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『残雪酔夢』・3




「んぁあ……あ?」


 ずくん、と響く腹部の痛みに善二は目を覚ます。

 吐き気も襲ってきたが何故かすきっ腹で、吐くものはなく嘔吐いただけで終わった。

 うっすらと見えてきた周囲の景色、見回して違和感に戸惑う。

 気付けば見慣れた場所。ここは須賀屋の一室、小僧達の共同の寝床となる広間だった。


「あれ、俺何でこんなとこに……」


 空は既に夕暮れの色。

 窓から差し込む光に赤く染まった広間は、どこか寂しげに映る。

 誰もいない。自分はどうして此処で寝ていたのだろう。善二はぶつぶつと呟きながら、一つずつ指折り数えて記憶を辿っていく。


「確か、酒呑んでたような」


 そうだ。浴びるように酒を呑んだ。

 天にも昇る極上の酒。

 呑んで呑んで、意識がぼやけて、その中で。



 ───うるせえなぁ。きゃんきゃん犬みたいに喚かないで貰えますかね?



 彼女を、傷付ける言葉をぶつけたのだ。


「あ……」


 日本橋の煮売り酒屋。心配して訪ねてくれた奈津に、ひどいことを言った。

 その上友人に殴りかかって、返り討ちにあって気を失った。

 無様な行いが次々と思い出される。情けない。恥ずかしい。湧き上がる感情に善二は歯軋りをした。なんてことをしてしまったのだろう。


「あ、善二。起きたの?」


 恥辱に顔を歪め力なく項垂れる。

 時期を計ったように現れたのは、自分が傷つけてしまった相手。

 生意気だけど、妹のように思ってきた。大切な筈の娘だ。


「お、御嬢さん!」


 驚いて上体を起こす。

 ずきん。腹筋を使ったせいか腹がまた痛んだ。


「あつっ」

「無理に起きなくてもいいのに」

「あ、いえ、ですがね」


 思わずどもってしまう。

 広間に入って来た奈津はあまりにも普段通り。少なくとも善二には、普段と変わらぬ彼女に見えた。


「まだ痛む?」


 それが彼には奇妙に思えてならない。

 傍に座り、気遣うように奈津が言う。

 何故、彼女は。酷いことを言ってしまった。なのに、なんで。

 善二に彼女の心が分からず、ただ困惑していた。


「え? あ、ああ? はい、ちょっとばかり」

「あいつ、もう少しくらい手加減すればいいのに」

「あー、でも手加減苦手って言ってましたし」

「そう言えばそうね。まったく、融通が利かないんだから」


 くすくす笑う奈津の表情は自然で、どうすればいいのか分からなくなってしまう。

 煮売り酒屋での騒動は一つも余すことなく覚えている。

 妹のように思ってきた。なのに、憎しみをもって傷つけた。彼女の愕然とした顔が、悔しそうに俯く様をみれば、すっと心が晴れた。

 その感覚は今も胸にある。それが悔しくて、あまりにも申し訳なくて。


「……すいません」


 言えたのはそんな陳腐な謝罪。

 いっそ責めてくれた方が楽になる。

 そんなお門違いな恨み言を思い浮かべてしまうくらい、善二は自身の無様さに打ちのめされていた。


「すいません。本当に、すいませんでした」


 もっと気の利いたことを言いたいのに、零れてくるのは拙い言葉だけ。

 でも謝ることを止められない。

 もう何を言っているのか自分でも分からなくなるくらい、うわ言のように繰り返し繰り返し。


「謝らないでいいわよ、別に」


 なのに、返ってきたのは穏やかな声。

 俯いたまま謝り続ける善二の頬にそっと手を添えて、まるで子供をあやすように優しく。

 本当に優しく、奈津は微笑んでいた。


「でも俺、お嬢さんにひどいことを」

「かもね。けど、“それが全てじゃない”。あんたが言ったんでしょ?」


 思い出されるのは、まだ彼女が幼かった頃。

