平成編・余談『潮騒の景色』・4(了)
「あん? しばらく滞在する?」
「知人がここの療養所にいてな。済まないが、先に戻っていてくれないか」
「いやまあ、そりゃいいけどよ」
翌日、井槌へ伊之狭村に滞在する旨を伝えた。
いきなりのことで怪訝そうな顔をしているが、甚夜の真剣さが伝わったのか、割合簡単に頷いてくれる。
「そんじゃ、荷物類は全部預かんぜ。そうだ、どうせここに居んなら村の雑用も手伝って、戻ってくる時もっかい食料貰って来いよ。芳彦先輩らも喜ぶしな」
「ああ、そうしよう。では頼んだ」
「おう、まかせな」
こういった辺り井槌はさっぱりとした性格で有り難い。
白菜にキノコ、山菜類を一まとめにして背負い込み、早く暦座のみんなに届けてやろうと村の出口へと向かう。
途中、はたと何かに気付いたのか足を止め、首だけで振り返り問い掛ける。
「なあ」
「どうした?」
「前から思ってたんだけどよ。俺らが食いモン貰いに行く村って、絶対でかい療養所がないか?」
「……そうか?」
甚夜は食料をもらう為集落に訪れると、毎回療養所を覗いていく。
それ自体はいつもの話、もう慣れたから別に構わない。
ただ、既に五つか六つ田舎の村を訪ね、その全てに設備の整った療養所があるというのは中々の確率だ。
井槌は怪訝そうに眉を顰めるが、返す甚夜は平然としている。
「まあ、よく野菜の取れる場所。つまりは空気のいい、穏やかな土地を優先しているからな。当然療養所もあるさ」
結核など治療法のない病に関しては、大気安静療法というものが一番だとされる。
しっかり栄養を取り、山の綺麗で冷たい空気を吸い、後は安静にする。抗生物質がなかった時代、こういった民間療法が最善と信じられていた。
つまりは単なる偶然。
食料を求め二人は『空気がよく空襲の危険のない田舎』を回っている。
療養所は空気がよく、空襲の危険のない土地に建てられるもの。ならば行く先々にあっても不思議ではない。
ならばそこに『原因不明の病を患った誰か』がいたところで、驚くような話でもないだろう。
「ほーん、そんなもんか」
納得したのかしてないのか、微妙な顔でこちらを覗き込み、しかしすぐに考えるのを止めた。
なんだかんだこの男は暦座に愛着を持っている。多少疑問には思いつつも、尊敬する芳彦先輩とその家族を優先し、今度こそ村を出る。
去り際に見せたのは含み笑いだったような気もした。案外分かっていて知らぬふりをしてくれたのかもしれない。
追及されずに助かった、ということにしておこう。
取り敢えず井槌の姿が完全に視えなくなったのを確認し、甚夜もその場を離れる。
多分退屈をしているだろうから、歩みは少しだけ早足になった。
* * *
「長谷部さーん……あら?」
看護婦はいつものように病室へ訪れ、しかし普段は見慣れぬ男性の姿に驚き声を漏らした。
長谷部こころは療養の為に単身伊之狭村へ移り住んだ。
家族は一度も来ない。十分すぎるほどの金を療養所に預け、後は完全に放置。若さに反し体は衰え、もはや歩くことも儘ならない少女に集落の知り合いなどいる筈もなく、この五年見舞いの客など一人もいなかった。
けれど今日は同じ年頃の青年がベッド脇の椅子に座り、燥ぐという程騒がしくはないが、ゆったりと会話をしている。
「あ、看護婦さん」
ようやく来訪に気付いた少女は、儚げに、けれど優しく口元を綻ばせた。
こころの表情は穏やかで、此処に来て初めてというくらい寛いでいる。傍目から見ても楽しんでいるのが分かった。
「こんにちは、長谷部さん。確か、葛野さん……でしたか?」
「うん、鬼さん。東京にいた頃、よく家に来てくれたの」
「ああ、近所のお兄さん」
