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『鬼と人と』・2


 歳月を重ねれば記憶も薄れる。

 ただあの夜、雨が降っていたことだけは今も覚えている。




 ◆




 甚太と鈴音は親に捨てられた子供だ。正確に言えば鈴音が、である。

 二人が生まれたのは江戸のそれなりに裕福な商家で、幼い頃は何不自由のない生活をしていた。

 母は妹を産んだ時に死んだらしい。それ以来父が男手一つで生活を支えてきた。

 商売で忙しいだろうに、時折好物の磯辺餅を焼いてくれたり、遊びにも連れて行ってくれる。仕事に関しては真面目で厳しい人だったが、甚太にとっては優しい父だった。

 そんな父親に感謝し尊敬もしていたが、どうしても我慢ならないことが一つだけあった。


 父は、妹の鈴音には風当たりが強かった。


『これ』は私の娘などではない。

 ほとんど憎しみと呼べる程の視線を向け、虐待していたのである。

 幼心に甚太は、妹が生まれたから母が死んだ、父はそう思っているのだろうと考えた。

 だから父を責めることはしなかった。代わりに少しでも妹が安らかに過ごせるよう心を砕いた。

 鈴音は唯一自分に優しくしてくれる兄に大層懐いた。

 父はそんな甚太を戒めたが、それでも止める気はない。右目にいつも包帯を巻いた妹。おそらくは父に何かをされたのだろう。妹が更なる虐待を受けないようにいつも鈴音の傍にいた。

