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『天邪鬼の理』・3(了)


「……こうして、正体がばれてしまった天邪鬼は、森の中に逃げていったとさ。はい、おしまい」


 茶屋で雑談を交わしている途中、先程貸本屋で見ていた書物に話題が移った。

 ぱらぱらとだが夕凪は目を通していたらしく、それに記されていた『天邪鬼と瓜子姫』という話を語ってくれた。

 と言っても、甚夜自身も知っている話である。

 天邪鬼の話は割合有名な怪異譚だ。この天邪鬼と瓜子姫の物語には様々な形があるのだが、甚夜が知っているものも夕凪のそれとほぼ同じ内容だ。


「面白い話だろ?」

「そうか? よくある怪談だろう」

「駄目駄目、あなたは説話の楽しみ方を分かっちゃいない。こういうのはね、奥の奥まで考えるのが面白いんだ。例えば……なんで、天邪鬼は瓜子姫を殺したんだと思う?」


 瓜から生まれた娘が鬼に殺される。

 桃太郎やかぐや姫に代表される異常生誕、鬼の犠牲になる力なき民。物語の命題としては然程珍しくはない。

 だから話はそこで終わり。何故、なんて考えたこともなかった。


「何故?」

「そう。答えなんかないんだから考えてみなよ」

「……む。瓜子姫憎し、ではないだろうが」


 誰かを殺す理由。一番に出てきたのは、やはり憎悪。

 我ながら想像力のないことだ。夕凪も安直な発想を笑っている。


「いやいや、それもありじゃないか? 実は裏で二人には確執があった、なんてのは意外といいかもしれないね」

「そういうお前はどう考える?」

「私は、そうだね」


 逆に問いかければ、夕凪は俯いて微かに唸る。

 しばらく考え込んで、何やら思い付いたのか、にやりと悪戯っぽく口の端を釣り上げた。


「この話に出てくる鬼はさ、瓜子姫をお爺さんとお婆さんに食わせちまうだろう? だったらそいつは瓜子姫を“食おう”と考えてた訳じゃない。天邪鬼は瓜子姫を殺して“入れ替わる”ことの方が目的だったんだ」

「ふむ、つまり」

「簡単だよ、天邪鬼は“自分が嫁入りしよう”と思ったのさ。多分こいつ女だね。実は長者が瓜子姫を嫁にっていう話を最初から知ってた。だから玉の輿に乗りそうな瓜子姫に嫉妬して、入れ替わろうと考えたんだよ」


