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『残雪酔夢』・6




 寒々とした蔵の中に獣の呻きが響く。

 眼前には七尺を超える鬼。急激な変化に肉体が付いていかないのか、腕や足の長さが左右で違う。

 辛うじて人型を保っているからこそ左右非対称の四肢は奇妙に映る。着物は肥大化した肉に耐え切れず破れ、その下から灰色の皮膚が覗いていた。


「……菊夫といったな、確か」


 かつてこの蔵で斬った鬼を思い出しながらぽつりと呟けば、鬼に突き付けた切っ先が僅かに揺れる。

 動揺の為か、怒りの為かは甚夜にもよく分からない。

 ただ声はいつも以上に硬く暗く、敵意に満ちていた。


 間違いない。水城屋の店主は“ゆきのなごり”を呑めば鬼になると初めから知っていた。

 しかし酒は泉から湧き上がったものを詰めただけだという。

 ならば、どうやって知り得たのか。酒を買った者がそうなったと聞いた?

 いや、まさか。この男が商売人ならば、得体の知れないものを行き成り売りつけるなどということはあるまい。

 だとすれば答えは決まっている。


「小僧に“ゆきのなごり”を呑ませたか」


 成程、「女に聞いたのはそれだけ」というのは確かだ。鬼になるというのは手ずから確かめたのだから。

 売りに出す前、“ゆきのなごり”がどういうものかを知るために、この男は店の小僧(従業員)に酒を呑ませたのだろう。

 その小僧の名前が菊夫。かつて蔵に住み着いた、童の鬼だ。


『ぉうジ…おォン』


 答えられる程の知能はない。聞き取りづらい呻きを発しながら鬼は蠢く。

 行き着く先を知りながら売った。その末路だ、哀れとも思わない。

 あれは斬り捨てるべきもの。早々に片付けねばならぬと、甚夜は過剰なまでに強く柄を握りしめる。 


『たぉハ、ゥヤぉくぁぉア!』


 咆哮と共に突進する鬼。

 駈け出した瞬間に蔵の地面が陥没するほどの踏み込みだ。

 七尺を超える巨体へと変容した鬼は、その体躯に見合わぬ速度で甚夜の間合いを侵す。それを可能とする規格外の筋力。ならば繰り出される拳もまた規格外の代物である。


 体勢は低く、鬼の脇をすり抜けるように前へ進み、立ち位置を入れ替える。

 そのまま鬼が振り返る前に斬り、いや、遅かった。振り返るよりも早く斬る筈が、鬼の目は既にこちらを捉えている。


 ぶぉん、と空気が唸る。


 拳と呼ぶのもおこがましい、ただ振り回すだけの攻撃。それすら致死の一撃へと変える鬼の膂力。

 しかし逃げることはしない、そんな暇はない。

 こいつをさっさと葬り、急いで須賀屋に向かわねばならないのだ。

 逃げずに一歩を踏み込む。腕を掻い潜りながら距離を潰し、逆袈裟に斬り上げる。

 確かな手応え。刃が肉に食い込み、鮮血が舞う。ただ血の量は少なかった

 浅かった訳ではない。単に鬼の皮膚が予想より硬かっただけ。傷は負わせたが相手の動きを止めるには至らなかった。


『みォぅぃツァァァ!』


 意味の分からない叫びと共に、上から下へと殴り付ける。

 時間が無い、多少の手傷は覚悟の上で迎撃する。

 迫る拳、避けきれない、関係あるか。右肘を突き出し半身になる。

 足の裏で地を噛むと同時に前傾、肘を起点に前腕を伸ばし、全身の連動で斬撃を繰り出す。


「がぁ……!」

『け、てぇコォあ』


 避けられなかった拳が左の胸に突き刺さり、甚夜の剣戟も鬼の皮膚を裂く。

 命を刈り取ることは出来なかったが、こちらの傷も浅い。取り敢えずは相打ちという所か。

 そう考えて、奇妙さに気付く。

 鬼の拳が直撃して、しかし大した傷はない。

 それがおかしい。あの豪腕だ、骨が折れて臓器が潰れても不思議ではない。

 なのにあるのは多少の痛みのみ。疑問に思えば、答えるように染吾郎が一歩前へ出た。


「君、攻め手が雑やな」


 右手には福良雀の根付が握られている。

 冬の雀は寒さから身を守るため体の毛を立てて羽毛の層を厚くし、空気を重ねて体温の低下を防ぐ。

 その外見はでっぷりと肥え太っているように見え、これを福良雀と呼ぶ。

 福良雀の羽毛は寒さから身を守る為。

 故に付喪神の力は、身を守る為のものとなる。

 つまり有する能力は防御力の向上。以前見せた染吾郎の人では考えられない耐久力も、福良雀の力だったのだろう。

 

