平成編・余談『潮騒の景色』・2
元々勘の鋭い少女だった。
突然の来訪や、身の回りのちょっとした出来事。
誰も気付かない予兆をこころだけが知るということはよくあった。
それが単なる直感で片付けられなくなったのは昭和五年、彼女が四歳になった頃である。
『……遠くないうちに、新しい戦争が起こる』
祖父、柾之丞の前でこころはそう語った。
幼く舌足らずな孫娘の、やけにはっきりした口調。
そこになにか感じ入るものがあったのか、彼は動き出す。
既に没落しかかった家、今更失うものなどない。なにより孫娘は勘が鋭い。もしかしたら、くらいの気持ちはあったのかもしれない。
そうやって着手した造船業は、二年後の満州事変により大幅な躍進を見せる。
だから柾之丞は知る。
こころの“これ”は直感などではないのだと。
『ああ、私の可愛いこころ。今日も沢山お話をしよう』
以来彼は孫娘を大層可愛がった。
理由など決まっている。こころだけが知れる未来を独占する為だ。
それが実の母親には気に食わなかったらしい。
なんなら遺産を直接孫娘に全て渡すのではないか。そう思わせるほどの溺愛ぶりだった。
『お爺様、体が苦しい、です……』
『そうか、なら今日は休むといい。また明日、私の為に色々と聞かせておくれ』
こころの体が弱くなりだしたのもちょうどこの頃。特に未来の景色を見た後にひどく憔悴する。
それを、間近で見ている柾之丞が気付かぬ筈はない。
つまり彼の愛情は、孫娘へのではなく、お気に入りの道具に対するものでしかなかった。
『見えた未来は逐一言うんだ。そうでなければ、大変なことになってしまうからね』
長谷部の家の為、柾之丞は粘つくような優しい口調で繰り返し繰り返し言い聞かせる。
そこから少女の転落は始まる。
こころは未来を視る。
祖父の為に、長谷部の家の為に。
けれど未来を選べる訳ではない。
時には見てはいけないものが紛れ込むことだってある。
『貴女、明日死ぬわ。気をつけてね』
通りすがった家内使用人にこころは注意を促す。
裏のない、まったくの善意だ。
階段を踏み外し転落死する。そうならぬように、足元に気をつけてほしかった。
翌日、使用人は階段を踏み外し転落死した。
こころ自身も知らなかったが、彼女の予知は恐ろしく正確だ。
避けようとしても結果そうなってしまうくらいに、変え難い未来を彼女は視るのだ。
“あの娘は死を振り撒く”
そう囁かれるのに然程の時間は要らなかった。
こころになにかを言われれば死が訪れる。事実とは違うが、家内使用人にはそれが共通の認識になった。
怯えは隠せない。家で働く者は皆腫れ物に触るような態度で接し、けれど彼女は変わらなかった。
だって“視えた未来は逐一言う。そうでなければ、大変なことになってしまう”。
柾之丞のかけた呪いはこころを蝕む。
彼女にとってそれは紛れもない真実で、だから誰かと出会う度に言うのだ。
『その壺、壊れるから触らない方がいいよ』
『あなたのお母さんの病気、もう治らないわ』
『大変。通り魔に刺されちゃう、あなた』
『かわいそう。一週間後、駅前で事故が起こる』
『診療所に行った方がいい。……多分、もう手遅れだけど』
彼女の預言は全て成就した。
あまりにも薄気味悪いと家内使用人は次々辞め、実の母親でさえ近寄らなくなった。
比例してこころの体は衰弱し、一日の殆どをベッドで寝て過ごすようになる。
会いに来るのは祖父と父、後は世話役の数人程度になってしまった。
そして終わりを迎える。
『東京はいずれ火の海になる……この国は戦争に負けて、人々は惨めに地べたを這いつくばるの。その時には、お爺様はもう生きておられないけれど』
東京が火の海になる。
突飛すぎる発言を誰もが恐れた。
こころの預言は全て成就した。ならば今度も、そう考えた。
