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『幸福の庭』・2



 まだ覚えている。

 優しい父。よく笑う母。

 私は庭で毬つきをしていた。


「■■■は本当にそれが好きですねぇ」


 この毬は父が買ってきてくれたもの。

 父は武士らしい厳しい人だったから笑った顔を見たことはない。

 それでも顔を赤くして、毬を渡してくれた。だから言葉は少ないけれどちゃんと私のことを想っていてくれるのだと分かる。


 びゅうと風が吹いた。

 まだ一月、空気は冷たいけれど透き通っていて気持ちいい。

 庭ではたくさんの水仙が風と遊ぶように揺れている。

 この庭を整備したのは母だ。専属の庭師を押し退けて「この花を植えます!」と言い切った強引さに父も目をぱちくりとさせていた。

 母は花が好きで私にも色々なことを教えてくれた。そんな母が作ったこの庭は私にとっても大切な場所だった。

 父の毬。母の花。冷たい風も暖かく感じられる。私は満ち足りていた。目に映る全てを好きだといえるくらいに。



 そう、此処は幸福の庭。

 幼い私が過ごした陽だまり。



 でも、忘れてはいけない。

 歳月は一定の速さでは流れない。

 苦痛の時間は長く留まり、幸福の日々は無情なまでに早く往く。



 そう、いつだって。

 大切なものこそ簡単に失われていくのだ。




 ────彼岸を眺むれば、故郷はや遠く。




 ◆




「あんた、昼間っから何やってるの?」


 三浦直次が喜兵衛を訪れた翌日。

 正午を少し過ぎた頃、深川の通りにある茶屋で休息を取っていると、通りがかった奈津に声を掛けられた。


「見ての通り休んでいる。お前も食うか?」


 日が暮れる頃には三浦直次に会う為南の武家町へ行く。

 それまでの時間つぶしのつもりで寄った茶屋だが、珍しく磯辺餅が置かれていたので思わず頼んでしまった。

 久々に食べる餅はやはり旨い。餅は蕎麦以上の好物だった。


「別にいらないけど……暇なのね」

「そうでもない。仕事が入った」

「ふうん……」


 甚夜の仕事とは即ち鬼の討伐である。

 それが悪いとは言わないが、鬼に良い思い出のない奈津は、若干顔を顰めていた。


「もしかしてお餅好きなの?」


 普段とは違う様子に思わず奈津が問う。

 店の表に設けられた長椅子で磯辺餅を食べる甚夜は、表情こそ変わらないがどこか満足そうに見える。


「ああ。私は元々タタラ場の育ちでな。子供の頃は餅なんぞ滅多に食えなかった」

「だから今になって好きなものを、ってこと? ……蕎麦よりも好き?」

「まあ、な。思い出もある。今でも好物はと聞かれれば蕎麦よりも磯辺餅だな」


 茶を啜り、懐かしさに目を細める。

 随分と昔、何も言わないでもこれを出してくれた茶屋の娘がいた。

 もう会うこともできないが、今頃はどうしているだろうか。

 本人も気づかないうちに、目は穏やかに細められる。

 意外な様子に「へぇ」と奈津は生返事、甚夜の隣に腰を下ろし、店の娘に茶と磯辺餅を頼む。


「いいのか?」


 何処かへ行く途中のように見えたが座り込んでしまって大丈夫なのだろうか。

 一瞬何を言われたのか分からなかったようだが、言葉の意味を察し、奈津は微妙な表情で答える。


「え? あー、別に。喜兵衛に行くつもりだったけど、なんかめんどくさなったから私もお餅をご飯代わりにしようかなって」

「奈津殿がそれでいいのなら」

「じゃあ、そうするわ」


 最近は奈津や善二も偶に喜兵衛へ来る。

 まだまだ流行っているとは言いづらい店だ。客が増えて店主は喜んでいたが、どうやら残念なことに、今日は閑古鳥が鳴くらしい。

 軽い笑みを浮かべ運ばれてきた餅と茶を受け取る。

 ありがとう。自然と言えるようになったのは奈津が大人になったからだろう。


「うん、久しぶりに食べるとおいしいわね」


 一口一口、小さく餅を齧る。

 そう言えば以前、須賀屋の庭で同じように並んで握り飯を食ったことがあった。

 あの時の余裕のない娘が、肩の力の抜けたいい女になった。歳月の流れとは本当に不思議なものだ。


「そう言えば、奈津殿はまだ善二殿と結婚しないのか?」


 大人になったのなら、そういう話も自然と出てくる。

 雑談程度の軽さで彼が振った話題は、奈津には予想外過ぎた。思わず餅を喉に詰まらせたのは致し方ないことだろう。


「……いきなり、何よ」


 呼吸困難に陥りかけたが茶で無理矢理流し込み、人心地ついて甚夜を睨む。

 しかし相手は意にも介さず「確かもう十六。頃合いだろう」などと、実に平然と話を続ける。

 女の適齢期は十五、六。奈津くらいの歳ならば浮いた話や見合いの一つや二つあってもおかしくはない。

 甚夜としてはごく当然の問いのつもりだったのだが、どうにも奈津は随分と立腹のようだ。


「そもそも善二とってのが在り得ないわよ」


 あからさまに不機嫌な態度で言い捨てる。

 その発言は意外だった。てっきり恋仲だと思っていたのだが。


「そうなのか? 重蔵殿としても、彼となら安心できると思うが」

