『残雪酔夢』・7(了)
強くなりたかった。
そうすれば全てを守れると思っていた。
◆
「あ、あ……」
掠れた声は、何を見てのものだろう。
背後にいる奈津の表情を知ることは出来ない。しかしその声から怯えているのだと分かる。
分かっていて尚、甚夜は鬼と化した。
眼前の鬼は奈津に手をかけようとした。彼女が殺されるのを黙って見ているなど出来はしなかったし、例え自我を失っていたとしても、あの人に娘を殺させるような真似はさせたくなかった。
だからこの姿になることを選んだ。
なんという余分。己が生き方からはみ出た、感傷の為の戦い。
そこに価値はなく、だというのに逃げる気には到底なれなかった。
「皮肉なものだ」
甚夜は相対する鬼の、左右非対称の姿をまじまじと見る。
その歪さは左腕だけが肥大化した彼自身とよく似ている。親子で同じような形の鬼になるとは、本当に皮肉な話だ。
思えば父の人生は鬼に奪われてばかりだった。
妻を鬼に犯され、生まれた鬼女に命を奪われた。
息子は鬼女の手を取って出て行った。
鬼へと堕ち、自分自身を失くし。
今、鬼に命を奪われようとしている。
「だが、お前は、ここで殺す」
奈津には手を出させないと、この場で殺すと決めた。
ならばそれを曲げることは出来ない。左腕に力を籠め、もう一度、自身の退路を断つように宣言する。
口にしなければ揺らいでしまいそうな決意。
軟弱な心をひた隠すように構えを取る。刀を持った右腕はだらりと放り出し、左半身ではあるが、ごく自然な立ち姿である。
普段は好んで脇構えを取るが、鬼と化せば左腕は刀を超える武器となる。ならばこそ両手を使える構えの方が有利。
それが隙だらけに見えたのだろう。鬼は憎悪を孕んだ目で甚夜を睨め付け、隠しようもない殺意を放ちながら無警戒に突進してくる。
しかし遅い。動きがよく見える。
最早躊躇いはない。
まるで落ちている小石を拾うように無造作な動きで、間合いに入った鬼の頭を鷲掴み。
「がぁっ!」
全力で床へ叩き付ける。
畳が拉げ鬼の頭部はめり込むが、床の方が弱かった。簡単に突き抜けてしまい、鬼の頭蓋はまだ潰れていない。
そのまま鬼を高々と掲げ、勢いをつけて放り投げる。部屋の壁を突き破り、庭へと飛んでいく。
すぐさま体を起こすが、力量差を感じているのだろう。憎悪の目で睨みつけるもその場で動けずにいる。
所詮は下位の鬼、食うにも値せぬ。
甚振るのも性に合わない。早々に終わらせるとしよう。
「……<剛力>」
ぼこぼこと煮えたぎる湯のような音を発しながら左腕が隆起する。
骨格すら変容し、一回り大きくなったところで変化は止まった。
「せめてもの手向けだ。一瞬で終わらせよう」
救いはない。ならばせめて早々に蹴りを付ける。
あなたが、苦しいと思う暇などないくらいに一瞬で。
『じ、たぁ』
動じるな。あれはただの呻き声だ。
一つ呼吸をして、ゆっくりと庭へと足を踏み入れる。
一歩。
そう言えば昔、この庭でよく遊んだ。
二歩。
父親は忙しいながらもよく付き合ってくれた。鈴音と一緒に走り回ったこともあった。
三歩。
奈津と並んで縁側に座り、握り飯を食った。不器用な優しさが微笑ましくて、ただの握り飯がやけに旨く感じられた。
四歩。
その全てをぶち壊す。
他ならぬ己自身の手で。
後悔しないかと問われれば、答えに窮する。だがそう決めた以上、意思を曲げることも出来ない。
五歩、六歩と距離を詰める。
がくがくと膝を震わせる鬼。
逃げることなど出来ない。分かっているからだろう。最後の足掻き、力の入らない体で懸命に襲い掛かる。
『じん、たぁっ……!』
駈け出す。しかし無防備だ。
心が冷えていく。その分動きがよく見える。
ゆっくりと左腕を後ろに退き、背筋に力を溜め込む。
鬼は真っ直ぐにこちらへ向かっている。
そして間合いを侵した瞬間、
「さようなら、父上」
踏み込みと同時に振るわれる剛腕。
限界まで逸らされた背筋、その瞬発力を持って放たれた拳は鬼に突き刺さり、上半身が爆ぜたように弾け飛んだ。