 甚太は父が好きだったし、妹も好きだった。

 家族の形を守ろうと子供ながらに必死だったのだ。


 しかし終わりは唐突に訪れる。


 甚太が五歳の時、父は珍しく鈴音と二人で出掛けた。

 鈴音は今までに無い程はしゃいでいた。自分に辛く当たっていた父が優しくしてくれる。それだけで嬉しかったのだろう。甚太もまたその変化を喜び、出かける二人を見送った。

 夕刻。

 帰ってきたのは父だけだった。

 意味を悟り、甚太は家を出た。道行く人や近くの茶屋に聞き込み、父と妹の足跡を探る。

 いったいどれだけ走っただろう。息を乱し、記憶が朦朧とするほどに只管走り、鈴音の行方を追った。

 江戸を離れ街道まで出る。聞いた話では父はこちらに向かっていったらしい。

 日が完全に落ち、宵闇は辺りを包み込む。雨まで降り出して視界は悪い。大声で縋りつくように妹の名を呼ぶ。

 走って、転んで、そんな事を繰り返し。ようやく視線の先に妹の姿を捉えた。

 街道の端で生い茂る木々。

 風景へ溶け込むように希薄な少女。

 泣くこともせず雨に打たれる鈴音の姿を見つけた。


 幼い妹は何をするでもなくただ茫然と立ち尽くしている。

 街道に捨てられたならば帰り道が分からないということはない筈だ。

 それでも戻ってこなかったのは理解していたから。


 自分には帰る場所などない、と。


 やっと見つけた妹。

 救う手段を持たぬ己。

 無力感に苛まれながら声を絞り出す。


 ──雨……強くなってきたな。

 ──うん……。


 返す言葉は雨音に負けてしまうくらい弱かった。


 ──鈴音、ごめんな。何も出来なくて。


 なのに、鈴音は笑った。


 ──ううん、大丈夫。にいちゃんが一緒にいてくれるなら、それでいいの。


 いったいどれだけの痛苦に耐えて紡がれた言葉だったのだろう。

 無邪気に微笑む鈴音の表情から読み取ることは出来なくて、けれどその笑顔に少しだけ救われた気がした。

 どちらからともなく手が延ばされ、しっかりと繋がれる。

 こうして二人は江戸を離れ歩き始めた。

 もう甚太にとってもあの家は帰る場所ではなくなってしまった。

 行く当てなど何処にもない。 

 だけど手を繋いだ妹は嬉しそうに笑っていた。


 ……そして知る。

 父が何故あれほどまで鈴音を憎んでいたのかを。


 妹が生まれたその時に死んだ母。

『これ』は自分の娘ではないと言い続けた父。

 雨に打たれ水を吸い、重さで垂れ下がる包帯。

 初めて見る鈴音の両の目は、穏やかに彼を見つめている。






 鈴音の右目は赤かった。






 ◆


 報告を終え、二日ぶりに家へ帰り、一夜が明けた。

 社のある高台の下、それほど遠くない場所に甚太の家はある。

 藁を敷き詰めた屋根に家の周囲は土壁と杉の皮を張った、昔ながらの造りの家。

 玄関兼台所の土間と、いろりのある板の間と畳敷きの寝室が二つ。

 然程大きいという訳でもないが妹と二人で住むには十分すぎる。この家は巫女守となった十五の時に与えられたものだ。


「鈴音、もう朝だぞ」


 すうすうと寝息を立てる鈴音を揺さぶる。

 しかし目を覚ますどころか、「まだねむい」とますます体を丸めてしまう。

 思わず笑みが零れた。妹の幼げな仕草に心が温まる。葛野に移り住んでから既に十三年、寝起きの良くない妹を起こすのは日課であり、一種の道楽になりつつあった。


 まだ起きようとしない鈴音を眺めながら、ほんの少しだけ昔のことを思い出す。

 遠い雨の夜。さ迷い歩いていた二人をこの集落に連れてきたのは、鬼切役を受け、江戸へ続く街道を訪れた元治である。

 そして二人の葛野への在住を認めたのが先代のいつきひめ、夜風だった。

 いつきひめには親族といえど直接会うことは出来ない。故に白雪はほとんど母に会ったことがなかった。

 負い目を感じていたせいか、元治は家族が増えることを純粋に喜んだ。白雪もまた母に会えぬ寂しさがあったのだろう、兄妹とすぐに打ち解けた。

 葛野の民は当初こそ集落に入り込んだ異物に戸惑っていたようだが、しばらくすればそれもなくなり、二人は葛野の民として新たな生活を歩み始めた。

 以来二人は先代のいつきひめが逝去し、白雪が白夜になるまでの五年間を幸福の内に過ごすこととなる。


「お前は、変わらないな」


 手櫛でそっと鈴音の髪を梳く。

 思い出の中の鈴音と、眠っている鈴音を見比べる。この娘は本当に変わらない。葛野へ移り住んでから、何一つ変わっていない。

 十三年前四歳だった鈴音は、十三年経った今、四歳のままだった。

 あの頃から僅かも成長していない。相変わらず、幼い妹のままで鈴音は眠っていた。


「いい加減起きないか」

「ん、おはよう……にいちゃん」


