余談『剣に至る』・1
「ありがとうございましたー」
兵庫県立戻川高校、そのすぐ傍には名前の通り
校門までの道は銀杏並木になっており、景観豊かな通学路は実にのどかなものだった。
さて、その途中。高校から十五分くらいの所にあるコンビニ『アイアイマート』で自分が働き始めてから、もう随分と時間が経つ。
元々は以前の同僚が葛野で働いていたから、その程度の軽い理由で訪れ、偶然オーナー募集の広告を見つけ、応募して現在に至るという形だ。
正直に言えば勤労意欲というものは殆どなく、叶うならば働きたくはない。
が、働かねば金は貰えず飯も食えん。仕方なくアイアイマートの店長として、それなりの毎日を過ごしている。
しかし何事も長く続けてみるものだ。コンビニ店長という仕事もなかなかに興味深い。
一番気に入っているのはレジ打ちで、アルバイトは雇っているが好んでこの業務に携わっている。
何が興味深いかと問われれば、やはり様々な客模様であろう。
この店は立地上、戻川高校の教師及び学生がよく利用する。
特に学生は朝に菓子類や昼食を買って行き、放課後には買い食いをして帰るので有難い存在だ。
一口に教師や学生といっても十人十色、買う物も千差万別。見ているだけでも案外と面白い。
「たばこ」
例えば、毎朝この店に寄る教師は、新聞を乱雑に置き「たばこ」とだけ短く言う。
毎日使っているのだから銘柄は覚えていて当たり前、とでも思っているのだろう。こういった横柄な客は間々いる為怒りも沸かぬ。
「またそれ?」
「うん。これすっごくおいしーんだー。みやかちゃんもどう?」
「私はいい」
背の高い少女と、少女というよりも女童といった印象の娘。二人組の女学生だ。おそらくは同学年なのだろうが、なんとも対照的な娘子達である。
女童が買ったものは新商品の『生クリームたっぷりのアップルパイ』に『ゴージャスミルクキャンディ』。
アップルパイの方は棚に並んでから然程日は経っていないが、女性にかなりの人気で売れ行きは好調。これはもう少し仕入れておいてもいいかもしれん。
背の高い方は目覚まし用のミントガムだけ。ふむ、若い女だからといって甘いものが好きとも限らんのか。なかなか難しいものだ。
「これを」
今度は学生服を着た男だ。この男も毎日昼飯を買ってから学校に行くのだが、今回レジに出されたのは“カトーの切り餅”だった。
既に数度あったことだが、思わず学生服の男に問うてしまう。
「……これは」
「ん? 以前も言ったが昼食だ。いや、好きな時に磯辺餅が食えるとは良い時代になった」
……こやつ、間違いなく頭がいかれておる。
昼飯代わりに磯辺餅を一袋食う高校生が何処におるか。ちなみに餅ではない日はカップのインスタント蕎麦かアンパンを買っていく。
流石に偏食が過ぎると思う。客の健康など知ったことではないが。
「すみません、これお願いします」
次の客は実に丁寧、さわやかな笑顔で雑誌を出す。まだ高校一年生か、なんとも清々しい少年だった。若者らしいとはこういうことをいうのだろう。
そう思い商品に目をやり、ぴたりと思考が止まる。
清々しい少年が持ってきた雑誌は『月刊Loマガジン』。
読んで字の如く幼い娘子の写真や漫画を載せた雑誌である。一応直接的な描写はないので成年指定ではないが、少なくとも朝から買っていくようなものではない。
取り敢えずレジに通し代金を受け取ると「ありがとうございました」とこれまた丁寧な礼を言ってくれる。
「吾妻、何買ったの?」
「んー、おかず」
外で待っていた女学生と共に学校へ向かう少年。
見た目からはいかがわしい本を買うような印象受けないのだが。いやはや、なんとも分からないものである。
とまあこのように、コンビニには様々な客が訪れる。
叶うならば働かず趣味だけに興じて生きていたいと考えている自分が、なんとか仕事を続けられているのは、この客模様の興味深さ故だろう。
近頃になって思うのは、様々な客がおり、その客それぞれに生き方があるということだ。
例えば先程の女学生二人組も、いかがわしい本を買っていった少年にも、餅を馬鹿ほど食う先程の男にも。