拳に伝わる生暖かさが鬼の死を実感させる。倒れ込んだ鬼から白い蒸気が立ち昇っている。そこに在るのはただの肉塊。元がどんな姿をしていたかなど分からない程に無惨な死骸だった。
もう父の面影など何処にも見出せない。
そうしたのはほかならぬ己だというのに、その事実に胸が締め付けられる。
後悔はしない、してはいけない。
ただ自身が踏み躙った命だ。これから背負っていかなくてはならない。
一度息を吐き、ゆっくりと冬の空気を吸い込む。少しでも平静な表情を作り、重蔵の死骸に背を向ける。
「奈津……?」
すると奈津もまた庭へと出て来ていた。
まだ体は震えており、俯いて立ち尽くしている。父に殺されようとしたのだ。それも仕方あるまい。
「大丈夫だ、終わった」
だから少しでも安心させようと、彼女の元へ歩きながら穏やかに語り掛ける。
「ちか、よるな」
しかし絞り出したようなかすれた言葉に足が止まった。
体の震えが更に大きくなる。いったい、なにが。思うよりも早く奈津が顔を上げる。
そこでようやく彼女の感情を理解した。
その表情からは恐怖など微塵も感じることは出来なかった。
代わりにあったのは、慣れ親しんだ感情。
「近寄らないで化け物ぉ!!」
明確な憎悪を持って吐き出されたそれに、甚夜は完全に固まった。
───時々、忘れてしまう。
自分が鬼であるということを。
分かっているつもりだった。なのにその意味を忘れてしまう。
人の中にいるせいだろう。自分が鬼であっても、人に受け入れらているのだと、錯覚してしまう。
けれど本当は、自分は物語の中では討たれる側の存在で、彼女の態度は当たり前のことで。
なのに勘違いをしていた。
鬼でありながら人を娶った友人を知っている。
人と鬼でありながら親娘になれた家族を知っている。
鬼を討つ者でありながら鬼と語り合える男を知っている。
だからだろう。それを信じて疑わなかった。
けれど、そうではない。
どこまでいっても、人と鬼は相容れぬもの。
人は鬼を受け入れず、また鬼は人を容易く屠る。
例え言葉を交わすことが出来ても所詮は別種。
真の意味で鬼と人が共に在ることなど出来ない。
自分が知っているのはあくまでも例外でしかない。
鬼を受け入れられる人がいることと、自分が受け入れて貰えるかは、別の話。
それを、長い年月を人の中で過ごしたからといって、勘違いしていたのだ。
「お父様を、あんたは、お父様を……」
奈津は喜兵衛で“ゆきのなごり”を勧められた時断っていた。つまり彼女の憎しみは酒を呑んだが故のものではない。
憎悪は全て彼女から生まれたもの。
憎しみの籠った目に囚われる。
守ったつもりになっていた。しかし彼女にとって甚夜は、父を殺した化け物でしかない。そんなことにも頭が回らなかった。
それでおしまい。
結局は何一つ守れない。
愚かで滑稽な男が、またしても道化を演じた。
終幕は、いつも通りといえば、いつも通りだった。
◆
「お、甚夜?」
降り止まぬ雪の中走り続け、染吾郎が須賀屋に辿り着いた時、店の前に人影があった。
甚夜の着物は至る所が破れており、血だらけになっている。この男が此処まで苦戦する鬼がいたのか。流石に驚きを隠せなかった。
「随分な強敵やったみたいやね」
「ああ、正直死んでしまった方が楽になれると思ったほどだ」
「君にそこまで言わせるとか、尋常やないな」
かなり疲れているのだろう。血も多く失っているせいか顔色が悪い。
それだけではないようにも思えたが、所詮は一時的に手を組んだだけの相手。追及することはしなかった。
「そやけど、ここにいるってことはもう終わったんやろ?」
「……ああ、終わった。後は、大本を片付けるだけだ」
それきり会話は途絶えた。
降り止まぬ雪が江戸の町へ積もり積もる。
甚夜は灰色に染まる景色をぼんやりと眺める。
このまま自分も雪に染まってしまえればいいのに。
益体もない考えが浮かんでしまう程、彼は疲弊しきっていた。
◆