 強く揺さ振ればようやく目を開き、ゆっくりと体を起こす。

 しかしまだ目が覚めた訳ではないらしく頭はゆらゆらと揺れていた。


「起きたなら顔を洗え。食事は用意してある」

「はーい……」


 鈴音の額を人差し指でぴんと弾く。頭をふらつかせながらも起き上がり、のたのたと土間へ向かう。思わず苦笑の零れる、いつも通りの朝だった。






 麦飯と漬物だけの質素な朝食を終え、出かける準備を整える。

 今朝方、社の使いが訪れ、今日はいつもと時間をずらし午の刻九つ、つまり正午に社へ向かえばいいと通達があった。

 おかげでいつもより大分のんびりとした朝の時間を過ごしている。

 それが嬉しいのだろう、鈴音は甚太の膝に乗って甘えるように背を預けている。

 その様が殊更愛おしく、されるがままになっていた。時折目の前にある赤茶の髪を手櫛で梳き、幼い妹が楽しそうに笑うのをただじっと眺める。


「んー? なにかついてる?」


 頬を緩ませて、鈴音は見上げる。

 しっかりと巻いていなかったのか、右目を隠す包帯が少しばかり緩んでいた。


「包帯、ずれているぞ」

「あ……」


 指摘され慌てて包帯を直す。鈴音は今でも右目を隠している。

 赤眼は鬼の証。そのせいで父に疎んじられていたのだと知った鈴音は決して人に赤目を見せようとはしなかった。

 もっとも今はそんなことをする意味はないのだが。

 甚太達が葛野の地に住み着いて長い年月が過ぎた。しかし鈴音はいまだ四、五歳の幼子にしか見えない。

 そして隠した右目。これだけの要素があれば、誰もが答えに辿り着けるだろう。

 だが葛野の民は誰一人としてそのことに触れようとはしなかった。

 長も、決して好意的ではないが、鈴音の秘密を敢えて問い質すことはしない。清正でさえ鈴音をなじるような言葉は口にしなかった。


「私達は幸せだな」


 今では故郷と呼べる場所になった葛野。

 流れ者である甚太を、鬼である鈴音をこの集落は受け入れてくれた。

 此処へ連れて来てくれた元治には感謝してもしきれない。


「すずはにいちゃんがいるならいつだって幸せだよ?」

「そうか」


 目の前で赤茶の髪が揺れている。

 しかしふと鈴音は幼い瞳で甚太を静かに見つめた。


「……でも、きっと。にいちゃんはひめさまと一緒の方が嬉しいんだよね」

「む……」


 答えにくい問いだった。

 どう返そうかと一瞬悩むが、鈴音の方はすぐに言葉を続ける。


「やっぱりにいちゃんはひめさまと結婚したい?」

「いいや」


 今度は迷いなくきっぱりと否定する。

 それは立場を気にしてのことではなく、彼の素直な気持ちだった。


「それって、ひめさまがひめさまだから?」

「そうではない。……今更隠しても仕方ないな。確かに私は白雪を好いている。だが私は白雪と夫婦になりたいと望んでいる訳ではないんだ」

「好きなのに?」

「だからこそ、だな」


 意味が分からなかったのか、鈴音は不満そうに頬を膨らませる。

 それが殊更幼く見えて、窘めるように頭を撫でた。 


「私は白雪を好いている。だがそれ以上に、白夜を尊いと思う。そういうことだ」

「分かんないよ。だって好きな人とはずっと一緒にいたいって思うもん」

「私だってそうだ。だがきっと私は人より不器用なのだろう」

「にいちゃんはひめさまが好きなんだよね?」

「ああ、そうだな。……我ながら儘ならぬものだ」


 噛み合わない会話は不意に途切れた。

 しばらく無言の時が続き、一度体を小さく震わせた鈴音は縋りつくように体を摺り寄せる。甘えているのではなく、怯えているのだ。何故かそう思った。 


「にいちゃん」


 触れ合える距離、暖かさを感じて。

 だというのに、鈴音が迷子のように見える。

 この娘は何をそんなに怯えているのだろう。それが甚太には分からなかった




 ◆




 砂鉄と炭は同時に火をかけると、燃え上がる炭の隙間を落下する間に砂鉄は鉄へと変化する。

 この時使用する炭のことを俗に『たたら炭』と呼び、楢や椚を完全に炭化しない程度に焼いたものが一般的であった。

 これは製鉄において重要な要素であるため、葛野の地でも定期的にたたら炭作りが行われている。

 その時期には住居の立ち並ぶ居住区からも見えるほどに煙が朦々と立ち込め、同時に鉄を加工する鍛冶師達の奏でる槌の音と混ざり合い、葛野は得も言われぬ雰囲気に包まれる。

 製鉄には携わらない甚太ではあるが、騒々しい集落の様子は気に入っていた。


 立ち上る煙を遠くに見ながら、愛刀を腰に携え社へと向かう。

 そろそろ正午。時間としてはちょうどいいだろう。遠くからは、かぁん、と何度も鉄を打つ音が響いている。それを心地よく感じながら歩き、しかし道の途中、嫌な顔と出くわした。