見舞客は雑貨品と食料を交換しに来た、東京住まい青年だった。
幾らか集落の力仕事を請け負ってくれたので顔と名には覚えがあった。こころの出身も東京、どうやら偶然にも此処で再会を果たしたらしい。
「よかったですね。調子もよさそうですし、私はこれで」
なら邪魔をするのも悪い。
看護婦はそそくさと退室し、数舜の間を置いてこころが小さく笑った。
「お兄さん、だって」
「まあ、鬼とは思わんだろう」
「そうだけど」
“鬼さん”と言ったのに聞き間違えて、その結果が“お兄さん”。看護婦に他意はなかったのだろうがなんとなく面白い。
ちょっとしたことなのに頬が緩む。東京にいた頃からは考えられないくらい。
「いい景色でしょう? 窓からの眺めが、私のお気に入りなの」
死が間近に迫って、何もすることがなくなって、ようやく色々と考えられるだけの余裕ができた。
ついと視線は窓の外へ。庭ではぎざぎざの艶やかな緑葉と、白い四片の小花が咲いている。
そういう何気ない景色を、楽しんだりできるようにもなった。
皮肉ではあるが、気分はそんなに悪くない。
「柊か」
「ひいらぎ?」
「冬に咲く花で、木犀の仲間だ。古来より魔除けとして庭に植えられる。患者達へ厄が訪れぬようにという気遣いだろう」
「……そうなんだ。知らなかった」
五年経って、初めて花の名を知る。
看護婦達が毎日庭の世話をする理由にも気付かなかった。
その事実に改めてこころは思う。
「私ね、未来が視えるから。周りの馬鹿な大人より、よっぽど物を知ってるって思ってた。なのに、花の名前も知らない。……違うね。そんな簡単なことさえ、知ろうともしなかった」
ああ、やっぱり“視えて”いなかった。
そうして空白の歳月を乗り越えて、伝え合うお互いのこと。
「昔から、なんとなく先が視えた。いつの間にか、はっきりと。もう今じゃ勝手に未来が視えて。その度に、私の中の何かがなくなっていく」
未来に希望を失くした少女は、ゆっくりといつかの言葉をなぞる。
「お爺様が言ってた。視えた未来は逐一言わないと、大変なことになってしまう。私もね、そう思ったの。悪い未来が視えたら、ちゃんと教えて。そうすればきっと回避できるって」
「それでも、お爺様が生きていた頃はまだよかった。だって役にも立てたもの。少なくとも、お爺様にとっては、私は価値があった。けど今は無意味に命が削られていくだけ。それに最後には……たくさんの飛行機が爆弾を落として、火の海になる東京が視えてしまう」
「みんな言ってた、あの娘は死を振り撒くって。多分それは本当のこと。……私はずっと。死ぬまで、誰かの不幸だけを“視る”の」
少女は不吉な未来を視る。
病気や怪我、戦争に死。どうにもならない景色を彼女の瞳は映す。
それを止める術はない。
「……なんて、ね。そう言っておきながら。結局は、視えていなかったんだと思う」
その瞳は覆しようのない未来だけを映し出してしまう。
苦悶に倒れる祖父、頭蓋を叩き割られる父、焼夷弾で焼け爛れる母。
家族の死に様さえ垣間見てしまうこころは、唯一視えない自身の未来にも、希望など欠片も持てなかった。
だけど、なにもできず、目前の死を待つだけの身になって初めて分かったこともある。
「映し出される終わりが怖くて、そこに繋がる日々を嘆いてばかり。……ずっと“未来”ばかりを視ていたから。私には、“今”が視えていなかった」
花を綺麗と言いながら名前も知らず、込められた意を見過ごしていたように。
未来ばかりに囚われて、本当に視なければいけないものを見逃していた。
それがようやく間違いだと気付けた。
訪れる悲劇を憐れむのではなく、失われていくものをこそ大事にすればよかった。
