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『鬼と人と』・4


 白雪の母、夜風は彼女が九つになった時亡くなった。

 当時の巫女守であった父、元治はいつきひめを喰らったという鬼を命懸けで封じた。

 文字通り、命懸けで。

 こうして白雪は一人になった。

 慎ましやかに葬儀を終える。夜半、集落から離れ戻川を一望できる小高い丘に白雪と甚太は訪れた。

 川は星を映して流れ往く。

 たゆたうように水辺を舞う光は蛍か、それとも鬼火か。

 見上げた空。月明かり。

 二人並んで眺めれば、ほんの少しだけくすぐったかった。


 ───甚太、私ね。いつきひめになるんだ。


 何気なく、白雪は言う。 

 葬儀の後、集落の長から打診を受けたらしい。

 そもそもいつきひめは代々白雪の家系が担う役である。彼女が火女となるのは当然の流れだった。

 なんで、彼女はそんなことを言うのだろう。

 甚太には理由が分からない。

 巫女であったが故に鬼に喰われた母、その仇を取るために命を落とした父。

 悲しい結末を知りながら、いつきひめになると。どうして平然と口に出来るのか。

 問いたかった。

 けれど彼女の言葉に静かな決意を感じ取り、何も言えなくなった。


 ───おかあさんが守った葛野が私は好きだから。

   私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。


 幼さの消えた横顔。彼女の瞳は何を映しているのだろう。

 きっと流れる水ではなく、もっと美しい景色を見ている。そんな気がした。


 ───でも、もう会えなくなるね。


 白雪は知っている。

 いつきひめになれば甚太や鈴音においそれと会えなくなる事を。

 けれど、それでよかった。白雪は甚太が大好きだった。

 そして捨て子だった彼を受け入れた葛野も、そんな集落を成した母もまた大好きで。

 だからこの地を未来へと紡いでいけるなら、自分の幼い恋心に蓋をするくらい、なんでもないと思えた。


 ───なら俺が会いに行くよ。


 自然、そう口にしていた。

 甚太は幼馴染の少女を初めて美しいと感じた。

 出来れば、彼女には自身の幸福のために生きてほしいと思う。先代の顛末を知れば尚のことだ。

 しかし白雪は母の末路を知りながら、それでも同じ道を歩むと言った。

 他が為に在ろうと、幼さに見合わぬ誓いを掲げた。

 美しい、と。

 その在り方を美しいと感じ、だからこそ守りたかった。 


 ───今はまだ弱いけど。俺、強くなる。


 子供の発想、けれど真剣だった。

 強くなればきっと、どんなことからも彼女を守れる。


 ───強くなってどんな鬼でも倒せるようになる。そうしたら巫女守になって会いに行くよ。


 紡ぐ言葉は祈りのように。

 強くなりたいと。彼女の強さに見合うだけの男でありたいと、心から願う。


 ───その時には。俺が、お前を守るから。


 静かに白雪は涙を零した。

 守る、と。その言葉にどれだけ救われたのか分からない。

 本当は今日を別れの日にするつもりだった。もう二度と会えない。その覚悟があった。

 なのに彼は、自分の勝手で離れていく私を守ると言った。言ってくれた。

 涙が溢れて、拭うことも出来ず、ただ白雪は柔らかに笑う。


 ───ね、甚太。おかあさんはいつきひめになってからおとうさんに会って、それで結婚したんだって。


 そして想う。

 二人なら、遙かな道もきっと越えていける。


 ───私はいつきひめになって甚太を巫女守に選ぶから。


 風が吹いて、木々が微かにざわめく。


 ───甚太は、いつか私のことをお嫁さんに選んでね。


 遠い夜空に言葉は溶けて、青白い月が薄らと揺れる。

 森を抜ける薫風は、するりと指から零れ落ちるように頼りなくて、ほんの少しだけ切なくなった。

 だから二人はどちらからともなく手を繋ぎ、言葉もなく空を眺めた。

 言葉と一緒に心まで溶けていきそうな、そんな夜だった。




 ◆




「甚太、もう朝だよ。起きて」


 まどろむ意識がゆっくりと引き上げられる。

 揺さぶられる心地良さがより眠気を誘う、緩やかな朝のひととき。


「鈴、音……?」


 いつまでも眠っていたいと思う。

 しかしそういう訳にもいかない。眠気を必死に噛み潰しながら重い瞼をゆっくり開ける。

 そうして自分を起こそうとしている妹に声をかけようとして。


「おはよ」


 艶やかな長い黒髪に、雪の如く白い肌。

 ゆったりとした笑顔。

 その甘やかさに呆け、段々とはっきりしてくる頭が違和感に停止した。


「もう、仕方無いなぁ甚太は。お姉ちゃんがいないと何にも出来ないんだから。ちゃんと一人で起きれるようにならないと駄目だよ?」


 そこにいたのは、そこにいない筈の人物。

 葛野の土着神『マヒルさま』に祈りを捧げる当代のいつきひめ、白夜。

 甚太は彼女のことをこう呼んでいる。


「………白……雪?」


 口にして、その在り得無さに思わず唖然となった。

 いやまておかしいなんでこんなところにいる。

 寝ぼけていた意識は一気に覚醒、だが目は覚めても状況が理解できない。

 何故か分からないが、社から出て来られない筈の白雪が自分を揺り起こしている。

 まるで幼馴染のように、いや、まるでも何も幼馴染ではあるが。

 しかも着ているのはいつもの巫女服ではなく、薄桃色の着物で長い黒髪も後ろで纏めている。

 何故彼女はそんな恰好をしているのだろうか。


「そんな恰好、って酷いなぁ。可愛いでしょ?」


 えへへ、と無邪気に笑い、立ち上がってくるりと一回転して魅せる。

 確かに可愛いが、と言おうとしてそんな場合ではないと気付き白夜に詰め寄る。


「お前は、なんで、ここに?」


 甚太の胸中は乱れに乱れていた。

 動揺しながらもどうにか言葉を絞り出す。


「なんで、って。昨日言ったでしょ? だから約束通り抜け出してきたの」


 抜け出してきた?

