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『残雪酔夢』・5




 その日は朝から雪が降り続け、曇天が夜色へ変わる頃には、江戸の町は真っ白に覆い隠されていた。






 怖い話。


 魑魅魍魎。

 柳の下の幽霊。

 皿屋敷。

 鬼。

 牛の首。

 説話講談色々あって、でも私にはもっと怖い話があった。

 過去形で話せるようになったのは、前より少しは大人になれたからで、私を支えてくれた人が沢山いたからだ。

 今はもう怖いと思うこともない。

 遠回りをしてしまったけれど、ちゃんと私達は家族になれたんだと思える。

 それがあいつのおかげだというのは、ちょっと癪ではあるけれど。


「お父様、失礼します」


 お父様はいつものように部屋で一人お酒を呑んでいる。

 以前は不味そうに呑んでいたけれど、最近は穏やかな顔をしていることが多くなった。

 だからこんな風に苦々しい様子で杯を空けていくお父様を見るのは久しぶりだ。

 その理由はやっぱり善二の失態なんだろう。


「……奈津か」


 しかめ面で杯を煽るお父様は、横目で私の方を一度見て、すぐ視線を戻して手酌で酒を注いだ。


「お父様、あの、善二のことなんだけど」

「なんだ」


 苛立っているのが声の響きで分かる。

 相当怒っているみたいだ。


「やっぱり、怒ってる?」

「……失望はしている。目をかけてやったというのに」


 番頭になった次の日から呑んだくれていたんだ。自業自得だとは思う。

 でも善二もちゃんと反省しているのだから、少しくらいは大目に見てやってほしい。


「そ、そうだ。実はお父様に渡したいものがあるの」


 ご機嫌取りという訳ではないけれど、少しいい茶葉とお茶菓子を用意した。

 ここ最近お父様が毎晩呑んでいるお酒を買おうと思ったけど、甚夜が顔を顰めていたから止めた。代わりに、お父様が好きそうなお菓子を選んできた。


「む」


 目が薄ら細められる。

 興味は示してくれている。でもすぐに手にある盃に視線を戻し、もう一杯お酒を煽る。


「有難く受け取ろう。明日にでも貰おう」


 そう言ってどんどんお酒を煽る。

 最近は毎晩呑む量が増えていた。


「お父様、あの、もう少しお酒は控えた方が」


 甚夜にも頼まれていたことだし、私も心配だからそれとなく注意してみた。

 お父様は表情を変えずにお酒を呑み続けている。


「いや、今は酔いたい気分なのだ」


 そう言ってごくりと喉を鳴らす。

 床に置かれた酒瓶には、“ゆきのなごり”と記されていた。




 ◆




 その日は朝から雪が降り続け、曇天が夜色へ変わる頃には、江戸の町は真っ白に覆い隠されていた。






 江戸は蔵前にある酒屋、水城屋。

 店の主人は奥座敷で帳簿をめくりながら、にたにたといやらしい笑みを浮かべていた。

 ここ最近の儲けは尋常ではない。下手な旗本よりも遥かに稼ぎ、その勢いは留まるところを知らない。

 それも全てはあの女のおかげ、笑いが止まらぬとはこのことだと口の端を釣り上げた。


「いかにも妖しい女だと思ったが、いやはや。あれは大山咋神おおやなくいかみの化身だったのかもしれん」


 ───人を堕とす美酒に興味はないか。


 底なし沼のような美しさだと思った。 

 一年半程前に現れた、金紗の髪をたなびかせた見目麗しい女。

 今迄見たこともないほどに女は美しく、しかし見惚れるよりも恐怖が先に来た。

 一目見た瞬間分かった、あの美しさは人を惑わす魔性。それがあやかしのものであることは、容易に想像がついた。


 女は言った。人を堕とす美酒に興味はないか、と。


 逆らうなど出来る筈がなかった。

 店主は言われるがままに“ゆきのなごり”を売りに出した。

 妖しいとは思ったが逆らえば殺されると分かっていたし、いくらでも売れる酒だという女の言葉はこの上なく魅力的だった。

 そしてそれは正しかった。

 あの女が教えてくれた酒は今も飛ぶように売れている。

 一口目はきつく感じるが、二口三口と呑めばそれでおしまい。後はもう坂を転げ落ちるだけ。“ゆきのなごり”はそういう酒だ。

 稀に相性の良すぎる者は呑み過ぎてしまうが、まあそれは知ったことではない。酒に溺れる阿呆の行く末を気にしていては酒屋の主など務まらない。


 店主は帳簿を置き、庭へ向かった。

