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平成編・余談『潮騒の景色』・1




 全てが終わり、高校二年の夏休み前のある日の朝、ふと見たテレビのニュースが目に留まった。

 交通の便が悪く、急激な人口減少により過疎化したいくつかの集落を取り扱ったコーナーだ。

 ありふれた話題に気を取られたのは、知った名称があったからだろう。

 伊之狭いのさ

 長野にある小さな集落は、今では人が住んでおらず廃村となっているらしい。

 かつてはそこの療養所に通ったこともある。

 あれは確か、昭和の初期だったか。


「甚夜、どうかした?」


 姫川みやかに声をかけられ、甚夜はようやく意識を取り戻した。

 戻川高校の教室、いつものメンバーで机を合わせての昼食。騒がしい日常の中にあって、心は追想に囚われていた。

 どうやら朝に見たニュースのせいで少し感傷的になっていたようだ。


「ああ、済まない。何の話だったかな?」

「だから、夏休みの計画。また皆で旅行でも行かないかって話だよ。じいちゃんも行こうぜ」


 藤堂夏樹は拳を握り熱弁する。

 やはり夏といえば海、折角だから泊まりでどうか。海の幸がおいしいとこ、あと温泉もいいなぁ、と自身の希望を捲し立てる。

 今回はなんだか妙に気合が入っており、態々数冊の旅行雑誌を持ってきて皆での旅行を持ち掛けたのだ。


「麻衣はどんなとこがいい?」

「温泉は、行ってみたいなぁ。城崎とか?」

「城崎温泉……ああ、志賀直哉か。ん、でも海なくないか?」


 文学少女の吉岡麻衣は、温泉地といえば文豪が題材にした城崎を思い浮かべる。

 なんとも彼女らしい。傍らでは穏やかな心地で富島柳が笑っていた。


「いいね! 友達と泊まりの旅行、なんか楽しそう! ……旅館は気を遣ってほしいけどね。なっきがいるし」

「いやー、その辺り別に大丈夫じゃない? あたしや甚に、富島だっているんだし」


 皆で旅行は大賛成だが、やたら都市伝説に好かれる夏樹の発案。幼馴染の久美子としては下手な旅館を選ぶと何やら厄介ごとにならないかと不安もある。

 まあその辺りは、幸いオカルトの専門家がいると桃恵萌は気楽な様子。ただし久美子の意見を否定していないところを見るに、何か起こるのは前提のようだ。


「夏休み、楽しみだねっ」

「うん、また皆で色々やりたいね」


 恩師の死に沈み込んでいた梓屋薫も、今では随分元気になった。

 みやかも落ち着いたようで、以前の景色が戻ってきた。

 少しだけ、以前と変わる心だってあるのだが。それは恥ずかしいのでまた別の機会に。


「甚夜は、どんなところがいい?」

「そうだな……」


 勿論旅行の計画には甚夜も含まれている。

 微笑ましい心地、暖かさにくるまれて、再び彼は懐かしい記憶を紐解く。

 伊之狭いのさ村。

 平成に至り廃村となってしまった、けれど彼にとっては懐かしい場所だ。

 思い出したのは、きっと今が間違いなく幸福だから。

 そして海の話だから、彼女の微笑がふと蘇ったのだろう。






 彼女は、決して美しくはなかったように思う。

 青白い肌。痩せ細った体。

 ほんの一瞬でも目を離せば掻き消えてしまいそうなくらい儚げで。


『……大丈夫、ちゃんと視えているから』


 けれどその瞳に心惹かれた。

 諦めの中に、捨てきれない何かを宿した。

 そういう、遠くを眺める彼女の瞳だけは、素直に綺麗だと感じたのだ。



 これは物語の本筋とは少し逸れたお話。

 僅かな間だけ触れ合った、未来視の少女との、優しい記憶。






 鬼人幻燈抄 余談『潮騒の景色』






 昭和十二年(1937年) 十二月

 