 自身の内に潜む醜悪な鬼を見せつけられた奈津は、それを受け入れず、涙を流し蹲っていた。

 溢れてくる愚痴や不満、目覆いたくなるような嫉妬。

 そんな薄汚いものが自分の本心だなんて、子供だった彼女には認められなくて。


“でも、それが全てじゃない”。


 我儘で多少辛辣だが、優しいところだってあって、父親が大好きで。

 そういうもの全てをひっくるめて御嬢さんなのだと。

 いつかの庭で、善二こそが奈津に教えたのだ。


「そりゃあ、少しは傷付いたわよ? ……だけど知ってるから。もしもあれが善二の本心でも、同じくらい、私のことを大切にしてくれてるって。ちゃんと、知ってる」


 それが、歳月を経て返ってきた。

 強がりなのか、本当にそう思ってくれているのか。

 善二には判別がつかず、しかし思う。

 あの生意気だった娘が、いつの間にかこんなにも優しく笑えるようになった。


「御嬢さん……」

「だからあんたもそんなに気にしないの。お酒の席での言葉を真に受ける程子供じゃないわよ」


 巣立っていく小鳥を見るような気持だったのかもしれない。

 頼りなかった幼い娘が、誰かに手を差し伸べられるくらい大きくなった。

 感慨深いようで、ほんの少し寂しいような。しかしそれを塗りつぶすくらいの暖かさが、彼の胸にはあった。


「でも、すみません。あんときの俺は真面じゃなかった」

「確かにね。いきなり殴りかかってくるんだもの」

「それは……」


 何故だったのだろう。

 きつい筈だった酒。呑んでるうちに慣れたのか、旨く感じるようになった。

 呑んで呑んで、どれだけ飲んでも呑み足りなくて。旨いと思うのに満たされなくて、只管に盃を空けた。

 心地よい気分だった。なのに奈津と話している時、妙に苛立っていた。煩わしくて、鬱陶しくて、とっとと消えろと考えていた。

 傷付けるとすっとした。それくらい彼女のことが憎々しく感じられた。

 甚夜が出てきた瞬間、苛立ち程度では収まらなくなってしまった。

 死ね。殺してしまえ。憎しみが後から後から湧き出てきた。

 そうだ、善二はあの時奈津を、それ以上に甚夜を『憎んで』いたのだ。

 その理由が分からない。酒に酔った勢いでは説明がつかない。

 気が立っていたのではなく、明確な憎しみがあった。殺してしまってもいいと思うくらい、あの男が憎かった。

 それが何故か、自分のことだというのに、善二には分からなかった。


「起きたのか」


 いくら考えても答えは出ない。

 思索に没頭していたが、重々しい響きに心は無理矢理現実へと引き戻された。

 間違いなく今一番合いたくない人の声だ。善二は恐る恐る顔を上げ、上目遣いに声の主を確認する。


「善二。大層な醜態だったそうだな」


 須賀屋主人、重蔵。

 元々厳めしい面をした男ではあるが、今日の重蔵が纏う雰囲気は、普段よりも更に物凄まじい。

 凍り付く、というのはこういう心地か。

 見下すような、汚物を眺めるような、軽蔑に満ちた視線である。


「だ、旦那様……」


 口が渇く。喉が痛い。冬の空気の冷たさとは関係なく肌が引き攣る。

 唾液など出てもいないくせにごくりと喉を鳴らし、緊張の面持ちで次の言葉を待つ。

 長く短い沈黙の後、重蔵は抱石でも押し付けるような無慈悲さで呟いた。


「次はないと思え」


 それは忠告ではなく脅迫であった。

 一言だけ残し、ふいと目線を切り去っていく。

 重蔵の後姿には隠しようもない怒気が宿っており、自業自得とはいえ胃が重たくなる。正直、生きた心地がしなかった。


「あー……なんつーか、どうしよ」

「真面目に働くくらいしかなんじゃない?」

「そりゃそうなんですがね」


 折角番頭を仰せつかったというのにこの有様。

 厳格な旦那様のことだ。少しでも汚名を払拭せねば、最悪小僧からやり直しもあり得る。

