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終章『ももとせの命ねがはじ』・(完)




 東京は渋谷、暦座キネマ館は今日もいつものように営業をしている。

 大正・昭和と激動の時代を乗り越えた街の小さな映画館は、多くの人々に愛されてきた。

 勿論ここまでの道のりは決して楽なものではなかった。

 太平洋戦争の敗戦。テレビやビデオの普及による衰退。様々な娯楽の発展。

 幾度も困難に直面し、一時は営業を中止せざるを得ない状況まで追い込まれもした。

 しかし館長の藤堂芳彦を筆頭に皆一丸となって奔走し、度重なる窮地を押し退け、暦座キネマ館は平成にあって尚も街の小さな映画館のまま此処にある。

 その積み重ねた歴史を、藤堂希美子はずっと見詰めてきた。

 愛する夫を支え、自身も駆けずり回り、思い出深い映画館を守る為に半生を掛けた。

 敬愛する“爺や”のように刀を手に切り結ぶようなことはないが、彼女にとってそれは確かに意地を通す価値のある戦いだった。

 そうして歳月は過ぎ。

 希美子は齢百を超える老婆となり、今も暦座キネマ館を見守り続けている。




 窓から入り込む春の風が柔らかに肌を撫でている。

 差し込む陽光にまどろみながら、椅子に深く腰掛けたまま希美子は穏やかな午後を過ごしていた。

 体はもう殆ど動かない。

 肉のついていない枯れ木のような体。水気のない真っ白の髪。もともとは華族の令嬢、品の良い面立ちだった少女も老いには勝てない。

 顔はしわくちゃで、けれど柔らかな目と眉間の皺の少なさに、彼女の歩みが決して不幸ではなかったのだと伺い知れる。


「きみこ、今いい?」


 自室を訪ねてきたのは希美子の友人。

 人ではない彼女は老いることがなく、容姿は十四歳くらいの少女にしか見えない。しかし溜那とはもう八十年九十年になろうという付き合いだ。

 一緒に暦座を守り続けてきた仲間だから、もしかしたら、戦友といってもいいかもしれない。

 大正の頃に出会った二人は、掛け替えのない時間を共に積み重ねてきた。


「溜那さん。ええ、ええ、もちろん」

「ん、お茶持ってきた。あとおかし。野茉莉あんぱん、物産展やってたから買ってきた」

「あらあら、おいしそうねぇ」


 むこうでやるべきことをやってきた。

 そう言った溜那がふらりと暦座に戻ってきて一週間。生活も落ち着き、こうやってお茶をするくらいの余裕は出てきたようだ。

 爺やはまだ戻ってきていないけれど、携帯電話を買ったとのことでマメに連絡をくれる。 

 ただ毎回「芳彦君は?」という風になるから、ちょっとだけ嫉妬してしまう


「湯飲み、三つ?」

「ん。今日は、おきゃくがいる」


 お盆の上に置かれた湯飲みは三つ。不思議に思ったが、溜那の後ろに誰かがいると気付く。

 ああ、彼女がお客さんなのだろう。

 希美子は年老いて強張ってしまった頬の筋肉を、それでも精一杯綻ばせた。

 だって、覚えていたから。

 ずっと昔に女三人でお喋りした。お客さんには遠い面影がある。それどころか、纏う衣服こそ違えど、彼女はあの頃と全く変わっていなかった。


「まぁ、随分…ひさしぶりねぇ……向日葵さん」


 栗色の髪の可愛らしい少女。

 本当に懐かしい。昔は溜那と向日葵に、「芳彦さんを見ると胸がドキドキする」なんて子供っぽい相談をした。

 もう随分と会っていなかったけれど、希美子にとっては向日葵もまた大切な友人だった。


「はい、お久しぶりです、希美子さん。お元気そうで何よりです」

「そんなこと、ないわよ。もうお婆ちゃんですもの。今日は、どうしたの?」

「全て、片が付いて。おじさまも見逃してくれて。落ち着いたらなんだか会いたくなってしまいました」


 その言葉の意味は分からない。

 いつまで経っても、百を超えた今でさえ、爺やにとって希美子は“大切なお嬢様”。

 いつだって甘いから、向日葵を貶めることになりかねない話はしてこなかった。

 だから真意は彼女には理解できず、けれど優しく目を細める。


「そう、嬉しい。私も、会いたかったわ」


 彼女が抱えてきたもの、苛むものを、このお茶の席でくらいは降ろせるように。

 また三人で他愛のない話をしていた頃へ戻れるように、知らないなら知らないままでいい。

 貴女は会いたかった、私も会いたかった。それ以上に大切なものなんてきっとないだろう。


「ごめんなさいねぇ、いま椅子を」

「いい、きみこ。わたしがやる」


 希美子は普段車椅子。もう歩くどころか支えがなければ立ち上がれない。なのに向日葵のために動こうとするのが彼女らしい。

 だけど転んでは困ると、備え付けたテーブルにお盆を置いた溜那は手早く小さな丸椅子を持ってくる。

 然程の時間はかからない。テーブルを三人で囲み、午後のお茶会の準備が整った。


「それじゃあ、溜那さんが買ってきてくれたお菓子、いただきましょうか」


 野茉莉あんぱんの名前の元となった人に、随分と昔に会った。

 だからとても懐かしいお菓子。そういえば、芳彦も加えてキネマを一緒に見に行ったか。

 こういう時、希美子は嬉しいと感じる。

 ふとした瞬間に優しくなれる、大切な思い出がある。そういう掛け替えのない日々を、暖かな記憶を積み重ねてこれた。

 年老いた今だから、ちゃんと歳を取って、過ぎ去ったかつてを大切にできる“おばあちゃん”になれたことがとても嬉しかった。


「美味しいです……」

「そうね、本当に」

「肩の荷が下りたんでしょうか。張り詰めいたものがなくなって、少しだけ呼吸が楽になりました。その分、これからどうすればいいのかもよく分からなくて。なんででしょう、気付いたらここを訪ねてました」