 なんということを。いつきひめというのは姿を衆目に晒さない。それは単なる掟ではなく、巫女の神聖を保つために必要なことだからだ。

 だというのに彼女は何を普通に出歩いているのか。


「大丈夫、今の私の顔を知ってるのって、ええと、社の人と長、甚太に清正、後はすずちゃんくらいだから。外を出歩いても私だと気付かれないと思うよ?」


 こちらの内心を正確に読み取り、安心させるように柔らかく言う。

 何が大丈夫なのか全く伝わってこない。けれど慌てる甚太を余所に、白雪は呑気に微笑んでいる。


「しかし、鬼がお前を狙っているというのに」

「それなら甚太の傍が一番安全だし」

「私は鬼を探し出し、討たねばならん」

「昨日言った通り、今日休みだよ? 鬼の居場所が分かったらその時は力を借りることになるけど、まだ時間があるから全然問題なし」

「だがこのことが長にばれたら」

「それも大丈夫、今日のことに関しては長も了承済みー」


 それ以上言葉は続けられなかった。

 何という根回しのよさ。最初から逃がす気はないらしい。


「他には何かある?」


 満面の笑み。完全に自身の勝利を確信しきった、得意げな顔だった。

 そして事実反論は封じられている。


「……お前の強引さには敵わん」


 苦々しく顔をしかめる。

 言えたのは負け惜しみくらいだった。




 ◆




「せっかくひめさまが来たんだから、もっとおいしいの出せばいいのに」


 起きてきた鈴音を含め三人で朝食を始める。

 いつも通りの麦飯と漬物が不服なのか、鈴音は頬を膨らませていた。


「朝から重いものを出しても仕方がないだろう」

「にいちゃん、甲斐性なし?」

「殴るぞ」


 実際には甚太は料理など殆どできず、麦飯も近所の家で一緒に炊いてもらっている始末。

 甲斐性なしと言えばそうなのだろうが、あまりにも直接的な鈴音の言葉に、憮然とした表情になってしまう。

 そんな兄妹の遣り取りを見ていた白夜が半目でぽそりと呟いた。


「できないくせに」

「何か言ったか」

「え? だって甚太甘いし、すずちゃんのこと殴るなんて絶対無理でしょ?」


 そこで「なんでもない」と誤魔化さない辺りが白雪だった。

 どうやら彼女には、妹を叱ることもできないと甘い兄だと思われているらしい。

 それは思い違いだと、甚太はむっつりとしたまま答える。


「百歩譲って私がこいつに甘いのは認めよう。だが兄として叱るべき時には叱るし、必要ならば手も上げる」

「ふーん」


 気の乗らない返事、完全に信じていなかった。

 白夜はどうでもいいとでも言いたげにぽりぽりと漬物を齧っている。


「でも絶対無理だよね……」

「あ、やっぱりそう思う?」

「うん、だってにいちゃんだもん」

「お前ら本気で殴るぞ」


 身を寄せあってちらちらと甚太を見ながら、ちゃんと聞こえる声量で二人して内緒話。

 懐かしい、というべきか。子供の頃も似たような構図は何度もあった。勿論冗談だと分かっているので、腹を立てるようなことはない。

 とはいえ、いつまでも子供のままではない。毅然とした態度で甚太は食事を続ける。


「じゃあ試しにやってみて? こつん、くらいでいいから」


 すると鈴音はそう提案をしてきた。

 思わず呆気にとられて視線を向ければ、妹は小さな頭を甚太の前に差し出す