 なんとも俗っぽい鬼である。

 それに面白いかと言えば微妙だ。物語の裏など読者には分からない。所詮は想像、どこまでいっても益体のない雑談に過ぎなかった。


「ありゃ、納得いかないかい? 私は結構、的を射てると思ったんだけど」

「ああ、いや。確かに、あり、かもしれない」

「だろう?」


 本人も単なる冗談のつもりだったのか、ぎこちない返答にも然程気分を害した様子はなかった。

 会話が途切れると、自然に夕凪の目は腕の中の赤子へ向かう。嫌いといいながらも見つめる目は優しく、やはり彼女は母なのだと思える。


「……天邪鬼、だな」


 ぽつりと呟けば不思議そうに夕凪がこちらを見る。そして思い出したように「私は子供が嫌いなんだ」と付け加えた。

 そういうところが天邪鬼だと言っているのだ。甚夜は落すように笑い、湯呑に残った煎茶を飲み干す。それを見て夕凪はふうと一息吐くとゆっくり腰を上げる。


「そろそろ行こうか?」

「そうだな」


 二人は茶屋を後にした。日が落ちるまではまだ時間がある。もう少し町を巡ろうか。

そんなことを考えながら、ふと昔を思い出す。そう言えば以前もこうやって何をするでもなくただ二人歩いたことがあった。

 胸をよぎる懐かしさ。

 陽だまりのような暖かさ。

 心地よいと思う。しかし違和感は拭えず、隣で歩く妻に目を向けた。

 そこにはやはり悪戯っぽく笑う女がいる。


「あ、可愛いね、これ」


 途中で寄った商家は簪や小物を取り扱っており、店先には様々な商品が陳列されていた。

 夕凪は赤子を甚夜に預け、根付を一つ手に取ってしげしげと眺めている。


「福良雀か」


 彼女が手にしたのはでっぷりと肥えた雀の根付だ。

 確かに愛嬌のある造形をしているが、可愛いとは思えなかった。作品の出来がどうこうではなく、甚夜にとって福良雀はどこぞの男が扱う武器のようなものだからだ。


「知ってるかい? 雀はね、蛤になるんだよ」

「何だそれは」

「まあ嘘だけど」


 前言を簡単に翻しておきながら、夕凪は楽しそうに笑う。

 その様に呆れ思わずため息を零す。


「お前は……」

「そんな顔することないじゃないか」


 何気ない遣り取り、苛立ちはない。

 寧ろ幸せと感じ、なのにどうしても違うと思ってしまう。

 湧き上がる疑念。そこまで考えて甚夜は首を振った。

 いや、疑念など既にない。本当は理由などもう分かっているのだ。こんなにも幸せなのに、寂しいと思ってしまう。その理由を、理解してしまった。


 だから、空を見上げた。

 夕暮れが近付いている。そろそろ今日は終わろうとしていた。




 ◆




 大通りを二人並んで歩く。妻の腕の中ですやすやと眠る娘。ありきたりな家族の肖像。

 だがそれも悪くないと思えた。当てもなく歩くだけで心安らかになれるのならば、確かにこの景色は幸福と呼べるのだろう。


 通りに在る店を冷やかし、妻にからかわれ苦笑し、娘の眠る姿に安堵を覚え。