 善二は顔を引きつらせながら、崩れるように脱力し方を落とす。 


「取り敢えず、しばらく酒は控えます」

「それがいいわ」


 くすりと零れた笑みに心が温かくなる。

 酒に溺れて醜態を晒してしまった。

 それでも、この笑顔を酔った勢いで壊してしまわなかったことだけは、本当に良かったと思えた。 




 ◆




「おとっつぁん、うちにはもうお酒なんて」

「うるせえ! とっとと酒持ってこい!」


 夜になり、しかし隣の親娘はまだ言い争いを続けている。

 泣く娘と酒飲みの父。お決まりのやり取りだが、最近は随分と激しくなっている。住処にいても響く声に、少しだけ嫌な気分になった。


「おーおー、ようやるわ」


 目の前で座り込んでいる秋津染吾郎は、相変わらず軽薄な作り笑いで、その内心を窺い知ることは難しい。

 持て成しの茶一つ出されていないのが、二人の距離感を如実に表していた。


 聞けば彼は京の生まれらしい。

 普段は根付の職人だが、鬼が出れば付喪神使いとして彼奴らを討つ。

 この男もまた鬼を討つ者ではあるが、甚夜とは在り方が随分と異なる。

 甚夜にとって重きは鬼を討つことであり、染吾郎にとって重きは職人としての己。

 形こそ似ているが、彼等は本質的にまるで別物。

 なにより鬼と人、こうやって同席していても、気を許すにはちと距離が遠すぎた。


「鬼を斬る夜叉……噂は聞いとるよ。君、有名なんやね」


 曰く、江戸には鬼を斬る夜叉が出る。 

 人の口に戸は立てられぬ。刀一本で鬼を討ち払う男の噂は、江戸の町で実しやかに囁かれている。

 染吾郎もそれを耳にしたのだろう。からかうような調子で口の端を釣り上げる。


「そこそこには、な」


 取り合わず適当に返せば追及はない。

 鬼を討つ鬼に興味はあるのだろうが、それは興味でしかなく、不明瞭な答えでも特に気を悪くした様子はなかった。

 そもお互いの関心は何故あんなところにいたのか、その一点に尽きる。二人の交わす言葉は雑談よりも腹の探り合いに近かった。


「お前は何故あんなところに?」

「ちょい野暮用で……じゃ、納得はしてくれんよなぁ」


 先に話を切り出したのは甚夜である

 染吾郎は飄々とした態度を崩さないが、嘘は許さぬとばかりに鋭く目を細める。 

 以前の騒動を最後に一度京へ戻ったようだが、またも彼は江戸に来た。

 ならば何かしらの目的があるのは間違いなく、それが鬼に纏わる厄介事だと想像するのは容易かった。


「ま、別に秘密にしとる訳でもないし、君ならええか。実はな、京でけったいというか、物騒な事件があってなぁ」

「事件?」

「そ。兄が弟を斬り殺したっていう、まあそれだけならよくある悲劇やけどね」


 しかし予想は簡単に覆される。

 彼の話す事件は鬼とは何ら関係のない、誤解を気にせず表現するならば、いたって“普通”の殺しだ。

 確かに物騒ではあるが、染吾郎の言う通り然して珍しいものとも思えない。


「普段やったら僕も気にせんような話やったんやけど、最近似た事件が多くてなぁ。普段は気のいいお人が豹変して周りを殴り散らす。いきなり若いのが暴れ出す。酒飲みの乱闘が、いつの間にか殺し合いに変わる。そんなんが立て続けに起こっとる」


 甚夜の眉がぴくりと吊り上がった。

 そこまでいくと“よくある事件”で終わらせるには多少以上の違和感がある。

 それに、性格が変わったような振る舞い、いきなり暴れ出す男達。何処かで聞いた話だ。


「こらおかしい思て調べてみたら、最初の事件な。弟が酒好きの兄ちゃんに珍しい酒を買うてきて、その晩酒盛りしながら殺されたらしい。他のも、なんや、暴れとるお人はみぃんな酒を呑んどった。しかも銘柄も同じ、江戸から入って来たゆう酒や。そいつになんかある、そう考えるのが普通やろ?」