それぞれの生き方が、それぞれの悩みが楽しみが、目指すものがある。
何気なく買ったもの一つとっても、彼等がそれを買うに至るまで、何かしらの理由がある。
彼等を深く知ることは叶わないが、彼等にもそれぞれの物語というものあるのだと、この歳になって考えられるようになった。
とまあ、とうとうと語って見せたが別に大仰な話ではない。
つまり何が言いたいかといえば、コンビニの店長という生き方にも、このように細やかではあるが楽しみもある、というだけのことである。
「いらっしゃいませー」
そんなことを考えている間に新しい客が来た。
次の客は何を買っていくのか。
にこやかな作り笑いを浮かべながら仕事を続けていく。
忙しい朝の時間はまだ始まったばかりだった。
鬼人幻燈抄 余談『剣に至る』
元治元年(1864年)・三月
夜は深く、星以外に灯りのない武家町を三人の男が闊歩していた。
年若く血気盛んそうな若者達は、今し方会合を終えたばかりだ。
「やはり既に幕府は形骸、我ら武士は今こそ立たねばならぬのだ!」
「やめろ、何処に耳があるか分からん」
彼等は国の行く末を憂い、未来の為に剣を取った倒幕の士だった。
もはや徳川は当てにならぬ。来たるべき新時代の為に刀を振るわねばと、同じ開国を志す者達と幾度も会合を開いている。
未だ実際に動けてはいないが、それでも国を想う心は確かだ。
少し酒が入ったせいか、各々の考えをぶつけながら三人は歩き、しばらくしてその足取りが止まった。
「かっ、かかっ」
星の天蓋、月のない夜。
春は終わり、しかし夏にはなれず、曖昧なままに滲む季節。
不意に流れた風が砂埃を巻き上げる。
生温い肌触り。とてもではないが心地好いとは言えない。
空気が抜けるような薄気味悪い笑い声。
宵闇に佇む人影一つ。
「何奴!」
三人の男は身構えた。
ゆるりゆるり、と人影は近付く。星明りに照らし出された姿。三十代前半といった所だろうか。
五尺程度の背丈、肩幅が広い訳でもなく決して体格は良くない。しかしその首は奇妙なほどに筋張っており、尋常ではない鍛錬を積んできたのだと分かる。
ぎょろりとした目が男達を見た。
そして手には、抜身の刃が。
「貴様、何のつもりだ!」
刀を見て緊張は更に高まる。
真意を確かめようと一人の男が怒鳴り付け、
「刀を見て尚も弁舌を抜く……濁っておるな」
それこそ瞬きにも満たぬ間に、首が落ちていた。
「なっ!?」
目を離しはしなかった。なのに謎の男は一瞬で間合いを詰め、ひゅっという軽い音が響いたかと思えば、既に斬り付けられていた。
まるで妖術にでもかかってしまったようだ。あまりにも現実感が無く、だというのに血溜まりが、其処に伏す若者の傷が、転がる死体が現実を語る。
私達は今、得体の知れない何かに遭遇してしまったのだ。
「きさぁぅ……」
しかし刀を抜くことさえ出来ない。
一人に付き一太刀、それだけで命は容易く消え去る。
悲鳴も上がらず、逃げられる訳もなく。
「おぁ……」
何事もなく、死骸が三つ転がった。
見下す男の目に感情はない。ただつまらなそうに一言呟く。
「まこと、濁っておる」
もはや興味を失くし、男は死骸に背を向け、夜に紛れ消えていく。
「かっ、かかっ」
月のない夜には、気色の悪い笑い声だけが残った。
◆
蕎麦屋『喜兵衛』。
いつも通り甚夜はこの店に顔を出しているが、今は店内ではなく、奥にある普段店主等が使っている畳敷きの寝床にいた。
そこに赤子を寝かせ、木綿の布を臀部の下に引く。もう一枚小さな布を間にかませ、ずれがないように木綿の布を巻いていく。
「……随分、慣れましたね」
「そうだな」
十年近い付き合いになる友人、三浦直次の言葉に抑揚もなく答えた。
会話をしながらも手は止まらない。
甚夜は相変わらずの鉄面皮だが、やっていることは赤子のおしめ交換である。真剣な表情で赤子のおしめを取り替える六尺の偉丈夫というのは中々に奇妙だ。
おしめを換えるのも今では慣れたもので、随分と手際も良くなった。手早く終わらせた甚夜は赤子──愛娘である野茉莉を抱き上げた。