「よう、甚太じゃねえか」


 清正である。

 どうやら社からの帰りらしい。相変わらずのにやついた笑みを浮かべ、右手には何か包みを持っている。それをぶらぶらと揺らしながら小馬鹿にしたような表情で言葉を続けた。


「今から白夜の所か? ああ、朝はお前だけ呼ばれなかったみたいだしな」

「清正、不敬だぞ」


 自分のことは棚に上げてその発言を諫める。

 果たしてその理由は本当に不敬だったからなのか、自身にも理解できなかった。


「いいんだよ、別に。本人がそう呼べって言ったんだからな」

「それはどういうことだ」


 睨みつけてもにたにたとした笑いを止めようとはしない。

 随分と機嫌が良さそうだが、機嫌が良かろうが悪かろうが鬱陶しいことには変わらなかった。


「おぉ怖い怖い、そんなんじゃ女にもてねぇぜ?」


 清正は初めて会った時から人を小馬鹿にしたような態度で接してくる。

 理由は分からないが、あからさまな敵意を向けられることもあった。正直に言えば付き合いたくない手合いである。


「用が無いならもう行くが」


 巫女守という立場故に冷静を演じてはいるが、元々甚太は沸点の低い男だ。

 表情こそ変わらないものの内心かなり苛立っていた。


「っと、忘れるところだった。ほらよ」


 そんな彼に向けて、清正は言葉と同時に包みを投げ渡す。

 意味が分からず甚太は怪訝そうに眉をしかめる。


「なんだこれは」

「饅頭だよ、行商が来てたから買っといた」


 思わず思考が止まった。

 何故、この男が自分に饅頭など渡すのだろうか。

 脈絡のなさに本気で頭を悩ませる。それに気付いたのだろう、清正は顔を歪めて付け加えた。


「お前にじゃねえ、鈴音ちゃんにだ。あの娘はほとんど外に出ねぇからな」


 その発言もまた意外だった。

 友人同士でもあるまいに、妹を気遣われる理由がない。言葉の裏を読もうとじっと観察していると、ふいと清正が視線を逸らす。


「鈴音ちゃんだってたまにゃ甘いもんでも食べてぇだろ」


 ぶっきらぼうなその声音に理解する。

 どうやら純粋に鈴音を気遣ってのことらしい。正直思ってもみなかった行動に未だ動揺を隠せないが、とにかく頭を下げる。言いたくはないが、礼を返さない訳にもいかない。 


「……すまん、感謝する」

「ちっ、お前からの礼なんて虫唾が走る。そんなもんいらねぇからちゃんと渡せ」

「ああ、そうさせてもらおう。だが何故お前が鈴音を気遣う?」


 この男ならば自分を罵倒する材料にこそすれ、気遣うようなことをするとは思えない。

 だから彼の行為の意図を探りたかった。


「……そりゃ、似た者同士だからな、俺もあの娘も。だから苦しみも分かるさ。俺は鈴音ちゃんほど強くなれねーけどよ」


 意味の分からない言葉だけを残し、清正は横を通り過ぎていった。

 離れていく背中は何処か力がないように思えた。




 ◆




「おお、来たか」


 社殿に顔を出した瞬間、安堵したように長は息を漏らした。

 他にも集落の権威たちが揃って顔を突き合わせている。いったい何事があったのか。不思議に思いながらもまずは御簾の前で正座し、白夜へと礼を取る。


「巫女守、甚太。参じました」

「……貴方を待っていました」


 御簾越しでは表情は見えない。しかし硬い響きに、白夜の緊張が伝わってくる。

 社殿の不穏な空気に戸惑いながらも次の言葉を待つ。


「本来ならばこのまま社の守を務めて貰う筈だったのですが……」

「そういう訳にもいかなくなった。つい先刻、集落の娘から聞いた話だ。『いらずの森』へ薬草を取りに行った時、微かながら木陰に蠢く二つの影を見たそうだ。その影のうち一つは、とてもではないが人とは思えぬような巨躯をしていたらしい」


 白雪が濁した先を長が継いで説明する。

 二つの影。成程、そういう話かと甚太は表情を引き締め直す。

 そもそも巫女守がいつきひめの護衛よりも優先しなければならない事態など多くはない。

 山間の集落において怪異は実存の脅威。それを払うために、巫女守は在るのだ。


「つまり」

「ええ、鬼切役です。甚太よ、貴方はいらずの森へ行き、異形の正体を探りなさい。そしてそれが葛野に仇なすものならば討つのです」


 背筋が伸びる。

 与えられた命を自身の内に刻み込めば、自然と目は鋭く変わった。

 答えなど初めから決まっている。甚太は、力強く白夜に応えた。 


「御意。鬼切役、確かに承りました」




 ◆




『いらずの森』は葛野を囲うように広がる森林、特に社の北側一帯を指す俗称である。

 鬱蒼と生い茂る草木の中には山菜や煎じれば薬となる草花も採れる為、集落の女が踏み入っては籠一杯の野草を持って出てくることも珍しくない。

 名前から受ける印象とは裏腹に、この森は葛野の民にとって生活の一部と言っていいほど近しいもので、一体どのような謂れをもって『いらずの森』と呼ばれているのか、それを知る者は殆どいない。