そうすればきっといろんなものに優しくなれた。
「もしそれに、もっと早く、気付いてたなら。お母様に裏切られて死んでいくお父様の、味方をしてあげられたかなぁ」
最後には無残な終わりを迎えるから、どうでもいいと投げ捨てるのではなく。
最後には無残な終わりを迎えるとしても、その瞬間まで寄り添う。
そういう生き方を選べていたのなら。
もしかしたら、未来は覆せないままでも、繋ぎ留められたものだってあったかもしれない。
例えば、僅かに触れ合えた、微かな暖かさとか。
失われるまでの儚い日々だって、愛おしく思えた筈なのに。
「お互い上手くはいかないものだな」
ベッドに横たわったまま、涙さえ流せないこころの手にそっと触れる。
間違えていたのは甚夜も同じ。
強制的に視える未来、その度に削られる命。
止める術を持たぬ男に。
無為に死に逝くこの娘の為、いったい何ができるだろうか。
その惑いが彼の口を噤ませて。
何もしてやれないまま、僅かな縁は解けて消えてしまった。
「私も、視えていなかった」
あの時何も言えなかったのは、彼にも視えていないものがあったから。
いずれ降り立つ人の世を滅ぼす災厄。
どうにもならない景色を彼の瞳は映し、なのに不吉な未来を視てはいなかった。
「惚れた女を、妹に殺された。憎しみのままに刃を向けた。強くなりたくて、それだけが全て。いつか再び相見える日の為に生きてきた」
「けれど心は変わる。歳月を重ね、大切なものを拾ってきた。私はかつてよりも弱くなり、しかし辿り着いた今を大切と思えるようにもなった」
「だが、それだけ。今を幸福と思えどマガツメ……あの娘への在り方を誤魔化し、決断をずっと避けていた」
「怖かったから。明確な答えを出すのが……その結果を直視するのが」
「……いずれ訪れる破滅の未来に。本当は、私の方こそ怯えていたんだ」
だから、何も言ってやれなかった。
それを口にする資格はないと思い込んでいた。
こころに“今”が視えていなかったというのなら、甚夜に視えていなかったのはきっと“未来”。
多くを失くし、それでも辿り着いた今を大切にし過ぎて、未来の決断から目を逸らしていた。
「そっかぁ。なんだか、嬉しい」
「嬉しい?」
「うん。鬼さんと、一緒。私達、視えてないものが、多かったね」
「……ああ、本当に」
二人が噛み合わなかったのは、なまじ形が似ていたから。
同じでっぱりがぶつかり合って、上手くはまらなかった。
「鬼さん、いっぱいお話ししよう? 大切なことも、くだらないことも、いっぱい」
でも今ならもっと素直にお喋りできる。
たくさんのものを。失われていくこの瞬間さえ、大切だと感じられる。
「そうだな、そうしようか」
甚夜も穏やかにそれを受け入れた。
少女と老翁。人と鬼。未来と今。
まるで違う彼らは、けれど確かに通じ合って。
眠くなるまで何気なく、意味もなく、大切な言葉を交わし続けた。
◆
その日からまた、こころの下へ通い詰める日々が始まった。
「いらっしゃい、鬼さん」
「手の鳴る方へ、と呼んでくれたか?」
「してないよ。だって、ちゃんと来てくれるから」
未来は覆せない。
その真理は最後まで変えられない。
お互いに、視えていないものに気付けた。
けれどどうしたって終わりは訪れる。
この物語の結末は、最初から決まっているのだ。
「私ね、お母様のこと、本当は大っ嫌いだったの」
「あまり母親を悪く言うのは……と嗜めるべきだろうが。正直、印象はよくなかったな」
「はっきり言ってもいいよ?」
「胸糞悪い女だった」
「ふふ、でしょ?」
その事実から目を背けるように、ではない。
失われていくものをこそ慈しむように、彼らは色々なことを話す。