 向日葵の表情は微かに陰りを見せる。

 マガツメは甚夜に喰らわれ、最後の役割も果たし。

 彼女に与えられた使命は何も残っていない。自由になったといえば聞こえはいいが、やるべきことがなくなり、少し戸惑いもしていた。

 だから今も戦い続けている希美子に、多分会いたくなったのだろう。


「向日葵さんは、大変なお仕事が片付いたのね。だったら、ゆっくりしましょう」

「ゆっくり、ですか?」

「ええ。腰を落ち着けて、お茶を飲んで。偶にはいいでしょう?」

「そう、かもしれません」


 何も知らない希美子では言えることなんてある筈もなく、でも確かにそれもいいかもしれないと向日葵は頷く。

 なにもかもが終わり、戸惑いはまだあるけれど。せっかくのお茶会にそれを持ち込むのは勿体ない。


「なんだか、懐かしいですね」


 昔、希美子がまだ紫陽花屋敷に住んでいた頃、こうやって三人お茶を飲みながらおしゃべりした。

 それを向日葵も思い出したのだろう。溜那の淹れた緑茶を一口、ほぅと暖かな息を吐く。


「ん」

「本当に。ふふ、私だけしわくちゃになっちゃったけど」


 向日葵は鬼、溜那はコドクノカゴ。共に老いず当時の容姿を保っている。

 その中で希美子だけは皺だらけの顔。歳月を重ねた彼女は相応に年老いた。

 外見ばかりではない。少し力を込めれば折れそうなくらい細い体。誰かの支えがなければ立つことも儘ならず。歳も歳だ、明日明後日急変して亡くなってもおかしくはない。

 ゆったりと、暖かい。

 このお茶会を心地よく感じられたから、それがすぐにでも失われてしまう程儚いのだと思い知ったから。向日葵は自然に口を開いていた。


「私、知ってます」

「向日葵、さん?」

「若返ること、できますよ。簡単に、なんのデメリットもなく。もちろん、芳彦さんもいっしょに。若返ることが……」


 今の甚夜はマガツメを喰らった。

 だから<力>がある。今迄十全に使えなかった<地縛>や<東菊>を問題なく扱え、なにより<まほろば>を得た。

 その特質は時間の逆行。年老いた芳彦や貴美子を若返らせるなんて片手間でできる。

 こうやって久しぶりに会えた。だというのに、百歳を超える希美子は間違いなく呆気なく、遠くないうちに死んでしまって。

 それが嫌で、向日葵は失われるものを繋ぎ止めるかのように、矢継ぎ早にまくし立てた。


「いいのよ、向日葵さん」


 しかしその申し出を優しく柔らかく、けれどきっぱりと拒絶する。


「希美子さん……」

「ごめんなさいね、勘違いさせちゃって。しわくちゃのお婆ちゃんになっちゃったけど、私は、それを嫌だと思ったことはないの」


 だって一緒に年老いてこれたから。

 遠い昔憧れたキネマのようにうまくはいかない。楽しいことばかりでもなかった。

 結婚するまでには紆余曲折があったし、結ばれてからもいっぱい喧嘩した。

 気持ちを分かってほしくて、でもすれ違って。

 いつもいい夫婦ではいられないし、子育てには四苦八苦、暦座キネマ館は何度も窮地に立たされて。

 泣いたことだってたくさん、泣かせたことだってたくさんあった。

 でも一緒に年老いてこれた。

 悲しくて零れた涙を覚えている。けれど、嬉しくて流した涙は数え切れない。

 傍から見れば決して平穏ではない、苦難続きの人生だった。 

 だけど心底惚れた夫の傍で、何よりも大切な子供達と共に過ごし。

 そんな家族を慈しんでくれる、長生きな隣人とも出会えた。


「きっと若返っても。何回やり直したって、今以上に幸せな日々になんて出会えない」


 だから、しわくちゃなお婆ちゃんになれた今が、希美子には誇らしい。

 皺だらけの顔も、枯れ木のような体も、立ち上がることさえできなくなっても。

