『花宵簪』・1
嘉永七年(1854年)・夏
江戸の夏の風物詩を語るならば、浅草寺の四万六千日は外せないだろう。
観音菩薩の縁日といえば毎月十八日というのが一般的であるが、室町時代以降これとは別に功徳日というものが設けられている。
功徳日に参拝すれば大きな功徳が得られると言われ、中でも七月十日は千日分と最も多く「千日詣」とも呼ばれた。
浅草寺ではこの日を「四万六千日」と言い、参拝すれば四万六千日分に等しい功徳が得られるとされている。
さて、浅草寺の四万六千日に一番乗りで参拝したいという民衆は多く、前日から大層な人出となる。
こういった大きな縁日では、参拝客目当ての市や祭りが催されるのは通例だった。
浅草寺でも「ほおずき市」が開かれ、参拝客は仲見世の商店街を練り歩きながら、この盛大な市を楽しむのだ。
「ってなわけで、どうだ? 明日のほおずき市、俺達も行かないか?」
茹だるような夏の日のこと。
善二は喜兵衛に入って来た途端、とうとうとほおずき市について語り始める。
彼も江戸っ子、この手の騒ぎには目がないらしく、随分と興奮した様子だ。
「あぁ、もうそんな時期ですかい」
店主が感慨深げに頷く。
昼飯時に差し掛かり、喜兵衛はそれなりに客が入っていた。
といっても居るのは甚夜、奈津に善二、そして以前の依頼から常連となった直次の四人。つまるところ、いつもの面子が集まっただけに過ぎない。
彼らはいきなり捲し立てられて面を食らっているが、語り切った善二の方は何やら満足げである。
「ねぇ、善二。仕事は?」
「昼飯食ってくるって言って出てきました。市の日のことなら、ちゃんと旦那様から休みをもらうつもりです」
「あんたねぇ……」
祭りは結構だが、仕事はどうしたのか。奈津は半目で冷たい視線を送っていた。
しかし善二はそんなもの関係ないとでも言わんばかりの満面の笑み。
軽い言動とは裏腹に、善二は須賀屋では手代に就き、次期番頭にと期待されている。
そんな男が市に行きたいから休ませてくれ、などと言う。須賀屋の旦那も頭が痛いことだろう。
「まま、そう言わんでくださいよ御嬢さん。大きな催しがあるなら、燥いで騒いで楽しみたいってのが人情じゃないですか」
「そうですねぇ、折角の市ですし」
「さっすがおふうさん、分かってる!」
おふうの同意を得て強気になった善二は、食事を終え、のんびりと茶を飲んでいる直次に向き直る。
武士とはいえ既に交友を持った相手。気安い関係を築いているらしく、ばしばしと肩を叩きながら話しかけた。
「直次。お前も偶には羽目を外さないか?」
「あ、いえ。済みません。私は」
「ああ、そりゃそうか。残念だな……」
直次は申し訳なさそうに頭を下げた。
彼は幕府に仕える表祐筆。そう融通の利く立ち位置ではない。
それもそうかと善二は唸り、今度はもう一人に狙いを定めた。
武士である直次はともかく、甚夜は定職を持たぬ浪人。鬼の討伐依頼が無い限り基本的には暇だろうし、彼なら断るまいと身を乗り出す。
「んじゃ、甚夜。お前は当然空いてるだろ? 勿論行くよな?」
「いや、遠慮しておこう」
「せめて考えるくらいしてくれ……」
しかしそちらにも一言で切って捨てられる。
食い下がるも頑なで、いくら粘っても結果は同じ。甚夜は悪いと思いながらも首を縦には振らなかった。
酒くらい呑むし、餅も好んで食う。生きることを楽しむ、とまではいかないにしても、以前より少しは余裕が出てきたように思う。
だがそこまで盛大な催しは、流石に気後れしてしまう。
脳裏には、首を引き千切られ死んだ白雪の姿がまだ焼き付いている。それを忘れて娯楽に興じるなど、許されないような気がした。