 庭には二つの蔵がある。そのうちの一つに足を踏み入れ、にたにたと笑う。

 今日仕入れてきたばかりの“ゆきのなごり”。蔵にある大量の酒瓶は、数日もすれば空になるだろう。

 皆この酒を欲しがり、亡者のように群がってくる。

 これは江戸一番の商家になる日も遠くない。華やいだ未来を想像し、店主はかすれた笑い声を上げる。


「くくっ、ははは」


 もう本当に笑いが止められなくて、




「随分と景気が良さそうだな」




 止まらない筈の笑いが、一瞬にして凍り付いた。

 誰もいなかった筈の蔵に、鉄のように重い声が響く。

 振り返れば、腰に太刀を携えた、六尺を超える総髪の大男。

 間違いなくいなかった。先程までそこに在った酒瓶を眺めていた、誰かがいる訳はないのだ。

 なのに男───甚夜は当たり前のように、ごく自然な様子で佇んでいた。


「あ、貴方は」

「一年程前に顔を合わせたと思うが、覚えているか」

「え、ええ、勿論です。以前蔵に住み着いた鬼を退治してくださった」


 刀一本で鬼を討つという、ごく一部では有名な浪人、らしい。

 菊夫の奴を処理してくれた男だ。その件にしては感謝しているのだが、堂々と不法侵入をしておいて悪びれもしない態度は心象がよくない。

 なにより店の命たる酒蔵に無断で入り込むなど、流石に許せることではなかった。


「以前の件に関しては感謝しております。ですが、勝手に敷地へ入られては困りますね」


 この男は勝手に水城屋の敷地に入り込んだ。こちらは追及し、叱責してしかるべきところだ。だから当たり前のことを言ったまで。

 しかし返答はなく、代わりに凍り付くような視線が向けられる。

 冷たさに肌がひりつく。発せられる無言の圧力に、店主は一歩二歩と後ろへ下がった。


「ま、勝手に入ったんは確かに悪いと思うけどなぁ。それはそれとして、ちょぉっと話があるんやけど」


 またも声が。

 びくりと体を震わせ声の方に目を向ければ、浪人の後ろに見知らぬ男がいる。

 考えるまでもなく浪人の連れであり、彼等が真っ当な目的でここに来たのではないこともまた明らかだった。


「は、話?」


 気圧されて怯えたように声が震えた。

 ように、もなにも店主は事実怯えていた。

 相手は勝手に敷地へ入り込む狼藉者。堂々としていればいい筈だが、自分にも後ろ暗いところがあるので自然と押しは弱くなってしまう。


「貴殿に用があってな。終わればすぐにでも出て行く」


 蔵の出口で見知らぬ男は仁王立ちしている。逃がす気はないのだろう。

 応じる義理も義務もないが、甚夜の左手は腰のものに触れている。その時点で選択肢などないようなものである。


「分かりました。それで、一体、如何なご用向きで?」


 にへらと愛想笑いを浮かべても甚夜達の態度は揺らがない。

 平静に重々しく、放つ空気は硬い鉄のように感じられた。


「酒を探している」

「さ、酒ですか?」

「ああ。最近流行の酒を探しているのだが、どこの店にも置いていなくてな。この店なら扱っていると聞いて訪ねさせてもらった」


 酒屋の店主への用向きとしては実に真っ当なものだ。勿論このような状況でなければの話だが。

 返答に窮していると甚夜一歩を進むと同時に言葉を続ける。


「この店なら扱っていると聞いた」


 空気が鉄ならば細められた眼光は刃物のようだ。

 切り裂かんばかりの敵意が向けられ、店主は体を震わせる。


「“ゆきのなごり”……あるのだろう?」


 酒が欲しいなどという男の目ではない。

 下手なことを言えば首が飛ぶ。感情の乗らない双眸に否応なく理解させられた。


「はぁ、こら壮観やな。ぜんぶ“ゆきのなごり”や」


 何処か呑気な口調で染吾郎が言う。

 蔵の中を見回せば所狭しと酒が並べられている。“ゆきのなごり”。人を堕とす美酒。現在の水城屋を支える命の水である。


「へへ、へへへ。そ、そうでしょう。人気のお酒で、今日仕入れてきたばかりなんです」

「ほう、どこでだ」

「い、いやいや、流石に教える訳には。わ、私も生活が懸かっていますので」

「それは残念だ。ならば」


 自然な動き、淀みのない所作だった。

 流れるように抜刀すれば、夜に瞬く鈍い光。

 相当な業物なのだろう、僅かな間ではあるが無骨ながらも美しい刀に心を奪われ、甚夜の踏み出した一歩に意識を取り戻す。


「ひ、ひぃ!?」