「すまん、助かった」

「別にかめへんよ」


 一呼吸を置いて、再び空気が唸る。

 短い会話を断ち切るように鬼は甚夜へと拳を振るう。

 脇構え、微かに腰を落し、足の裏に力を込める。後ろには退かない、寧ろ前へと進みながら打点をずらし唐竹一閃。

 裂ける肉。まだだ、踏み込み左肩で鳩尾を狙い、全霊でぶち当たる。

 僅かに後退する鬼。好機、更に一歩を進み逆袈裟に斬り上げる。


「行きぃ、かみつばめ」


 夜の空気を裂く燕が一羽。甚夜の剣戟と合わせるように直進する燕は、鬼を斬り刻む程の力を秘めている。

 燕と刀、異なる刃が鬼を襲う。


『こぉぉニァッ!』


 咆哮と共に鬼はもがくように腕を振り回す。

 たったそれだけのことで燕も刀も容易く薙ぎ払われてしまう。

 刀を横から叩かれ僅かに流れた体勢。直さぬまま強く柄を握り、力任せに鬼の首を狙う。

 刺突が突き刺さるも貫くには足らない。硬いからではなく、体勢が崩れたまま突きを放ったためだ。力が乗り切っていなかった。


「……こいつ。生まれたての割に妙に強い。なんやおかしない?」


 鬼の反撃を避けつつ、軽い舌打ちと共に後ろへ大きく距離を取る。

 追撃はない。相も変わらず呻き声を上げる鬼。所詮は下位の鬼、なんの<力>も持ち合わせてはいない。

 ただこの鬼は膂力に優れ、動作も反応も速い。特別なところは何もないが、だからこその強さがある。確かに生まれたばかりの鬼にしては些か強すぎた。


「案外、端から仕組まれていた……いや、仕込まれていたのかもしれん」

「ん? それって」


 その理由を、何となくではあるが、甚夜は理解していた。

 だが説明する気はなかった。


 可能性の話である。

 もしも金髪の女が甚夜の想像した誰かならば。


 養老の青年は功徳によって菊水泉へと辿り着いたが、水城屋の店主は金髪の女に拐されて“ゆきのなごり”を得た。

 だとすれば酒の泉は湧き出たものではなく、女によって「造られた」と考えた方が自然。


 女は呑めば鬼へと化す酒だと知りながら“ゆきのなごり”を世に広めた。

 しかし彼女は自身を憎み追う男のことを知っている。対策は取ってしかるべきだ。

 水城屋の店主は酒の正体に気付くであろう誰かを塞き止める防波堤として、彼女に弄られた。

 初めから人ならざるものへ変じる為の何かを仕込まれていたのかもしれない。

 その仮説が正しいのならば、酒の泉の正体も大凡読める。


「使ったのは頭か、それとも体の方か」


 呟く言葉は憎しみに淀んでいる。

 酒の泉は初めから人に害為すものとして造られた。

 もしも金髪の女が酒の泉を「見つけた」のではなく「造った」のだとすれば。

 もしも金髪の女の正体が甚夜の知っている娘ならば。

“ゆきのなごり”とは即ち──


 浮かんだ想像に甚夜はぎりと奥歯を噛み締めた。

 いずれ全ての人を滅ぼす災厄となる。

 あの娘は、着実に鬼神への道を歩んでいる。そう感じられて、憎悪と共に形容しがたい感情が湧き上がる。締め付けられる心臓は、一体何に由来したのだろうか。


「……君、なんや随分焦っとるな」


 聞いても答えないと思ったのか、それとも気遣ってくれたのか。染吾郎は甚夜の呟きを聞かなかったことにして話しかけた。

 それに感謝し一度大きく息を吸い込む。冬の冷たい空気で肺を満たし、一気に熱を吐き出せば多少は心も落ち着いてくれた。


「奈津の父親は毎晩のように酒を呑む」

「お嬢ちゃんの? なーる、そらまずい」


 それだけで焦燥の訳を知り、染吾郎もまた表情を変えた。

 目の前で鬼へ変じた者を見たのだ。甚夜の想像は決して有り得ないことではない。


「ほんなら甚夜、行きぃ。こいつの相手は僕がしたる」


 一瞬の逡巡の後、染吾郎は力強くそう言った。

 それが甚夜を慮ってのことであるとは分かっている。

 とはいえこの鬼はそれなりに厄介だ。幾ら鬼を討つ者とはいえ人の身では。


「秋津染吾郎」

「なんや、その顔。もしかして僕じゃこの鬼に勝てんとか思とる?」


 図星を指され言葉に窮する。

 すると戦いの最中に在って染吾郎は朗らかに笑った。


「舐めたらあかんよ。人って、結構しぶといで? 多分、君が思とるよりずっとね」