相模国に聳え立つ大山は、富士山に似た美しい山容をしており、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた。
大山の山頂には阿夫利神社本社、中腹には阿夫利神社下社。下社を更に下れば大山寺が建っている。
大山は別名を「雨降山」ともいい、古くより雨乞いの神の住まう山として農民からの信仰を集めていた。
「ちょ、ちょい待って。もうちょいゆっくり歩けへん?」
翌日も雪は降り続け、黄昏時ともなれば本当に暗い。
少し先も見通せない暗がりの山道を甚夜と染吾郎は歩いている。出来る限り早く酒の泉へと辿り着こうと無茶な行軍をしてきたが、ここに来て染吾郎が弱音を吐いた。
「急いだ方がいいと言ったのはお前だろう」
「そらそやけど。半日歩き詰めやで? 僕はふつーの人なんや。君と一緒にせんとって」
確かに人と鬼では体力には差があり過ぎる。
仕方ないと少し速度を落とす。曇り空は黒に染まろうとしている。目的の場所に辿り着く頃には、完全に夜となるだろう。
「もう夜になるな」
「まー、そこらへんは勘弁したって。それに怪異の大本に行くんや、夜の方が“らしい”やろ?」
軽口ではあるが事実でもある。
怪異がその姿を見せるのは夜。ならば彼の言う通り、案外ちょうどいいのかもしれない。
「ところで、聞きたいんやけど」
「なんだ」
荒い息をしながら、それでも喋ることを止めようとしない染吾郎に、甚夜は呆れて溜息を吐いた。
話せばそれだけ体力を消耗する。黙って進めばいいものを。
そう思いながらも耳を傾ける。染吾郎は歩きながらさらりと言った。
「君、“ゆきのなごり”がなんのなのか、見当ついとるんやろ?」
まるで茶飲み話でもするような気軽さで確信を突かれ、甚夜は何も返すことが出来なかった。
沈黙を答えにして、染吾郎は勝ち誇ったように口元を釣り上げた。
「やっぱな。なーんとなくそうやとは思っとったけどね」
今まで何も言わなかった甚夜に対して含むところはないらしく、態度自体は寛いだ様子だ。
気付かなければ、最後まで黙っていようと思っていた。
けれど「教えてくれるんやろな」と続けた彼の表情は真剣。誤魔化しは通用しないだろう。
小さく溜息を吐き、甚夜は覚悟を決めた。
「そもそも、酒はどうやって造る?」
「んん? そら蒸した米で麹つくって、水にぶち込むんやろ?」
「些か大雑把だがその通りだ。ならば“ゆきのなごり”も同じように造るのだろう」
ここから先はあくまでも仮説にすぎない。
その為過程には多少のずれがあるかもしれない。とはいえ、大きくは外れていないと思う。
特に『酒を造る原料』とそれを為した『元凶』。
少なくともこの二つだけは、間違いない。
「は? いやいや、あほなこと言わんといて。そんなんでどうやって酒の泉なんてつくんの? 泉に麹ぶち込んだからてどうにもならんやろ」
「ぶち込むのが麹でなければいい」
甚夜は平然と言ってのけるが、その荒唐無稽さに染吾郎はあんぐりと口を空けた。
実際どのような手段を用いれば酒の泉なんぞができるか、彼には想像もつかない。
ただ『人を鬼に変える酒』ならば、造り方は何となく分かる。
「混成酒というものがある。果実や香草、薬草の類を漬け込んで風味を加える酒だ」
「それって梅酒とかのことやろ? ……って、あー、そゆこと」
その物が内包する性質を酒に溶かすには、長い長い時間漬け込むのが最も手っ取り早い。
ならば人を鬼へと堕とす酒を造るにはどうすればいいか。
実に単純。そもそも『人を鬼に変えるなにか』を酒に溶かせばいいだけの話だ。
何を言いたいのか察し、染吾郎は苦々しく表情を歪める。
「つまるとこ、人が鬼へと変わる要因となる何かが漬け込まれとる、って訳や」
想いには力がある。それが昏ければ猶更だ。
憤怒、憎悪、嫉妬、執着、悲哀、飢餓。
深く沈み込む想いは淀み、凝り固まり、いずれ一つの形となる
「ああ。おそらく泉には、非業の死を遂げた骸が沈められている」
だからきっと、あの酒には誰かの心が溶け込んでいた。