「少し、聞き方を変えるとしよう」


 軽い言葉。まるで命まで軽く扱われたような、そんな気がした。




 ◆




「奈津、お前も呑んでみろ」


 お父様に盃を勧められたけど、私は少しだけ躊躇った。

 だってこれは善二が「きつくて呑めない」と言っていたお酒だ。普段呑まない私に合うようなものとはとても思えなかった。

 なにより、あいつが「得体が知れない」といった酒。

 でもお父様と呑むことなんか滅多にないし、勧めてくれるのが嬉しくて、結局は受け取ってしまう。


「じゃ、じゃあ」


 一口なら、きっと大丈夫。

 恐る恐る口を付ける。

 すごく辛かった。でも吐き出す程でもない。なんだ、善二や甚夜が大げさだっただけみたいだ。

 そのまま喉に流し込めばやけるような熱さを感じる。折角勧めてくれたけど、やっぱりお酒は苦手だ。


「注いでくれんか」


 少しためらったけど、やっぱり言われるままに私は動いてしまう。

 徳利を手に、空になったお父様の杯にお酒を注ぐ。

ん、と小さく返事をして、一気に煽る。こんな強いお酒なのにお父様は平然と、何処か不機嫌そうに呑む。

 旨いと何度も零しているのに、全然楽しそうには見えなかった。


「ん」


 盃を差し出されては注いで。

 そんなことを繰り返しながら、夜は深くなっていった。




 ◆




 一歩を進む。

 淡々とした口調が、だからこそ恐ろしい。

 構えるでもなく、だらりと腕は放り出されている。あまりに無造作で、無造作過ぎて、この首まで無造作に斬り落とされてしまいそうだ。

 自身の想像に腰を抜かし、尻餅をついたまま後ろに下がっていく。


「近頃奇妙な事件が増えている。酒を呑んだ者が憎しみに駆られ凶行へと走る……皆、“ゆきのなごり”を呑んだ者達だ」

「あ、う、あ」


 一歩を進む。

 上手く言葉が出てこない。逃げなければ、頭の中はそれしかない。だというのに立つことも出来ない。


「真面な酒ではあるまい。何処で手に入れた」


 一歩を進む。

 口が渇く。鈍く光る。体が震える

 殺される。殺される。殺される。

 店主は恐怖にただ這いずっている。


「話して貰おうか」


 男が一歩を進み、更に後ろへ下がろうと思い、かちゃんと音が鳴った。

 蔵の端まで追い詰められ、背中には酒棚。最早逃げられない。けれど男は一歩、また一歩と近付いてくる。

 向けられる切っ先、冬の空気よりも冷たい鉄の輝きが突き付けられた

 声にならぬ叫び。恐怖は際限なく高まる。

 切っ先はゆっくり、ゆっくりと近付き───そこで限界だった。


「お、大山っ! 相模の大山の中腹に泉があって、そ、そこから湧き上がってる! 俺はそれを詰めただけで!」

「そうか、命がいらんか。その意地見事だ。冥土まで持って行け」

「ひぃぃぃぃ!? 嘘じゃない、嘘じゃないんだ! 本当に泉の全てが酒になってる! 信じてくれ!」


 構えた刀がぴたりと止まった。

 甚夜は店の主人の様子をじっくりと観察する。

 怯えてはいるが、嘘を言っているようには思えない。荒唐無稽ではあるものの、菊水泉の話もある。真面な酒でないのならば、由来が真面でなくても不思議はない。


「ならば、あの酒はなんだ」

「わ、分からねぇ。ただ人を堕とす美酒だとかあの女は言っていた。最高に旨いが依存性が高く、呑み続ければ憎しみに取り込まれる。あれはそういう酒なんだ」


 あの女。金髪の女が店に出入りしていたらしい。

 それが誰なのかは、何となく想像がついている。湧き上がる憎悪を必死に隠し、店主への尋問を続ける。


「それだけか?」

「へ?」

「呑み続ければ憎しみに取り込まれる。“ゆきのなごり”の効能はそれだけかと聞いている」

「あ、ああ。あの女に聞いたのは」


 肩透かしを食らったような気になる。

 水城屋の店主はもう少し真実に近い位置にいると思っていた。しかしこの口振りから察するに上手く利用されているだけなのかもしれない。

 勿論、鬼になるという事実を隠している可能性もあるが。


「それを知りながら売ったのか」

「の、呑み過ぎたらそうなるってだけだ! 適量なら普通の酒と変わんねえ! 酒なんだ、呑み続けりゃ体に悪いのは当たり前だろ!? 俺は売っただけで、呑み過ぎて体を壊そうが凶行に走ろうが、そいつの自業自得だろうが! 商人が売りもん捌いて金を稼ぐことの何が悪い!?」