 そこは取り残されたという表現の似合う屋敷だった。

 関東大震災以後、帝都は一層近代化が進み、江戸の名残を残す木造建築は次々と取り壊されていった。

 立ち並ぶ鉄筋とコンクリートのビルに囲まれ、ぽつりと存在するくすんだ洋館。

 明治の初期に建てられ震災にも絶えた屋敷は、軽い補修工事で十分だったらしく、以後もそのまま使われ続けていた。

 規模の大きい洋風の建築ではあるが、近代的な街並みの中ではやはり古臭く見える。

 まるでその一角だけが古い時代を引きずっているような。

 だから、取り残されたようだと思った。


「お待ちしておりました、葛野甚夜様ですね」


 扉が、木の軋む嫌な音を立てた。

 屋敷の玄関で甚夜を迎えたのは、着物の上からエプロンをかけた老齢の女。

 家内使用人なのだろう。折り目の付いた所作で丁寧に頭を下げる。

 疲れているのか顔色はよくない。

 活力というものを感じさせないまま、老婆は「こちらへ、どうぞ」と中へ案内する。

 

「何故、私が来たと?」


 その対応に違和を覚える。

 老婆は甚夜が来るとほぼ同時に玄関へ出てきた。

 来訪する日時は伝えていなかった筈なのに、まるで今日来ると最初から知っていたかのようだ。

それをおかしいと思い、しかし彼女は虚ろな目で答える。


「当然でしょう。お嬢様は、“なにか”に───」




 ◆

 



『娘は“なにか”に憑りつかれている……とのことだ』

 

 事の発端は屋敷の主、赤瀬あかせ充知みちともに持ち込まれた不可思議な相談事である。


長谷部はせべ柾之丞まさのじょう、急逝した長谷部はせべ家の当主だ。彼も子爵で、私より十歳は上かな。脳溢血だったそうだよ』


 充知は既に五十一歳、老齢と言って差し支えなく、そういった病気も他人事ではない頃合いだ。

 だからだろうか、少しだけ寂しそうに曖昧な笑みを浮かべる。

 人は老い衰える。それだけは、抗えるものではない。


『柾之丞殿とはそれなりに交流があってね。といっても友人ではなく、仕事や夜会へ出た時に、程度のものだけど。その縁で葬式にも顔を出させてもらったんだが、そこで彼の息子さんとも会った。で、持ち掛けられた相談が』


 娘は“なにか”に憑りつかれている。

 そういう、俄かには信じがたい内容だったという。


『こころ。孫娘の名前は、こころというそうだ。憑りつかれたなんて、まあ普通なら信じない。けど私の場合は、その程度じゃ驚けないくらいに経験豊富だろう?』


 眉唾な話ではあったが、充知は怪異というものが単なる与太ではないと身をもって知っている。

 柾之丞にも冗談交じりにその手の話をしたことがあった。

 彼はそれを覚えていて、生前娘に「知人の子爵には、怪異を専門とする家内使用人がいる」とでも伝えていたのかもしれない。

 だから相談は、“どうかお力を”と縋るようでさえあった。


『で、だ。息子さんの更に娘さん……柾之丞殿の孫娘にあたるんだが、彼女がなにかよくないものに憑りつかれているらしい。そのせいか病弱で、もし原因が分かったら改善するかも、とも考えているんじゃないかな』


 ただ、奥方はそうでもないようだけど。

 そう忌々しげに充知は吐き捨てる。元々落ち着いた性格だが、齢を重ね若い時分よりもさらに余裕が生まれた。そういう彼が久しぶりに見せる、剥き出しの感情だった。


『病弱で一日の殆どを寝て過ごしてる娘に対して、時折気味の悪いことを言う。真面じゃない、自分の娘とは思えない。もし本当にその手のことに通じている人がいるなら、お願いだからどうにかしてくれないか、だとさ』

『……そいつは、胸糞が悪いな』

『まあ、そこは私も同意見だね』


 娘を大事に想わない親などいない。

 そう信じて疑わない甚夜にとって、その女の言葉は受け入れ難いものだった。

 それは勿論充知も同じ。しかし柾之丞とはそれなりに付き合いがあったし、無視するのも気が引ける。

 だけど、一度その孫娘を見てやってくれないか?