 説話ではマヒルさまは元々この森に棲んでいた狐だった、とも言われているが、事実かどうかは定かではない。

 結局のところいらずの森は、葛野の民にしてみれば「山菜や野草の採れる場所」以上の意味はなかった。


「じ、甚太様、こっちですっ!」


 異形の影を見たという娘、ちとせに案内されて森へ足を踏み入れる。

 顔を顰めてしまうほどに濃い緑の匂いは近付く夏のせいだろう。青々と茂る森はそこだけが切り取られてしまったかのような錯覚を覚える。


「随分と深くまで来たな」


 ちとせは白雪よりも五つか六つは下だがタタラ場の女、体力はあるらしくかなりの距離を歩き森の奥まで来たが息は少しも乱れていない。獣道をひょいひょいと歩いていく。


「この辺りは繁縷(はこべ)がよくとれるん、ますので」


 繁縷は小さな花だが、煎じれば胃腸薬となる。

 薬屋など滅多に来ない山間の集落では自生する薬草を定期的に収穫するのは必須であり、大抵の場合それは女の仕事だった。


「今日の朝、です。此処に繁縷を取りに来たら甚太に、様よりも一回りはおっきい影が見えて、それで、その」


 緊張のせいか、まだ年若い娘であることを差し引いても、説明は要領を得ない。

 しかしそれよりも気になるのは、彼女の言葉遣いだ。


「ちとせ……別に様はいらんし、話しにくいなら普通でいい」

「いえっ、巫女守様にそんな無礼は」


 少女の態度に思わず溜息が漏れる。

 巫女守は本来いつきひめの護衛だが、巫女に関わらぬ者達にとってはそれ以上に集落の守り人である。

 そのため、長や集落の権威達は兎も角として、住人の殆どは葛野の守護者たる巫女守に敬意をもって接する。

 分かっているが、ちとせの様付けはどうにも違和感があった。


「甚太にい、で構わんのだがな」

「そ、それは……」


 にやりと口元を上げれば、ちとせの頬が真っ赤に染まる。

 今でこそ様付けで呼んでいるが、数年前までちとせは甚太のことを「甚太にい」と呼んでいた。

 彼女は、父に虐待され同年代の子供と遊ぶことに引け目を感じていた鈴音の、初めての友達だった。その縁で甚太とも知り合い、幼い頃はそれなりに親しくしていた。

 鈴音は初めてできた友達に大層喜び、一時期は甚太達といるよりもちとせと遊ぶことを優先していた時期もあった。

 二人で手を繋いで辺りを走り回る、その後姿は今でも覚えている。少しだけ寂しさを感じながらも、そんな妹を微笑ましく思っていた。


「こうやって話すのも久しぶりだ」

「……はい」

「元気でやっていたか」

「はい。それだけが取り柄、ですから」


 けれど、いつの頃からか二人は一緒に遊ばなくなってしまった。

 何故だったろう。思索を巡らせ、思い至り眉を潜める。


『鈴音ちゃんは小っちゃいね』


 ああ、そうだった。

 段々と成長するちとせ。変わらずに幼子で在り続ける鈴音。見せつけられた、鬼の血を引いているという事実。思い出した。初めて出来た友達を失いたくなかった鈴音は、自分から手を離してしまったのだ。


「嫌われたな」


 軽く笑いながら零した冗談めかした言葉に、ちとせが食って掛かる。


「そんなわけなっ、ありま、せん。でも……」


 しかしすぐ尻すぼみになり口ごもってしまう。やはり以前のように話すことは難しいらしい。

 ちとせと鈴音が疎遠になり、自然と甚太とも話すことはなくなった。それから長い年月が過ぎた今、ちとせにとって甚太は『甚太にい』である以上に『巫女守様』なのだ。彼女の畏まった態度に、今更ながら白夜の気持ちが分かる。


「成程、自分ではないというのは中々に窮屈なものだ」

「え?」

「いや、独り言だ。案内は此処まででいい」


 左手は愛刀に添えられ、親指が鍔に触れる。静かに息を吐き、周囲に意識を飛ばす。

 森の中に音はない。虫の音どころか葉擦れさえ聞こえぬ、全くの無音となっていた。


「そう、ですか?」

「ああ。お前は暗くなる前に帰れ」

「分かりました。それでは、失礼します」


 甚太の雰囲気が変わったのを察したのか、単に言われたからなのか、ちとせは素直に集落の方へと向かった。しかし二歩三歩進み、足を止めてしまう。


「どうした」


 声を掛ければ彼女は振り返り、遠慮がちに、おずおずと口を開いた。


「……あの、鈴音ちゃん、元気?」


 懐かしい景色が、目の前にある。

 それは、まだ幼かった『ちとせ』からの問いだった。


「……元気だよ。相変わらず寝坊助だけど」


 だから返すのは『甚太』でないといけない。

 その態度が意外だったのか、ちとせは驚きに目を見開き、歳よりも更に幼く見える満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございますっ、それじゃ今度こそ失礼、しますね!」