「甚夜君、行ってみてたらどうです? 偶の息抜きですよ。まだ、先は長いんですから」
無表情の奥になにかを感じ取ったのか、ゆったりとおふうが笑う。
先は長い、その意味を間違えない。
鬼の命は長い。それを考えれば祭りに興じたとしても所詮は偶の息抜き、瞬き程度の時間でしかない。
ならば蕎麦を食うのも酒を呑むのも、祭りに行くのも変わらないだろう。大雑把なようで細やかな気遣いが何気ない言葉の裏にはある。
「そうね、私も行こうかな。あんたも来るなら磯辺餅くらい奢ってあげるわよ?」
「なんで磯辺餅なんですか、奈津お嬢さん?」
「さあ、なんでかしら?」
奈津も甚夜を慮り、彼の好物で釣ろうと茶化したように言った。
首を傾げる善二に、笑いを噛み殺して彼女は惚ける。
そう言えば餅が好きだと伝えたのは奈津だけ。店主らも不思議そうな顔をしていた。
「こうまで誘われているのだから、甚殿も行かれては?」
「直次」
同年代に見えるせいもあるのだろう。
直次は甚夜に対してはほんの少しだけだが砕けた態度を取る。生真面目な彼にしては珍しく、朗らかな笑みを浮かべていた。
「私はいけませんが、どうぞ代わりに楽しんできてください」
いつの間にか視線は甚夜に集まっている。
悪気はない。寧ろ彼等の気遣い故の言葉だと知っていた。
それは素直に有難いと思うが、いくら言われても答えは変わらなかった。
「折角の誘いだが、明日はこちらの予定がある」
腰の刀を少し動かしてみせれば、奈津が「また鬼退治?」と嫌そうに顔を歪める。
頷きで返す。嘘ではない。
ただ時間は夜、市の時間は空いている。彼らの心遣いを無碍にするのは申し訳ないが、やはり行く気にはなれなかった。
「そりゃ、仕方ねぇか。じゃ、おふうさんはどうです?」
「私は……」
結局甚夜は行かない。それなら私だけが、と躊躇うもおふうに店主が促す。
「おふう、お前も行ってきたらどうだ?」
「え、でも」
「なあに、気にすんな。どうせ客なんてこねえ。俺一人でも何とかならあな」
快活に笑うが、それでいいのかと思わなくもない現状である。
とはいえ店主の言は全くの事実で、おふうがいなくても店は十分回る。まだ迷っているようだったが折角の祭り、いい機会だし楽しんできてほしい。
「偶にはお前も休んで来い」
「……それなら、はい。善二さん、よろしくお願いします」
「よっしゃ! 悪いなぁ、甚夜、直次。明日は両手に花で楽しんでくるわ」
結局ほおずき市に行くのは、善二と奈津、おふうの三人になった。
勝ち誇って笑う彼にどういう反応を取ればいいのか分からず、男衆は曖昧な表情で眺めていた。
鬼人幻燈抄 『花宵簪』(はなよいかんざし)
「で、休みを貰えず来れなくなった、と」
「まあ、そういうことね」
ほおずき市当日、雷門の前には女二人しかいなかった。
“阿呆が。人の休んでいる時に働くのが商人というものだろう”とは須賀屋主人、重蔵の言。
善二は結局休みを貰えず今も須賀屋で働いている。
重蔵に休ませてもらうよう頼み込んでいたが、にべもなく切って捨てられてしまったのだ。
「急に“休ませてくれ”で休める訳ないじゃない。なのに本気で泣きそうな顔してたわよ、あいつ」
「あはは……」
下っ端ならともかく、善二は須賀屋の手代。そうそう休めるような立場ではない。
それは分かっているが、彼の人となりを知っているため奈津の言う“本気で泣きそうな顔”が容易に想像できてしまい、おふうはただ乾いた笑いを零した。
「……どうします?」
「折角来たんだし、一緒に回らない?」
「そう、ですねぇ。偶には女同士もいいかもしれませんね」