 そこに在るのは当たり前の幸せの形。既に甚夜の歳は四十一。

 もしも真っ当に年老いていくことが出来たならば、或いはこんな風に過ごす未来もあったのかもしれない。

 結局、そんな生き方は出来なかったが、遠い昔憧れたこともあった。

 去来するのは懐かしい記憶。今も尚忘れ得ぬ原初の想い。

 見上げた先、溶けるように日は落ちて、辺りは橙色に染まっていた。

 一面の空。澄み渡り、雲一つない。風のない夕暮れの景色。遠くを見通せば夏の色。透き通るように穏やかな空では、美しい夕日が滲んでいた。

 けれど夕暮れの色は何処か曖昧で、綺麗だと思うのに少しだけ不安になる。

 もうしばらくすれば空で揺らめき滲む夕日は完全に落ちて夜が訪れる。それを知っているから、夕暮れは寂しく見えるのだろう。


「夕凪だね」


 空を眺めながら、夕凪は目を細めた。

 その言葉の意味を理解できず、不意に彼女を見やればくすくすと笑う。


「海辺ではね、天気のいい昼には海風が、夜には陸風が吹く。だから海風が陸風へ切り替わる時の、ほんの少しの時間だけ風が止んで、海は波のない穏やかな顔になるの」


 夕凪が浮かべたのは今まで見せてきた悪戯っぽい笑みではなく、何処か柔らかな、母性を感じさせる微笑だった。


「それが夕凪。あ、これは嘘じゃないよ」


 紡ぐ言葉は唄うように。

 心地好く染み渡る声を聴きながら、甚夜もまた空を眺めた。


「この空を見たら思い出したんだ。夕凪の海は鏡みたいに澄み渡って、本当に綺麗なんだ。いつかまた見たいなぁ……出来ればあなたと一緒に」


 風がなく雲の流れない夕暮れの空に夕凪を重ねたのだろう。

 妻の瞳は柔らかく、昔を懐かしむように潤んでいた。


「泣いているのか」

「夕日が目に染みただけ」


 また嘘だ。

 だが態々問い質したりはしない。そんなくだらないことでこの穏やかさが消えるのは勿体無い。もう少しだけ、夕凪の時間に浸っていたかった。


「夕凪の空、か。なら夕暮れはお前の時間だな」

「なんだい、それ。意外に恥ずかしいことを言うね」


 苦笑が漏れた。

 我ながら似合わないことを言ってしまった。お互い笑いを噛み殺しながら歩けば、しばらくして玉川の河川敷に辿り着く。

 周りを見回しても人はいない。そこには静かに流れる川の音と、夕日にあたり朱に染まる小さな花があった。


「へぇ、綺麗だね……」


 薄紅、白、黄。一株ごとに色違いの花をつけたそれは、風のない夕暮れに穏やかな風情を添えている。

 郷愁に似た暖かさを覚え、二人は花が群生する土手に足を踏み入れた。


「白粉花だな。夕化粧ゆうげしょう野茉莉のまつりという別名もある。夏から秋にかけて咲く花だ」

「おしろいばな……? 黄色や赤もあるけど?」

「この花の種子の皮の中には白い粉が入っている。それを使って子供が化粧遊びをしたことから『白粉花』と呼ばれるようになったそうだ。そして白粉花は、何故か夕方から花を咲かせ始める」