呑めば呑むほど負の感情は内に溜まり、いずれその身を鬼へと変える。
つまり“ゆきのなごり”は、在り来たりな言い方をすれば、死者の無念で出来た酒なのだろう。
「お前が言った、物にも想いが宿ると。ならば骸に宿った想いが、水に溶け出すことだってあるだろう」
「なーる。んで、それをやったのが金髪の女?」
「おそらくは、な」
勿論、死体を沈めた程度で泉が酒に変わることはない。金髪の女が手を加えたから“ゆきのなごり”になった。
しかし根本的なところは間違っていない筈だ。
同時に、金髪の女がもしも甚夜の想像した通りの者ならば、泉に沈む躯の正体にも心当たりがある。
最初は憎しみで出来た酒だから、懐かしく感じたのだと思った。
けれど本当は、違ったのかもしれない。
「ほんでも、人を鬼に変える想いなんてぞっとせん話やなぁ。どんな恨み抱えて死んだんやろな」
軽い調子の染吾郎に、甚夜はいつも通りの、硬い鉄のような声で返す。
「そう言ってくれるな。結果として鬼を生む酒になったが、骸の意図ではない。ああ、いや。意図したのかもしれないが、悪意があった訳じゃないんだ」
「は?」
「この匂い。近いな」
まるで骸の内面まで知っているかのような言葉に染吾郎は疑問を感じたが、甚夜はそれを無視して山道の奥へ奥へと進んでいく。
木々をかき分けるように先へと踏み入れば、山の中腹に位置する、開けた場所へと辿り着く。
「これは……」
息を呑んだのは誰だったろう。
微かに漂う酒の香。
森の天井は大きく開けられて、灰色の雲からはちらりちらりと雪が降る。
不意に風が吹いて、ざあ、と森が揺れる。
朽ち果てた木々が浮かぶ透明な泉。
たゆたうように湖面を舞う光は蛍か、それとも鬼火か。
曇天に覆われ星すらない夜。
今も止むことのない雪とゆらり揺れる白光。
眼前に広がるのは、まるで彼岸に訪れてしまったかのような、あまりにも現実感のない優美な光景だった。
「こら、すごい……」
鬼を造る酒に満ちた泉は、そのおぞましさとは裏腹にあまりにも幻想的で、染吾郎はぽかんと口を開けて魅入っている
甚夜もまた見惚れていた。
美しく、見たことが無い筈なのに、どこか懐かしい。
広がる絶景が、仮説を確信に変えた。
「こんな景色を造れる想いが恨みやとは到底思えんなぁ」
「だから言っただろう」
応えた甚夜の声は、今まで聞いたことが無い程に穏やかだ。
奇妙に思った染吾郎はちらりと彼の表情を盗み見る。
横顔は噂に語られる『鬼を斬る夜叉』なのではない。
朴訥な、ただの青年のもののように思えた。
「鬼になる酒が生まれたのは、そういう形の方が目的を達しやすかったからなのか。それとも長い年月をかけて彼女の想いが変じてしまったのか。それは私にも分からん。だが少なくとも、悪意はなかった」
青年は泉の方へと向かって歩いていく。
染吾郎は止めなかった。その歩みが、そう在るべきと思えるほどに自然だったから、止めてはいけないと思った
「ただ彼女は見付けて欲しかっただけなんだ」
冬の泉だ、凍える程に冷たい。
しかし彼は足を止めない。ただ歩みを進め、酒の泉の中心へ。
腰まで酒に浸されているというのにその表情は穏やかだ。
体をかがめ、徐に手を伸ばし、泉の底で眠る骸をゆっくりと抱き上げる。
「憎しみを煽り、淀ませ、人を鬼へと変え……」
暖かさの感じられない躯。なのに彼の手付きはひどく優しい。
壊れてしまわぬようにそっと触れ、慈しむように柔らかく微笑みを落とす。
「……そうしていればいつか、鬼を討つ者が会いに来てくれると信じていた」
骸には、頭蓋骨がなかった。
ああ、だから。
“ゆきのなごり”を呑み鬼へと変じた者達は、甚夜を優先して襲った。
そこに揺らがぬ想いがあったから。
おそらく彼女は、見つけて欲しかった。止めて欲しかったのだろう。
遠い昔抱いた、綺麗だった筈の想い。
歳月を経て歪み、いつか鬼を生む酒へと変じてしまった心を、それでもいつかは止めてくれる者が現れると信じていた。
誰かが、ではない。
止めてくれのるが誰かなんて、疑う余地もないほどに。
