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平成編・余談『潮騒の景色』・3




 この瞳は覆しようのない未来だけを映し出す。

 苦悶に倒れるお爺様、頭蓋を叩き割られるお父様、焼夷弾で焼け爛れるお母様。

 家族の死に様さえ垣間見てしまう私は。


 唯一視えない自身の未来にも、希望なんて欠片もないと。

 初めから……多分、生まれた時から知っていた。






 ◆






 昭和十七年(1942) 十二月


 長野県の北西に位置する伊之狭いのさ村は二方向を山に囲まれている。

 入り組んだ地形の、そもそも規模が小さい集落。周辺に軍事施設が少なく、米軍による本土空襲が始まった今でも被害は殆ど出ていない。

 比較的穏やかな暮らしがそこにはあり、しかしながら国全体では物資が滞り、人々の生活は困窮していた。

 昭和十七年、冬。

 敗戦の気配は色濃く、少しずつ大日本帝国は追い詰められていった。

 ……それを彼女は、ずっと前から知っていた。


「……あ」


 療養所の一室、差し込む光と朝の静謐な空気に目を覚ます。

 頬はこけ、枯れ木の手足は触れるだけで折れそうだ。

 東京を離れて五年。十五になったこころは、年頃の娘とは思えぬ程衰えていた。


 父に伊之狭いのさ村へ無理矢理送られ、今は療養所の一室が彼女の家。

 見舞いの客などおらず、時間だけは余っている。

 けれど体は殆ど動かず、窓の外を眺めるのがせいぜい。幸いにも療養所の庭には花壇があり、きちんと世話をしているのでそれなりに景観もいい。

 日がな一日ぼんやり過ごし、それだけで体は疲れ果ててしまう。


 原因不明の不治の病。医師はそう診断した。

 それも当然だ。少女の異能は、命と引き換えに今はまだ存在もせぬ未来を垣間見る。そんなもの普通の医師に分かる筈がない。

 未来に蝕まれる命は医学では繋ぎ留められない。

 結局は場所が変わっただけ。

 少女は無為に死に逝く。おそらく次の春は迎えられないだろう。


「だけど……」


 願わくは、もう少しだけで生きていたい。

 そう思ったのは何故だろう。

 しがみ付くほどのものなんて、なかった筈なのに。

 ふるふると震える手をゆっくり重ね合わせて、かすれた声でこころは歌う。


「おーに、さん、こちら。手、の鳴る、ほうへ……」


 いつか、触れた暖かさを。

 彼女は今も忘れられないでいる。




 ◆




 冬の夜は寒さが身に染みる。

 二人の男は踏み入った山の開けた場所で焚火を囲んでいた。

 近代化の進んだ日本ではあるがまだ地方は開発が進んでおらず、ここも鬱蒼と木々が生い茂っている。

おかげで米軍の攻撃目標としても優先度が低く地方はまだ無事なところが多い。

 国全体が困窮していても田舎ならまだ農作物が取れる。

 二人の男……甚夜と井槌は、暦座の者達の食料を集める為、折を見てそういった集落を回っていた。


 戦時中、徴兵逃れの為に甚夜や井槌は暦座を離れていた時期があった。

 彼らは鬼、あやかし相手ならばともかく、人と人との戦いに関わることを是とはできなかった。

 しかし徴兵に応じない若い男がいては、藤堂家に迷惑がかかる。その為昭和の初期は二人で旅がらすような生活をしていた。

 だからといって完全に無関係も貫けない。

 甚夜にとっても井槌にとっても暦座の面々は大切な家族。彼らはせめて物資面での助けになろうと方々を巡っていたのだ。


「よし、そろそろ焼けたな」


 山道の途中、開けた場所で薪に火をくべ、男二人顔を突き合わせての夕食。

 なんとも侘しいが、今のご時世食えるものがあるだけ有り難い。

 ぱちぱち木の爆ぜる音が響いている。

 焚火に掛けられた、串に刺した肉。甚夜はそのうちの一つを手に取り、乱雑にかぶりつく。

 少し焦げ目の付いた、ちょうど食べ頃だ。味付けはしていないので多少物足りなくはあるが十分美味い。


「食わないのか?」

「いや、だがよ」

 