「随分詳しいじゃないか」

「受け売りだ」


 誰からの、かは言わない。流石にここで他の女の名前を出すほど無粋ではない。

 妻も追及はせず、夕暮れに揺れる花を見渡す。

 甚夜はそれを綺麗だと思った。目を奪われたのはオシロイバナか、それとも彼女だったのかは、考えないようにした。


「でも不思議な花だね。夕方から咲き始めるなんて」

「ああ。何故かはよく分かっていないらしい」

「案外、目立ちたがり屋だったり」

「そう、かもな」


 冗談のような言葉を交わし合う間にも、ゆっくりと日は沈んでいく。

 この穏やかな夕暮れも終わりが見えた。

 だから、そろそろ、ちゃんと終わらせないと。


「夕凪、今日は楽しかった」


 話の流れを無視して甚夜はそう言った。

 少しの名残惜しさはあって、けれどもうすぐ夜が訪れる。ならばいい頃合いだ。


「なんだい急に」

「いや、素直な気持ちだ」

「そんな仏頂面で言われてもねぇ」

「それは許せ。だが嘘はついていない」


 そうだ。嘘ではない。

 今日は楽しかった。胸に宿る違和感は最後まで拭い去れなかったが、それでも間違いなく楽しかったと言える。

 妻と娘。家族と一緒に江戸の町を冷かして、穏やかな夕暮れを見詰めながら家路を辿る。

 そんな平凡な一日。それが甚夜にはどうしようもないくらい幸せだと思えた。


「昔、な。こんな景色を夢見ていた頃があった。惚れた女と夫婦になって緩やかに年老いていく。そうあれたら、どれだけ幸せだろうと。そんなふうに考えた」


 結局、生き方を変えることは出来なかったが。

 突然の独白。しかし夕凪は何も言わずただ耳を傾けてくれた。


「……なあ、私の名前を呼んでくれないか?」


 夕凪に穏やかな口調で語りかける。思えば彼女は今日一日甚夜を『あなた』と呼んでいた。

 だが知らなくてはならない。彼女が、己をなんと呼ぶのかを。

 一瞬の空白。

 横たわる沈黙。

 耐えかねたのか、おずおずと夕凪が口を開いた。


「……甚太。これでいいのかい」


 ほんの少し、眉を顰める。

 しかし急に話題を変えても夕凪はちゃんと返してくれた。

 その答えに、胸が締め付けられる。表情にこそ出さないが、何気なく彼女が口にした名は、想像以上に甚夜を打ちのめした。

 そんな彼を、夕凪もまた無表情に見詰めている。

 いや違う。ただ取り繕っているだけで、その視線は気遣わしげだ。

 だからこそ思う。いつまでもこんなことを続けていてはならない。

 彼女は妻だと名乗った。

 腕の中にいるのは娘だと言った。

 それならば、夫として、父として恥ずかしい姿を見せることは出来ない。


「そうか、ありがとう」


 ちっぽけな意地を今ここで絞り出せたことが少しだけ嬉しい。

 短い時間だったが、それは彼女達の夫に父に成れた証だと感じられたから。

 頑固で不器用な己の在り方を、傍目には愚かにさえ見えるだろうこのちっぽけ意地を誇らしいと思えた。


「本当は、後悔していた」


 夕日が落ちるまであと僅か。

 明確な終わりを前にして甚夜は淡々と語り始めた。


「もしも私がもっと上手くやれていれば、白雪が死ぬことはなかった。そうすれば子を為し、穏やかに年老いていく未来もあったかもしれない」


 思い出す、別れ。

 目の前で心臓に刃を突き立てられた少女。

 ただ一緒にいたかった。それだけを願っていた……それで、よかった。

 たとえ男女として結ばれることがないとしても。

 巫女守として、白雪であることを捨てた白夜の決意を守りたかった。

 どんな形であれ、彼女と共に在ることが出来たなら、甚太もまたそれだけで幸せだった。


「けれどそれは叶わなかった。私は足が遅いらしい。どんなに走っても、間に合わないことの方が多くてな」


 白雪の時だけじゃない。

 いつか見捨ててしまった父を、もしかしたら妹になったかもしれない娘も、守りたかった。

 なのに間に合わなくて。

 父をこの手で殺し、妹に憎まれて。

 守りたかったものを自分自身で踏み躙ってしまった。


「だから、白雪のこと。父のこと、奈津のことも。やり様によっては別の結末があったんじゃないか……本当は、ずっと後悔していたんだ」


 後悔して、忘れられなくて。

 胸の奥に突き刺さった欠片は、ふと過る痛いは今もそのままで、

 あの時こうしていればなんて情けないことを、時折考える。

 きっとこの景色は、そういうものだ。


「これは、お前の<力>なのか。それとも私の……“俺”の未練だったのかな」


 白雪は死んでしまった。

 奈津は化け物である彼を憎んだ。

 もう二度と会うことは出来ない。

 だから、此処にいるのは白雪ではなく、奈津ではなく、夕凪なのだろう。


「分かってた。嘘を吐いていたのはお前じゃない」


 夕凪は甚太と呼んだ。

 だがそんなことは在り得ない。たとえこの不可解な現状が鬼の<力>によって生み出されたものだとしても。

 甚太という名前を、夕凪が知っている筈はない。 

 それは、つまり。

 此処に到り、ようやく答えに辿り着く。 






「……嘘だよ、これは」






 天邪鬼は、私だ。






「あなた……」

「そもそも、お前が此処にいる訳はない。当たり前のことだ」


 だって夕凪は。

 その名を持つ鬼は。


「お前は、私が」


 振り抜いた刀。飛来する刃は確かに彼女を切り裂いた。

 そうだ。

 何故忘れていたのか。

 夕凪は、私が、この手で────


「いいえ」


 ゆっくりと首を横に振って、彼女が言葉を遮った。

 慚悔を覚えながらも夕凪に視線を向ければ、そこには慈しむような微笑みがある。


「それはあなたの勘違い」

「だが……」

「だって本当は、“私”なんて何処にもいないんだから」


 彼女が何を言っているのか、意味が分からない。


「言っただろう、嘘だよ。全部私の嘘。あなたの妻だってことも、思い出も、今ここにいる私だって嘘なんだ。あなたは“私”を殺してなんかいない。だからあなたが気にすることなんてない何もないんだ」