 若返り延命したいとは思わない。例え一秒先に死んだとしても後悔はない。


「ありがとう、向日葵さん。でもこのままでいさせて? 私は若い元気な女の子よりも、過ごした日々を愛おしく思えるお婆ちゃんでいたいの」


 愛する人達と共に年老いてこれたから。

 強がりではなく、積み重ねた日々を無意味なものにはしたくないと素直に思えたのだ。


「……ごめん、なさい」

「ううん。だって向日葵さんは私のことを思って言ってくれたんだもの。さ、お茶会の続きをしましょう? 今こうやって三人で過ごす時間も、私には、いつかみんなで恋のお話をした時と同じくらい大切だから」

「ん。……そういえば、きみこは、昔はすごくへたれだった。よしひこに告白するのもぜんぜんだめで」

「あ、あら? 溜那さん? そのあたりは別に、思い出さなくても、いいのよ?」


 お茶を飲んで、お菓子を食べて、朗らかに談笑は続く、

 久しぶりのお茶会に向日葵は思う。

 ああ、もしかしたら。

 本当に強かったのは、変わってしまったおじさまでも、変わらなかった母でもなく。

 変わらなかったものを尊び、変わり往く日々を愛せる彼女だったのはないだろうか。


「もしも、母が、そうあれたなら……」


 微かに零れた呟きは誰にも届かない。

 それでいい。もしもマガツメが彼女のように在れたなら、或いはハッピーエンドだってあったのではないかなんて、今更どうにもならない夢想でしかない。

 今はそんな益体のない考えよりも目の前のお茶会のほうが大事だ。


「ひまわり。どうかした?」

「いいえ、溜那さん。また、お茶会したいなって」

「ん、いい考え。今度はみんなでおすすめのおかしを持ち寄って」

「いいですね、それ。では私も次の機会の為にちょっと頑張ってみます」

「ならとっておきのお茶、準備して、待ってるわ。ふふ、楽しみねぇ」


 鬼喰らいの鬼と現世を滅ぼす災厄。

 二匹の化生の因縁は百七十年という歳月を経て締め括られ、全ては日常に帰結していく。

 マガツメの長女は生き残り、コドクノカゴやしわくちゃのお婆ちゃんと、これからも時折お茶会を開くのだろう。

 そして遠く離れた始まりの地でも、日々は続いていく。

 憎しみに追い立てられて生きてきた彼は、これから───









 鬼人幻燈抄 終章『ももとせの命ねがはじ』









 徳川の治世は少しずつ陰りを見せ始め、現世には魔が跋扈していた。


 江戸から百三十里ばかり離れた葛野の地で起こった一夜の惨劇。

 鬼の襲撃によりいつきひめと呼ばれる巫女の一族は絶え、集落は失意に塗れていた。

 巫女は火の神に祈りを捧げる火女。崇めるべき神と繋がる術を失った葛野はこれから緩やかに衰退の道を辿るだろう。 

 だが歴史という大きな流れから見れば、それは取るに足らない事柄。一つの集落の盛衰なぞ騒ぐようなものでもない。

 同じく、彼の道行きもまた瑣末な出来事である。

 葛野で起こった惨劇の後、青年は集落を出た。

 旅の伴は腰に携えた刀と、胸に抱えた憎悪だけ。

 何処へ行けばいいのかわからないまま、川に浮かび流れる木の葉の如く彼は漂流する。

 時は天保十一年。

 西暦にして1840年のことであった。





「……美味いな」


 甚夜はおふうの淹れてくれた茶を啜り小さく呟く。

 住宅街にある花屋、三浦花店では小さな茶会が開かれていた。

 といっても朝早く、開店前登校前に休憩がてら二人の男女が茶を啜っているだけ。店内の丸椅子腰を下ろしに、茶請け代わりに売り物の冬の花を眺める。茶会というにはひどく細やかで、けれど互いに気心知れた仲、穏やかな空気はそれなりに心地よい。