 言いながら懐から短剣を取り出して示してみせる。

 一尺程度の両刃。武器として使えるか怪しく、染吾郎の体術は並程度。そんなものを持ったからといって戦えるとは思えなかった。


「だから君はお嬢ちゃんとこ行きぃ」

「だが」

「言っとくけど、鬼如きに心配されるほど秋津の業は拙ないよ」


 一転眼光が鋭く変わる。

 それすらも気遣い故だ。どうする、などと考えること自体彼に対する侮辱。

 なにより冷静な思考力を欠いた今の甚夜では、残ったとしても大して役には立たない。

 ならば答えはもう決まっていた。


「……感謝する」


 染吾郎を置き去りに、蔵を後にする。

 背後で激しい音が聞こえた。鬼が襲い掛かろうとしたところを染吾郎が阻んだのだろう。


「おーおー、せいぜいしてや。お嬢ちゃんとこって須賀屋やろ? 終わらせたらすぐ追うわ」


 軽い調子の科白を背中に受けて、更に速度を上げる。

 折角の気遣いを無駄には出来ない。

 甚夜は雪が敷き詰められた夜道を、ただ只管に駆けていった。




 ◆




 多分、自分は足が遅いのだろう。


 江戸の町は雪に覆い尽くされて、流れる風は刃物のように鋭い。今も雪はやむことなく、夜は灰色に染め上げられていた。

 降り積もった雪を踏みしめながら、甚夜はただ走る。

 遠い昔、まだ人であった頃。あの夜もこうやって走っていた。

 走って、走って、只管に走って。

 でも惚れた女に、大切な家族に、この手は届かなくて。

 だから走るのが遅いのだと思う。

 どんなに走り続けても間に合わないことの方が多かった。


 それでも走る。

 何故走っているのかは分からないが、足は勝手に前へと進む。

 目的があった。

 だから強くなりたくて、そしてそれが全てだった。

 なのに立ち止まることが出来ない。

 かつて見捨ててしまった父。もしかしたら妹になったかもしれない娘。

 今更取り戻せるものではなく、間に合ったとて自身が得る物などない。

 全てだと思った生き方から横道に逸れて。何がしたいのか、本当に分からなかった。


 しかし彼等は家族として時を刻んでいた。

 それを嬉しいと思えた自分がいた。

 ならば走らねばならない。その意味を今は理解できずとも、ここで立ち止まってはいけないと思った。


 雪に足がとられる。身を裂く風に皮膚が痛む。冷え切った体が動かしにくい。

 そんなものはすべて無視して駆け抜け、ようやく見えた懐かしい場所。

 灯りが落ちた須賀屋の佇まいに嫌な予感が膨れ上がる。


 …お…様……て、お願……


 扉は当然閉まっていた。

 冬の風に紛れて悲しげな声が聞こえてきたような。

 勿論幻聴だ。ここまで届く筈もなく、けれど焦燥は膨れ上がる。

 正攻法など取っていられない。閉じられた扉へ全霊の当身。閂は折れ、そのまま扉を突き破る。

 彼等のいる場所ならば分かる。あの人はいつも自室で酒を煽っていた。

 遠い記憶を頼りに進めば、床を踏む度に嫌な音がする。

 まるで廃墟のようだ。過った想像を即刻捨て去り、ついに目的の場所へと辿り着いた。


「なんで…なんで……」


 障子越しに聞こえてきた、震える奈津の声。血液が沸騰し、既に足は動いていた。

 乱雑に戸を開け部屋に飛び込む。

 まず目に入ったのは、腰を抜かしその場にへたり込む奈津の姿。

 揺れる瞳を追っていけば、赤黒い影が視界に入り込む。



『じ、ん……たぁぁぁ……』



 爛れた皮膚を持つ醜い鬼は、今まさに奈津へと手を伸ばそうとする瞬間だった。


 多分、自分は足が遅いのだろう。

 どんなに走っても間に合わないことの方が多くて。



 ───けれど、この手はまだ届く。



 踏み締めた足。畳敷きの床を蹴った瞬間そこが拉げた。

<疾駆>

 そう自分は足が遅い。

 だが今は、誰よりも何よりも速く駈け出す為の<力>がある。

 強くなりたいと願い、多くを踏み躙って得た<力>。 

 その是非を問うことは出来ず、その意味もない。

 ただ確かなのは、あの時にはなかった<力>が今あるということ。

 一歩目から最速を振り切った、人の身では為し得ぬ速度。刹那の間に鬼との距離が零となる。