「ええ、馬鹿な男どもはほっといて」
お互い口元を隠し笑い合う。
そう言えば、二人で出かけたことなどなかった。これもいい機会なのかもしれない。
「じゃ行きましょうか?」
「はい」
二人は並んで歩き始める。
浅草寺の雷門から宝蔵門に至る表参道の両側にはみやげ物、菓子などを売る商店が立ち並んでおり、俗に仲見世と呼ばれている。
夏の日差しが照り付ける中でも仲見世は人でごった返し、息をするのも一苦労だ。
しかし祭り特有の活気に自然と心浮かれて、女同士気兼ねなく店を冷かしながら、時折菓子を買ったりもした。
「すごい人出」
「本当に。それにしても、殿方には見せられませんね」
手には先程買った饅頭がある。
食べながら歩くのは確かに淑女の振る舞いではない。とは言え食べ歩きは市や祭りの醍醐味だ。少々はしたないかもしれないが、これくらいはいいだろう。
「いいじゃない、市の時くらい」
一口齧っておふうと奈津は二人して笑った。
それからも行燈やら櫛、団子など人の流れに沿って店を見て、辿り着くのは朱塗りの立派な寺院である。
金龍山浅草寺。
俗に浅草観音とも呼ばれるこの寺の歴史は古く、推古天皇の頃(628年)、隅田川下流で漁をしていた兄弟が網にかかった観音像を発見し、草ぶきの堂に安置したことに始まるとされている。
江戸幕府開府後は徳川家の祈願所として厚遇され、年の市や蓑市、ほおずき市などの恒例行事は大層賑わい、東国随一の盛り場として名を知られていた。
「夏も盛りねぇ」
ほおずきの赤を眺めながら奈津が呟く。
境内に入れば、ほおずき市の名の通り、多くのほおずきの露店で賑わっている。ざっと数えても五十では利かない。
この時期もほおずきは花ではなく果実、鮮やかな橙色をした六角形の果実が垂れ下がる姿は、まるで提灯のように見える。
そもそも花よりこの果実の方が有名で、夏の風物詩として定着している。時折流れる涼やかな風に揺れるさまは、なんとも愛らしい。
「そういえば、なんでほおずきって言うの?」
何気なく奈津が聞く。
おふうは草花に造詣が深い。もしかしたら面白い話でも知っているかもしれないと問うてみれば、すらすらと答えが返ってくる。
「実が頬のように赤いから頬付きとか、身が火のよう赤いから
「ふうん」
「鬼の灯りと書いて鬼灯と読ませることもあります。提灯みたいな果実は、鬼が帰る為に点けた灯りなのかもしれませんね」
「やめてよ、飾れなくなるじゃない」
鬼にはあまりいい思い出がない。
ああ、いや。記憶の中の醜悪な鬼、あれはあれで自身を見直すきっかけになったのだから、悪いことではなかったのかもしれない、
だとしても嬉々として語れる過去でもなく、おふうの冗談に心底嫌そうな顔で悪態をつく。
奈津の表情に、おふうは少しだけ目を細めた。
「鬼は嫌いですか?」
「好きな人を探す方が難しいわよ」
「ふふ、そうですねぇ」
人と鬼は相容れない。当然で、今更過ぎる話だ。
おふうは楽しそうに笑っていた。その内心を計ることは出来なかった。
「私は二回も鬼に襲われたんだから。正直、あいつがいなかったら今生きてないと思うわ」
「あいつって、甚夜君ですか?」
「ええ。もう四年くらい前かな。二晩だけど、私の護衛をしてくれたことがあるの。子供心に思ったわよ。ああ、読本の剣豪がそのまんま目の前にいるって」
「渡辺綱とか?」
「そうそう! 鬼の腕を斬り落とすとか在り得ない、なんて思ってたけど実際にやる奴がいるのね」
昔のことを思い出しているせいか、奈津は子供のようなはしゃぎ方だった。
“私の腕はいくらで買ってもらえる?”