 攻め立てるような勢いで言葉を発する。

 甚夜は押されるどころか、更に視線を冷たく変えた。

 つまるところこの男は、確信とは程遠いところにいる、単なる売り子に過ぎない。

 はずれ、か。肩透かしを食らい、眉間の皺は深くなった。


「……つまり、金の為? なんや理由があるんかと思えば、ただの屑か」


 それでも刀を仕舞うことをしなかったのは、少なからず苛立っていたからだろう。染吾郎もまた不快さに顔を顰めている。

 揺らがぬ態度に主人は哀れなほどに怯えていた。

 勢いに任せ怒鳴りつけたが、男達の態度は冷たく、激昂の熱もすぐさま引いてしまった。

 後に残されたのは重苦しい空気のみ。沈黙の後、一度溜息を吐いて染吾郎は投げ捨てるように言う。


「ま、裏は取れたな。一連の騒動の原因は“ゆきのなごり”や。取り敢えずここの酒処分したら大山の方へ行こか」

「しょ、処分!? あんた何言ってるんだ!?」

「なにって、当たり前やろ? 悪いとは思うけど、こんな危ない酒は放置できんよ」


 憎しみを掻きたてる酒。

 それに纏わる事件を目の当たりにしているのだ、染吾郎の意見は至極真っ当なものだった。

 しかし“ゆきのなごり”は水城屋にとってそれこそ生命線といっていい。それを処分するなどといわれて冷静でいられる筈がない。

 店主は食って掛かろうとして、あまりにも昏く重苦しい呟きに邪魔をされる。


「少し待て。まだ聞きたいことがある」

「ん?」


 言い切るよりも早く尻餅をついてへたり込んでいた店主の胸ぐらを掴み、無理矢理に立たせる。

 冷静を保っていた彼の突然の豹変。その乱暴さに染吾郎も少しばかり驚きを見せた。


「ひぃ……!?」

「ちょ、君。なにしとる」


 雑音が邪魔だ。

 甚夜は周りの音など無視して店主を睨み付ける。


「最後にもう一つ。この店には金髪の女が出入りしていると聞いた」


 そこまではあくまでも敵意だった。

 しかし金髪の女と口にした瞬間、甚夜の纏う気配が一変する。

 敵意、憤怒などでは生温い。

 どろりと淀んだ、へばりつくような薄汚い情念。

 彼の目に宿ったのは、あまりにも濃密過ぎる憎悪である。


「女について、洗いざらい話せ」


 あまりの濃さに窒息してしまいそうだ。

 店主は答えることが出来ない。それどころか、呼吸さえままならなかった。

 何時まで経っても「あうあう」と訳の分からない喘ぎを漏らすだけ。いい加減鬱陶しくなってきた。


「話せと言っている」


 手は胸倉から首へ。

 そのままゆっくりと上へ、店主の体は左腕一本で釣り上げられる形になった。


「あがっ、あ」


 ぎしぎしと骨の鳴る音。

 顔を赤くして、血管がびくびくと脈を打っている。


「話せ……!」


 そうか、まだ話さないつもりか。

 胸には際限のない憎悪。

 ならば、その首の骨へし折って───



 頬に、衝撃が走った。



 殴り付けられたのだと気付いたのは一拍子置いてから。

 染吾郎が右の拳を突き出したまま、動かずにこちらを睨んでいる。おそらくは全霊の拳だったのだろう。

 人ならぬこの身は微動だにしない。痛みも殆どなく、なのに敵に向けるかのような冷静な表情を少しだけ痛いと感じた。


「ええ加減離さんと、そいつほんまに死ぬで」


 言われるままに左腕から力を抜く。