けれど規模が大きすぎて現実感のない預言は、同じくらい信じられなかった。
或いは、信じたくなかったのかもしれない。
しかし事実としてその一か月後、長谷部柾之丞は脳溢血で急逝。
思惑はあれど頻繁に彼女を訪ねくれた祖父はいなくなった。
可愛がってくれた祖父にさえ呪言を紡ぐ。その所業を嫌悪した母親は、旧長谷部邸にこころを押し込んだ。
父親も反対はしなかった。病弱な娘を心配はする、その気持ちに嘘はない。
けれど誰だって、命は惜しいのだ。
◆
「そうか、君は未来を“視る”のか」
気味が悪いと親からも疎まれた少女は僅かばかり驚いた。
甚夜はあまりにも穏やかだ。嫌悪や怯えに慣れ切っていたから、普通の態度が寧ろ奇妙に感じられた。
しかも相手は何も知らないのではなく、ちゃんとこころの異能を理解している。だから余計に彼の反応はしっくりこなかった。
「随分簡単に、受け入れるんだ?」
「昔、似たような<力>を持った女がいた。未来視は然して珍しいものでもないよ」
名も知らぬ鬼女は<遠見>の<力>を有していた。
遠い景色を覗き見る、それが今は形もない未来の情景であっても。
前例を知っていたから、未来視を受け入れるのに戸惑いはなかった。
同時に、こころが“何か得体のしれないもの”に憑りつかれたのではないとも。
怪異に巻き込まれたのではない、そういう気配を感じない。
つまり未来視の異能は己が内から湧き出たもの、この少女自身の特性に過ぎないのだ。
「体が、弱いと聞いたが」
「……うん」
少し生意気な物言いの少女。
会話に慣れていないのかもしれない。甚夜が腰を落ち着けて話そうとすれば、視線を逸らし俯き、何とか返事を絞り出す。
それも仕方のないことか。
今迄疎まれ、ぼろぼろの屋敷に押し込まれ、父母さえ殆ど会いに来ない。
唯一彼女と向かい合って話すのは、未来視を利用しようとする祖父だけ。その彼も今は死んでしまった。
こころは、自分が孤独なのだと、幼さに反してよく理解していた。
「病気じゃない、原因不明だって」
「そうか。ちゃんと食べているか?」
「まあね。使用人が持ってくる。あんまり残さないよ」
そういう割に少女は細い。
その理由は何となく察している。甚夜も、おそらく彼女も。けれど触れないのなら態々指摘する必要もない。
「好きな食べ物は?」
「ない。嫌いなものも特に」
「そうきっぱりと言い切らないでほしいな。もう少し話を長く続けてはくれないか?」
「だったら鬼さんが努力すべきじゃない? 話題がつまらないもの」
ただでさえ幼い娘と老翁、噛み合わないことの方が多い。
けれど手探りの会話はそれでも長く続いた。
他愛もなく、とりとめなく、どうでもいい話だけを重ねていく。
「と、もうこんな時間か」
話の途中で切り上げたのは時間がきたのではなく、こころに疲れが見え始めたから。
久しぶりに長く喋っていたせいか、瞼が落ち掛けている。
「……帰るの、鬼さん?」
「ああ、明日また来る」
名残惜しそうなこころの頭を軽く撫でて、簡素な約束を交わす。
部屋を出る時、縋るように少しだけ伸ばされた手を知っていた。
少女は怪異に憑りつかれてなどいない。それを確認した時点で依頼は終わっていると言っていい。
けれどまた明日来る。
自然にそう言っていた。
◆
それからというもの、甚夜は毎日欠かさず旧長谷部邸へ足を運んだ。
依頼としてではなく、ただの客として何度もこころを訪ねる。
「起きているか?」
「また来たの? 相変わらず暇ね」
それを僅か十歳くらいの幼い娘は煩わしげに、けれどどこか楽しそうに迎え入れた。
今迄こうやって会いに来たのは祖父くらい。意味のない話をするだけだが、こんなにも誰かと一緒に居たのは初めてだった。
「鬼ごっこ?」