「気を付けてな」

「はいっ、甚太に、様もお気をつけて!」


 元気よく手を振りながら走り去っていく。思わず口元が緩んだ。ちとせの後ろ姿が、遠い昔、甚太にいと自分を慕ってくれた頃の彼女を思い起こさせる。

 だから嬉しく……その傍らに、誰かの姿がないことがほんの少しだけ悲しかった。

 そして思う。

 甚太と白雪、そして鈴音。三人はいつも一緒にいた。

 しかし考えてみれば、鈴音が甚太の傍を離れようとしなくなったのは、ちとせと疎遠になってからだった。

 あの幼い妹は、初めての友達と離れ、いったい何を思ったのだろう。

 寂しさ。孤独感。言葉にすれば簡単だが、鈴音が抱えているそれは思った以上に根が深いのかもしれない。


「情けないな、私は」


 遠い雨の夜から歳月を経て、少しくらいは強くなって。

 だというのに何一つ救えぬ己の無様さに辟易する。随分と昔、元治は「変わらないものなんてない」と言っていた。

 しかし今ここにいるのはあの頃から少しも変わらない自分だ。いつだって、守りたいものをこそ守れない。


 沈み込む思考。しかし今は感傷に浸っている場合ではない。頭を振って余計な考えを追い出す。

 不意に見上げれば生い茂る初夏の若々しい葉が空を隠している。僅かに辿り着く木漏れ日がやけに眩しく映り、濃い樹木の香りに胸が詰まる。

 音は相変わらずなかった。

 虫の音も、葉擦れの音さえない、静かの森。

 場所は変わっていないのに、まるで異界へ迷い込んでしまったような錯覚。違和感に親指は自然と鯉口を切っていた。


 突如、空気が唸る。


 無音の森に音が戻ったかと思えば、七尺を超える巨躯が姿を現し、上から下へ叩き付けるように拳を振り下す。だが大した動揺はない。無表情のまま甚太は後ろへ大きく飛ぶ。

 どごん、と鈍い音が響いた。

 足元が揺れる。地震かと思う程の振動。見れば先程まで立っていた場所は見事に陥没していた。土煙が上がる中、襲撃者は膝を突き、まじまじと地面を眺めている。


『不意を打ったつもりだったのだがな』


 拳をゆっくりと引き、徐に立ち上がる。

 赤黒い皮膚。ざんばら髪に二本の角。筋骨隆々とした体躯は、四肢を持ちながらも人では辿り付けぬ、異形と呼ぶに相応しい規格外の代物だった。

 そして、瞳は、赤い。

 土煙が晴れた時、其処には鬼は凝然と佇んでいた。


「昼間からご苦労なことだ」


 鬼のあまりにも分かり易い容貌に、こんな状況でも微かな笑いが零れた。

 しかしそれも一瞬、直ぐに表情を引き締める。


『成程、確かに鬼が動くのは夜だと相場が決まっている。が、別に夜しか動けん訳ではない。有象無象どもならばともかく、高位の鬼は昼夜を問わず動く者が殆どだ』

「つまり自分は高位の存在だと? 鬼にも特権意識があるとは驚きだ」


 鼻で嗤う。視線は逸らさぬ。鬼の一挙手一投足に注意を払う。

 鬼の方も戦い慣れているのだろう、無造作に見えて甚太を警戒し、間合いを一定に保っていた。


『鬼探しにおなごを連れてくる貴様よりは真面だろう』


 表情を変えもせず揶揄してくる。

 小さく舌を打つ。ちとせを連れていたことどころか鬼を探していたことさえ知られていた。どうやら随分前から見られていたようだ。


「見ていたならばその時に襲えばいいものを」


 ちとせと共にいる瞬間を狙われたとすれば、ああも上手く避けることは出来なかったろう。

 だというのに何故鬼は態々好機を不意にしたのか。

 純粋な疑問だったが、鬼は不快そうに顔を顰めた。


『趣味ではない』


 こちらの様子を覗き見ていたのは何か腹があってのことではないらしい。

 馬鹿にするな、とでも言いたいげに歪む表情。鬼の反応は実に理性的で、真っ当な怒りを感じさせた。

 不意打ちはしても女を狙うような真似はしない、ということか。

 鬼は千年近い寿命を持ち、生まれながらにして人よりも強い。脆弱な人の放つ侮りの言葉は、この鬼の矜持に傷をつけたのかもしれない。

 言葉を交わしながらも構えは解かず、僅かに腰を落とす。呼応して鬼が拳を握りしめる。


「さて、鬼よ。此処から先は我らが領地だ。立ち去れ」

『聞くと思うのか?』

「いいや」


 鬼は甚太の背後、葛野を遠くに眺めている。