 焼けた肉は中々いい匂いで、時折垂れる脂も食欲をそそる。

 甚夜はすぐに一つ目を平らげるが、井槌の方は先程から歯切れが悪い。折角の食事だというのに顰め面で焚火を眺めるばかりだ。


「毒のある頭はとったし、そもそも毒で死ぬほど軟でもなかろう」

「そうじゃなくてだな。へび、蛇か……」


 肉は甚夜が手ずから捕まえ捌いた蛇である。

 開いて焼いているので火はしっかり通っており 頭は落としてあるので毒の心配もない。

 ただ捌く工程を見ていたせいで井槌は食欲が湧かないらしかった。

 

「結構美味いんだがな」

「だとしても、たった今捕まえて十秒かからず捌いた蛇だぜ?」


 対して甚夜は何の抵抗もなく二つ目の肉を頬張る。

 食べ物がないのだ、どんなものでも口に入れなければいけないとは分かっている。

 分かっているが明治生まれの、しかも東京周辺で育った井槌には、なかなか辛いものがある。

 なにせ洋食だのなんだのハイカラな料理が珍しくない時代の鬼だ。こういったものに縁がなく、どうにも躊躇ってしまう。


「つーか、お前躊躇いねえな」

「確か天保の頃だったか。私はまだ子供だったが、ひどい飢饉があってな。その時によく食べた。幸い葛野は近くに森があったから山菜や野草もな。後は、虫も意外にいい味」

「やめろぉ聞きたくねぇ!?」


 山菜や野草は兎も角、虫? いや、虫はいけない。

 あいつらは鬼をして異形と言わしめる容貌の奴らがあまりに多い。イナゴの佃煮などは知っているが、正直食べたくはない。

 それに比べれば、開けばかば焼きっぽい外見の蛇はまだマシなのかもしれなかった。

 食べてみろと促され、井槌は恐る恐る焼きたての蛇に口をつける。


「どうだ。癖がなくて食べやすいだろう?」

「ほんとに結構悪くねえのが悔しい……」


 外見とは裏腹に、意外と淡泊で身は柔らかい。

 塩味がないのは物足りないものの、吐き出すほど不味くはない……というか結構美味かった。


「毒蛇でも頭さえ落とせば問題なく食える。寧ろ蛙の毒の方が怖いな。私のお勧めは蜂だ。巣に溜まった蜜は勿論のこと、成虫は炒ればいい肴になる。幼虫はそのままでも案外いけるぞ。虫や蛇と違って野草はちゃんとした知識がないと食べにくい。致命的な毒草が混じる場合もある。まあ鬼の身ならそこまで気遣うこともないが」