「善二は……そうね。兄、みたいなものだから。それにお父様は見合い話こそ持ってくるけど結婚自体は私の好きにしていいって言ってくれてるの」


 店のことを考えたら、大店や武家に嫁がせた方がいいのにね。

 照れたような笑み。素直ではない言葉には、父親に対する感謝と愛情が透けて見える。

 それが嬉しい。

 奈津が父親を慕っていることが、あの人の家族で在ってくれることが、嬉しかった。


「そう言うあんたは結婚しないの?」

「定職を持たん浪人に嫁ぐような物好きは少ないだろう」

「そう……うん、それもそうね」


 奈津の怒りもいくらか薄らいだのか、口元は多少緩んでいる。

 足を少し揺らしながら空を見上げる彼女は随分と楽しそうで、だから甚夜も寛いだ心地で茶を啜る。落ち着いた空気はそれなりに心地いい。


「じゃあお互いしばらくは一人身ね」

「そうだな、肩身の狭いことだ」

「ふふ、ほんとに」


 大真面目に頷いて見せれば、くすくすと奈津が笑う。

 実際のところ嫁を取らなかったからといって五月蠅く言う家族なぞ甚夜にはいないのだが、敢えてそれを口にするようなことはしない。折角の時間を壊しくたくはなかった。


「でもそろそろ真剣に考えないといけない歳よね……そういえば、あんたって幾つなの?」

「三十一だ」

「嘘!? 善二より上!?」


 当然と言えば当然だが、奈津は驚きに目を見開く。

 実際甚夜の容姿は十八の頃から変わらない。彼女の反応も無理はなかった。


「え、ほんとに?」

「嘘は吐かん」

「えぇ……私の倍近く? そりゃ老けない性質たちとは言ってたけど。なんか、秘訣でもあったりするの?」

「さて、な」


 まさか鬼だからと答える訳にもいくまい。

 ここらが切り上げ時か。懐から取り出した銭を長椅子の上に置き、店員へ声をかける。


「馳走になった、勘定は置いておくぞ」

「もう行くの?」

「ああ、仕事だ」

「……また、鬼?」


 無言で頷いてから立ち上がり、甚夜はぐっと口元を引き締める。

 それとは裏腹に、何故か奈津の顔は少しだけ陰り、少し躊躇いながらも、遠慮がちに問う。


「ねぇ、なんで鬼退治なんてしてるの? あんたくらい剣の腕があったらもっと違う仕事もあると思うんだけど」

「それは買い被りだと思うが」

「話逸らさないでよ」


 怒ったように振る舞っても分かる。

 態々危ない真似なんてしなくてもいいのに。

 そこに在るのは純粋な憂慮。だからこれ以上誤魔化すことはしなかった。したくなかった。


「……私にも、よく分からん」


 けれど答えなんて、ある訳もなく。

 零れ落ちたのは頼りない笑み一つ。

 堅苦しい普段の態度からはかけ離れた、愁いを帯びた弱音だった。


「時々、自分でも分からなくなる時があるんだ。何故こんなことをしているのか」

「何よそれ」

「事実だから仕方ない。だが敢えて言うならば……多分、私にはそれしかないんだろう」


 人よ、何故刀を振るう。

 あの時の問いに返せる言葉は未だ見つからないままで、歳月を重ねる度に斬り捨てたものだけが増えた。

 それでも何を斬るかさえ選べず、ただ力を求めて。

 殺すか否か、たったそれだけのことを今尚迷い続けている。

 本当に、私はどうしたいのだろうか。


「そう……なんか、ちょっと安心した」


 甚夜の答えに奈津は安堵の息を吐く。

 意外な反応に眉を顰めるが、彼女は安らいだ様子で微笑んでいた。


「甚夜って普段冷静だし、浮世離れしたところがあったから。正直よく分かんないやつだと思ってた。でも悩んだり弱音吐いたりもするんだ」

「寧ろそんなことばかりだよ」

「だから、安心した。あんたも普通の人だったんだ」

「奈津殿」


 嬉しそうに足をぶらぶらとさせている。

 子供じみた仕種なのに、その横顔は晴れやかに見える。不思議な感覚に名を呼べば、訂正するように彼女は言う。


「奈津、でいいわよ。いい加減付き合いも長いんだし、いつまでも殿じゃ他人行儀でしょ」

「……奈津が、それでいいのなら」


 気を抜いた、甚夜が初めて見る表情だった。

 名を呼ばれたのが嬉しかったのか、奈津は満足そうに頷く。


「うん、今度からはそう呼ぶこと。それじゃ私もそろそろ店に戻るから」

「そうか」

「あんまり、気にしない方がいいわよ。何がしたいかなんて、分からない人の方が多いんだから」


 気楽な慰めの言葉。

 それで何が変わる訳でもない。しかし嫌な気分ではない。

「ああ、ありがとう」と素直に礼を言えば、互いに小さく笑う。そうして二人は茶屋を後にする。

 飲んだお茶のせいだろう。胸が暖かかった。


「さて」


 体も温まったことだ、そろそろ行くとしよう。

 向かう先は三浦某の屋敷があるという南の武家町。いやに足取りは軽かった。




 ◆




 江戸の町はその八割を武家屋敷が占める。

 城の周りには堀が張り巡らされている。それをぐるりと囲うように武家町が形成されており、三浦家は城の南側の武家町に居を構えていた。既に築百年を超えてはいるが、江戸を襲った幾多の地震にも耐え抜いた屋敷だ。