 余裕めいた表情は真剣なものに変わる。

 成程、どうやら染吾郎が煮売り酒屋を訪れたのは偶然ではなかったらしい。

 彼は今回の件の根幹には奇妙な酒の存在があると、初めから当たりをつけていた。

 甚夜も同じ危惧を抱いており、ならばこうして再会したのは、ある意味必然だったのかもしれない。


「“ゆきのなごり”。僕はそいつの出所を探っとる」


 つまりこの男も、同じものを追っていたのだ




 ◆




 江戸の町は既に寝静まっていた。

 冬の夜は透明で、普段ならば星の光がよく届く。しかし生憎と今宵は曇天。

 分厚い雲に空は覆われ、立ち込める冬の風情に、町並みや景色は色褪せて見える。

 冷たい風を肩で切り、二人夜を歩く。凍てつくような寒さ。問いかける声は白かった。 


「秋津染吾郎。お前はあの酒に関して、どの程度知っている」

「いんや、ほとんどなんも知らんよ。僕が知っとるのはあの酒が憎しみを掻きたてるもんってことくらいやね」


 憎しみを掻きたてる。

 確かにあの時の善二の目には、明確な憎しみがあった。

 殺すことを躊躇わない、苛烈な憎悪。

“ゆきのなごり”がそれを誘起するのならば、煮売り酒屋での一件も納得が出来る。 


「そういう君は?」

「私も同じようなものだ。ただ、この先にはあれを大量に仕入れていた酒屋がある。入荷した途端売り切れていたようだが」

「おー、実際に扱っとった店か。そら興味はあるなぁ」


 張り付いた笑みのまま、切れ長の目が夜の先を捉える。

 深川の近隣は元々湿地帯であり、夜ともなれば冷え込みが厳しい。

 星さえ見えない黒の空、厚い雲。何時雪が降り出してもおかしくなかった。


 辿り着いたのは件の酒屋。

 数日前の昼間、店の前はごった返していた。その為建物まではよく見ていなかったが、近付いてみれば木の傷み具合から随分と古い店だと分かる。

 住宅を兼ねた商家であり、いつぞやの盛況ぶりから考えればこじんまりとした印象だった。


「態々夜に来たってことは?」

「当然忍び込む」

「そういや、君の<力>って姿を消せるんやっけ?」

「ああ。店の者を脅せば多少は話を聞けるだろう」

「あはは、君普通に人でなしやな」

「何を今更」


 当たり前のことを言われても動揺なぞする筈もない。

 無表情のまま静かに目を伏せ、左手を腰のものにかける。

 おかしそうに笑っていた染吾郎も一転ひりつくような気配を纏い、眼前の酒屋を睨め付けた。


「でもま、それくらいはした方がいいんかもね。あの酒はけったいにも程があるわ。これ以上広がるんは、なんやまずい気がする」

「同意見だ」


 だからこそ手段を選んでいる余裕などない。

 憎しみを煽る酒。その先がどうなるかを考えれば、多少人道から外れたとて放置できない代物だ。

 いや、元より人の道なぞ、とうの昔に外れた身。

 ならば今更だろうと甚夜は無表情のまま一歩を進み、其処でぴたりと足は止まる。


「なぁ……」

「ああ」


 引き戸が微かに開いている。戸締りもしないとは不用心な、とも思ったがどうにも様子がおかしい。

 虫の知らせ、予感。断じてそんなものではない。寧ろ慣れ親しんだ感覚に怖気が走る。

 飛沫する脂。鉄錆の香。塗れ味わってきた、ざらついた感触。


「血の匂い……」


 冬の冷たい空気のせいだろう。薄く延ばされた香りが針のように鼻腔を突く。

 だとしても躊躇いはない。引き戸に手をかけ、音を立てぬようゆっくりと開ける。

 踏み入った店内には、いくつもの酒瓶が割られ打ち捨てられていた。

 壁には亀裂、備え付けられた家具も損壊している。

 そして酒の香気さえ消してしまうほど濃密な血の匂い。


「こら、まぁ」


 普段の飄々とした態度を脱ぎ捨て、染吾郎が不快そうに顔を歪める。

 店の土間には死骸が転がっていた。纏った羽織を見るにおそらくはこの店の主人なのだろうが、既に人とは思えぬ程無惨な姿になってしまっている。

 体は血に塗れ、各所が陥没し、関節は在り得ない方向に曲がり、顔は拉げ、頭は柘榴のように潰れている。

 撲殺されたのは間違いなく、だが流石にここまで歪な死体を見るのは初めてだ。


「けったくそ悪い……」


 何度も何度も殴打し、死んでからも殴り続けなければこうは為るまい。

 正義を気取るつもりはない。それでも悪意が透けて見えるような死に方に染吾郎は吐き気を覚えた。