「ちくしょう、知りたくねえ知識がどんどん増えてくぜ」


 けれど、やはり蛇の肉はそこそこいける。

 結局井槌も二つ目に手を伸ばす。後は酒でもあれば言うことなしだが、それは流石に贅沢だろう。






「この国は、マジで滅びちまうのかねぇ」


 食事を終え、井槌はぼんやりと呟いた。

 先のミッドウェー海戦の敗北により大打撃を受けた大日本帝国は、この戦争における主導権を失った。

 B-29による本土空襲も始まり、このままいけばおそらくは敗戦。

 その結果は想像するしかないが、いくさに負けた国の末路なぞ碌なものではない。


「さて、私達の与り知らぬところだ」

「他人事じゃねえか」

「そういうつもりはないが、この国がそういう道を選ぶのならば、我らあやかしもまた従わねばなるまい」


 無論、諸外国の兵隊が芳彦らに手を出そうとするなら抗うだろう。

 それでも人の理から外れた者が、人の行く末に関与するのは間違っている。

 刀の届く範囲で足掻くのが彼ら鬼に許された精々だ。

 その辺りは井槌も納得しているところ。芳彦らを思えば胸中は複雑だが、彼とて分かってはいるのだ。


「まあ俺らに出来るのなんざ、明日喰う飯の手配くらいのもんか」

「そういうことだ」

「うっし、なら休んだしさっさと行くか。あー、向かう村の名前、なんだったか」


 鬼の体力なら夜通し歩いたても問題はない。

 早く目的地へ向かおうと、井槌は両の手で自身の頬を叩き気合を入れ直す。

 そういう切り替えの早さは彼の強みだ。甚夜もまた立ち上がり、これから目指す集落の名を告げる。


伊之狭いのさ村だ」




 ◆




「長谷部さーん、調子はどうですか?」

「気分は、悪くないよ……」


 目覚めてしばらくすると看護婦が様子を覗きに来た。

 本当に覗く以外には何もしない。療養とは名ばかりで、こころはただ寿命が尽きるのを待つばかりだ。


「今日はいい天気ですよ」

「ほんとだね。庭の花が、とってもきれい」

 

 しかし、かつて生意気な物言いをしていた少女は、死を目前にしてひどく穏やかだ。

 もう長くないだろう。

 たくさんの未来を視て、その度に命を削られて。

 けれど怯えはない。

 寧ろ胸の内は今までにないほど落ち着いている。 

 遠からず死んでしまうと実感できるようになって、ベッドから外を眺めるだけの生活に慣れた頃、ようやく色々と考えるだけの余裕ができた。


『見えた未来は逐一言うんだ。そうでなければ、大変なことになってしまうからね』


 お爺様の言いつけを守ってきた。

 そうするのが正しいと思った。

 なにかに憑りつかれたと言うお父様、気色悪いと顔をしかめるお母様。

 でも、あの人だけは、不吉な未来を必要としてくれた……私の価値を認めてくれた。

 なんだかんだ言って、彼女はお爺様が好きだったのだろう。


 だから視た。

 怪我や病気、戦争に死。たくさんたくさん不幸な未来を視続けて。

 そうやって未来にだけ焦点を合わせていたから、きっと視えないものがあった。 

 その結末が、誰も彼もに疎まれた、“死を振り撒く娘”。

 