 やはり鬼は葛野へと向かっていたらしい。巫女守は集落に仇なす怪異を討つ。ならば甚太の取るべき態度も一つである。


「聞かなくても別に構わん。今この場で斬り伏せれば同じことだ」


 一歩を進み抜刀。脇構えを取る。

 元から話し合いで済むとは思っていない。鬼は何かしらの目的をもって葛野へと向かっていた。

 ならば口で言った所で止まる訳がないし、こちらはそれを見逃せない。衝突は自然の流れだった。


『そちらの方が俺の好みだ』


 木々の生い茂る森の中。しかし幸いにもこの辺りは多少開けている為、動きが制限されることもない。

 目を細めて見据えれば、対峙する鬼も既に構えている。お互い軽口は此処まで、ということだ。

 合図もなく甚太は左足で地を蹴り距離を詰める。

 流れるように上段へ。勢いを殺さぬままに跳躍、峰が背中に付くほどに振り上げ、全力を持って脳天に叩き落とす。

 対人の術理としては下の下。飛び上がっての大振りなど殺してくれと言わんばかりだ。

 しかし固い表皮を持つ鬼は生半な刀では傷一つ付かず、小手先の剣術では打倒できない。

 鬼を討つには一太刀一太刀が必殺でなければ意味がない。それ故の一刀だった。

 鬼は静かに息を吐いた。腕を交差し、真っ向から受けて立つつもりらしい。

 だが嘗めるな。

 己が振るうは葛野の業をもって練り上げた太刀。生半な武器では通さぬ鬼の皮膚さえ裂くぞ。

 揺らぎない絶対の自信に気付いたのか、鬼は防御の体勢を途中で解き後ろに下がる。

 しかし遅い。切っ先、僅かに一寸ながら太刀は鬼を捉え、胸板に傷を負わせた。刀傷から流れる血は赤い。鬼の血も赤いとは何の冗談だろうか。


『……なかなかやる』


 大した痛みは感じていないようだ。鬼は甚太を見てどこか楽しそうに笑っている。

 その余裕が気に食わない。

 更に詰めよるが、それを阻むように繰り出される拳。体の動かし方など知らぬ児戯、迫り来る甚太に向けて突き出しただけのものだった。

 だが侮ることは出来ない。

 相手は鬼、ただ振るわれただけの拳だが、そもそも人とは膂力が違う。術理など一切を無視した、力任せの拳でさえ致死の一撃となる。


 踏み込んだ右足を軸にして上体を揺らし、あくまで小さな動きをもって突き出された鬼の右腕を掻い潜る。

 体を動かす先は突き出された拳、伸びきって動かなくなった腕の外側。

 刀を返しもう一度横薙ぎ、ただし今度は逆からの剣閃だ。畳まれた腕、力は出しにくいが腰の回転で不足を補う。

 伸び切った腕の下を平行に白刃は流れ、狙うは右腕の付け根。この一撃で腕の自由を奪う。


『させないわよ』


 しかし、突如女の声が響く。

 甚太は体を無理に引っこ抜き左方へと流した。当然白刃は鬼の体から離れ、狙った場所を切り裂くことは叶わなかった。

 嘆いてばかりもいられない。すぐさま体勢を立て直し大きく後ろに下がり距離を取った。勿論こんな行動を取ったことには理由がある。


『危なかったわね』


 何時の間に現れたのか。三つ又の槍を構えた着物姿の女が現れ、突進する甚太の顔へ目掛けて刺突を繰り出したのだ。

 それを避けるためには軌道を無理矢理変更するしかなかった。


「二匹目、か」


 女の肌は青白く、その瞳はやはり赤い。

 軽い舌打ち。初めに『二つの影を見た』と聞いていた。しかし現れた鬼は一体。ならばもう片方が何処かに潜んでいると想定してしかるべきだった。

 だというのに周囲への警戒を怠り、折角の好機をふいにしたのは己の未熟。自身の迂闊さに腹が立つ。

 結局今の攻防で手傷を負わせることは叶わず鬼は悠々と立ち並んでいた。


『助かった……ということにしておこう。しかしあの動き。あれは本当に人か?』


 どうやら鬼達はそれなりに親しい仲らしい。

 傍目には友人か何かのように見える。


『さあ? でもあの男の子は……確か、鈴音ちゃんだっけ? あたし達の同朋と長く一緒にいたみたいだし、案外あたし達に近付いているのかもね』




「そうか。今すぐ死ね」




 何故鈴音のことを知っている、などとは疑問にさえ思えなかった。

 ふざけたことを言い切るよりも速く踏み込み、濃密な殺意を持って繰り出される剣撃。