療養所のごはんはおいしくないとか。最近はいい酒が手に入らないとか。
焼いた蛇は美味いと言えば、思い切り嫌そうな顔をされたり。
映画や読本、娯楽に関して。
あとは、女の子だし。オシャレしてみたかったな、なんて言ってみたりもした。
益体のないお喋りが楽しくて。
けれど、段々と、声は弱々しくなる。
息が荒れて、顔色も悪くなり。
でもこの瞬間を続けていたいと、日が落ちて夜になっても、こころはお喋りを続ける。
「いろんなこと、したかったな。見たいものも、たくさんあった」
覆らない未来ばかり視ていたから、今を楽しめなかった。
それが心底残念だ。
もうちょっと早くに気付けていたら、少しは違っただろうか。
「例えば、どんなことを?」
ああ、でも。
そうやって間違えたから、鬼さんに出会えた。
だったら、そんなに悪くないようにも思う。
「鬼ごっこ。燥いで、走り回って。着飾ったりも。あと、キネマ館。鬼さんのところに行って映画を見るの」
無理だと知っている。
でも言うだけならタダだ。こころはやりたかったこと、行きたかった場所を指折り数える。
甚夜は穏やかに耳を傾けていた。
叶わない願いを黙って聞いてくれる。それが嬉しくて、悪戯心に、ほんのちょっとの我儘を。
「あとはね、海。海を見てみたい」
生まれてこの方海を見たことがない。
そもそも屋敷から出られなかったし、折角療養所に来たのに山の方だった。
どうせなら海の見える場所がよかったのに。
「お爺様のくれた本に書いてあった。海は命の源で、魂の還る場所なんだって。……きっと、もうすぐ、其処に行くから。その前に、一度でいいから見てみたかった」
無理だと知っているから言ってみた。
ただそれだけの冗談みたいなものだった。
なのに、返ってきたのは優しい声。
「なら、行こうか」
甚夜は気負いなくそう言った。
辺りはもう夜。そもそも長野に海はない。
普通に考えればただの誤魔化し。だけど、こころにはそう思えなかった。
無理をしてはいけない、安静に。
普通ならそういうところを窘めなかったのは多分知っていたから。
お互いに、とっくの昔に知っている。
未来は覆せない。これは最初からそういうお話。
どうあっても、なにをしたって、結末は変わらないのだ。
「……連れてって、くれる?」
「ああ、いいよ」
だから少女は精一杯手を伸ばし。
男は、その手を、しっかりと握りしめた。
お互いに知っていた。
これが最後の願いになると。
◆
夜が明ける前に辿り着けるだろうか。
彼女を背に、道を踏み越えて。
歩いて海までなんて、我ながら馬鹿だとは思う。
けれど耳元で聞こえる安らかな寝息が脚を前に進める。
灯りは星と月だけだが、暗い山道も苦にはならない
鬼に堕ちたことをこんな形で感謝する日が来るとは流石に想像もしていなかった。
無駄に丈夫な体でよかった。
おかげで、日が昇るより早く、彼女の願いを叶えてあげられた。
「……すごいね」
藍色が少しずつ赤みを帯びていく。
濃淡のついた空の下、広がる青ざめた水面。
浜辺で二人並んで座り、静かに波の打ち寄せる、夜明け前の海を眺める。
「いくら未来が視えても。海がこんなに広くて綺麗だなんて、今の今迄知らなかった」
初めて見る海にこころは声を震わせた。
ざざ、ざざ。
波の音に紛れ、掠れるような呼吸。
触れた手の冷たさは冬のせいだろうか。
「夜明け前もいいが、朝焼けに染まる海も綺麗だぞ」
「本当? 楽しみだなぁ」
甚夜の肩に頭を預けて、ぼんやりとこころは海を視る。
疲れているのではない。
きっと、彼女は。
「ありがとう、我儘を聞いてくれて」
「なに、この程度、構わない」