「ああ、知人の子供たちに付き合わされてな。“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”なんて、日が落ちるまで走り回ったよ」
「本物の鬼なのに、ごっこ? 変なの」
家族も使用人も近付かない。
病弱なこころに無理はさせられず、一時間程度の雑談で終わる。
それでも暇を持て余しているからか、些細なことも興味深げに聞いてくれた。
今日の話は暦座のこと。いつか希美子の子供達と鬼ごっこをした時の話だ。
「というか、逃げる子供を追いかける鬼って、ただの怖い話よね」
「そう言われると、確かに」
「追いつかれたらバリバリ食べられちゃう? きゃー、たすけてー。あ、こうやって逃げる時に言うのね、“鬼さんこちら、手の鳴る方へ”っって」
「人喰いの鬼を呼んではいけないだろう」
「そっか。ふふ」
雑談を繰り返し、少しは距離も近付く。
当初はぎこちなかった少女も徐々に慣れて時折だが子供らしい笑みを見せてくれるようになった。
「でも、ちょっとだけ、いいな。私は走ったりできないから、丈夫な鬼さんが羨ましい」
「まあ実際丈夫ではあるな。骨を砕かれても腹を裂かれても、その程度では死ねない」
「……そこは、あんまり、羨ましいところじゃないね」
最後のは置いておくにして、鬼ごっこの話はそこそこ気に入ってくれたらしい。
寝転がったままこころは「鬼さん、こちら。手の鳴る方へ」と手拍子を叩きつつ機嫌よさげに歌っていた。
それからも交流は続く。
噛み合わないなりにお互い日々を重ね。
そうすれば次第に、互いの事情にも触れる。
「お父様が、頼んだんだっけ。私が“なにか”に憑りつかれたって」
「ああ。だが、そうではないのだろう?」
「うん。物心ついた頃には、ちょっと先のことが分かった。勘が鋭いって感じだったけど、ある時、はっきりと視えるようになったの。だから皆に言ったわ。戦争が起こるって……信じてくれたのは、お爺様だけだったけれど」
柾之丞はこころの言葉を信じた。
だからこそ、利用した。
未来視の少女。成程、手中にすれば大層な力となる。事実彼は没落しかかった長谷部家を容易に立て直した。
それはあくまでも道具に対する愛情ではあったが、大切にしていたのは間違いなかった。
「でもそれが、お母様には気に入らなかったのね。いつも疎ましげに見ていたのを覚えている」
母は柾之丞の息子の嫁。一般の家庭に生まれたが、見初められて家族の家に嫁いだ。
そういう経緯だからか、少しばかり金への執着が強かったらしい。祖父と孫娘の触れ合い、傍目にはそう見える筈の景色さえ快くは思わなかった。
遺産は、もしかしたら全て与えられるかもしれない。
そう思わせる程に柾之丞がこの少女を厚遇したのは確か。けれどその真実は、便利な道具が離れないようにというだけ。
その思惑が母娘の在り方を壊し、結果少女は独りになった。
「あっ、くぅ……」
「こころ?」
話の途中、急に少女は胸を押さえて呻く。
まるで溺れているようだ。空気を求め喘ぎ、苦汁に顔を歪める。
ただ、瞳だけが、妖しげな光を灯す。
「“視えた”のか」
荒れた呼吸が落ち着いた頃、問い掛ければこころは疲れた微笑みを浮かべる。
「貴方の未来が。刀を持った女の子……何処でもない街で、いつか、貴方はその胸を刃で貫かれる」
降り頻る雨、狭い部屋の中。
彼を憎む少女は刀を構え。
赤い太刀で迎え撃てど、刃は届かず。
為すすべなくその身を貫かれ、鬼喰らいの鬼は地に伏す。
それが彼女の垣間見た未来だった。
「怖くないの?」
告げられた未来を周囲の者達は皆恐れた。
なのに彼は少しもおびえた様子を見せない。こころにはその態度が不思議に思えた。
「いや、怖いな」
問いの答えに、小さな笑みを落とす。
口にした恐怖は紛れもなく本心だ。
死んで為すべきを為せぬも、守るべきを守れぬも。