 眼前に奈津を襲おうとする鬼がいる。刀を抜くことさえ邪魔くさい。拳を握り締め、速度を殺すことなく全て乗せ、狙うは醜い鬼の面。


「あぁぁああああああああああああああああああああ!」


 絶叫と共に振り抜いた拳は、正確に鬼の顔面を捉えた。

 鬼の膂力と<疾駆>の速度。二つが合わさって一撃だ。耐えることなぞ叶わず吹き飛ばされる鬼。そのまま壁に衝突し、どさりと倒れ込んだ。


「あ…ああ……」

「奈津、無事か」


 奈津は腰を抜かして震えている。

 怖かったのだろう。焦点は定まらず、かちかちと奥歯が鳴っている。庇うように前へ立ち、油断なく鬼を見据える。

 全力の拳だったがやはり鬼を倒すには足りなかった。

 ゆっくり、ゆっくりと鬼は体を起こす。


『じ、んたぁ』


 呻くような、懐かしい響き。

 心がささくれ立つ。しかし鬼が眼前にいるならば、甚夜の採る行動など決まっている。

 抜刀し、脇構え。どんな挙動も見逃さぬと心を落ち着け、視線を鋭く変える。

 名を聞かなかったことに他意はなかった。そう思い込もうとしていた。


「やめ、て、甚夜」


 背中から聞きたくなかった声が聞こえてくる。

 言わないでくれ。分かっているから。

 しかし言葉にしない想いは伝わらない。

 絞り出した奈津の声は、悲鳴と何も変わらなかった。


「その鬼は…お父様なの……!」


 ああ、まただ。

 また私は間に合わなかった。




 ◆




 かみつばめは紙燕。

 元々は燕の形に切り抜いた紙に紐をくくり付け、振り回して遊ぶおもちゃである。

 犬神にしろかみつばめにしろ紙で出来ている為持ち運びやすく、染吾郎はこれらを好んで使っている。


「かみつばめ、犬神!」


 奪われたといっても犬神は犬張子の付喪神。

 代わりのものを用意するのも容易い。燕が切り裂き、犬が噛みつく。一定の距離を保ち、付喪神で責め立てていく。


『イァァるぅぅぅ……』


 しかし鬼は容易に襲い来る獣を薙ぎ払う。多少の傷は与えられたが、何の影響もなく動き続けている。

 犬神には多少の再生能力と敵を察知する聴覚嗅覚が、かみつばめには速度とそれを維持したままの旋回性能がある。

 反面威力には欠け、眼前の鬼を討ちとるには少しばかり足らなかった。


 鬼は巨体に見合わぬ速度で進軍する。体術に優れた訳でもない染吾郎にとってそれは脅威だ。

 間合いに入り込まれるのはちとまずい。だから犬神やかみつばめで牽制しつつ立ち位置を細かく変えていく。

 距離を詰めようとする鬼、距離を取ろうとする染吾郎。

 この構図を先程からずっと続けていた。


「いつまでもこのままって訳にはいかんよなぁ」


 体力で勝るのは明らかに鬼の方だ。

 現状を維持していてはいつかはやられる。それを理解しながら、染吾郎は余裕の態度を崩さない。


「ま、そやからあいつ行かせたんやけど」


 浮かべた笑みは自身に満ちているが何処か無邪気で、何となく悪戯小僧のような印象があった。

 染吾郎が甚夜を行かせた理由はいくつかある。

 奈津のことは確かに心配だったし、集中力を欠いた甚夜を慮ったのも本当だ。

 同時に、甚夜がいては戦いにくいのもまた事実だった。


「切り札は隠せるだけ隠すもんやしな」


 今は慣れ合っていても相手は鬼。いずれは争うことになるかもしれない。

 そう思えば自身の切り札を晒す気にはなれなかった。

 だがいなくなった今、堂々と切り札を切れる。

 手にした短剣。これが染吾郎の持ち得る最高の戦力である。


「ほないこか」


 清(中国)がまだ唐と呼ばれていた頃、九代皇帝玄宗が瘧にかかり床に伏せた。

 玄宗は高熱の中で夢を見る。

 宮廷に跋扈し、自身に取り憑く悪鬼。或いはこの病も彼らの仕業か。ざわめく悪鬼に体を蝕まれていく。

 しかしどこからともなく恐ろしい形相をした大鬼が現れて、悪鬼どもを難なく捕らえ喰らってしまう。

 玄宗が大鬼に正体を尋ねると大鬼は言った。


“かつて官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれた。その恩に報いるためにやってきた”


 夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、彼の絵姿を描かせた。

 その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だったという。


 玄宗は自身の命を救ってくれた大鬼を神として定め、疫病除けの神として祀られるようになる。

 この話は後に日本へ伝わり、鬼を払うという逸話から端午の節句に彼を模した人形を飾る風習が生まれた。

 染吾郎が取り出したのは五月人形の持っていた短剣。

 即ち、その付喪神は───



「おいでやす、鍾馗しょうき様」



 ───鍾馗。厄病を払い、鬼を討つ鬼神である。


 現れたのは力強い目をした髭面の大鬼。

 金の刺繍が施された進士の服を纏い、手には染吾郎の持つ短剣と同じ意匠の剣がある。

 冬の冷たい空気の中、大鬼の居る場所だけは違う。温度が高くなった。そう錯覚させるほどの威圧感だった。


『カァおうあぁ……』


 その尋常ではない気配を鬼も察知したのか、じりじりと警戒しつつにじり寄ってくる。

 弾かれたように駆け出す。躍動する筋肉。狙う先には鍾馗がいる。引き絞られる背筋、反動で繰り出される拳はまるで矢のようだ。

 狭い蔵に響く鈍い音

 眼前の敵を貫かんと放たれた鬼の拳は見事に直撃し、


「その程度じゃあかんなぁ」


 大鬼は微動だにしない。

 それが分かっていたからこそ染吾郎は余裕の態度を崩さずにいる。


 断っておくが、鍾馗に特別なことはできない。

 福良雀のような防御力の向上、犬神の再生能力、合貝の蜃気楼。

 他の付喪神が皆特異な力を持つ中、鍾馗にだけはそういった付加能力はなかった。

 かみつばめほど射程距離もなく、せいぜいが一間(1,8メートル)程度。

 元も短剣でそれなりに重さがあり、正直なところ使いやすいものではない。

 それでも鍾馗は染吾郎の切り札である。


 伸びきった腕をすくい上げるように弾く。

 そして流れるような動作で鍾馗は身を縮こまらせた。

 力を溜め込み、狙うは頭。


「悪いけど、これでしまいや」


 鍾馗には特別な力はない。

 しかし──


「いね」


 ──ただ強い。


 視認すら難しい速度で振るわれた剣、通り過ぎた後には何もない。鬼の頭部は斬られたのではなく、消し飛んでいた。

 何度も言うが特殊な力ではない。ごく単純な強さ。それこそ鍾馗の全てである。

 一拍子遅れて鬼はその場に崩れ落ち、白い蒸気が立ち昇る。最早その死骸が消えるのを待つばかりだ。


「嫌なもんやな。目の前で堕ちた鬼を討つんは」


 つい先ほどは人として会話していた。

 鬼に堕ちたとはいえ、命を奪うにはやはり抵抗がある。苦々しい顔つきで鬼の死骸を眺め、完全に消え去ったのを確認してから背を向ける。


「大丈夫やとは思うけど、急がなあかんか」


 小さく呟き染吾郎は蔵を後にする。

 行き先は須賀屋。“ゆきのなごり”は人を鬼に変える。

 甚夜の話が本当ならば最悪の事態も想定しなければならないだろう。

 ほんの少し表情が歪む。足取りが重いのは、敷き詰められた雪のせいばかりではなかった。




 ◆




 強くなりたかった。

 それだけを考えて生きてきた。

 なのに。


『あがぁあああああ!』


 敵は決して強くはない。

 先程蔵でやり合った鬼に比べれば、速さも力も感じない。

 技術も知能も有りはしない、非常に与しやすい相手だ。


「ぐっ!」


 なのに避けきれない。

 繰り出される拳、刀で落、間に合わない。

 左腕で防ぐも鬼の膂力だ。肉は抉れ骨が軋んだ。返す刀、袈裟掛け。

 駄目だ、遅い。幾多の鬼を討ちとってきた夜来は、ひゅんと頼りない音を響かせて空を切った。


「く、そ……」


 息が荒れる。足が腕が重い。体が思うように動いてくれない。

 鬼との攻防は既に数合。甚夜の体は満身創痍、大して鬼は刀傷の一つもない。

 あまりにも無様。戦いとも呼べぬ一方的な展開だった。

 呼吸を整えようにも間髪入れず襲い来る鬼。

 見えている。反応も出来る。脇構えから一歩引き、刀を振り上げる。

 踏み込み唐竹一閃。無防備な脳天を全霊で叩き斬てばいい。

 相手は避けようともしない。これで終わりだ。

 甚夜は一気に刀を振り下し、



 ──甚太。



 なのに、不器用でも優しかったあの人が思い出されて

 躊躇いが切っ先を鈍らせ、鈍った刀を越えて、鬼の拳が甚夜を捉える。


「がっ、はぁ」


 見捨てることしか出来なかった父。

 家族が出来たと知って嬉しかった。

 嬉しいと思えたことが、嬉しかった。

 不肖の息子でもちゃんとあなたの子供であったと信じることが出来た。



 爪が肉を裂く。紅く染まる。



 ───奈津は血こそ繋がっていないが本当の子供と同じくらいに大切な娘だ。しっかりと守れ。


 長い年月を経て再び会うことが出来た。

 その時あの人が口にした言葉。分かっている。奈津を大切にしていると言いたかったのではなく、護衛をさせるが本当の息子もまた大切に想っているのだと伝えたかったことくらい分かっていた。