「ないな」


 そんな心境を慮ることなく、いっそ冷酷な響きで甚夜は呟いた。

 死体には目もくれず店内を見て回っていたが、何かを見つけたのか、ある一か所で立ち止まっている。

 凄惨な光景を前にして眉一つ動かさぬ。

 成程、この男は人ではないと改めて実感する。僅かに不快な色を目に宿し、染吾郎は呟きの意味を問うた。


「ないって、なにが?」

「“ゆきのなごり”。一本くらいは残っているかもしれないと思ったのだが」

「前も入荷した途端売り切れたって君が言っとったやん……って、そんだけが理由でもなさそうやな」

「どういうことだ?」


 染吾郎がくいと顎で示す先には、まだ無事だった棚。

 酒が陳列されているのだが、その一か所だけがごっそりと無くなっていた。

 金目のものがありそうな店主の周りにある戸棚は荒らされておらず、酒が置いてあった棚の殆どはひっくり返したように壊されている。

 にも拘らず、この棚だけ傷が全くなく、指で触れてみれば埃も付かなかった。

 おそらく、ここには元々何かが置いてあり、なくなってから時間は然程経っていないのだろう。


「確かに、不自然だな」

「思うに、押し入った輩がおる。ほんでそいつらの狙いは」

「“ゆきのなごり”……しかし、たかだか酒の数本で人を殺すか?」


 話しながら染吾郎は懐に手を入れ、甚夜は夜来の鯉口を切る。

 意識が研ぎ澄まされ、四肢に力が籠った。


「呑んだら人を憎む、なんてけったいな酒や。不合理は今更ちゃう?」

「確かに、常識で測ろうとする方が間違いか」


 一度息を吸い、ぴたりと止める。

 そして、 


「いきぃ、“かみつばめ”」


 間近に迫る三つの影。

 振り返りざま、突き出した腕の先から飛び立つ一羽の燕。

 最高速に達した燕は刃物のごとき鋭さで、背後から襲いかかろうとした黒い影を貫き、更に翻り急降下。

 もう一つの影……赤黒い皮膚の、憤怒の形相をした鬼。その脳天から股下までを切り裂いて見せた。


「ほう、見事なものだ」

「……言っとくけど、やらんからね」


 以前奪われた犬神のことをまだ根に持っているのか、染吾郎は半目で睨んでくる。

 どこ吹く風といった様子で甚夜は抜刀し、刹那の瞬間、暗がりから影が躍り出た。

 赤黒い肌をした鬼だった。隠し様のない殺意を発しながら、染吾郎の方には目もくれず、甚夜に向かって鬼は猛進する。

 技巧のない動きだ。斜め後ろへ左足を退き半身、脇が前から右足を軸に体を回し、捌きと同時に横薙ぎの斬撃。

 憎悪に曇った目では反応さえできない。瞬きする暇もなく、鬼の胴と下半身は綺麗に離れていた。


「そっちこそ、やるなぁ」


 付喪神を扱う術こそ心得ているが、染吾郎自身は体術に長けている訳ではない。賞賛にはからかいではなく、純粋な敬意があった。

 戦いにすらならず斬り捨てられた三匹の鬼。しかし甚夜の表情は苦々しい。


「どう見る?」

「そやなぁ、鬼も酒の匂いにつられてきた、とか?」


 冗談のような物言いだが否定する気にはなれなかった。

 正体の分からぬ酒だ。鬼を呼ぶくらいのことはしてもおかしくない。それを最後に黙り込めば、血の匂いが濃くなったように感じられた。

 どちらからともなく足を動かし、二人は何一つ得る物なく酒屋を後にする。

 染吾郎は店主の死骸を弔ってやりたかったようだが、痕跡を残す訳にもいかず結局は放置したままになった。


「お、雪か……」


 外に出ればまたも雪。

 しんしんと降りしきる白い花。そういえば最近は毎晩のように雪が降っている。

 感慨がある訳ではない。雪は確かに綺麗だが、遮られる視界が先行きの見えぬ現状と重なり、今は寧ろ煩わしく感じられた。

 だからという訳でもないが、甚夜は灰色の空を睨み付ける。

 見上げた先に広がる曇天。今も雪が止むことはなく、頬に触れる雪の冷たさにほんの少しだけ寂寥を覚えた。


「嫌な空だ」


 冬の曇天も風情だが、好みで言えば星空がいい。

 降り頻る雪より、青白い星月夜を美しいと感じるのは、いつかの川辺を覚えているからだろう。

 ああ、そう言えば。

 昔見上げた夜空はもっと綺麗だったように思う。

 あの時の想いからは、随分と離れてしまったけれど。



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