 蕎麦屋『喜兵衛』を訪れた翌日、直次は日が落ちてから外出しようと準備を整えていた。無論兄を探すためである。

 打刀と脇差を腰に携え、草鞋を履いて母屋から出てきた直次は、随分と暗い顔をしている。


「在衛、また今日も行くのですか」


 疲労の色を消せないまま門を潜り、出かけようとしたその時、四十そこらの女が後ろから声をかけた。

 直次の母である。


「何度も言っているでしょう。三浦家の嫡男は貴方です。兄などいはしません」


 直次が夜毎街へ繰り出すのを嫌っている為だろう、物言いには棘があった。

 売り言葉に買い言葉。苛立ちに彼の語気も荒くなる。


「兄上は確かにいました」

「聞きましたよ、兄を探すのに遊郭や貧民窟にまで足を踏み入れているそうですね。武家の人間がいったい何を考えているのです」

「兄が見つかれば出入りをやめます」


 この問答もいつものことである。

 母は存在しない兄を探す直次に諫言を重ねていた。家柄を重んじ世間体を気にする人間だったからだ。三浦家では父よりも母の方が厳格な、旧態然とした『武家の者』であった。


 義を重んじ勇を為し仁を忘れず礼を欠かさず。

 徳川に忠を尽くし、有事の際には将軍の意をもって敵を斬る“刀”とならん。

 ただ忠を誓ったもののために在り続けるが武家の誇りであり、そのために血の一滴までも流し切るのが武士である。


 表の祐筆として代々事務に携わってきた三浦家。

 然して裕福ではなく、家柄も低くかった。

 それでも三浦家が武家であるならば、忘れてはならぬ武士の在り方だと息子にも厳しく教えてきた。

 そんな母にとって、遊郭やら貧民窟に家督を継ぐべき直次が通っている事実は到底耐えられるものではないのだろう。

 そういう母から勤勉に学んだのが直次であり、兄である定長さだながはどちらかと言えば母を苦手にしていた。


 ───家があって人がいるんじゃない。人がいて家があるんだ。


 定長はよくそう言っていた。

 家を重んじる武家が多い中、その物言いは非常に珍しい。

 兄は良くも悪くも自分の意思を強く持った人間だった。家の為に幕府の為に、そういう考えは理解する。

 しかし、だからといって自分の意思を曲げることはしたくない。

 快活で奔放な性格は、生真面目な直次にとってある種の憧れさえ感じさせるものだった。 

 母からよく学んだ直次自身は家を重んじる古くからの武士に近い感性を持っている。

 その為、母が言うことも分かる。武家の人間たる者、名誉を守るために動かねばならない。十二分に理解しているし、自身もそう思っていた。


「いもしない兄を探すのはもうやめなさい」


 それでも、今回ばかりは従えない。

 直次は自分には出来ない生き方をする兄に、尊敬の念を抱いていた。

 だからこそ母の言葉に頷くわけにはいかない。

 兄が何故いなくなったのか。何故も誰も覚えていないのか。

 真実を知るまでは例え武士に有るまじき行為をしたとしても。

 それは直次が初めて見せた反骨であった。


「失礼します」

「在衛!」


 背に浴びせられる怒声を無視し門を潜る。

 秋の月は雲に隠れ、辺りは夜の闇に包まれていた。雲の切れ目から漏れる僅かな星明りを頼りに歩みを進める。

 さて、今宵はどこへ探しに行こうか。

 つらつらと思索をしながら取り敢えずは武家町を出ようと橋へ向かう。

 するとその途中、六尺近い大男と出くわした。


「今から探しに行くのか」


 何事もないように男は言う。

 驚きに目を見開いてみれば、闇の中で佇む男は、今日初めて口をきいたばかりの浪人だ。