白雪もその意見に案外乗り気のようで、なにやら期待を込めた目でに観覧していた。

 いかん、本気で舐められている。

 いい加減ここらでおしおきをしてやらないといけない。

 そう思い、拳を軽く握り締めた所で鈴音は真っ直ぐに甚太の目を見た。

 そしてゆるりと、絡まった紐が解けるように、柔らかく微笑んむ。

 その表情に、ぐっ、と息が詰まる。それでおしまい。気付けば握り拳は笑顔と一緒に解かれて、もう一度膝の上に戻っていた。


「必要ならば、手も上げる?」

「……まあ、別に悪さをした訳でもないしな」

「そーですね」


 白雪は見透かしたようにまにまと笑う。

 昔から、彼女には勝てなかった。しかし考えてみれば鈴音にも勝てたことなどなかかった。相も変らぬ自分の弱さに思わず溜息が零れた。


「いってらっしゃーい」


 朝食を終えれば白雪に急かされ出かける準備を整える。

 玄関で見送るのはあまりにも元気な鈴音だった。妹はにこにこと笑顔を絶やさない。


「鈴音……何か嬉しそうだな」


 いつになく機嫌のいい妹に違和を感じて問えば、笑顔を崩さず朗らかに答えた。


「うんっ! だって、にいちゃんは今日一日ひめさまと一緒なんでしょ? だからすずも嬉しいの」

「何故それが嬉しい」

「すずはにいちゃんが大好きだもん。だからにいちゃんが幸せだと嬉しいの」


 それはつまり、自分が白雪と一緒にいる時幸せそうにしている、ということだろうか。

 少しばかり問い詰めたくなったが、鈴音が本当に嬉しそうな笑顔を浮かべている。ならばこれ以上突っ込むのも野暮だろう。


「そう、か。済まない、留守を頼む」

「うん、たのしんできてねー」


 ぶんぶんと手を振って見送ってくれる鈴音に軽く手を挙げて応える。

 まったく、あそこまで気合を入れなくてもいいだろうに。


「ほんと、すずちゃんはいい子だねぇ」


 それには同意するが、やはりもう少し我儘になってほしいとも思う。

 まあ今日の所は鈴音の言う通り、折角の機会を楽しむべきだろう。二人は足取りも軽く、互いにくすりと小さく笑い合って家を後にした。






「たのしんで……きてね」


 だから遠く、寂しそうに呟いた鈴音の声を聞き逃した。




 ◆




「お、甚太様。その娘は?」


 のんびりと道を歩いていると、すれ違う二人の男に呼び止められた。

 葛野の守り人たる巫女守が見慣れぬ少女と手を繋いで歩いているのだ。

 集落の民は皆一様に驚き、珍しいものを見たとからかい交じりの言葉をかけてくる。

 既に数度同じ言葉を返している為いい加減面倒になってくるが、顔には出さず答えた。


「古い知り合いです」

「今日は久しぶりに来たので、集落を見せて貰っています」


 嘘は言っていない。

 幼馴染なので古い知り合いには間違いないし、白夜が葛野を見るのは確かに久しぶりだった。


「巫女守様、いいひとがいたんすねぇ。浮いた話の一つもないから結構心配してたんですが」

「いや、まったく。甚太様も色を知る歳になりましたか。小さな頃を知っているだけに感慨深いですなぁ」


 しみじみと頷く男達。

 白夜は見せつけるように甚太の腕を取り、体を寄せた。


「いいひと、だって」