「よかった。お酒を出せなくて申し訳ありませんけれど」

「流石に朝からは控えるさ」


 いつもより早く目が覚めた。余裕をもって登校すれば、途中おふうに誘われて店へ寄った。茶会の理由はそんな程度だ

 湯呑を傾けつつ、甚夜は店舗からぼんやりと外を眺める。

 思えば随分遠くまで来たものだ。

 旅立ちから気が遠くなるくらいの歳月が流れて、故郷にはもはやあの頃の面影は欠片もない。

 帰るべき場所を守り抜いてくれた人たちがいる。だから移り変わる景色を寂しいと思うことはなく、それでも微かに零れた息は少なからず気が抜けてしまったからだろう。


「気を遣わせたか?」

「昔ならともかく、今はそこまで」


 唐突な問いにもおふうは戸惑わず返してくれる。

 マガツメを、鈴音を喰らった。結局妹を救えなかったのだ、己が無様さを嘆き悔やんでいるかもしれない。お茶に誘ったのは、そう思わせ、気遣わせてしまった為かと甚夜は聞いた。

 おふうは嫋やかに微笑む。誘ったのに他意はない。憎しみだけを全てと信じた過去ならばともかく、大切なものを見つけ変われた貴方ならば過剰な気遣いは必要ないでしょう、そう答えた。

 離れていた時間の方が長い。けれど甚夜にとっておふうは特別で、おふうにとってもやはり甚夜は特別で。

 歳月を踏み越えてきた二人には互いにしか分かり得ない瞬間があった。


「でも、少しだけ意外だったかもしれません。もう少しくらい気落ちしていると思っていました」

「そうしたら慰めてくれたか?」

「いいえ。だって慰めてほしくないでしょう? 貴方は、痛みを捨てられない人だから」


 本当によく見透かしてくれる。それを嬉しいと感じてしまう時点で甚夜の負けだろう。

 彼女の言う通り、然程気落ちはしていない。自分でも驚くくらいに穏やかな心地だった。


「不思議と、後悔はしていないんだ」


 甚夜は僅かに口元を緩める。

 強がりではない、ごく自然に静かな笑みは零れ落ちた。


「決して最善の結末ではなかった。だが頭を撫でてやれた。私は兄として足らなかったかもしれない。それでも少しくらいは、鈴音の想いに報いてやれたと思っている。だから後悔はしない」


 もう少し上手くやれたのではないか。浮かんだ考えは切って捨てる。

 力だけを求めて、それだけが全て。

 けれど間違えた道行きの途中、拾い集めた小さな欠片があった。

 辿り着いた果て、あの子の頭を撫でてやれた。最後の最後には通じ合い、鈴音は幸福のままに逝くことができた。

 ならば在りもしないもしもを想像するのは、道の途中手にした大切なものへ唾吐き、百七十年経て尚も変わらなかったあの子の想いを踏み躙ると同義。

 引きずるのは守ったものにも奪ったものにも失礼で無粋だろう。


「ただ、忘れもしないと思う。共に過ごした日々も、互いに傷つけた歳月も。あの子の笑顔も、寂しそうな顔も。涙も憎しみも、最後の最後まで私を愛してくれたことも。……何一つ、忘れない」