 どさりと店主が落ちて、途端に咳き込みながら呼吸を始めた。もう少し時間が経っていたらおそらく窒息死していただろう。

 一度呼吸を整えれば、次第に心も落ち着いていく。胸の憎悪は消えてくれないが、今は姿を隠してくれた。

 そこまできてようやく自分が何をしていたのかに思い至る。

 憎しみに囚われ無様を晒した。何時まで経っても何一つ変われない自分に嫌気がさす。


「金髪の女……なんかあるん?」


 責めるような目でも、いつもの作り笑いでもない。

 ただただ冷静な、鬼を討つ者としての顔がそこに在った。


「……いや」

「言いたないなら無理には聞かん。そやけど人殺してもたら、今度は僕が君を討たなならん。できればそんなことさせんで欲しい」

「そうだな、気を付けよう」


 空々しい声。頭で理解したとて、どれだけの意味があるのだろう。

 結局憎しみは消えぬままで、今も己はそれに振り回されるだけの惰弱な男だ。

 力だけを求めて生きてきた筈が、何故こうも弱い。


「止めてくれて、助かった」


 素直な気持ちだった。

 弱さのままに誰かを殺す。

 そのような無様を犯さずに済んだのは、間違いなくこの男のおかげ。言葉は簡素だが、そこには心からの感謝があった。


「やめてえや。殴っといて礼言われたらなんやむず痒いわ」


 内心をくみ取ってくれたのか、染吾郎も照れたような、自然な笑みで返す。

 このような状況でも一瞬和やかな空気が流れ、



 がしゃん。



 陶器の割れる音に、それもすぐさま消え去った。


「……やらねえ、やらねえぞ。これは俺の酒だ」


 いつの間にか棚を支えにする形で立ち上がった店主、その足元には壊れた陶器が飛び散っている。

 呑み干してから地面に叩き付けたのだろう、酒は殆ど零れていなかった。


「殺されてたまるか。俺の酒だ。江戸一番の商人になるんだ」


 譫言のように呟きながら、“ゆきのなごり”を手に取り、そのまま流し込む様に呑む。

 口から溢れても気にすることなく一本、二本と手を伸ばしていく。


「あんた、なにやっとんのや。呑んだらあかん」

「うるせえ! そう言って奪う気だろうが!?」


 酔っているのか、それとも単に殺されかけたが故の敵意か。

 制止の言葉など知ったことではないと次の酒に口を付ける。


「やめろ」


 その姿に言い様のない不安を覚え、甚夜は小さく零した。

“ゆきのなごり”は憎しみを煽る酒。どういう原理かは理解できないが、そういうものなのだ。

 だとすれば甚夜はそれの行き着く先を知っている。

 不安の正体は既視感だった。 


「それ以上は呑むな。“戻れなくなる”ぞ」


 ああ、何故だ。

 呑み続ければ憎しみに取り込まれると聞いた時、何故『それだけ』と思ってしまったのか。

 本当は知っていた

 体なぞ所詮心の容れ物にすぎぬ。そして心の在り様を決めるのはいつだって想いだ。

 揺らがぬ想いが其処に在るのならば、心も体も其れに準ずる。

 心が憎しみに染まれば、容れ物も相応しい在り方を呈するが真理。

 それを理解しながら、考えようともしなかった。目を背けていた。 

 人の身に余る憎しみがどういうものか、己が誰よりも知っていた筈なのに。


「お、おぉぇ。うぉぉぉぉあああ」


 店主の呻きは唸り声に変わっていく。