皮肉気な台詞と共に颯爽と現れ、一太刀で鬼を屠る剣豪。
まるで歌舞伎の見栄のように堂々たる立ち振る舞いは、恥ずかしさから表には出さなかったが、子供心にほんの少しの高揚を覚えたものだ。
「お奈津さんは甚夜君のことが好きなんですねぇ」
「ちょ、だからそういうのじゃないって」
からかいなど微塵もないおふうの素直な感想に、ほんの少し頬を染める。
けれど、それは違うのだと思う。
動揺も一瞬、奈津ははにかむような困ったような、得も言われぬ表情を浮かべた。
「あいつはね、物語の中の存在だったのよ。刀一本で鬼を討つ剣豪。ほら、在りそうじゃない? そう思ってた。……思ってた、んだけどね」
遠い目。ほおずきを見ているのに、何か違うものを映しているかのようだ。
「時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか」
奈津の下手くそな口真似。誰の言葉なのかは簡単に分かった。
「前にそう言ってた。私にとってあいつはそれこそ読本の中の剣豪みたいな、現実感のない奴で……なのに、なんでだろ。あの時の横顔は剣豪どころか、迷子の子犬みたいに見えたな」
あんな大男なのにね。
そう付け加えた奈津は寂しそうに笑う。
「でもね、それが嬉しかったの」
「嬉しい?」
「そう。多分、私はあいつに仲間意識を持ってるんだろうなぁ。見たくないものに蓋をして、弱い自分を隠して、そのくせ誰かに愛されたくて。どうすればいいのか分からないのに、それを認めることさえ出来なかった。多分、本当はあいつも私と同じで……同じように弱いから、安心できるんだと思う」
だからきっとこれは恋じゃなくて。
同病相哀れむ。傷をなめ合うだけのぬるま湯。それを表現するのに、「好き」という言葉は少しばかり綺麗過ぎる。
「こんなのを『好き』だなんて言ったら、世の女の人に失礼よ。……ごめんね、変なこと言って」
「いえ、そんな。でも甚夜君と同じなのは、確かにそうかもしれません」
「え?」
「自分の気持ちから必死に目を逸らそうとするところなんて、そっくりですから」
たおやかな笑みだった。
初めて見る、母のような、柔らかな佇まい。歳はほとんど変わらないだろうに、おふうがやけに大人びて見えた。
そう言えば、彼女はあの男のことをどう思っているのだろう。気になって奈津は遠慮がちに問いかける。
「ねえ、おふうさ」
「ちょいとそこの御嬢ちゃんら、見ていかへん?」
遮るように発された言葉。びくりと体を震わせ慌てて声の方に視線を向ける。
ほおずきの植木が立ち並ぶすぐ隣、敷物を広げ小物が並べられた一角。胡坐をかいて手招きをする男がいた。
露天商なのだろう。ほおずき市の時期を狙って、小物を売りさばこうとしているようだ。
しかし男は小袖に黒の
「あら、秋津さん?」
「おふうちゃん、こんにちは」
「今日はどうされたんですか?」
「見ての通り売り子さんや。よかったら買ってって」
にこにこ顔を崩さないまま、子供にするような挨拶だった。
どうやらおふうは露天商と面識があるらしい。なんとなく気が抜けて、肩を落しておふうに問う。耳元に口を寄せて聞いてみる。
「なに、この人?」
「去年くらいから、うちに出前を頼まれてる方です。京から来たらしいですけど」
「ああ……」
そう言えば以前店主がそんなことを言っていたような気がする。
改めて見れば秋津と呼ばれた男は、張り付いたような笑い顔をしている。初対面で失礼とは思うが、なんとなく胡散臭い。
「
「ふうん、随分大仰な名前なのね」
少しだけ奈津の目が冷ややかなものに変わった。
それもその筈、秋津染吾郎というのは明和から寛政(1750~1800年頃)にかけて活躍した金工の名だ。