 鬼に堕ちたこの身を、それでも本当の子供だと言ってくれた。


「あぁ!」


 苦し紛れに振るう刀は当たらない。

 もしかしたら、当てる気が無かったのかもしれない。刀は無様に空を切る。


「ぐ、がぁ」


 隙をついて拳が腹に叩き込まれる。内臓がいくつかやられ、舌に鉄錆の味が広がる。耐え切れず吐血。意識が飛んでしまいそうだ。

 衝撃に体は痺れている。足が動かない。

 その隙を鬼が見逃すはずもなく。

 まずい。

 思った時にはもう遅かった。


 衝撃に体が宙を舞う。

 派手に吹き飛ばされ、甚夜は壁に叩きつけられた。

 背中に広がる鈍痛、そのまま壁を背もたれに座り込むように座り込む。指先まで痺れている。動くどころか顔を上げることさえままならない


『じ、たぁ』


 見えなくても気配は感じられる。

 唸り声と足音。鬼は獲物を殺す為に動き始めたのだ。

 けれど身動き一つ取れない。その先は容易に想像がついてしまった。


「あ、がぁ……」


 刻一刻と迫る命を刈る者。それを理解しながらも体は動いてくれない。

 本当に無様なものだと甚夜は自嘲した。

 いずれ葛野へ戻る鬼神を止めると誓った。

 その為に強くなりたかった。

 多くのものを斬り捨て、踏み躙り、喰らい尽くし。

 あの頃より少しは強くなったつもりになっていた。


 強くなりたくて、それだけが全てで。

 今までそうやって生きてきた。思い込んできた。 

 なのに何故、切っ先は鈍る。

 これまでさんざん斬り捨ててきおいて、なんで一匹の鬼さえ斬れない

 鬼になって、でも人の心は捨て切れなかった。

 だけど今、捨て切れなかった心にどうしようもなく追い詰められる。

 どうして私はこんなにも弱い。


「あ、あ……」


 漏れる呻き。指先に何かが触れた。どうやら酒瓶、“ゆきのなごり”だろう。

 確かめようにも手を伸ばすことさえ出来ない。本当に指一本動かなかった。

 鬼神を止めるだの、けじめをつけるだの、大層なことをほざいておいてこれだ。

 騙し騙しやってきたが、所詮はこの程度の男だったのだ。

 虚脱感が心身を襲う。

 なんだか疲れた。

 こうしていれば、楽になれるだろ



 ───やっぱり甚太は私と同じだね。

   最後の最後で、誰かへの想いじゃなくて自分の生き方を選んでしまう人。



 だけど、そんな男を信じてくれた女がいた。

 諦めかけていた心に火が灯る。

 ああ、そうだ。

 本懐を遂げることなくここで終わるなぞ認められる訳がない。

 鬼神を止めると誓った。

 ならばそれを曲げることはできない。

 いつだってそうやって生きてきた。

 今更生き方を変えられる程器用にはなれない。

 何よりここで自分を曲げることは、今まで積み重ねてきた全てに対する侮辱だ。


「ぐ、ああぁぁぁ……!」 