彼女は信じていてくれた。
「お前は。こんなになっても、俺を求めてくれたんだなぁ……」
───当たり前だよ、甚太。
酒の香気に、麗らかな幻聴に酔う。
体に染み渡る酒。きっと、そこには溶けだした想いがあって。
だから憎しみを煽り、人を堕とす酒でありながら、甚夜には懐かしく感じられた。
───ごめんね、結局あなたを傷付けて。
「私は巫女守だ。いつきひめの為に剣を振るうのは当然だろう」
───……うん、ありがとう。
肉の削げ落ちた骸骨を見つめながら静かに笑う。いつかの少年が零したであろう朴訥な笑みだった。
それを受けて骸は砂になり、冬の風に吹かれ空へと流れる。
同時に酒の香気が薄れていく。
目的を達したからだろう。原因となった骸は天に還り、泉もまた自然のものへと戻ろうとしているのだ。
───それじゃあね、甚太。
「……ああ」
名残惜しいと思う。
幻聴であっても彼女の声が耳を擽ってくれた。骸だとしても彼女を抱きしめることが出来た。
その心地好さが失われる。どうしようもない現実が、冬の寒さ以上に心を凍てつかせる。
だが追い縋ることは出来ない。
彼女は既に過去だ。過去に手を伸ばしたところで得られるものなどある筈もなく、今を生きる以上立ち止まってはいられない。
いつだって二人はそうやって生きてきた。
そんな二人だから想い合うことが出来た。
ならば彼女が隣にいないとしても……生き方は曲げられない。
甚夜は万感の想いを込めて呟く。
「……おやすみ、白雪」
遠い夜空に言葉は溶けて、真っ白な雪がゆらりと揺れる。
それでおしまい。
腕の中にいた骸は空へと還り、酒の香気も消え失せた。
泉に取り残された甚夜は天を仰ぐ。
空は灰色の雲に覆われて、青白い月は姿を見せてくれない。
けれどいつかのように夜空を仰ぎながら、溶けていく雪の名残を見送った。
◆
一週間の後、甚夜と染吾郎は深川の茶屋にて顔を合わせた。
表の長椅子に並んで座りながら茶飲み話に興じている。
「あれ以来、鬼の噂も乱闘やらも治まっとる。取り敢えずこれで解決ってとこやな」
気楽な調子で団子を頬張りながら、染吾郎は朗らかに笑った。
江戸の町から“ゆきのなごり”は完全に姿を消した。大本が消えたせいなのか、既に売りに出された酒も水に戻ってしまった。
当然ながら買った者達は騙されたと怒り、今では“ゆきのなごり”を求める客は全くいない。
「にしては、まだ江戸の民は浮足立っているように見えるが」
「そら仕方ないやろ。世相ってヤツや」
あんぐりと口を開け、最後の団子を口に押し込む。
茶を啜り、一息ついた染吾郎は、馬鹿らしいとでも言いたげに肩を竦めた。
「近頃は幕府が外国にへーこらしとるもんやから、それが不安なんやろ。まあ鎖国なんていつまでも続けられるもんやないし、時代の流れなんやろぉな。なんにせよ“ゆきのなごり”は関係ないと思うで?」
夜鷹も浦賀に来航した黒船の話をしていた。
列強諸国の存在、弱腰な幕府の対応。
少しずつ徳川の治世は揺らぎ、今や日の本の国は混迷の時代へと差し掛かろうとしている。
魍魎共が蠢く江戸の現状は、渦巻く疑念と不安の表れ。
鬼の存在に関わらず、江戸の民は不安を抱えているのだろう。
「僕らにできるんは鬼を討つまで。時代の流れなんて、どうしようもないことやろ?」
「お前の言う通りだ」
分かっていても、それをどうにかするなど、どだい無理な話だ。
そもそも彼に出来ることなど刀を振るう程度。あれこれと手を出せる程強くはない。
それは染吾郎であっても同じ。個人の力など、より大きな流れの前では何の意味も持たない。口惜しいが、仕方のないことである。
「なんや、浮かん顔やね」
「まあ、な」
甚夜は茶を啜りながらも眉を顰めていた。
脳裏を過るのは大きな時代の流れではなく、小さな過去のこと。
今回酒の泉に使われていたのは体の方だった。しかし鈴音は葛野を出る際、白雪の首を持ち去った。
だとすれば、もう一度白雪の躯が何かに利用される可能性がある。