 少しだけ顔が熱くなる。思わず視線を落とせば、彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。

 傍から見ればまさしく恋仲だろう。仲睦まじく寄り添う二人に男達は生暖かい視線を送っていた。


「おい」 

「やだ」


 離れろ、と言う前に拒否された。

 流石に人前で腕を組むというのは恥ずかしい。寄り添う体から彼女の温度を感じる。

 残念ながら胸の膨らみが致命的に足りていない為、触れる感触は申し訳程度というところだが。


「今絶対失礼なこと考えたよね?」

「微妙に抓ってくるな」


 何故か此方の内心を察した白雪が脇腹を抓る。

 鍛えに鍛えた体躯を揺るがすほどではないが、精神的には痛かった。


「巫女守様も女性には弱いのですなぁ。もう尻に敷かれてるとは。善哉善哉、男は尻に敷かれてやるくらいが夫婦円満の秘訣です」

「いや、ちとせが泣くな。姫様も残念がるかもしれませんよ?」


 他にも二言三言付け加え、散々からかって満足したのか男達は笑いながら去っていく。

 鬼を相手取るよりもよほど疲れた。同時に安心もする。取り敢えず白雪の正体には気付かなかったらしい。

 疲労か安堵か、思わず溜息が零れる。


「……その姫様が横にいるのだが」

「ね、ばれないでしょ?」


 ぼそぼそと話し合う。

 成程、確かに意外とばれないものである。それでいいものなのだろうか、と思わなくもないが。


「まあ、深く考えても仕方ないか」

「そうそう、細かいことは気にしないの」


 白雪は更に強く体を寄せた。鼻腔を擽る彼女の香に少しだけ鼓動が早くなった。






「あ、甚太様! いらっしゃい……ませ?」


 訪れたのは葛野に一軒だけある茶屋だった。

 本来タタラ場に茶屋があること自体が珍しく、殆どの集落にはないだろう。

 しかしこの茶屋は、初代の巫女守が「せめてもの娯楽を」と建てさせたものらしい。

 所以はともあれ、今ではこの茶屋は集落の数少ない憩いの場となっていた。


「ちとせ、邪魔するぞ」


 茶屋の娘、ちとせは目を丸くしてこちらを見ている。

 そもそも甚太は普段茶屋を利用しない。鈴音とちとせが疎遠になってしまってから、自然と足が遠のいて、今では訪れることなど滅多になかった。

 だから昨日会ったのは本当に随分久しぶりだったのだ。

 そんな彼が急に来ただけでも驚きだというのに、その脇には見知らぬ女性がいる。

 腕を組んで、実に親しそうだ。

 いきなりすぎる状況にちとせは困惑していた。


「あの、その方は?」

「知り合いだ。それ以上は聞いてくれるな」

「はぁ……。あ、と。すみません。ご注文は?」


 納得がいったのか、いかないのか、微妙な表情だった。

 いつまでも呆けていても仕方ない。思い出したようにちとせが注文を聞くと、勢いよく白夜が声を上げる。


「お団子を……ええと、十本!」

「二本でいい。あと、茶を」

「えー」

「また腹を壊すぞ」


 白夜には悪いがその量は却下する。彼女は普段食べられないせいか、機会があると甘味を大食いする癖があった。

 しかし元々量を食べる方ではなく、胃も小さいのでいつも食べ過ぎで苦しみ、繁縷を煎じた胃腸薬の世話になっている。既にその様を何度も見ているのだから、止めるのは当然だった。