 未来が視えるから、なんでも知っている気になっていた。

 未来ばかり視ているから、私に怯える人たちの顔も、お爺様が本当は私を愛してくれてないってことも、視えていなかった。


「ではまたお昼に」

「うん、ありがとう」


 お礼を言えばにっこりと笑って看護師は病室を出ていく。

 相変わらず時折未来は過る。

 けれど此処では口を噤み、それだけで周囲の態度は軟化した。

“死んでしまう”と指摘されるのは嫌なこと。

 そんな簡単な気持ちにさえ分からないくらい、以前のこころは目を覆われていた。


「あーあ……」


 もうちょっと早く気付きたかったな。

 そうすれば変わるものだってあったかもしれない。

 お父様のこととか、お母様のこととか。

 傷付けてしまった、家で働いていた人達とか。

 後は……噛み合わなかった鬼さんとのお話も、今なら上手くできるような気がする。


 こういう時、よく思い出すのが鬼さんだ。

 お爺様とお父様以外で唯一部屋を訪ねてくれた鬼さん。

 なんで彼がそうまで気にかけてくれたのか、こころにはよく分かっていない。

 でも過ごした日々は、当時は生意気ばかり言っていたけれど、思い返せば確かに楽しかった。

 だから残念だと、こころはほんの少し拗ねたように唇を尖らせる。



 でも、出来るなら。

 また会いたいと思う。

 会って、お話をしたいと───






 ◆






『甚夜、長谷部の家から連絡があった。“世話になった、もう来てくれなくても結構”だそうだよ』


 充知に聞かされてから程なくして旧長谷部邸は無人となった。

 新たな邸宅を訪ねても門前払い。そうこうしていうちに、風の噂で長谷部の家で起こった事件について聞いた。


 現当主、つまりこころの父親が死んだという。

 表向きは事故という話だが、人の口に戸は立てられぬ。

 なんでも妻は他の男とできており、邪魔になった夫を殺したとか。

 祖父も夫も死に、娘は追い出して。まんまと長谷部の家を乗っ取り、今は情夫と優雅に暮らしているそうだ。


 そんな女がこころの行方を知っている筈もなく。

 探そうにも『空気のいい療養に適した村へと移った』という情報だけでは足取りを追うこともできなかった。




 あの日、何も言ってやれなかった 。

 何を言えばいいのか分からないままに、歳月は流れてしまった。




 *  *  *




 伊之狭いのさ村は、故郷の葛野と同じく山間にある小さな集落である。

 しかし定期的にタタラ炭を作っていた葛野とは違い、澄んだ空気が心地よい。

 白菜が村の主産物であるらしく、東京から持ってきた農具やら食器、日用雑貨と引き換えに幾らか分けてもらった。

 またキノコ類や山菜もよく採れるそうで、村の女衆に手伝ってもらい結構な量が集まった。これなら希美子達も喜んでくれるだろう。


「有難うございます」

「いえいえ、お二方のおかげで私達も助かりました。なにせ男手が少なくなっていますから。力仕事を任せてしまい申し訳ないくらいですわ」


 村長である老翁は機嫌よさげに笑う。

 田舎の村でも戦争で人手をとられた。おかげで若い男というだけで重宝され、幾らか雑事を請け負えば大層感謝してくれた。

 お互い様だというならこちらとしても気が楽になる。礼を言い合って、取り敢えず目的は達した。


「では、井槌。済まないが」

「おう、またいつものか?」

「ああ」


 後は、もう一つ調べておきたいことがある。

 食材をもらいに色々な集落を回った。甚夜はその先々で必ず療養所を覗いていくのだ。

 どうやら此処でものようで、村長に場所を聞き今から訪ねるらしい。

 特に理由は聞いていないが、どうせ長い時間かかることでもないと別段井槌は気にしていない。

 そういう態度は正直有り難かった。

 なにせ、聞かれても上手い答えは返せそうもない。


 未来視の少女を気にかけていた理由を問われても、彼自身よく分かっていないのだ。

 強いて言うなら、探していたから。

 無為に死に逝く孤独な少女へ、かける言葉を探していた。

 けれどあの日、何も言ってやれなかった 。

 何を言えばいいのか分からないままに、歳月は流れてしまった。


 だが、出来るなら。

 また会いたいと思う。

 会って、いつかの話の続きを。


 そうして、彼は再び───




 ◆




 一日は、とても長い。

 何もせずただ庭を眺めるだけ。

 命を蝕まれ、他の誰かより早く死ぬだろうに、どうしてこうも長く感じるのか。

 昔はもっと違ったような。今と変わらなかったような。

 ああ、もうよく覚えてもいないや。

 でも確かに、いつの間にか疲れて眠くなって。

 そんな時間もあった気がする。


 こんこん、と扉を叩く音。


 ご飯の時間はもう終わった。

 検診は、まだ少しあと。

 どうしたんだろう。答える元気もないから、いつも勝手に入ってくるのに。

 寝転がったまま、首だけをどうにか横へ傾ける。


「ああ、こころ。済まない、少し来るのが遅くなったな」


 息を飲んだ。

 懐かしい、あの頃と変わらない声だ。

 屋敷を離れるのが嫌だった。

 なんで今になって。

 少しだけ、少しだけ暖かさを知ってしまった今なのかと、お父様を恨みもした。

 未来には希望がないと知っていたから。

 遠く離れてしまえば。

 それで終わるものだと思っていた。


「鬼ごっこ、って。すごいね」


 だけど遠い昔解けてしまった繋がりがまた結ばれる。

 垣間見た未来にはなかった景色が此処に在る。


「歌ってたの。おにさん、こちら、手の鳴る方へって。そしたら、ほんとに鬼さんが来てくれた」


 どこか子供っぽいこころの物言いに、返るのは静かな笑み。

 それは五年という歳月を一息で乗り越えるかのようで。


「そいつは、よかった。さて、今日は何を話そうか」


 彼はあの頃と同じように、ベッドの傍の椅子に腰を下ろす。

 そうして、いつか途切れてしまった。

 噛み合わないお話の続きを二人は始めるのだ。





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