こころは、遠くないうちに死ぬ。
弱っているのは体でなく魂。安静にしていたところで垣間見る未来に命を削られる。
強制的に映し出される悲惨な景色に今も蝕まれ、彼女は無為に死んでいく。
「……大丈夫、ちゃんと“視えて”いるから」
だが悔いはないと。
触れる手に、ほんの少し力が籠る。
「不幸な未来じゃない。間違え続けたこの瞳にも。今が、大切なものが視えてるの」
心配しないで。
失われていく命さえ、きっと今なら愛おしく思える。
こころは、遠くないうちに死ぬ。
けれど死の際にあって少女の瞳は、未来ではなく、二人で眺める今を映し出している。
「ねぇ」
「ん?」
「鬼さんは、長生きなんだよね?」
「……ああ」
彼は、これからも生きる。
百七十年の先、辿り着くと予言された破滅の未来へと歩いていく。
「ちょっと心配。鬼さん、危なっかしいし」
だって彼はこころとは逆。
“今”が視えていなかった少女、“未来”から目を逸らしていた男。
お互い視えていないものが、足りないものがあったから。いつか躓く日が来るのではないかと心配になる。
「だが、私も。いずれはけじめをつけねばならないのだろう」
「うん。……じゃあね、臆病な鬼さんの代わりに、私が未来を視てあげる」
ざざ、ざざ。
潮騒の中、か細い少女の声が耳を擽る。
空の赤みが増した。夜明けが近付いているのだ。
「遠い未来で、あなたはたくさんの笑顔に囲まれているわ」
人の弱さに欲望に呪われ、死を振り撒くと疎まれた少女は、初めて己の意志で未来を告げる。
「いつか大切な答えを見つけて、困難に打ち勝って、幸せな結末を手に入れる。その時にはあなたも心からの笑顔でいられる……そういう未来が、視えるの。ね、安心した?」
その未来が真実かどうかは、甚夜には分からない。
それでも想いは受け取った。
「ああ、安心した。君がそう言ってくれるなら、これから先も怖くはない」
「よかった。後は……」
満足げに頷いて、こころはゆっくりと身を乗り出す。
顔を近付け、甚夜の右の瞼にそっと口付けて、照れたように微笑む。
「おまじない。鬼さんは今ばかりを視ているから、ちゃんと未来を視られるように」
口付けから伝わる熱に願う。
どうかその瞳に私の心が宿りますように。
寄り添うことも、支えることもできないけれど。
せめてこれからを歩む彼が、大切なものを見落とさずにいられるよう、精一杯の祈りを込める。
「暖かいな」
「ふふ、そうだね」
冷え切った手を重ね合わせれば、その暖かさに彼が笑みを落とす。
落としたのだと、思う。
暗くて、何故かゆらゆらと揺れて、よく見えなかった。
「もう夜明けか」
ざざ、ざぁ。
波の音が遠くなった。
朝日に染まる海は、波打つ度に光を乱反射して、薄い藍の空と溶け合う。
でも、もう何も見えない。
あなたの笑顔も、夜明けの海もぼやけて、ただ潮騒だけが聞こえている。
「きれい、だなぁ」
なのに綺麗だと思う。
こんなに美しい景色を視たのは初めて。
「ああ、本当に綺麗だ」
答える彼もきっと視えてはいない。
景色は何故か滲んで、視界は歪んで。
なのに綺麗だと。
この瞳が、宿る暖かさが、夜明けの海を眩しいと感じていた。
「ここに、これて、よかった」
だから、ちゃんと、視えている。
私は今、あなたと同じものを見ている。
希望のない未来を嘆いていた少女は、此処に視えなかったものの美しさを知った。
そうして二人は互いに体を預け合い。
いつまでも、いつまでも、潮騒の景色を眺めていた。
◆
昭和の初期に出会った、未来視の少女。
垣間見る終わりに蝕まれ、儚く命を散らしたこころの話。
最初から何一つ変わらない。
彼女は無為に死に逝くと、生まれたその時から決定されていた。