大切なものを幾つも失ってきた身ならば、どちらも、どうしようもないくらいに怖い。
「ただ、その未来は仕方ないようにも思う。散々踏み躙ってきた男だ、踏み躙られるのもまた因果だろう」
それもまた、紛れもない本心。
彼女の“視た”未来が如何なるものかは分からない。
けれど憎しみに生きた男なら、憎まれて野垂れ死にが似合いだ。だから怖いのは本当でも、殊更慌てもしなかった。
「……変なヤツ」
「偏屈なんだ、年寄りだからな」
「ふふ、ばーか」
おどけて肩を竦めれば、もう一度笑頬が緩む。
それは達観したものではない。
幼い娘らしい、飾り気のない微笑だった。
◆
「鬼さんは、なんで鬼さんなの?」
毎日のように通い、幾度も言葉を重ねた。
その分態度も柔らかくなり、ベッドに寝たまま力ない様子で、けれど彼女の方から問い掛けることも増えた。
「昔は人だった。惚れた女を殺されて、憎しみから鬼に落ちた」
「……よく、分からない」
そうなれば甚夜も少しずつ過去を語って聞かせる。
情けない男だが、この娘が興味深そうにするものだから、多少の恥は仕方ない。
当初と比べればこころの表情は随分と変わるようになった。
ただ時折、困ったような顔をする。
「なにが分からない?」
「失くして、人じゃない何かになってしまえるほど。誰かを、好きになれるものなの?」
やはり、噛み合わない時は多い。
少女と老翁だからではない。
守り切れず失くして、それでも拾い集めて。そうやって生きてきた男と、初めから何一つ持っていなかった彼女とでは、共有できる景色がない。
本当は分かっている。
祖父は未来視の力を利用したかっただけ。母には疎まれ、父も此処には殆ど来ない。
使用人達が薄気味悪いと、恐ろしいと語っていたのも、彼女はちゃんと理解していた。
だから本当は分かっているのだ。
「きっと、そんな気持ち。分からないまま、私は死んでいくのね」
誰にも惜しまれず、悲しまれることなく、無為に死んでいくのだと。
幼い少女はとっくに生涯を諦めていた。
「昔から、なんとなく先が視えた。いつの間にか、はっきりと。もう今じゃ勝手に未来が視えて。その度に、私の中の何かがなくなっていく」
それは預言ではなく実感。
零れ落ちるものを繋ぎとめる手段はないと、こころは投げ捨てるような軽さで語る。
そして、その何かが尽きた時、少女の命もまた消えてしまう。
哀しいとも怖いとも思えなかった。
だってそうだろう。生に執着で来るほど大切なものなんて、彼女は何一つ持っていない。
「お爺様が言ってた。視えた未来は逐一言わないと、大変なことになってしまう。私もね、そう思ったの。悪い未来が視えたら、ちゃんと教えて。そうすればきっと回避できるって」
けれどそうではなかった。
買い物の途中で通り魔に刺される。そう言われた家内使用人はいつもの道を避け、その結果として惨殺された。
彼女の預言はあまりに正確で、避けようとしても必ず起こる。
死の未来を視た時点で、死は既にされているのだ。
そうと知らず祖父に掛けられた呪いのまま彼女は未来を語り。
間違いと気付いた時には、誰もいなくなってしまった。
「それでも、お爺様が生きていた頃はまだよかった。だって役にも立てたもの。少なくとも、お爺様にとっては、私は価値があった。けど今は無意味に命が削られていくだけ。それに最後には……たくさんの飛行機が爆弾を落として、火の海になる東京が視えてしまう」
大量の爆撃機による空襲で東京が焼かれ、日本は敗戦し、人々は地べたに這いつくばる。
彼女の預言は全て成就してきた。
だからその地獄のような情景はいつか現実になる。
そういう未来を“視て”しまった以上、きっと変えられない。
「みんな言ってた、あの娘は死を振り撒くって。多分それは本当のこと。……私はずっと。死ぬまで、誰かの不幸だけを“視る”の」