「はい、少し待って、てくださいね。おとーさん!」

「おう、聞こえてた!」


 父親と元気のいい遣り取りをしながら、ちとせは店の奥へ引っ込む。

 するとその後ろ姿を眺めていた白夜がぽつりと呟いた。


「ちとせちゃんも気付かないかぁ」


 投げやりな、僅かに寂しさを含んだ声。

 ちとせは元々鈴音の友人で、幼い頃には白夜と遊ぶ機会もあった。気付いてもらえなかったのにはそれなりに思う所があったようだ。


「何年も顔を合わせてないんだ。仕方あるまい」

「分かってはいるんだけどね」


 理屈では分かっていても、感情までは納得しないというところだろう。

 二人して店の前の長椅子に腰を下ろす。

 横目で盗み見たその表情は曇ったままで、まるで置いてけぼりをくらった子供のようだ。


「お待たせしましたー」


 しばらくすると小さな盆を片手にちとせが戻ってくる。

 長椅子の上に置かれた盆には湯呑が二つと、団子とは別に注文していない小皿があった。


「これは?」

「磯辺餅。お好き、でしたよね?」


 餅など正月くらいしか食べる機会がない。

 滅多に食べられないせいもあるだろうが、何が食べたいと言われて最初に思い浮かぶのは餅だ。同じ餅なら磯辺餅がいい。

 そう言えば随分と昔、そんな話をしたこともあった。


「覚えていてくれたのか」


 意外さに目を見開けば、ちとせはぎこちない照れ笑いを浮かべている。

 出された磯部餅は巫女守ではなく甚太への気遣いだ。驚く彼の顔が嬉しかったらしく、ちとせは元気よく首を縦に振った。


「はいっ。ちょうどもらい物があったんで、折角ですから」

「済まん、有難く頂こう」

「えへへ、ゆっくりして、いってください」


 小さくお辞儀をしてまた店の中に戻っていく。

 甚太は少しだけ口元を緩めた。餅を出してくれたことよりも、餅が好きだと覚えていてくれたことが嬉しかった。


「甚太だけ特別扱いされてるー」


 白夜は団子を食べながら不満そうに頬を膨らませている。

 自分が忘れられているのに甚太のことはしっかり覚えているというのが気に食わなかったらしい。


「だから仕方ないだろう」

「でも複雑……というか、ちとせちゃん、なんか変じゃなかった? 妙に緊張してたみたいだけど」


 ちとせの拙い敬語にはやはり違和感があるようだ。

 それに関しては甚太も同じ。しかし言って聞かせられる話でもない。


「あの娘にとって今の私は『甚太にい』ではなく『巫女守様』だということだ」

「あ……そっか」


 結局は、昔とは立場が違う。何もかも昔の儘でなど、どだい無理な話だ。

 いつきひめ程ではないにしても、巫女守もまた畏敬の対象と成り得る。

 そしてちとせも、もはや小さな子供ではない。

 そこに思い至り、白夜はばつが悪そうに目を伏せた。


「今更ながらにお前の苦労が分かるよ」


 冗談交じりの言葉を零しながら肩を竦める。

 ただの笑い話だから気にするな。甚太の気遣いに感謝し、その意を汲んで白夜も敢えて茶化した物言いで返す。


「でしょ? いつきひめは大変なのですよ、巫女守様?」

「やめてくれ」


 いつきひめ。巫女守。

 思えば、お互い自由に『自分』ではいられなくなってしまった。

 変わらないものなんてない。白夜の父、元治の口癖だ。

 歳月が経ち、あの頃のように無邪気ではいられなくなった今、彼の遺した言葉が殊更重く感じられる。


「変わらずにはいられないものだな」


 周りも、自分自身も。

 白夜は何も返さなかった。彼女が、それを誰よりも知っているからだろう。






 集落で社の次に目立つのは高殿(たかどの)と呼ばれる建物である。

 高殿はタタラ製鉄の要で、建物の中には大型の炉が設置されている。これに砂鉄とタタラ炭を入れ、三昼夜もしくは四昼夜鞴を踏み続けることで鉄は造られる。

 当然高殿の中は尋常ではない程に室温が高まり、近付くだけでもその熱気を感じることが出来た。


「入るか?」

「ううん、やめとく。邪魔したくないし。いこっか?」


 遠くから高殿を眺めていた白夜は反対方向に歩き始める。

 その表情はどこか嬉しそうだ。背後からは男達の声が聞こえてくる。内容は聞き取れないが、炉の熱気にも負けない程の熱を感じることが出来た。


「嬉しそうだな」

「うん。お母さんも、きっとこんな葛野を守りたかったんだろうな、と思って」


 足取りは軽く、とんとんと拍子をとるように二歩三歩進む。

 白夜は本当に上機嫌で、放っておいたら鼻歌でも歌いそうなくらいだ。


「私ね、鉄を造るところって好きなんだ。いい鉄を造るために皆が力を合わせてるのが分からるから。……いつきひめになったことが、少しでもあの人達の支えなれたなら、すごく嬉しいな」