「貴方は」

「甚夜。しがない浪人だ」


 まったく表情を変えない男は鉄のように揺らぎのない声でそう名乗った。








 店主らの願いを受けた甚夜は三浦家へ向かう途中だった。

 すると宵闇に一人、強張った表情で歩く男の影。

 それが件の武士であることに気付き、挨拶もそこそこに声をかけていた。直次は驚いているようだが、然して気にすることもなく話を続ける。


「話は聞いた。なんでも兄を探しているということだが」

「は、はい。ですが」

「兄などいないと周りは言う、か」


 確かに普通ではない。

 人の理を食み出る怪異。原因は分からないが、鬼が関与している可能性はある。

 ならば答えは一つしかない。


「此度の怪異、やはり首を突っ込ませてもらうことにした。どれほど力になれるかは分からんがな」


 この話を受けるのは何も頼まれたからだけではない。

 もしも鬼の存在があるならば<力>を得られるかもしれない、という打算があった。

 しかし直次にとっては意外だったらしく、大きく目を見開いていた。


「よろしいの、ですか?」

「ああ。ただし必ず解決できるとは約束できない。そこは納得してくれ」

「ええ……! それでも構いません。いえ、私の言葉を信じてくださる。それだけでも、救われた思いです」


 言葉の通り彼は正しく極まったという様子だった。

 兄を探し続けるも、周りは兄などいないという。

 その不安は如何程のものか。本当は周りが正しくて、自分は狂ってしまったのかもしれない。

 そんなことを考えたこともあったのだろう。直次は自分を信じてくれる者がいるという安堵に柔和な笑みを落とした。


「さて。早速で悪いが、三浦殿の兄が消える前の様子を教えてほしいのだが」

「分かりました。では屋敷へ……いえ、母が五月蠅く言うでしょうから別の場所に」


 腕を組み悩む直次に甚夜は軽い調子で言った。


「ならばちょうど良い所がある」




 ◆




 甚夜に案内された場所で、二人は向かい合って椅子に腰かけていた。


「そう言えば、甚夜殿は浪人と仰っていましたね」

「ああ」

「腰のものは数打ちではないとお見受けしますが、元は武家の出ですか?」


 改めて見た甚夜の刀は、その鉄鞘を見るに粗悪な大量生産ではない。

 刀は値が張る。浪人が易々と買えるものではなく、如何なる経緯でその刀を得たのか、この男がどういう出自なのか純粋に興味があった。


「いや、違う」


 甚夜の端的な答えを聞き、怪訝そうに眉を顰める。

 それもその筈、そもそも苗字帯刀は武士のみに許された特権で在り、武家でないと言うならば甚夜は苗字の公称も帯刀を許されていない筈だ。

 つまり勝手に帯刀している彼は犯罪者ということになる。

 思い至り、直次は胡散臭そうだという胸中を隠そうともしない不躾な視線を向けた。

 それに気付き、無表情のまま答える。


「私が以前住んでいた土地は山間にあるタタラ場でな。古くより怪異や山賊に晒されていた歴史がある為、自警の意味も兼ねて帯刀を許された役があった」


 巫女守。

 人であった頃、甚夜が就いていた役柄であった。

 この時代、領地を治める藩主が例外的に町人の帯刀を認める事例は少なからずあった。

 新田開発の援助、藩への献金など幕府に貢献した一部の商人には褒賞として名字帯刀を許されていたし、タタラ場のように幕府にとって重要性の高い場所でありながら警備に人員を割けない場合にも帯刀が認められた。巫女守もその事例の一つである。