 そう言って苦々しく、申し訳なさそうに頭を下げた。


『正直関わりたくない手合いだが。お前としては、その柾之丞とやらには義理立てをしたい、というところか』

『義息子さんの方はまだ真面だし、できればね。勿論君なら何でも解決できる、なんて思ってはいない。でも一度だけ見てやってほしいんだ』


 解決できるかどうかは別、というのはちゃんと念を押しておくよ。

 そう付け加える辺り、充知もこの手の厄介ごとに随分慣れた。

 兎も角、こうして甚夜は長谷部家に足を運ぶ流れとなった。




 ◆




 長谷部はせべ家。

 公家筋の華族で当主は子爵の地位を賜っている。

 やんごとなき血筋ではあり、その分長谷部は金勘定が苦手。反して気位は高く、大正の頃には既に没落しかかった家だった。

 それを立て直したのが柾之丞まさのじょうという男である。

 今より八年前、長谷部は突如造船に携わり始めた。

 不景気で潰れる企業もある中、何を血迷ったのか。

 周囲の意見なぞ無視して柾之丞は動く。「これで長谷部も終わりか」などと噂され、しかし状況は一変する。

 昭和六年(1931年)、大日本帝国と中華民国との間に武力紛争が勃発する。

 後に言う満州事変を機に軍需が高まり、長谷部の造船業は大幅に躍進。傾きかけていた家は今や有数の資産家である。

 

『あなたが、赤瀬様の紹介してくださった専門家?』


 古びた屋敷で待っていたのは、このご時世に随分と品質の良い、有り体に言えば高そうな藍の着物を纏った女だった。

 柾之丞の息子、その奥方。夫の相談は縋るようだと聞いていたが、妻の方は随分と気の強そうな印象だ。

 というよりも端から甚夜を下に見ているのだろう。子爵の充知ならともかく、頼みごとをした相手とはいえ庶民に敬意を払う必要はない。上流階級特有の傲慢さが透けて見えている。


『なら“あれ”を見てもらえるかしら。住所は他の者に聞いて』

『あれ、というのは貴女の娘のことですか?』

『やめてちょうだい、おぞましい。あんな気味悪いものを娘だなんて思いたくないわ。大体、あれのせいでお義父様は死んだのよ』


 自身の娘……こころについて語りながら、嫌悪に口元を歪ませる。

 腹立たしいがそこを指摘したところで話が長引くだけ。必要なことを聞いてさっさと切り上げるのがお互いの為だろう。


『せいで、とは?』

『あれが言ったの、お義父様が死ぬって。一か月後、本当に脳溢血で亡くなったわ。ああ、思い出すだけでも恐ろしい。嗤ってたのよ? 散々お父様に可愛がられていたのに。夫の頼みだからこうして手間をかけるけど、本当はそのまま死んでくれてもいいくらいなんだから』