だから、死ぬのは怖くない。
死ねば周囲の人は不幸にならない。
そんなことを思ってしまうくらい、未来はこころを打ちのめして。
「こころ……」
そういう少女に何が言える。
強制的に視える未来、その度に削られる命。
止める術を持たぬ男に。
無為に死に逝くこの娘の為、いったい何ができるだろうか。
◆
部屋を出てすぐのところで見慣れない顔に会う。
三十半ばの痩せ細った、弱々しいといった印象の男だ
「ああ、君は。赤瀬の家が手配してくれた?」
「葛野甚夜と申します。貴方は」
「そこの。こころの、父親だよ。一応はね」
通い始めてしばらく経つのに、父親が此処に来たのは今日が初めてだった。
責めはしない。そこまで立ち入るには距離がちと遠すぎる。こうやって足を運ぶだけあの母親よりはまだマシ、充知の立場もあり、甚夜はしっかりと頭を下げた。
「君は、この手の専門家だと聞いた。どうだろう、娘の様子は?」
「“なにかに憑りつかれた”と聞き及んでおりましたが、事実は違います」
「というと」
「あれは他者の不幸に特化した高精度の未来視。生まれつきの、彼女自身の<力>ですよ」
病気、怪我、戦争、死。
訪れる不幸のみを映し出す、覆す余地のないほど正確な未来視。
人の身でありながら人の枠を逸脱した、高位の鬼にも匹敵する生来の異能だ。
「治る治らないで論じるものではありません。鳥が空を飛ぶように、魚が海を泳ぐように、彼女は未来を視る。死を振り撒くというが、別段何かをした訳ではない。亡くなった者達には申し訳ないが、あの子が黙したところで勝手に死んだでしょう」
だからこころが責められる謂れはない。
寧ろ異能を利用し続けた柾之丞こそが元凶。
そして、人は人と違うものを排斥する。当たり前の真理を教えられなかった、周囲の者の咎だろう。
「……待ってくれ。生まれつきというのなら、あの子は何故どんどん衰弱していく?」
「異能自体は生来でもそれを制御できていない。未来を覗き見るなど、もとより人の身には余る業。過剰発現する力に蝕まれ、彼女は遠からず命を落とす。……自身の視る死の未来に、こころは喰われるのです」
それが、かつて見えた<遠見>の鬼女との違い。
長くを生きる鬼と同質の<力>に、脆い人の体は耐えられない。
天保七年、丹後国・倉橋山で人面牛身の怪物『件』が現れたという。
病の流行や戦争、台風や旱魃など災害に関するさまざまな予言し、しかし件は未来を視るとすぐに死んでしまう。
そもそも未来視とはそういうもの。命と引き換えに今はまだ存在もせぬ未来を垣間見る業。覆せぬほど正確ならば尚更、視る度に死へ近付く。
「止める手段は」
「ありません。未来を視る度に命を削る。無為に死に逝く、生まれた時点で彼女の終わりは決められている」
祖父に利用され、周囲に疎まれ、孤独に死に逝く
その末路を彼女自身が受け入れてしまっている。
ならば“憑りつかれた”というのも間違いではなかったのかもしれない。
こころはあやかしではなく、人の弱さに欲望に憑りつかれ。
為すすべなく呪い殺されるのだ。
「そんな。なにを馬鹿な……」
信じられないとでも言いたげな父親の横を通り過ぎ、甚夜は屋敷を後にする。
声はかけない。苛立っていたせいだ。
今まで放っておいたくせして傷付いた面をする父親にではなく、何もできない己に。
◆
毎日お話をしているのに、最近は少し体の調子がいい。
何気なく寝転んだまま両手を叩く。
「鬼さん、こちら。手の鳴る方へ……」
鬼ごっこはしたことないけど、こういう言い回しがあるのだと他ならぬ鬼さんに教えてもらった。
だからって手を叩けば来てくれるなんて思ってはいない。ただ何となくしてみたかっただけだ。
ぎぃ、と扉が鳴った。
まさか、本当に?