櫛や刀装具など金属製の小物を扱った職人で、簡素ながらも繊細な浮彫の技術は今に至って尚人気がある。染吾郎の櫛は須賀屋でも滅多に入らない一品だった。
そんな職人の名を使う、いかにも軽そうな男。懐疑の目を向けるなという方が難しい。
「名前は気にせんとって。そんなんより、見てってえな」
広げられた小物は多岐に渡る。
根付や簪、櫛に手鏡。張子や煙管。木彫りや鉄の細工が混じりあった、とりとめのない品揃えである。
しかし一つ一つを検分すれば、乱雑に並べられただけの商品だが、物自体は決して悪くない。
「そやなぁ、お嬢ちゃんくらいの歳の頃なら、こんなんどない?」
それらを一つ一つ指で確認し、染吾郎が手に取ったのは、内側に蒔絵が描かれた、一対の蛤の貝殻だった。
「
「お、よう知っとるね」
「これでも商家の娘だもの」
須賀屋は櫛や根付などの小物を扱う店だ。合貝も範疇に入っている。
そういう娘の目から見ても、染吾郎の勧める品は見事。黒漆地に描かれた鮮やかな春景色の蒔絵は、露店で転がされているのが不思議なくらいの出来栄えだ。
「随分古い品みたいだけど、いい出来ね」
平安の頃から伝わる貴族の遊びに、貝合わせというものがある。
合わせものと呼ばれる遊びの一種で、貝殻の色合いや形の美しさ、珍しさを競ったり、貝を題材にした歌を詠んでその優劣を競い合うものだ。
この貝合わせから発展したのが貝覆い。二枚貝を二つに分け、一方を持ってもう一方を探し当てる。現代で言う神経衰弱に近い遊戯である。
合貝は貝覆いに使われる二枚貝のことを指す。
江戸に入ると内側を蒔絵や金箔で装飾された
蛤などの二枚貝は、貝殻を二つに分けてもぴたりと嵌るのは元々対となっていたものしかない。
だからこそ貝覆いが成立するのだが、このことから合貝は夫婦和合の象徴と考えられ、公家や大名家の嫁入り道具にもなっている。
庶民でも婚約の際に合貝の片方を相手に贈ることは珍しくない。
───この蛤の貝殻と同じように、お互いにとって代わるもののない、深い絆で結ばれた夫婦となりましょう。
合貝を贈ることは即ち、離れることのない愛の誓いだった。
「お嬢ちゃんの年頃なら、気になるお人くらいいてるやろ? これ贈って告白したら成功間違いなしや」
「……別に、そんな相手いないけど」
ぼそぼそと呟く奈津に、染吾郎はにこにこ笑いを崩さない。
実際、そういうお相手などいない。なのに、おふうは横で悪戯っぽい笑顔を浮かべている。
「いえいえ、この娘は素直じゃないですから。本当はいるのに照れて言えないだけなんです」
「ちょ、おふうさん!?」
「あはは、かいらしい子ぉやなぁ。そんならこっちはどない?」
そう言って次に指し示したのは、木彫りの、でっぷりとよく太った雀の
「福良雀の根付や。この子もかいらしいやろ? 僕が作ってん」
福良雀は肥え太った雀、或いは寒気のために羽をふくらましている雀のことを言う。
丸みを帯びた愛嬌のある福良雀は、根付の造形として人気が高かった。
「確かに可愛いわね。……染吾郎には程遠いけど」
「なかなか言うなぁ。でも、これはお嬢ちゃんにぴったりやと思うで?」
その意味が分からず小首を傾げれば、染吾郎は穏やかな様子で語り始める。
「清(中国)ではなぁ、雀は海ん中に入って蛤になるそうや」
「雀が蛤に?」
「そ。雀海中に入って蛤となる。まあ迷信やね。晩秋に雀が群れ成して海に来るんは、蛤が雀の化身やから。雀は海ん中入ると蛤に変わる、って話」
「だから?」
「お嬢ちゃんには蛤はまだ早いみたいやから、雀の方がお似合いやろ?」
「あんたこそ、言うわね……」
蛤の合貝よりも福良雀の根付がいい。
彼の科白はつまり、お前は愛だの恋だのを謳うには子供過ぎると言ったようなものだ。