 擦れ違い憎み合ってしまったけれど。この手で、傷付け奪ってしまったけれど。

 例え思い出す度に、胸に言い知れぬ寂寞が過るとしても。

 鈴音は大切な妹だった。それだけは忘れずに歩いていこうと思う。


「……本当に、馬鹿なひと

「悪いな、性分だ」


 呆れたような溜息、交わす言葉は和やかに。

 彼がどういう男かも、彼女がそれを受け入れてくれることも、最初から分かり切っている話だ。

 後悔はない。その答えが返ってくると多分おふうは知っていた。

 だとしても、心に刺さったままの小さな棘があることも、同時に知っていたのかもしれない。


「大丈夫、ちゃんといますよ」


 とんとん、と優しく。おふうは人差し指で甚夜の胸をつつく。

 マガツメを喰らったからではない。想いを伝えて、想いを受け取って。だから鈴音の心はちゃんと其処にあるのだと彼女は語る。

 指先から伝わる熱に、ほんの少し冷たい棘は溶けて。


「……そうか。ならばあまり情けないことも言ってられないな」 

「あら、落ち込んでなかったのでは?」

「揚げ足を取らないでくれ」


 困ったように甚夜は肩を竦め、悪戯っぽくおふうが微笑む。

 ああ、よかった。

 彼女と再び会えて。こうしていつかとは違う、いつかと同じ時間を共にできて。

 過ぎ行く季節に沢山のものを失くしてきたけれど。

 想う心は花を巡り、四季折々美しく咲き誇る。

 ならばきっと、始まりは間違いだったとしても、辿り着いたこの場所は間違いではなかったと自惚れられる。


「さて、遅刻しても困る。そろそろ行かせてもらう」

「はい。ふふ、学生が板についていますね」

「そのようだ。多少億劫になる日もあるが、これが意外と楽しくてな」


 楽しいと、気取らずに言えた。

 それがおふうには嬉しかったのか。まるで姉のような、母性に満ちた瞳で彼女は甚夜を見つめる。

 どうにも気恥ずかしくなって、別れの挨拶もそこそこに店を出る。

 冬の朝、冷たい空気が身に染みる。

 全てが終わり、けれど日常は続き、いつものように歩く通学路。

 軽くなった心はきっと、彼女の温度のおかげだろう。




 ◆




「おはよー、みやかちゃん!」

「おはよう、薫」

「今日も寒いねー」

「うん。週末、雪降るって」

「ほんと!? 積もるといいなぁ」


 少女達は挨拶を交わし二人並んで学校へ向かう。

 周囲には他の生徒もちらほら。楽しそうにはしゃぐ人、まだ眠くて欠伸をしている人、疲れているのか面倒だとでも言いたげな人。それぞれの顔で登校する。 

 何気ない、当たり前の風景。それがもしかしたら失われていたかもしないなんて、きっと誰も想像さえしていないだろう。

 マガツメとの戦いから一週間が過ぎた。

 壊された校舎や陥没してしまった校庭は甚夜が<まほろば>で修復し、赤ん坊にされた一般人も元に戻った。

 あれ以来あやかしも鳴りを潜め、あの騒動が嘘だったかのように、みやか達は普通の高校生活を送っていた。


「甚君おはよー!」

「ああ、朝顔。みやかもおはよう」


 途中で合流したのは、ちょっと普通とは違うけれどクラスで一番仲のいい男の子。

 葛野甚夜もまた以前と同じように戻川高校へ通っている。


『全て、終わったよ』


 マガツメとの戦いの翌日、簡単にではあるがことの顛末を説明してくれて、彼はあまりにも穏やかにそう締め括った。

 纏う空気は何とも儚げで、もしかしたら役目を終えた後は、人知れず姿を消してしまうのではないかと危惧してしまったほどだ。

 が、本人曰く「余程がない限り卒業まではいるつもりだ」とのこと。感情表現の苦手なみやかだが、その時ばかりは小躍りしてしまいそうになるくらい機嫌がよかった、とは親友の薫の談である。