 そう言った白夜は、いつもよりも大人びて見えて、いつもよりも綺麗に見えた。


“おかあさんが守った葛野が私は好きだから。私が支えになれるなら、それでいいって思えたんだ。”


 いつか彼女が口にした想いは、今も変わらない。

 当たり前のように誰かの幸せを祈れる。

 白雪は、昔からそういう娘で。

 だからこそ、守りたいと甚太は願った。


「集落の柱が謙虚だな。皆、お前がいるから安心して暮らせるんだ」

「ふふっ、ありがと。でもそれは甚太もだからね」

「私は、それほど大層なことは」

「巫女守様が何言ってるの。あ、もしかして照れてる?」


 のんびりと歩く、見慣れた景色。

 いつだったか、元治が言っていた。

『変わらずに在りたいと願っていた』と。

 夜風が守りたかったもの。元治が守りたかったもの。今なら少しだけ分かる気がする。

 彼等はきっと、何もない昔ながらの葛野を守りたかったのだろう。

 特別なものなど何一つない、当たり前の、小さな小さな幸福。その眩しさに目を細める。


「どうしたの?」

「いや、きっと元治さんはこんな景色を守りたかったのだと思ってな」


 意味が分からなかったらしく、白夜は眉間に眉を寄せていた。

 分からなくてもいいと思う。今はただ何気ないことが嬉しくて、甚太は声をにこやかに笑った。





 それからは特に何をするでもなく、集落をただ歩き、時折くだらない話をした。

 目的などない。元々娯楽の少ない集落だ。然して楽しめる場所などないが、久しぶりに外を歩くこと自体が嬉しいのだろう、白夜はいつになくはしゃいでいる。

 引き摺られるように、甚太もまた幼い頃に戻ったような心地で一日を楽しんでいた。

 ただ一つだけ気にかかる。

 昔から彼女が必要以上にはしゃぐのは、何か言いたくないことがある時だった。




 ◆




 陽はゆっくりと落ち、空は夕暮れの色に染まっていた。

 散々歩き倒して火照った体を冷まそうと集落を離れる。辿り着いたのは戻川を一望できる小高い丘。

 いつか、二人で遠い未来を夢見た場所だった。


「風が気持ちいい……」


 真っ白なその肌を夕暮れの風が撫でている。

 通り抜ける風の優しさに黒髪は揺れて、ざぁ、とさざ波のように木々が鳴いた。


「今日はありがと」

「いや、私も楽しんだ」

「そっか、それならよかった。また私の我儘に付き合わせちゃったから」

「それこそいつものことだろう」

「あ、ひどー」


 表情は次第に曇っていく。

 先程までの無邪気な少女は消え、大人びた横顔に変わった。橙色の陽を映す川は斑に光り輝いて、その眩しさに目を細めて眺めながら、甚太は静かに呟いた。


「もう、いいのか?」


 何気なく零れた言葉。その意を白夜は間違えない。

 隠しごとを話す為の心の準備はできたのか。甚太はそれを問うている。


「う……ん」


 沈んだ声。しばらく口を噤み、しかしようやく何かを決意したのか、戻川に向けられていた視線を甚太へと移す。

 まっすぐ、逸らさない。揺らぐことのない決意が彼女の目に映り込む。


「ここで、甚太と話したかったんだ。ここは私の始まりの場所。だから伝えるのはこの場所がいいと思ったの。ね、聞いてくれる?」

「……ああ」

「そっか、よかった」


 笑った。

 けれど白夜の笑みは透明で、そこに秘められた意を汲み取ることは出来ない。

 風がまた一度強く吹き抜けた。木々に囲まれた小高い丘で、彼女は少しだけ近くなった空に溶け込んでしまいそうだ。

 いや、その姿は自ら溶け込もうとしているように見えた。

 そして空になった彼女は、泣きそうな、けれど強さを感じさせる笑みを浮かべて。



「私、清正と結婚するね」



 そう、言った。



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