むっとするのも仕方がない。奈津は半目で染吾郎を睨み、しかしそんなものどこ吹く風。胡散臭い、張り付けたような笑みはそのままだ。
「別に馬鹿にした分けちゃうよ? 今は寒さに耐える福良雀でもええと思う」
そうして一息吐き、ほんの一瞬だけ表情を崩し、優しげに頬を緩ませる。
「そやけど心は変わるもんや。お嬢ちゃんの想いも、いつか蛤になれるとええね」
福良雀の羽毛に包んだ想いが、いつか素直に合貝の愛を伝えられますように。
その言葉にほんの少しだけ心を揺さぶられた、それを自覚してしまった。何となく負けたような気になり、奈津は若干悔しそうな顔をしていた。
「……別に、そんなつもりないけど。でも確かに可愛いし、一つ貰うわ」
「三十五、いや三十文でええよ」
「ええよ、とか言いながらちょっと高いじゃない」
「そら僕も生活掛かっとるからなぁ」
高いとは思うが、取り出した財布は引っ込めない。
何となくもなにも、押し黙り、買おうと思ってしまった時点で完全な敗北だろう。
癪ではあるが先程の与太が悪くなかったのは事実。少しだけ不満げに唇を突き出しながら、ちょうどの銭を払う。
「まいど」
「ありがと」
福良雀の根付。手に乗る程度の大きさのそれを握り締める。
暖かな木の感触にふと考える。
私の雀は、いつか蛤になるのだろうか。
らしくないことを思ってしまったと、照れたように奈津は俯いた。多分、この変な男のせいに違いなかった。
「そや、これおまけに持ってって」
「え、いいわよ。悪いし」
「気にせんでええて」
そう言って押し付けられたのは金属製の
小さなほととぎすをあしらった、簡素ではあるが品のある装飾だ。遠慮しながらも押し切られ、改めて簪を確認して奈津はぎょっとする。
「ってこれ、本当に染吾郎の簪?」
秋津染吾郎の細工は、須賀屋でも滅多に入ってこない品。まかり間違ってもおまけに渡すような代物ではなかった。
確かに彼はかの金工の名を名乗ってはいたが、まさか本物を持ってくるとは思っておらず、驚きに思わず目を見開く。
「二束三文で手に入れたもんやから、気にせんとって。いらんなら捨ててまうよ?」
「捨てるって」
「だから、貰ったって」
二束三文だと言ってはいるが、それが嘘だということくらいは分かる。
染吾郎の作は人気が高く、店に並べばそれなりの値が付く品だろう。それを簡単に捨てるなど、どうかしているとしか言い様がない。
正直これ程のものをただで貰うのは気が引ける。
しかし相手は「返品は受け付けとらんよ」と朗らかに笑う。どういうつもりかは分からないが、こうまでされては首を縦に振るしかない。
「それじゃあ……ありがと、でいいの?」
「ええてええて。お嬢ちゃんならその子も喜ぶと思うし」
子を慈しむような声色だった。
胡散臭いが、物に愛情を持てる男ではあるのだろう。奈津は若干ながら染吾郎の評価を改め、もう一度簪に目を落とす。
ほととぎすの簪は、やはり細やかで優美な造り。流石に見事な出来栄えである。
「おふうちゃんもどない?」
「私は遠慮しておきます」
「あらら、意外と財布の紐固いなぁ」
大げさに項垂れて見せる。それが滑稽で二人はくすくすと笑った、
なんとも不思議な露天商。ところどころ腑に落ちない点はあったが、流れの商人との会話も、市の醍醐味といえばそうなのだろう。
実際いい買い物ができたことだし、女二人の浮かべる表情はそれなりに穏やかだ。
「じゃ、ありがと。おふうさん、そろそろ行く?」
「そうしましょうか。秋津さん、お暇させて頂きますね」
「うん、折角の市、楽しんできてな」
軽い挨拶を交わして、再び市を見て回る。
青い空、刺すような日差しに目が眩む。
炎天の下、ほおずきの橙が揺れていた。
◆
浅草は江戸でも随一の繁華街である。