つまり未来は覆せない。
こころにとっては、その理こそが真実だった。
けれど最後の最後に触れ合えた。
伝わったぬくもりがあった。
それが救いになったかどうかは今も分からない。
ただ、ふと思い出すこともある。
光を失った瞳で尚、夜明けの海を美しいと。
代わりに未来を視ると言ってくれた、彼女の優しさを。
* * *
戦後、高度経済成長を迎え日本の在り方は変わった。
復興を果たし、更な発展を遂げたが、その隅で廃れていくものもある。
交通の便の悪い伊之狭村は急激に人口が減少し過疎化、今は住む者の一人もいない。
こころが晩年を過ごした療養所もそのまま打ち捨てられているそうだ。
多少の寂寥は覚えるが、それも仕方ないとは思う。
変わらないものなんてない。
最後まで歩みを止めなかった男が、変わり往く離れた景色をとやかく言うなど卑怯だろう。
甚夜は一度瞼を閉じ、ほんの僅かの郷愁に浸り再び開く。
そうすれば目の前には騒がしい教室の景色が広がっている。
「じゃあ夏休みは海で泊まり。決定でいいかな?」
「おう! ていうか姫川さん、調整任せちゃっていいのか?」
「うん、いいよ。去年もやってるから藤堂君よりも慣れてるし」
「なんか申し訳ないなぁ」
目的地は決定したが、夏樹は細かな計画立てに自信がない。
ならばとみやかは進んでそれを請け負ってくれた。性格は奥ゆかしいが、こういう機会があると大概リーダーに収まるのは彼女だ。
もう慣れたのか、少し大人になったのか。決して面倒臭そうな顔はせず、ゆったりと穏やかにそれを受け入れる。
「じゃ、また皆で買い物ねー。水着新調しなきゃ」
「え? でもアキちゃん、去年の奴がまだあるよ?」
「あれ、サイズ合わなくない?」
「……今、言ってはいけないことを言った」
「薫の目が怖いんだけど。口調変わってるし」
夏休みを前にして、教室は大いに盛り上がっている。
今年も海。友達だけで旅館に泊まりというのは初めての者が多く、待ちきれないとばかりに皆はしゃいでいた。
たくさんの楽しそうな笑顔に囲まれて、ふと過る切なさ。
今を幸福と間違いなく呼べる、だからこそ甚夜は考える。
あの時、彼女が視た未来の中に、私はちゃんといるのだろうか。
……心から、笑えているかな?
答える者はいない。
こころが視た景色を知る術はなく、けれどこの瞳は未来を視てくれている。
知らず手は右の瞼に、こころの想いにそっと触れる。
未来視の少女を“喰った”訳ではない。ただ口付けを受け入れただけ。
本当は、能力的な意味では、この瞳は以前と何も変わらない。
けれど宿るものが確かにある。
ならば彼女の視た未来を信じられる。
私は、いつかの彼女が視た景色に辿り着いたのだと、そう自惚れられる。
それが単なる勘違いでも構わない。
今はただ、暖かな錯覚に身を委ねていたかった。
「また、楽しい旅行になるといいね」
みやかは以前よりも柔らかくなった微笑みで声をかける。
「そうだな」
「あ、でも、本当に海でよかった? 私達に気遣って遠慮してない?」
「いや。寧ろ私も海は好きだよ」
「そっか。……なら、嬉しいな」
そこに嘘はない。
いつか聞いた夕凪の海も、皆で遊んだ昼間の海も。
こころと二人眺めた夜明けの海も、どれもが美しいと感じられた。
だからきっと、この夏休みも楽しくなる。
「……大丈夫だ、“視えて”いるよ」
今の幸福も、その先にある景色も、しっかりと。
不意に見上げる、教室の窓に切り取られた空。
陽射しが差し込み、避けるように甚夜は手を翳す。
重くなった空の青さと、澄み渡る夏の気配。
その向こう側に、懐かしい、彼女の微笑みを視た。
余談『潮騒の景色』・了