「たぁた」
「どうした、野茉莉」
目は冴えているらしく、腕の中で父の顔をじっと見つめている。
時々体を揺すってやるとその動きに野茉莉は笑った。それに釣られる形で甚夜もまた穏やかに笑みを零す。父娘の、何気ない触れ合いだった。
「お父さん、ですねぇ」
おふうが感嘆の為か呆れの為か、ふう、と一度溜息を零す。
「私の娘だ、なんて言って野茉莉ちゃんを連れてきた時は何事かと思いましたけど」
「いや、まったくです」
なにやら微妙な顔で二人は甚夜の所作を眺めている。
我関せずと野茉莉と戯れる姿は、成程正しく父と呼ぶに相応しく、しかし鬼を容易に斬り伏せる剣豪だからこそひどく違和感があった。
「そう言ってくれるな。私自身似合わんとは思っている」
おふう達には夕凪のことは話していない。ただ、ある人から事情があって育てられなくなった娘を託されたとだけ告げた。
それでよかった。いずれ野茉莉には母のことを伝える。それまでは、嘘吐きな彼女の精一杯の愛情を、大事にしまっておこうと決めていた。
「似合わない、ということはないでしょう」
初めの頃はおしめを換えるのも難儀し、直次の妻であるきぬに教えを乞うたこともあった。
甚夜はきぬを苦手としており、それでも娘の為に頭を下げる辺りに、彼が半端な気持ちで野茉莉を娘と呼んでいる訳ではないと分かる。だから直次はこの奇妙な親娘を微笑ましく感じていた。
「そう、ですね」
もっとも、おふうの方はまだ若干引っかかるところがあるらしく、曖昧な笑みを浮かべてはいるのだが。
「旦那、ちょっといいですかい?」
「ん、ああ。すまんな、寝床を借りた」
しばらくすると店の方から店主が顔を出した。
おしめを換える為に店主の布団を借りてしまった。取り敢えず礼を告げるが、店主はもごもごとはっきりしない様子である。
「いや、それはいいんですがね。あー」
「どうした」
「なんというか、旦那に、お客さんが来てるんですが」
「客?」
店主は言い難そうにしているが、こういったことは決して珍しくなかった。
どこかから“鬼を討つ夜叉”の噂を聞き付け、依頼の為喜兵衛を訪れる者は少なくない。大方今回もその類なのだろう。
「分かった。今行く」
「ああ、なんか、すんません」
相変わらず店主ははっきりしない物言いだ。若干不思議に思いながらも、野茉莉を抱いて店の方へ向かう。
其処には一人の男が腰を掛けていた。
「ああ、甚夜殿。突然の訪問申し訳ない」
その姿を確認した途端甚夜の動きがぴたりと止まる。
三十代後半くらいの、小柄な男。纏った羽織は実に立派なもので、豪奢ではない縫製がしっかりしている。二本差しと相まって、男の出自が格の高い武家の出だと一目で理解できた。
柔和そうな表情、しかしその細目の奥では何を考えているのかは分からない。
それは以前顔を合わせたことのある男だった。
「畠山…泰秀……」
佐幕攘夷を掲げる武士、
あまりにも意外過ぎる来客がそこにはいた。
「お久しぶりですね。壮健そうでなにより。おや、その娘子は甚夜殿の……?」
ゆったりとした語り口からは余裕が感じられる。
成程、店主が動揺するのも仕方がないだろう。前畠山家当主、泰秀。そもそも庶民の蕎麦屋に訪れるような身分ではない。泰秀自身は平然としているが、本来ならば有り得ない光景だ。
「何故ここに?」
泰秀の質問には答えず、冷たい視線を送る。
それを受けても尚、穏やかな態度は変わらない。
「何故? これは異なことを。刀一つで鬼を討つ剣豪の下に訪れる理由……一つしかないでしょう」
そうして彼は細目のまま甚夜を見据え、
「貴方に、討ってほしい鬼がいるのです」
にい、と笑った。
「
甚夜の正体を知らぬ直次にこれ以上の話を聞かせる訳にもいかない。ちょうど昼時も過ぎたところだ、申し訳ないが彼には店を出て貰った。
気遣ってか、おふうと店主も店の奥で待機してくれている。店内で甚夜は泰秀と対峙する形になっていた。