 鬼女の首を狙ったその一刀は、あまりにも無様な大振りだった。


『ふん』


 当然その剣は、間に割り込んだもう一方の鬼によっていとも容易く防がれる。

 腕が羽虫でも払う様に振るわれる、それだけのことで刀は軌道を変えた。

 甚太の表情が歪む。

 あの鬼女を斬り殺すことは出来なかった。苛立ちに顔を歪め、冷静さを失っている自分に気付き、もう一度間合を離す。

 そして激情に飲み込まれぬよう深く呼吸する。しかし平静はまだ戻らず、視線は憎々しげに鬼女を捉えていた。


「鈴音が、貴様らの同朋だと? 取り消せ。あの娘は私の妹だ」

『おおこわ。ホント、私達より鬼らしいんじゃない? でも妹想いってところは評価できるわ』


 飄々と殺気を受け流す。

 甚太の怒りなどどうでもいいとばかりに、巨躯の鬼は横から言葉を発した。


『首尾は?』

『上々よ、ちゃんとこの目で確認できたからね。間違いない、あの顔は私が<見た>まんま。でもよかったわ、ちゃんといて。自分の<力>だけど流石に荒唐無稽過ぎて信じられなかったのよね』

『お前の<遠見>が間違っているなどという心配はしておらん。この地にいると見たなら確かにいるのだろう。俺が心配しているのは遊んで目的を忘れて帰ってきたのではないか、ということだ』

『……何そのお父さん発言。チョーキモいんですけど』


 敵を前にして、無防備に二匹の鬼は雑談を交わす。

 いや、無防備は鬼女の方だけ。巨躯の鬼はこちらの動向を警戒し、視線と僅かな動作で甚太を牽制していた。


『ちょうきもい……? なんだそれは』

『この前<遠見>で見た景色の中にいた鬼の言葉よ。浅黒い肌で白く眼の周りを縁取りした、えらく派手な服装をした山姥やまんばっていう鬼女のね。すごく気持ち悪いって意味らしいわ』

『その鬼は独特の言語体系を持つのか。成程、興味深い。というか後で殴るからな』

『ええ、そいつは昼間でも動ける鬼みたいだし、案外高位で知能も発達してるのかもしれないわね。つか女に手ぇ上げるなんてサイテーねアンタ。マジムカつく』


 鬼ども鬼は甚太の存在を無視して盛り上がっていた。

 その様を眺めるしか出来なかったが、くだらない言い争いのおかげで少し間が取れたのは幸いだった。

 落ち着け、激昂するままに斬り掛かって勝てる相手ではない。

 呼吸を整え、一歩前に出る。


「くだらない話はそこまでにしてもらおうか。貴様ら、目的は何だ。何の為に葛野へ向かう」


 刀を突き付けて問う。

 もっとも本当に返ってくるとは思っていない。どちらかと言えばこの行動の意味は普段の自分を取り戻すための時間稼ぎだ。


『目的……言うなれば未来、だな。我ら鬼の未来。その為にだ』


 しかし意外にも鬼は素直に答えた。

 表情はいたって真剣。嘘を言っているようには見えず、だからこそ甚太は少なからず動揺する。

 更に問い詰めようとするが、いかにも退屈そうに鬼女が欠伸をした。


『取りあえずの目的は達成したんだし、そろそろ帰らない?』


 ぐっと伸びをして、三又の槍を肩に担ぐ。

 鬼女は返答も待たず甚夜へと背を向けた。巨躯の鬼もそれに同意し、主想う句頷いて見せる。


『ふむ、確かにそうだな。人よ、詳しいことが知りたいならば追って来い。今は森の奥の洞穴を根城にしている』

「そして罠を張って待ち構える、か?」

『さて。しかし一つ言っておこう。鬼は嘘を吐かん。人と違ってな』


 にたりと笑みを浮かべて鬼は去っていく。それを止めることはしないし、できない。流石に二体を同時に相手取るのは無謀だ。去るというのならそちらの方がいい。

 だが奴らは何かの目的をもって葛野に侵入しようとしていた。おそらく長が言ったように白夜か宝刀・夜来のどちらか。ならばもう一度相見えることになる。

 そしてその時は、巫女守として言葉通り身命を賭した戦いに挑まなければならないだろう。

 恐怖を感じることはない。元より自身が選んだ道。違えるつもりなど端からなかった。


「儘ならぬものだ」


 しかし自身の選んだ道の険しさを前に、甚太は小さく溜息を吐いた。





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