲いいよね」
多少戸惑った様子で級友の来店を迎え入れ、しかし妙に仲の良い二人が気になるらしく、不機嫌という程ではないが半目で見詰める。もっとも、件の男女は全く気にした様子もない。
「へへー、まあね! なんと言っても古い付き合いだから!」
「古い?」
「うん、百年以上前からの」
「薫、ちょっと滑ってるよ?」
「えー、冗談じゃないのにー」
幼げな少女が頬を膨らませる。
女三人寄ればかしましいというが、二人でも相当なものである。そんな少女らを横目に男の方は店内を物色し、日本酒の五合瓶を持ってきてこちらのレジに置いた。
「いらっしゃいませ」
「……慣れんな、敬語のお前は」
マニュアル通りの対応をすると疲れたように溜息を吐く。
それならば、と普段通りの言葉遣いに変える。
「これは、いや、なかなかに辛辣よの。では態度を改めるとしよう」
「そうしてくれ。その方が有難い」
話ながら酒をレジに通す。
学生服を着ているがこの男は既に二十歳を超えている、別に売っても構わぬだろう。
「学生服で酒を買うのは止めた方がいいと思うが」
「言ってくれるな。他の店では買えないんだ」
近頃は酒類の規制が厳しい。高校生である以上仕方のないことだろう。
一度雑誌コーナーの前で談話する少女達を横目で見てから、眼前の男に視線を移す。
「高校生活、楽しんでいるようで何より」
「そういうお前も、店長が板についているようだが」
「ふむ。生きる為に始めた仕事ではあるが、楽しみもある。悪くないとは思っておるな」
コンビニの店主と言うのも中々に興味深い。
レジで様々な客を眺め、その生き方を想像するようにもなった。
確かに店長というのも悪くはない。
心からそう思い、だが、それでも。
「しかし余分よ。今も昔も、曲げられぬものがある」
歳月を経て、時代は変わり、それでも刀は捨てられなかった。
コンビニの店主としての生活も慣れた。
しかし斬り捨てろと言われれば容易に為せる。
今の生活を楽しく思うのは、これが己の本分ではないから。余暇や趣味を楽しむ心持となんら変わらぬ。
「ぬしはどうだ。その濁った剣に意味は見出せたか」
では、この男はどうか。
かつて江戸の町で斬り合った。矛盾し、濁ったまま剣に至ろうと足掻く鬼。
あれから百を超える歳月が過ぎた今だからこそ問う。
「お前は私の理想だ、今も昔も」
男は一度沈黙し、しかしぽつりぽつりと語り始める。
横目で見る、無邪気に笑う二人の少女。相変わらず余分を背負い、濁り切ったその在り方。
肩の力の抜けた立ち振る舞いは、以前にはない余裕を感じさせた。
「一つに専心し、他の全てを切り捨て。あまりにも純粋なその在り方に、心底憧れていた」
遠い目。映す景色はまほろば。
厳めしい面の男から紡ぎだされるのは、実に穏やかな言葉である。
「だが私もそれなりに長くを生きた。多くのものを失って、それでも小さな何かが残って。そんなことを繰り返して今の私がある。余分を背負いその度に揺らぐ私は、成程、確かに濁っているのだろう。だが積み重ねてきたものは余分であっても無駄ではなかった。今ではそう思えるよ」
答えというには頼りない。
それでも満足していると言いたげに笑みを落とす。
百年の歳月を重ね、結局は濁ったまま。おそらくこの男は抱えた余分の重さに潰れ、いつかは野垂れ死ぬのであろう。
「では、な。お前も偶には足を止めて周囲を眺めてみるといい。きっと、違った今が見える」
彼奴は弱くなった。にも拘らず、実に堂々としており、以前とは気配が違う。
余分を背負い、刀は濁り、弱くなったが故に強さを感じさせる。
矛盾此処に極まれり。だが面白くもある。
もう一度斬り結んでみたい、そう思える程度には。
「……店長と、知り合いだったの?」
訪れた少女との会話は早々に切り上げ、品出しを終わらせたみやか君がレジに戻ってきてそう聞いた。
話し込んでいる姿が親しげに見えたのか、不思議そうな顔でこちらと男を交互に眺めている。
「古い知人だ」
「うむ、懐かし顔よな」
誤魔化した訳ではなく、事実を言ったに過ぎない。
しかし彼女には分からなくて当然。腑に落ちないのか小首を傾げている。
「朝顔、そろそろ行くか」
「え? あ、そうだね。じゃあね、みやかちゃん」
「うん、また、明日?」
納得のいく答えを返さぬまま、男は幼げな娘に声を掛け、店を出て行こうとする。
本当に遊びに来ただけだったらしい。少女の方は何も買わなかった。
「ああ、そうだ。一つ言い忘れていた」
いつかの対峙とは逆、去り往き小さくなる後姿。
けれど不意に男は足を止め、首だけで振り返った。
浮かぶ表情は不敵。緩やかに、しかし勝ち誇るように、彼奴は口の端を釣り上げる。
「濁った剣では切れ味は鈍る。だが、おかげで斬らずに済んだものもある……それが、私の答えだ」
気の遠くなるような歳月の果て、至った答えを見せつけ、男は今度こそ去っていく。
斬ってこその刀。だというのに、斬れぬを誇る。
なんとも濁った男である。
とはいえ、それも剣の真理か。揺らぎのない歩みに、そういうものかとも思う。
「なんだかなぁ……」
言葉の意味が理解できず、みやか君は眉間に皺を寄せている。
反面、こちらは愉悦に満ちていた。
以前立ち会った時には掠り傷一つ負わせるだけで精一杯だった男が、ああも強くなるとは。
まこと、歳月とは不可思議なものである。
追想と現実を重ね合わせれば。思わず口元が吊り上る。
そうして儂はかつて夜叉と呼ばれた男の背を見送り、
「かっ、かかっ」
堪え切れず笑うのだった。
余談『剣に至る』了