それを想像すると、事件が解決したとしても手放しで喜ぶ気にはなれない。
「金髪の女について考えていた」
「あー、そいつが今回の黒幕やしなぁ。またなんか企むかもしれん、ってこと?」
「ああ」
嘘は言ってない。
彼女を止める。それだけを考えて生きてきた。
最初から何も変わっていない。憎しみは、今も胸で燻っていた。
「ま、考えてもしゃーないやろ。っと、ごちそうさん。ここ勘定置いとくで」
因縁など何も知らぬ彼はさらりとそれを受け流す。
不穏当な気配は察していた。多分、気付かぬふりをしてくれたのだろう。
これ以上話すこともない。染吾郎は懐から銭を取り出し、椅子の端に置いて立ち上がった。
「ほんなら僕はもう行くわ。そろそろ帰らな弟子も心配するしな。ほなね、甚夜。もし京に寄ることあったら訪ねてな。秋津染吾郎って名前を出せばすぐに見つかるわ」
「ああ、機会があったらな」
「うん、ほなさいなら」
気安い挨拶を残して、軽い足取りで去っていく。
その背を眺めながら茶を一口啜る。茶はすっかり温くなってしまっていた。
「あら、甚夜君。ごぶさたですね」
昼時になり喜兵衛を訪れれば、おふうがたおやかな笑みで迎えてくれる。
いつもと変わらぬ彼女の柔らかさが、少しだけ心を落ち着けてくれた。
「お、らっしゃい、旦那。随分久しぶりですねぇ。こんなに来なかったのって初めてじゃないですかい?」
「ああ、最近は色々あってな」
説明するのも面倒くさい。
それだけ言って椅子に座れば、注文を受けずともかけ蕎麦を作り始める。
店長も決して平穏な人生を歩んできた訳ではない。黙すればそれ以上は聞いてこなかった。
「失礼します。おお、甚殿。お久しぶりです」
ちょうどその時暖簾が揺れる。
店に入って来たのは直次だ。甚夜を見た瞬間、頬を綻ばせながらも丁寧に頭を下げる。
「直次か」
「最近はあまり見かけませんでしたが、また厄介事でも?」
「そんなところだ」
久々に友人の顔を見られたからか、直次は普段よりも幾分か明るい。
当たり前のように甚夜と同じ卓へ腰を下ろし、自分の分の蕎麦を注文して直次は喋り始める。
「いや、最近は此処に誰も来ないものですから、少し寂しく思いました」
「誰も?」
「ええ、善二殿も奈津殿も全く来られず」
「その上旦那も来ないもんですから、閑古鳥が鳴いて鳴いて仕方がないですよ」
蕎麦を作りながらからからと笑う店主。
来たのは久しぶりだが、相変わらず客の入りは悪いらしい。
「ほんとお奈津ちゃんたちどうしたんでしょうね。おふう、お前なんか聞いてないか?」
「いいえ、特には」
親子二人で不思議そうな顔をしている。甚夜は何も言わなかった。言えなかった。
「っと、あいよ。かけ蕎麦二丁」
「はーい」
話しているうちに蕎麦が出来た。
運ばれてきた蕎麦は出来立て、湯気と共につゆの香りが漂っており、冬の気候も相まって実に旨そうだ。
「はい、おまたせしました」
「すみません。では早速」
直次も同じ感想だったのだろう。湯気の立ち昇る蕎麦に箸をつける。
「ふぅ。やはり寒い時は暖かい蕎麦が身に沁みますね」
満足そうに蕎麦を啜る直次。
自分もと甚夜も蕎麦を啜り、その味にぴくりと眉を動かした。
「……店主」
「どうしたんで?」
「少し、味が落ちたか?」
「へ?」
出汁が以前よりも薄くなったように感じられる。
思いがけない発言に店主は困惑している。上手い返しが出来ず、見かねた直次が助け舟を出す。
「いえ、そんなことはないと思いますが。寧ろ少しずつ味は良くなっていると思いますよ?」
「そう、か。ならば私の気のせいなのだろう」
そう言ってもう一度蕎麦を啜る。
甚夜の様子に三人は訳が分からないといった顔をしているが、当の本人は普通に蕎麦を食べ続けている。
久しぶりに訪れた喜兵衛での食事風景は些か珍妙なものとなった。
しかし、と甚夜は思う
蕎麦はやはり薄い。
毎日食べていた筈なのに、味気なく感じられる。
その理由は食べきった後も分からなかった。
鬼神幻燈抄 江戸編『残雪酔夢』・了