 そう吐き捨て、女は不機嫌なまま去っていった。

 それが長谷部の家を訪ねた時のこと。

 柾之丞のおかげで大層な資産家となった長谷部は帝都に大きな屋敷を構えた。

 代わりに今まで使っていた古くなった邸宅は、彼の孫娘に宛がわれた。

 先程の女、つまり母親に疎まれたせいだ。

 一緒に暮らしたくないとぼろぼろの家に押し込め、自分は柾之丞の資産で優雅な生活を送る腹積もりなのだろう。


 分かり易い構図だ。

 夫は娘をある程度心配しており、病弱な体が治るならどうにかしてやりたいと思っている。

 だからこそ赤瀬充知に依頼し、しかし母親は違う。

 あやかしに憑かれた娘なんぞ気味が悪い。長谷部の資産の為夫には従うが、本当は死んでくれた方が有り難いくらいの気持ちでいる。


 心底癪に障る。

 だが充知の願いならば、途中で放り出す訳にもいくまい。

 荒れた胸中は溜息と共に吐き出し、甚夜は旧長谷部邸へと向かった。


「お待ちしておりました、葛野甚夜様ですね」


 あのような親子関係だ、来訪など知らされていなかったと容易に想像がつく。

 だというのに、取り残されたような古い屋敷で、老齢の家内使用人は平然と甚夜を出迎える。

 しかも時間まで計ったように。違和を覚えるのも無理からんことだろう。


「当然でしょう。お嬢様は、“なにか”に憑りつかれているのです」


 老婆は虚ろな空気を漂わせたまま答える。

 屋敷の中には随分と静かだ。娘を押し込め、華族として外聞が悪くないよう申し訳程度に使用人を配置しただけ。掃除も行き届いておらず、室内はかなり痛んでいる。

 曲がりなりにも子爵家の娘だ、放置し切って妙な噂が流れても困るの。最低限のことはしておきたい。娘の為にではなく、“母親として娘を気遣っています”と夫や周囲に喧伝する為に。

 つまり甚夜は、見せ札として呼ばれたのだ。


 思った以上に気分の悪い依頼となった。

 だが途中で放り出すつもりもない。柾之丞への義理立てをしておきたいと充知は言った。その気持ちは汲んでやりたいし、ああまで母に疎まれる娘へ、会わないうちから少しばかり同情的になっていた。

 

「こちらです。どうぞ、お入りになってください」


 案内された一室、扉の前で老婆はお辞儀しそのまま場を離れる。

 二人きりになれるよう気遣ったのか、そもそも近寄りたくなかったのか。

 どちらでもいい。まずはその娘に会うが早い。

 そうして部屋に足を踏み入れる。

 実用的な調度品しか置かれておらず、大した装飾もない簡素な室内。端にあるベッドには、少女が横たわっていた。

 

「待ってたよ、鬼さん」


 顔だけを甚夜へ向け、こころという名前とは裏腹に、感情の色のない微笑を零す。

 年の頃は十かそこらに見えた。

 けれど若さというものを感じない。肌の色は青白く、手足も痩せ細っていて、触れるだけでぽきりと折れてしまいそうだ。


「……何故、それを?」


 初めて会う筈の彼女は、甚夜が鬼であると初めから知っていた。

 驚きはなかった。事前に来訪を察知していたのだ、正体を見抜くくらい不思議でもない。

 ただそれが如何なる手段で行われたのかには、多少の興味があった。


「“視た”から」


 短い答えが全て。

 少女は、甚夜が部屋を訪れる瞬間を、ちゃんとその瞳で視ていたのだ。


「成程」

「驚かないんだ?」

「突飛さで言えば鬼の方が相当だろう?」


 ベッドの傍に備え付けられた椅子へ腰を下ろしつつ軽い調子で返す

 それもそうかと少女はにんまりと口元を歪める。無邪気な笑みには程遠い。容姿に見合わぬ、何処か達観した表情だった。


「さて、君がこころで間違いないか?」

「うん。鬼さんは?」

「私は葛野甚夜。君の両親から頼まれた。娘が“なにか”に憑りつかれたので見てほしいと」


 思惑はどうあれ、ではあるが。

 隠したものを正確に察し、こころはせせら笑う。


「そんなことを。馬鹿な人達……お爺様と同じように、ちゃんといろいろと教えてあげたのに」

「いろいろ、というのは?」

「あなたも知りたいの?」


 父を悩ませ、母に気味が悪いと言わせたのは、おそらくその“いろいろ”。

 それを彼女もちゃんと理解している。実年齢は別にして、その程度の分別が付かないほど幼いとは思えなかった。

 けれどこころは、隠すことなく語った。

 

「なら何度でも言ってあげる。東京はいずれ火の海になる……この国は戦争に負けて、人々は惨めに地べたを這いつくばるの」


 その瞳にしか映らない、今は存在もしない未来の景色を。




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