「私もまたその役に付き、徳川様より直々に帯刀を許されている」


 ただし随分と昔に、ではあるが。

 そこまで詳しく話す必要はない。とある友人の言葉を借りれば鬼は嘘を吐かない、されど真実は隠すもの、というところだろう。

 納得したのか、直次も剣呑な雰囲気を治める。


「もしや故郷は葛野ですか?」


 ずばりと言い当てられ、表情にこそ出さないものの内心驚きがあった。


「よく分かったな」

「いえ、タタラ場の出身という言葉と、その鉄鞘を見てよもやと思いまして」


 甚夜の出身である葛野は、江戸から百三十里ほど離れた所にある産鉄地だ。

 同時に刀鍛冶でも有名で、葛野の太刀は鬼さえ裂くと謳われている。

 その特徴は鉄造りの鞘と頑強さを主眼に置いた肉厚の刀身。まだ日ノ本が戦国の頃にはこういった造りの刀も稀にあったが、江戸に至るまで一貫して戦うための刀に拘り続ける土地は珍しい。刀剣の知識を持つ者にとっては、葛野の名を導き出すことは容易だろう。


「お恥ずかしながら、好事家なもので。貧乏旗本の息子が道楽を、と思われるかもしれませんが。刀剣の類を見聞するのが趣味なのですよ」


 ぽりぽりと頬を掻きながら言葉通り照れた笑いを浮かべる。


「葛野の刀は飾り気のない鉄造りの鞘が特徴と聞きますが、甚夜殿のものは鞘の造りが丁寧ですね」

「これは元々集落の社に奉じられていた御神刀だ。故あって譲り受けた」

「ああ、御神刀であるならば見た目にも気を使って当然、ということですか。銘はなんと?」


 照れ笑いは最初だけで、よほど甚夜の刀に興味があるのか、次々と突っ込んで話を聞いてくる。

 真面目そうな外見とは裏腹に案外押しが強い。好事家というのは皆こうなのだろうか。


「夜来という」

「夜来……成程、“やらい”。葛野の太刀は鬼をも裂くという。追儺のことを『おにやらい』と言いますが、案外そこから来ているのかもしれませんね。或いはその刀自体に鬼を祓ったという伝説でもあるのか……そういう説話はないのですか?」

「聞いたことはないな。集落の長は嘘か真か千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀とは言っていたが」

「ほう、それは」


 必要以上に大きな反応だった。

 かと思えば今度はぶつぶつと何事かを呟いて、意を決したように甚夜の目をまっすぐに見やる。


「ところで抜いて見せてくれたりは」

「せん」


 にべもなく切って捨てる。

 ついでに冷め切った視線を送ってやった。

 お前は兄を探したいのではなかったのか。

 意を察し、直次はばつが悪そうに表情を歪める。生真面目そうではあるが自分の趣味となると周りが見えなくなる性格らしい。


「すみません。流石に話が逸れ過ぎました」

「構わない。だがそろそろ始めてくれ」


 先程の振る舞いを恥じたのか、直次は深々と頭を下げる。

 それはいいから早く話をと促せば、重々しい頷きが返ってきた。


「では。既にご存知の通り、私は兄……三浦定長を探しております」


 ようやく本題に入り、直次の表情は見るからに強張った。

 声も一段低くなった。先程とは打って変わった彼の空気に、甚夜も佇まいを直し向かい合う。


「いなくなった兄を私はずっと探しているのです。いくら探しても、兄は見つからない。いえ、誰も兄を知らないのです」

「誰も知らない?」

「はい。奇妙な話ですが、父も母も知らないと言うのです。三浦家の嫡男は私だと。定長などという男は知らない、そんな奴は息子ではない。周りに聞いても同じような答えが返ってきます。私以外、誰も兄のことを覚えておりませんでした」