「おはよう。寒いね」

「もう二月だからな」

「早いなぁ。ついこの間入学したばかりのような気がするのに」


 みやかは目を細めて曖昧に笑った。

 悲しいことも嬉しいこともたくさんあった一年はあっと言う間に過ぎてしまった。

 三月になって春休みが明けたら進級。新しい学年になれば今のクラスともお別れで、なんだかんだで楽しかった日々も終わってしまう。

 高校になってから何度も三人で登校した。同じ教室に行くのだからごく自然な流れだった。

 それもクラスが変われば新しい友達ができて、態々でなければ一緒に登校することもなくなるだろう。そう考えると仕方ないとはいえやはり少しだけ寂しい。


「多少以上に騒がしい一年だった。早くも感じるだろうよ」

「本当に」

「まあ厄介ごとはいつだってある。同じ高校だ、その時には頼ってくれれば嬉しい」

「ふふ。そうさせてもらうね」


 その意味を間違えない。

 進級して教室が変わってもいつだって会えるし、何かあれば助けになると甚夜は言ってくれている。

 きっともう会えない人が大勢いるであろう彼の言葉だから、慰めはみやかの胸にすとんと落ちた。

 ああ、そうだ。寂しくはあるけれど、いつだって会えるのだ。

 百年を超える歳月に比べれば、教室の違いなんて些細なことだろう。


「二人とも、まだ一年は終わってないよ? 最後の長い休み、春休みが残ってるんだから! 今度はみんなで泊りの旅行とかいいなぁ」

「薫ってば。でも、そうだね。一年の締め括りだし、ちょっと遠出も悪くないかな」

「でしょ? あとは、神戸とか。中華街行ってみたい、この前餃子特集やってたんだ」

「……ごめん、同年代の男の子と餃子はできれば避けたいんだけど」

「えー、なんでー?」


 いや、そこは年頃の女の子として。“お前、にんにく臭いな”とか言われたら多分立ち直れない。

 ただ餃子は置いておくにして、薫の言うことに間違いはない。まだ一年は終わっていない。センチメンタルな気分になるのは少しばかり早かった。

 少女達は先程よりも気楽な調子で雑談を交わし、甚夜はそれを微笑ましそうに眺める。

 マガツメの戦い、その結果如何によっては失われた景色が此処にはある。

 よかった、とみやかは心から思う。

 当たり前の日常がちゃんと戻ってきて。こうやって、三人でまた学校に通えて。

 そんな細やかな瞬間を幸福と呼ぶのだと。まだ子供であるうちに、大人になり失ってしまう前に気付けて、本当によかった。


「あ、あの! これお弁当です!」


 ……まあ、当たり前の日常はちゃんと戻ってきて、全てが元に戻った訳で。

 三人で楽しく登校し、校門付近で声をかけてきたのは、以前甚夜が怪異関係の事件で手助けしたという二年生の女子の先輩。その件で大層感謝しているらしく、時折彼へ手作りのお弁当を作ってくる通称『お弁当先輩』である。

 その手にはやはりというかなんというか、かわいらしいピンクの堤に包まれたお弁当箱。どうやら今日も甚夜の為に手作り弁当を用意してきたようだ。


「わぁ、お弁当先輩だ」

「しっ、薫」


 流石にそのあだ名は本人には聞かせられないと薫を窘める。

 みやか達は直接の面識がない為、少し離れた甚夜らの遣り取りを遠巻きに見ているだけ。おかげで聞こえなかったみたいだが、様子を窺うように覗き込んでいたせいで、はたとお弁当先輩と目が合ってしまった。


「みやかちゃん、私たち、なんかすっごい睨まれてない?」

「うん、間違いなく」


 ぐっ、と睨み付けられた。

 そう感じたのは気のせいではない。実際薫も気圧されたのか僅かに怯んでいる。

 あれである。相手も女の子、お弁当を作ってくるというのは感謝だけでなく相応の好意がなければ多分できないことだ。それを考えれば甚夜の周りによくいるみやか達は目障りな存在なのかもしれない。

 その想像は間違っていなかったのか、お弁当先輩は鋭い視線のまま少女らの方へと歩き、目の前で立ち止まった。

 わわ、修羅場修羅場? なんて驚きつつも微妙なリアクションを薫はとっているが、残念ながらみやかにはそこまでの余裕はない。

 お弁当先輩は吐息が掛かりそうな距離まで顔を近づけ、ぎょろりと物凄い眼つきで、腹の奥から捻り出したような低く重い声を少女達にぶつけける。




『小娘が……鬼神様の傍仕えを許されているからといって調子に乗るなよ……?』




 その瞳は深い深い赤色。

 古い時代、他者と異なる外観を持つ存在は総じて“あやかしのもの”として扱われた。

 白すぎる肌、高すぎる身長。異常なほどの筋力。絶世の美貌。そして青い目や赤い目。 

 曰く、赤い目は古来より鬼の証であったという。


「え、あ、えと」

『……ふん』


 瞬きをすればお弁当先輩の目は黒に戻り、それ以上は何も言わず去っていく。

 赤い目、つまり先輩は、人じゃなかった? 