 手は自然に“ゆきのなごり”を握り締め、軋む体を必死に動かす。

 痛み、知ったことか。動け、動かないとしても動け。お前がこんな所で立ち止まっているなど許されない。

 己が誓いを違えるような無様など在ってはならない。

 ぎしぎしと体が鳴る。力が入らない。気を抜けば膝から砕けてしまいそうになる。

 それでも無理矢理に体を引き起こし、




「お、お父様…いや、こないで……」



 ──その声に、ようやく立ち上がることが出来た。



「だ、誰か。た、たす」


 鬼は標的を奈津に変えたらしい。部屋の隅で震える彼女の元へ歩みを進めていく。

 重たい足取りで、それを阻むように甚夜は立ち塞がる。

 鬼を睨みつけながら、怒りは自身に向いていた。


「じ、甚夜」


 血塗れになり、尚も立ち上がる男の背に奈津は声を掛けた。

 それには答えず、甚夜は手にした酒瓶の口を指でへし折った。浴びるような乱雑さで呑み干す。喉を通る冷たさ。まるで水のようだ。


「やはり、薄いな……」


 初めて飲んだ時も思った、懐かしい風味はするが薄い酒だと。

 今更ながらにその理由を理解する。

“ゆきのなごり”は鬼を造る、その起因たる憎悪を育て上げる酒。

 だから薄いと思った。

 普段からもっと濃い味に慣らされているのだ、薄く感じて当然だった。


「だが気付けくらいにはなった」


 投げ捨てた陶器がかしゃんと音を立てて割れた、

 あの時程の激情はない。 

 しかし憎悪は渦巻いている。

 妹への、そして無様を晒した己への。


「あぁ憎いなぁ……」


 憎い。

 あの人を前にして、たったそれだけで戦うことを止めようとした己の弱さがたまらなく憎かった。


「え……」


 意味が分からないとでも言いたげな奈津の呟き。

 それを無視してただ一言、女の名を呼ぶ。


「奈津……」


 今助ける。守る。大丈夫だ、安心しろ。

 言えなかった。何一つ守れなかった男の言葉にいったいどれだけの価値がある? 

 誰かを守るなど、彼には過ぎたことだ。


 どくん。


 左腕が鳴動する。

 満身創痍。体をうまく動かすことが出来ない。だがこの程度の傷は問題ない。

 人ならばともかくこの身は鬼。問題になる筈がなかった。


 めきめきと嫌な音を立てながら甚夜の体が変容していく。

 浅黒い、くすんだ鉄のような肌。

 袖口から見える、異常に隆起した赤黒い左腕。

 異形の右目は周りだけが黒い鉄製の仮面で覆われている。そのせいで異形の右目が余計に際立って見えた。

 そして見開かれる濁った真紅。


「鬼よ、名は聞かん。ただお前は殺すぞ」


 何処まで行っても甚夜に出来ることはそれしかなかった。





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