ここまで発展した背景には、浅草御蔵と呼ばれる江戸幕府最大の米蔵の存在があった。
この蔵は単なる米の保管場所ではなく、年貢米の収納や幕臣団への俸禄米が収められている。
俸禄米とは旗本・御家人達の給料にあたるもので、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。
浅草御蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋が立ち並び商いを営んでいる。
夜半、甚夜が訪れたのは、蔵前の米問屋がある一角から少し離れた場所にある酒屋だった。
水城屋。
裏手には二つの蔵を有した規模の大きい商家で、そのうちの一つに入り、ゆったりとし所作で抜刀し脇構えを取る。
埃っぽい匂い。蔵の中の米は殆ど運び出されており、十分な広さがある。
これなら立ち回りも楽だ。
唸るような声が響き、蔵に潜むは一匹の鬼。
「名は」
如何なる経緯で生まれたかは分からない。
青白い肌、赤い目。憤怒の形相。
しかしその鬼はまだ子供、甚夜の半分程度の背丈しかなかった。
『……菊夫』
名を刻む。
同情はあるが、興味はない。
女だから、子供だから。斬ることを躊躇う理由にはなり得ない。
一太刀の下に斬り伏せる。それで終わり。白い蒸気が立ち昇り、後には何も残らなかった。
ちくり。少しだけ残った胸の痛みには気付かないふりをした。
「ああ、ありがとうございます! おかげで漸く安心して眠れるというものです!」
「いや」
水城屋の主人は大げさに騒いでいるが、所詮下位の鬼。一振りで終わるような雑魚を相手取った程度でそこまで感謝されても正直困る。
そもそもあの鬼は悪さをしていた訳ではなく、ただ蔵にいただけ。
そのような者を斬って捨てて飯の種にする。下衆の所業だ。表情には出さず静かに自嘲した。
「これは約束のものです」
布に巻かれた小判を受け取り、中身を確認する。
二両。酒屋の規模は大きい。よく稼いでいるのか、随分と太っ腹だ。
「確かに」
「あっと、そうだ! うちの自慢の酒持っていかれませんか? いやあ、最近いいのが入りまして。まだ売りに出していない一品なんですよ」
「いえ、これ以上貰う訳にはいきませんので」
「そうですか、残念ですねえ」
好意で言ってくれるのだろう。
とはいえこの男からはこれ以上貰いたくはない。
表面上は丁寧な態度を崩さず、主人の申し出を失礼にならぬよう拒否する。
「では、これで失礼します」
「いやいや、本当にありがとうございました、もしまた何かあればよろしくお願いします」
二度目はごめんだ。
割りのいい仕事だったというのに、そう思ったのは何故だろう。甚夜自身にもよく分からなかった。
「あぁ。待ってたよ、浪人」
星以外に光のない夜。
酒屋から出てすぐ、女に声を掛けられた。
気だるげな雰囲気。だらしなく着崩した装い。不健康そうな白い肌と細い体、ゆるやかな動作は何処か艶がある。
投げ捨てるような微笑みで姿を現したのは、少し前に知り合った女だ。
「夜鷹」
「終わったのかい?」
「一応は」
こいつは夜が似合う女だと思う。
白い肌は青白い夜の中いっそ病的なまでに映るのに、美しいとも感じられる。
春を売る女特有の、男を誘うような仕草が実に自然で、年若いが随分と様になっていた。
「怪我もないみたいだね」
「なんだ、気をもんでいたのか」
「そりゃそうさ、あたしの売った情報で死なれちゃ寝覚めが悪い」
夜鷹というのは名前ではない。
辻遊女、即ち道端で男に声を掛け、体を売る女の総称だ。
甚夜はこの女の本当の名前を知らない。その為便宜上夜鷹と呼んでいるに過ぎなかった。
───あたしは夜鷹の夜鷹。名前なんて、それで十分だろう?