 みやかは驚きすぎて真面に反応ができず、助けを求めるように甚夜へ向き直る。


「あの、今! 今の……」

「ああ、マガツメを喰らったせいかな。どうやら一部の鬼の中には私を鬼神と祭り上げる輩もいるらしい。どうにも嬉しくない状況になった」


 かつて<遠見>の鬼は予言した。


 百七十年後、鈴音は全ての人を滅ぼす災厄になる。

 甚夜は長い時を越えて鈴音の所まで辿り着く。

 そして兄妹は、葛野の地で再び殺し合い。

 その果てに……永久に闇を統べる王が生まれる。あやかしを守り慈しむ鬼神が。


 そう、<遠見>の鬼は兄妹の殺し合いの果てに鬼神が生まれると予言しただけ。鈴音が鬼神になるとは言っていなかった。

 だから、結末は最初から変わっていなかったのかもしれない。

 マガツメを喰らった甚夜には確かにそれだけの力がある。

 歳月を経て予言は成就する

 此処葛野の地に、確かに鬼神は生まれたのだ。


「いや、それも。そこもだけど、お弁当先輩。先輩も、鬼、だったの?」

「ああ」

「え、あの。なん、で?」

「なんでと言われてもな。寧ろ、何故人に紛れて生きる鬼が私だけだと思ったんだ?」


 言いながら甚夜は周囲を見渡す。

 すると登校する生徒の中の幾人かが頭を下げた。更には校門の前に立っていた体育教師までが深々とお辞儀をする。顔を上げた筋肉質の厳しい教師の目は、やはり赤くて。


「おはようございます、鬼神様」

「……頼むから、止めてください先生」

「なにを仰られるか」


 体育教師は敬意を示し迎え入れる。

 肝心の甚夜はうんざりしていたが、あまり関係がないようだ。

 確かに考えてみれば鬼は人間よりも長生きで、しかし今は殆ど見ない。であれば人に紛れて生きる者もいるのは当然で。そういう存在がこのクラスメイト以外にいてもおかしくはないのだ。


「うぅん……」

「わわ、みやかちゃん大丈夫!?」


 おかしくないのだが、目の前の光景はあまりに奇妙だ。

 実は入学先の先輩や先生まで人間じゃなかったという事実にみやかは思わず立ちくらみを起こす。

 なんというか、私って結構な人外魔境に平然と住んでたんだ。

 できればそれは気付きたくなかったかなー、というのがみやかの偽らざる気持ちであった。




 ◆




「おっはよ……て、みやかなんかいきなりテンション低くない?」


 教室に入ると萌が笑顔で声をかけ、しかし授業が始まる前から疲れているみやかの顔を見て、不思議そうにこてんと首を傾げる。

 理由を話してもよかったが彼女は秋津染吾郎。どちらかというと甚夜側に立っており、「そりゃそうでしょ」みたいな答えが返ってきたら疲労感がさらに強まりそうなので止めておいた。


「ちょっとあって。萌は元気そうだね」

「まぁね。なにせあたしってば最近絶好調だし? お父さんのおじいちゃんの、名も知らない誰かさんの想いを継いで、想いを叶えた。なんてーの、達成感? 繋がってたものをちゃんと繋げられたのがよかったていうか。あー、なんて言えばいいのか分かんないけど、とにかくさ。あたしは、ちっちゃな頃に憧れたあたしになれた。それがすっごい嬉しいの」


 要領を得ない物言いだが、萌はにっこりと分かりやすいくらいの笑顔を浮かべる。

 古くから続く退魔の名跡、その当代。十代目秋津染吾郎は連綿と続く想いを受け継ぎ、かつて共にあった親友と再会した。

 いつか甚夜の隣で戦ってみせる。

 三代目の切った啖呵は百年を超えて結実する。

 桃恵萌は彼の隣でマガツメに挑み、現世を滅ぼす災厄さえも退けた。

 退魔として、親友として、“秋津染吾郎”は意地を貫き通したのだ。

 その尊さを己が手で証明できたことが、幼い頃に正しいと信じたものを今でも間違いなく正しいといえる自分が、萌にはたまらなく嬉しかった。


「よっ、親友」

「ああ、親友」


 まあ元気で楽しそうな理由は、更に近付いた距離のせいかもしれないけれど。

 ぱん、と小気味よい音。気軽に甚夜と萌は手を合わせる。あんまりにも自然すぎて周りからも何も言われないくらいだ。

 肩を並べて苦難に挑み、背中合わせで窮地を覆した二人だ。性別の違いはあっても親しみや信頼の度合いはクラスの中でも群を抜いている、少なくともみやかにはそう見える。


「よくよく考えてみたらさ、あたしって次の世代に自慢できるよね。甚夜と共に鬼の群れと、って三代目並みの大立ち回りじゃん」

「案外秋津が続くのならば、十代目の染吾郎の偉業は語り草になっているかもな」

「へへ、なんかちょっと恥ずかしー。でも、悪くないかも? 子供に、お母さんは頑張ったんだよって言える何かがあるってさ、実はすごいことじゃない? まぁ、まずはお父さん候補しっかり捕まえないとダメなんだけどさ」