 肥大化する肉が衣を破り付き出てくる。最早彼は人と呼べない姿をしている。


「なあ、これやばいんちゃう?」

「ああ……」


 降り積もる想いはまるで雪のようだ。

 例え人為的に植えつけられた想いだとしても、降り積もればかつての心など埋もれてしまう。


『おぅう、お、おあぁぁぁぁぁ』


 酒にのぼせたような赤い肌。崩れ落ちる容貌。隆起する骨。

“ゆきのなごり”とはつまり本当の心を白く染め上げる雪のような憎悪。

 だから、これは当たり前の変化だ。




「憎しみを植え付ける酒。取りも直さず、“ゆきのなごり”は鬼を生む酒だった」




 そうして変化は止まり、見開いた目は夜にあって尚も赤々と輝いていた。


『あぁお、おぅぅぅぅぅぅぅ』


 最早言葉を発することも出来ず、憎しみに満ちた目で甚夜を見据える。

 自身を殺そうとした男。何を憎むかが定まったようだ。


「少量ならば問題はない。憎しみなど誰もが抱くものだ。しかしそれが過ぎて憎悪に囚われれば鬼へと堕ちる」

「“ゆきのなごり”もおんなじ、呑み過ぎれば鬼になるって訳やね」

「ああ」


 冷静に会話をしているように見えて、甚夜の胸中は焦燥で満ち満ちていた。

 耳元には以前聞いた言葉が響いている。




 ───間違いないですって。実際旦那様は旨い酒だって言って毎晩呑んでるし。




 重蔵がもし本当に毎晩“ゆきのなごり”を呑んでいたとしたら。

 ならば、いずれあの人も。

 ほんの少しだけ瞳が揺れる。

 敵を前にしてあるまじき動揺だった。




 ◆




「お、お父様!?」


 呑み過ぎたせいかお父様は俯き、体を震わせ唸り声を上げていた。


「ぐぅああぅっぅおおおお……」

「ちょっと、誰か! 誰かいない!?」


 声を張り上げてもだれも来てくれない。どうしよう。どうすればいいんだろう。

 やっぱり甚夜に言われた通り、もっと強く止めるべきだった。

 お酒に酔ったなら揺らす訳にもいかないし、でも放っておくわけには。


「そうだ、お医者様……!」


 まずはお医者様を呼んでこないと。

 そう思って立ち上がろうとして、行かせまいとするように腕を掴まれた。


「お父様、待っててすぐお医者様呼んでくるから!」


 でも離してくれない。それどころかさっきよりも力が強くなったような気がする。

 気付けば唸り声も体の震えも消えている。もう大丈夫なのだろうか。


「ひっ……!?」


 それが勘違いだと気付くのに時間はいらなかった。

 ぼこぼことお父様の服の下で何かが動いている。違う、体の形が変わってきているのだ。


『おうぉあぉああ』


 かすれた声。

 骨から大きくなって、肉が増えて、どんどんと人ではなくなっていく。


「あ…あ……」


 身近にこういうのに縁のある人がいる。この手のものを見たのも初めてではないから驚きはない。

 ただ体が震える。心が震える。


「なんで……」


 そこにはお父様がいた。いた筈だった。

 遠回りしたけれどちゃんと家族になれて。

 少しずつ歩み寄って。

 さっきまで一緒にお酒を呑んでいて

 なのに、



『…ん……たぁぁぁぁぁ』



 なんでそこに、鬼がいるんだろう。






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