「暗殺であろうと、襲撃であろうと、貴一は揺らがずあらゆる者を斬って捨てた。……しかし、此処に来てちと問題が出てきました。どうにも彼は開国派や異人以外にも手を出すようになってしまったのです。攘夷派の武士も通りすがりの浪人であっても、果ては女子供でさえ斬り殺す始末。詰まるところ、ただの人斬りと化してしまった」
泰秀は表情も変えず滔々と語り続ける。
まるで能面のようだ、その奥にある感情を読み取ることは出来ない。
「私としてもこれは捨て置けぬ。この身は武士の世の為に如何な犠牲も払い、神仏であろうと駆逐しましょう。しかし無軌道な惨殺は私の是とするところではない……とは言え、彼は最早私の言葉なぞ利かぬでしょう。だからと言って力付くで止めるような腕もない。そこで貴方を思い出したのです」
其処で一度言葉を区切り、試すような視線を甚夜へと送る。
「私の為に刀を振るえとは言いません。ただ、これ以上被害が出る前に止めたい。貴方の力、この一度だけお貸し願えぬでしょうか」
ただの浪人に対し、真摯に頭を下げる。
態度は誠実、だがこの男はどうにも胡散臭かった。
如何な手段を用いたとしても己が在り方を抜こうとする。正直に言えば、彼の在り方は決して嫌いではない。
ただ同時に相容れぬとも思う。生き方を貫こうとする姿勢は甚夜と同じだが、泰秀はいとも容易く何も知らぬ者を利用する。
彼の在り方は嫌いではないが、その遣り様はいけ好かない。甚夜の泰秀に対する評価は複雑なものだった。
「分からんな」
「貴一の狙いが、ですか?」
「お前の狙いが、だ。何故その話を私に?」
この男は攘夷の為に鬼を配下としており、それなりに力を持った手駒がある。態々金を払ってまでこちらに頼む必要はない。
ならば裏はあって然るべき、疑うのは当然だ。
「土浦、だったか。あの男にでも命じればいいだろう」
「確かに土浦は信の置ける男。ですが、今回ばかりは……。なにせ、仮にも貴一は同胞。身内に討たせる訳にもいかぬでしょう」
悠々とした彼の態度に、疑念は更に深まる。
普通に考えれば逆。身内が凶行に走ったならば、情報は外に出さず内々で終わらせるべきだ。態々自分達は一枚岩でないと喧伝する馬鹿が何処にいる。
道理の通らぬ物言いに自然目付きは鋭くなるも、泰秀には動揺など欠片も見えない。
「相も変わらず胡散臭い男だ」
「中々に辛辣ですな。で、いかがでしょう。この依頼受けてくださいますか?」
即答は出来なかった。
無軌道な惨殺を繰り返す人斬り。
確かに放っておけるような存在ではなく、しかし甚夜は人道の為に刀を振るっている訳ではない。
なにより過った戸惑いが、答えを躊躇わせた。
「一つ聞こう。その人斬りは鬼か」
「ええ。もっとも下位の鬼、人と膂力は変わらず<力>も得てはおりません。ただしその剣技のみで高位の鬼に匹敵する使い手。一筋縄ではいかぬでしょうな」
人に仇なす怪異であれば、甚夜の範疇ではある。だが<力>を持たぬのであればやり合う旨味はない。
そして何より畠山泰秀自身が信用ならない。
果たして受けてもいいものか。
逡巡を繰り返せど答えは出ず、沈黙を守ったままの甚夜に泰秀は声を掛ける。
「すぐに答えは出せませんか。ならばこうしましょう。三日後の夜……そうですな、江戸橋に貴一を呼び寄せます。斬りがいのある相手がいる。そう言えばまず間違いなく彼は来る」
語り口に淀みはない。おそらくは端から用意してあった提案なのだろう。
見透かすような視線、浮かぶ緩やかな笑みはどこか楽しそうにも感じられる。
「もし貴方が受けてくださるならば江戸橋へ。そのつもりが無いならば無視してくださって結構、貴一のことは土浦に任せましょう。では、私はこれで」
言うだけ言って立ち上がり、振り返ることもせず玄関へと向かう。
離れていく背中は、然程体格の良くない小男だというのに、やけに力強い。
「畠山泰秀。お前は、何を考えている」
突き付けた問い、返す答えは悠然と。
「無論、この国の……そして武士の行く末を」
それだけ残し、今度こそ去っていく。
堂々とした歩みに揺らぎはない。痛々しいほど不器用な彼の在り方が、そこに滲んでいた。