「お前は、何を」

「でもよかった。来てくれたのがあなたみたいな人で」


 言いながら彼女は腕の中にいる娘を甚夜に手渡した。されるがままに受け取り、一度赤子に視線を向ける。

 安らかに眠る娘。もう一度顔を上げ夕凪を見れば、彼女は慈愛に満ちた、子供の成長を喜ぶような母親らしい顔をしていた。


「私は子供が、嫌いなんだ。だから後は任せるね」


 何を言っている、そう問いたかった。

 聞けなかった。夕凪の空の下笑う彼女はあまりにも優美で、何を言ってもその美しさを汚すだけのような気がして。言葉を発することが出来なかった。

 そんな甚夜を見て、夕凪はやれやれと溜息を吐いた。

 暖かさを含んだ仕草は、本当に、妻が夫へ向けるような。そういう柔らかな感触をしていた。

 けれど優しい分だけ頼りなくて、彼女の微笑みはするりと手から逃げていく。


「大丈夫。あなたになら、この娘を託せる」


 そして最後に、あまりにも穏やかな笑顔と。




「じゃあね、また逢いましょう」




 一つの、優しい嘘を遺して。

 夕凪の空は夜に消えた。






 ◆






 ほぎゃあ、ほぎゃあ。


 赤子の泣き声が遠くから聞こえてきた。

 それが呼び水となって、急速に意識が覚醒する。

 甚夜は薄暗い寺の本堂にいた。瑞穂寺。かつて人を喰う鬼が確かに存在した場所だった。


 気付けばいつの間にか甚夜は鬼の姿になっていた。

 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。

 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。

 白目まで赤く染まった異形の右目。顔は右目の周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立つ。

 もう一つ、変化がある。

 不意に触れた髪は、宵闇で尚も輝く銀色になっていた。

 心を静め鬼から人へ戻る。目を瞑り、思考に没頭していけば、先程喰らった鬼の記憶に触れることが出来た。


「<空言>。幻影を創り出し他者を騙す……。ただし作り出せる幻影は記憶に依存し、使用者が知らないものを創り出すことは出来ない」


 それがあの鬼の───夕凪の、行使した<力>。

 あの白銀の狐や火球は、夕凪の記憶をもって創り上げた幻影。それを甚夜は、幻影と気付かぬままに夕凪を斬り伏せた。

 そして夕凪の<力>を<同化>によって取り込んだ。

 この時点で<空言>の使用者は甚夜に移る。

<空言>で生み出せる幻影は使用者の記憶に依存する。

 使用者が甚夜であったなら、当然先程まで見ていた幻影は、甚夜の記憶に依存し創り上げたものとなる。

<力>を使う<鬼>がいた以上確かに夕凪は存在していた。

 しかし妻であった夕凪は甚夜の記憶を以って作られた幻影でしかない。あの夕凪は白雪や奈津といった関わりの深かった娘の記憶を統合して造り上げられた、先程討った鬼とは何ら関係のない存在なのだ。