初めて会った時、彼女自身がそう言った。
奈津と同じくらいの歳で体を売って生計を立てる女。彼女が一体どのような経緯でそうなったのかは分からないし、然程興味もない。
しかし夜鷹の女は遊女同士で横のつながりを持ち、様々な男と寝ることで普通なら知り得ない情報を得ている。
情報屋としてはこの女は有能で、だからこそ甚夜は時折金を払い、鬼の噂を探って貰っていた。
今回の依頼も夜鷹の情報から受けたもの。情報料として報酬の内一両を取り出し投げ渡す。
「こんなにいいのかい?」
「ああ」
「売女に同情……って訳でもなさそうだねぇ。嫌なことでもあったって顔だ」
あんな仕事で得た金だ。素直に喜ぶことは出来ず、だから半分を受け取ってもらいたかった。
こちらの意を察したように、夜鷹は何も言わず金を懐にしまう。
礼を言われても反応に困るところ。正直、助かったと思う。
仕事柄か、彼女は心の機微に敏い。普段殆ど表情の変わらない甚夜の内心を読み取れる数少ない人物である。
「斬りたくないものを斬った。それだけだ」
「でも、斬らないなんて選べない?」
眉を顰め横目で見る。
夜鷹はにたにたといやらしい笑みを浮かべでいる。
「くっくっ、あんたは分かり易いねぇ」
見透かしたような顔。しかし不愉快とは思わない。
どうにもよく分からない、妙な女ではある。
それでも、おふうや善二達とは形こそ違えど、ある程度は気を許していた。
「そんなに気分が悪いなら、どうだい。また一晩相手しようか?」
「いや、遠慮しよう」
「そりゃ残念。それは次の機会にするよ」
気だるげな様子は変わらぬまま、ゆったりと舞うように踵を返す。
あの若さでそういう立ち振る舞いが様になるのだから見事なものだ。
「ああ、そういえば」と、数歩進んでから、振り返ることなく夜鷹は言った。
「最近鬼を退治する男がいるって噂があるんだ。あんたのことじゃないよ。なんでも、式神を操る陰陽師って話さ」
「陰陽師?」
「犬だの鳥だのを操って鬼を討つらしい。所詮寝物語、何処までほんとかは知らないけどね」
そういは言うものの、彼女が口にしたことだ。ただ噂で終わらせるには若干引っ掛かる、といったところか。
与太話としか思えない内容を甚夜は素直に受け止め、その態度に感じ入るものがあったらしく、夜鷹は愉快そうに口元を釣り上げる。
「じゃあね、浪人。せいぜい商売敵に仕事を奪われないようにね」
そうして彼女は夜の町に消えていった。
甚夜は残した言葉を反芻する。
鬼を退治する男。確かに少し気になる話だ。
得られた情報を胸に留め、帰路に付く。夏の夜は蒸し暑い。不快な空気は纏わりついたままだった。
◆
翌日、七月十日。
功徳日ではあるが、甚夜の向かう先は当然浅草寺ではなく喜兵衛である。
昨日はそれなりに稼げたが、同時に気分が悪くなった。蕎麦でも食べて少し心を落ち着けたかった。
「旦那っ!?」
「甚夜君! お、お奈津さんの様子が!」
しかし暖簾を潜った瞬間、店主の慌てた声が飛んでくる。
おふうも随分と狼狽した様子で、すぐさま甚夜の下へ駆け寄った。
「何かあったのか」
二人の様子に眉を顰めるも、店内に入れば何事もなく座っている奈津の姿を見つける。
見慣れない簪を付けている以外は至って普通の様子だ。
なんだ、普通にいるではないか。何をそんなに慌てているのか。そんなことを思いながら取り敢えず近付き声を掛ける。
「奈津」
すると奈津の視線がこちらへ向いた。
ここでようやく甚夜も様子がおかしいと気付く。熱にでも浮かされたようにとろんとした目。顔も多少上気している。
「どうした」
すっと手を伸ばせば、奈津もまた手を伸ばす。
なにをするかと思えば甚夜の手を取り、その甲に頬ずりをしてきた。
「へ?」
「え?」
親娘は何が起こっているのか分からず間抜けな声を上げ、予想もしない反応に甚夜は固まった。
何が起こったのか、一瞬本気で理解できなかった。
彼が呆けているのをいいことに奈津は体を寄せ、蕩けるような表情で胸元にしな垂れかかる。
そうして聞き覚えのある声、聴き慣れぬ口調で甘く囁く。
「お逢いしとうございました、お兄様……」
その言葉に、多分立ち眩みを起こした。