そう思って寝転んだまま首を横に向けるけれど、部屋に訪れたのは違う人。
「お父様……」
ここに来るのは随分と久しぶり。
お母様とは違い、それなりには心配してくれるけれど。お父様が私を見る目にはいつも恐怖が混じっている。
あまり来ないのはそういう理由。誰だって自分の命は惜しいのだ。
「こころ、体調はどうだい」
それは、ベッドから離れた椅子に座るところからも分かってしまう。
不満に思う程親しくしていない。父は母に弱くて、こうやって来るのも目を盗んでのこと。親としての義務を果たしたい、くらいなんだろう。
なら私も娘としての義務を果たす。
「大丈夫」
「そうか、赤瀬から来た専門家は、なにか不快なことはしなかったか」
「ううん、別に」
寧ろ色々な話をする。
なんだかズレてしまって、うまく話がかみ合わない時もあるけれど。そんなに嫌いじゃない。
ただの雑談でしかないけれど。
それは多分、初めて触れる、暖かさで。
「……ところで、この屋敷を処分しようと思うんだ」
だから余計に、かけられた冷や水の冷たさが際立って感じられる。
「なん、で」
「空気のいい高原の方が体にいい。……治らないなんて、そんな筈はない。ちゃんと静養すれば、きっと快方に向かう。そうだ、無為に、死に逝くなんて」
それはお父様にとっては、最良の手段であり、優しさだったのかもしれない。
お母様は私に死んでほしがっていた。お爺様の遺産が私に全ていくと勘違いしていたから。
でもそうではなかったと知り、もはや興味さえなくなった。
この屋敷に押し込めて、後は勝手に死んでくれればよかった。
でもお父様は違う。
親としての役目を果たそうとしている。
それが愛情ではなく、最低限の義務であったとしても、私を心配しているのに間違いはない。
死ぬよりは、体が治って生きて、この力もなくなればいいと考えていて。
つまり勘違いしているのだ。
強制的に視えてしまう未来は、どうやったって止められず。
零れ落ちる命を、繋ぎ留める術はない。
私は無為のままに死ぬ。当たり前の結末に、お父様は気付いていない。
「そんなの」
そんなの、いやだ。
なんで今になって。
少しだけ、少しだけ暖かさを知ってしまった今なのか。
お父様の言葉を否定しようとして。
「い……あ、あぅっ」
なのに、目の前が白く染まり、視える景色。
心臓が締め付けられ呼吸が荒れる。ぱくぱくと口を開ける様は、きっと空気に溺れる魚。
海に落ちた鳥のようにもがき、苦悶に顔を歪ませて。
ああ、まただ。
すぅ、体の中にある何かが失われる。
代わりに垣間見る。
知らない男の人と、服を着ずに寄り添うお母様。
責め立てるお父様。
お母様は、お父様を馬鹿にするような目で。
男の人の手には鉄の棒が。
衝動だったのか、追い詰められたような顔で。
男の人は、お父様の頭を、殴り付けて。
力なく崩れ、飛び散る脳漿。
部屋にはいつまでも、いつまでも、お母様の笑い声が響いている。
「だ、め……」
私には、呪いが掛けられている。
“見えた未来は逐一言うんだ。そうでなければ、大変なことになってしまうからね”
唯一私を必要としてくれたお爺様。
未来は、示さないといけない。
そうしなければ私に価値はない。
だから、それがいけないと知った今でも、朦朧とした意識は勝手に言葉を紡ぐ。
「お父様は……お母様に殺される。なんてかわいそう。裏切られて、気付きもしないなんて」
そこで、ぶつり、途絶える。
未来を視る度に私の体は弱っていく。
目覚めた時には、ベッドから起き上がり、歩くこともできなくなっていた。
……後の話は語るまでもないだろう。
旧長谷部邸は処分され、私は療養目的で長野の高原にある集落へ送られた。
一生困らないだけのお金と共に預けられたのは、多分私の視た未来を信じたから。
同時に、これ以上関わりを持たない為に。
お父様もきっと、もう私を見たくなくなったのだ。
両手を叩く。
鬼さん、こちら。手の鳴る方へ。
虚しく響く音と声。
ほら、やっぱりそんなもの。
だぁれも、追いかけてきてくれない
◆
「甚夜、長谷部の家から連絡があった。“世話になった、もう来てくれなくても結構”だそうだよ」
遅れて、充知から聞かされた。
こころは療養の為東京を離れたらしい。
強制的に視える未来、その度に削られる命。
無為に死に逝く少女の為、いったい何ができるのか。
疑問は答えが出ないうちに決着する。
あの子に、何もしてやれないまま。
僅かな縁は解けて消えた。