『本当は、“私”なんて何処にもいないんだから』



 夕凪の持つ<力>。

 幻影を創り出すそれは、真実を隠す<力>、とでも言うべきか。

 いや、違う。 

 結局、彼女の<力>の本質は『嘘を吐く』ことなのだろう。


「私は、騙された訳だ」


 今回、谷中の寺町で起こった怪異。

 随分前に住職が亡くなり、荒れ放題のまま放置された寺、瑞穂寺に鬼が住み着いたという話を聞き甚夜は此処に訪れた。

 曰く、この寺には鬼が住み着いた。

 実際に誰かが攫われたという話はなく、しかし鬼の目撃談自体は多い。

見たものは口を揃えて「あの鬼は人を喰う」と語り、不安に身を震わせているという。

 流れた噂から寺町の住職は甚夜に鬼の討伐を依頼した。

 だが、夕凪の<力>は幻影を生み出す。

 見回しても、辺りに死骸は見当たらない。本堂に入った時も感じたが、血の匂いなど少しもしない。

 つまり人を喰う鬼という話自体が、<空言>によって生み出された騙りなのだ。


『でもよかった。来てくれたのがあなたみたいな人で』


 おそらく夕凪は<力>を使ってこの場所に人を呼び寄せたかった。

 鬼の噂を聞きながらも乗り込むような、屈強な誰かに会いたかった。

鬼は嘘を吐かない。

 その理を曲げてまで彼女が為したかったこと。

 それは、多分。



 ほぎゃあ、ほぎゃあ。



 本堂に響く赤ん坊の声。

 ゆっくりと本堂の奥に安置されている仏像に近付く。目を凝らせば、荷葉座に隠されるような形で、布にくるまれた何かがあった。

 いや、いたと言うべきだろう。


『だって、この娘は元々捨て子なんだから』


 其処には赤子が捨てられていた。

 朽ち果てた寺、こんなところに捨てれば誰に拾われることもなく餓死するのが落ちだろう。

 もし甚夜が気付かなければ、この子はあと数日もすれば死に絶えていた筈だ。


『私は子供が……この子が嫌いなんだよ』


 遠く、声が聞こえる。

 その言葉に思わず笑みが零れた。


「成程、大した天邪鬼だ」


 ようやく繋がった。

 夕凪はこの娘が捨てられているのだと誰かに伝えたかった。人を喰う鬼という話はその為に彼女が吐いた盛大な嘘なのだ。

 天邪鬼は瓜子姫の皮を被ったというが、どうやら夕凪にとっては天邪鬼の方が皮だったらしい。その想像に普段の鉄面皮を崩して甚夜は笑い続けた。

 本当は、“私”なんて何処にもいない。夕凪はそう言った。だがそれは間違いだと思う。だから甚夜は誰に聞かせるでもなく呟いた。


「そんなことはない。あの時のお前は確かにいた。……ちゃんと、この娘の母親だったよ」


 言いながら捨てられた赤子を抱き上げる。

 鬼の理を曲げてまで守りたかった子供。

 真実を欺く<力>を行使して尚、隠しきれなかった愛情。

 この赤子と夕凪には、血の繋がりなどないのだろう。

 けれど人を呼び寄せ、託せる誰かを探していた。

 どのような経緯で生まれた鬼なのかは分からない。けれど夕凪は確かに母だった。

 それが、どうしようもなく嬉しい。


「そう言えば、名前を頼まれていたな」


 腕の中にいる赤子を見詰める。どんな名前がいいだろう。

 できれば母に因んでやりたいのだが。

 そう考え、ふと思い付いた名を口にしてみる。


「夕凪に咲く花……野茉莉のまりというのはどうだ」


 その響きが気に入ったのか。

 まだ小さな瞳は潤んでいるが、それでも娘は───野茉莉は笑ってくれた。


「いつか大きくなった時、お前の母の話を聞かせよう」


 理を曲げてまでお前を守ろうとした鬼。

 嘘吐きな彼女の精一杯の愛情を、いつか語って聞かせよう。

 その時、野茉莉は一体どんな表情をするのだろうか。

 それを想像しながら、甚夜は静かに笑みを落とした。




 ◆




「おや、旦那。らっしゃい」


 いつも通りの夜が明けた。

 鬼を退治した翌日、いつものように甚夜が喜兵衛を訪れると、やはりいつもの通り見知った顔があった。


「どうも、甚殿……っ!?」


 軽く頭を下げて挨拶、しようと思ったらしいが直次の動きは途中で止まる。

 その視線は甚夜の腕に抱かれている、可愛らしい赤子に向けられていた。


「じ、甚夜、君? その子は……?」

「ん、ああ」


 おふうもまた驚愕に目を見開いている。

 さて、どう返そうか。

 普通に拾った、と言う?

 いや、犬猫ではあるまいにそれでは軽すぎる。だが夕凪の話はあまりしたくない。

 どうしようかと考えていると、


『本当に、どうしたの? あなたの娘でしょう』


 不意に、彼女がいつか口にした言葉を思い出した。

 店内を見回す。当然そこに夕凪の姿はない。しかしあの悪戯っぽい笑みが背中を押してくれたように感じられて、甚夜は覚悟を決めた。

 そうだ。

 私は彼女からこの娘を任されたのだ。

 ならば『その娘は何者だ』と問われれば、返す答えなど初めから一つしかない。



『大丈夫。あなたになら、この娘を託せる』



 遠く、誰かの声が聞こえた。

 だからほんの少しだけ穏やかに笑える。

 甚夜は普段の彼からは考えられない程に晴れやかな表情を浮かべた。

 そして、はっきりと誇らしげに、その言葉を口にする。


「私の、娘だ」


 それでいいのだろう、夕凪?





『天邪鬼の理』・了



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