 誰も覚えていない兄。確かに奇妙な話だ。

 空気が重くなった。再び直次は口を開こうとして、かと思えばまたも話は中断される。


「なぁ……旦那方よぉ」


 ようやく本題、というところで今度は傍から声が掛かったからだ。

 いかにも「どうすればいいのか分からない」といった戸惑いを顔に浮かべて男は言う。


「なんでここでそんな重要そうな話してんですか?」


 男は蕎麦屋の店主。

 詰まる所、二人が話し合いの場に選んだのは蕎麦屋『喜兵衛』である。


「ああいや、屋敷でこの手の話をすると母が五月蠅いもので。そうしたら甚夜殿が此処でいいだろう、と」

「いや、いいんですがね。密談をするのは人のあまり来ない場所って相場が決まってると思うんですが」


 直次の言葉に店主の視線が甚夜へと向き、しかし悪びれた様子もなく彼は言う。 


「この店は人など滅多に来ないだろう」

「結構辛辣ですね旦那……」


 事実だった。どうしようもなく事実過ぎて店主には立ち眩みでも起こしたように手を顔に当てた。

 実際毎日閑古鳥が鳴いているのだ。甚夜の発言は全く以て否定できなかった。


「お、お父さんしっかり」

「お、おう。そうだな、いずれ旦那は息子になる男。ここはやっぱいい関係を保たねぇとな」


 その話、まだ続いていたのか。

 そうは思ったが突っ込むのも嫌なので軽く流す。どのみち店主はおふうに後で説教を食らうだろう。

 というか既に説教は始まっていた。相変わらずな親子であった。


「それは冗談として、随分と三浦殿を心配していたようだからな」


 だからここに連れてきた。

 ぼそりと言えば今度は説教を止めたおふうが優しげな眼で甚夜を見た。


「どうかしたか?」

「いえ、ただ甚夜君が冗談を言えるようになったのが嬉しくて」


 彼女にとっては気遣いを見せたことより、甚夜の物腰に余裕が出てきたことの方が嬉しいらしい。

 そうまで心配してくれるのは有難い。が、外見はともかく中身の年齢は既に三十一。この歳で子供扱いされるのはちと反応に困る。姉が弟の成長を喜ぶような生暖かい視線はやめてほしかった。


「まあいい。で、三浦殿の兄がいなくなった時のことを教えて欲しい。それはいつ頃のことだ」

「え、ええ。兄がいなくなったのは今年の春先、一月の終わり頃でしょうか」

「となると、以前あった辻斬り事件よりも一か月程は前か。……ではいなくなる前の様子は?」

「それは。正直に言うと、特に変わった様子はなかったのです。何処か特別な場所に出かけたという訳でもなく、気付けばふっと姿を消してしまい……」

「ふむ」

「あ、いえ。おかしな様子はありませんでしたが、一つだけ。兄はいなくなる少し前に言っていました。“娘に逢いに往く”と」


 唇を親指でいじりながら直次は思考に没頭する。

 流石に店主ら親子もこうなっては声を出さず、沈んだ面持ちで直次の様子を眺めていた。


「娘……」

「それと……もう一つ。兄の部屋に花がありました」

「花? それはどんな」

「すみません、花には疎いもので名前は分からないのです。ですが、品のいい香りがしました。ほっそりとした葉にすらりと伸びた茎に、黄色い中心に白い花弁の付いた。小さな、可愛らしい花です。兄は花を愛でるような人ではありませんから少し気になって」


 直次の言葉からその花を想像する。最近はおふうから色々と花の名を教わっている。

 その中で似通った印象の花は。


「水仙……か?」


 確認の意を込めておふうを見ると微かに頷いてくれた。

 どうやら正解らしい。だが直次は小さな可愛らしい花と言った。それは……。


「三浦殿、間違いないか」

「え?」

「その花の色は白く、小さな花だったというのは本当か、と聞いている」


 あまりにも硬い、鉄のように揺るぎない声。

 直次にとってはあまり重要な話とは思えない。だが甚夜は刃物の如く鋭利な空気でそれを問うてくる。


「あ、はい。花弁は白でした。小さい、というのは私の主観ですが」

「それも、兄君が消える前に?」

「いえ、花を見つけたのはいなくなった後です。それ以前は気付きませんでした」


 訝しみながらも答えれば、鋭く目を細め、無言で何事かを考え込む。

 相も変らぬ平静な表情、しかし気付いたことがあったらしい。


「悪いが、三浦殿の屋敷を見たい」


 彼は真剣な表情でそう言った。




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