 たぶん二人の間には、彼らにしか分かり得ないなにかがあるのだろう。それがほんのちょっと羨ましくて、けれど嫉妬はない。

 受けた印象は寧ろ清々しさだろうか。

 形は違えど我が強く自分の正しさに拘る彼と彼女の在り方は、みやかにはとても心地の良いものだった。


「そうだ。春休みに皆で泊りの旅行でもって話してたんだけど、萌もどう?」

「そなの? いいじゃんいいじゃん、あたしも混ぜてよ」

「よかった。じゃあまた計画立てるね」

「おっけ、期待してるー」


 そうやって目の前のイベントにテンション上げる辺り、やっぱり萌は愛嬌のある女の子で。

 妙な巡り合わせで繋がった縁に思わずみやかも笑顔を浮かべる。


「なになに、姫ちゃん私やなっきは誘ってくれないの?」

「みこってホント押し強いよな」


 旅行の話をしていると今度は根来音久美子が幼馴染の藤堂夏樹を引き連れてみやかのところへやってきた。

 彼女らとは以前一緒に海へ行った。参加してくれるのなら楽しくなりそうだし、勿論皆で行こうと快く頷く。


「やった、春休みはみんなで旅行! あ、でも多少高くなってもいいから古い旅館はやめてね? なっきと一緒に古い旅館とか絶対ヤだからね? 絶対女の子の幽霊と何やかんやあるから」

「ちくしょう、否定できない」

「まあ、なっきなら新しいホテルでもありそうだけど。でも危ないことにはならないし安心といえば安心? もしもの時はじんじんに任せれば、大抵のことは何とかなりそうだしね」

「じいちゃんがいたらそりゃ大丈夫だろうけど。てかじいちゃんが出張らなきゃならない状況って、それはそれで安心できねぇ……」


 何故か打ちひしがれる夏樹と、それはもう楽しそうに燥いでいる久美子。

 よく分からないけど、まあ仲がいいってことなんだろう。

 後は麻衣や柳も誘って。クラスが変わってしまうのを寂しがるだけではなく、いつか本当に楽しかった優しい気持ちで懐かしめる日々をいっぱい作っておきたい。

 そう素直に思える人達に出会えたのは、きっと途方もない幸運なのだろうと、騒がしい教室を眺めながらみやかはくすりと小さく微笑んだ。




 ◆




 普段通りの一日は普段通りに過ぎていく。

 一頻り騒いだ後は長い授業。真面目にノートをとったり、萌と薫が完全に同じ格好でお昼寝してたり。

 お昼休みには皆でご飯。教室で机を寄せ合って飽きもせずにお喋り。


「ただ、願ふ。おのづから遠きにて君がこの書を手に取るがありせば……」


 残った休み時間は、各々好きに過ごす。

 誰にも聞こえない呟きは冷たい空気に紛れて消える。

 ページをめくると紙がこすれあって音が鳴る。

 ゆったりと流れる時間に染み渡る響きが心地良い

 食事の後、昼休みの図書室で吉岡麻衣は一冊の本を読む。

 大和流魂記。江戸時代の後期に編纂された説話集である。

 有名無名に関わらず奇妙な説話を収録したこの本は麻衣のお気に入り。特に心惹かれたのは著者による後記だ。


“姫と青鬼。先に語る話は、わたくしの初恋を基にしたり”


 このような冒頭から始まる後記は、一見すると殆ど意味の通じない内容で。

 しかしクラスメイトの男の子からいろいろ古い話を聞いている麻衣だからこそ、それに感じ入るものがあった。


「お、麻衣。なに読んでるんだ?」

「えとね、大和流魂記」

「またそれか? 好きだなぁ」

「うん、とっても」


 今日は富島柳も図書室に付き合ってくれている。

 クラスの女の子達に柳との関係を聞かれて「いちばんの友達」と力強く言ったら、何故だか落ち込んでしまった。それでもこうやって図書室に付き合ってくれるのだから、やはり麻衣にとっては柳が一番大切な友達だ。


「ちなみにどんなところが?」

「あのね、あとがき。暖かくて、読んでると、すごく優しい気持ちになれるの」

「後書きが暖かい……?」


 今一つぴんとこないのか、柳は不思議そうに首を傾げている。

 その仕草がなんだか面白くて麻衣は小さく笑った。


 姫と青鬼。この説話はとても奇妙なところがある。

 それは姫と青年の妹の遣り取りが描かれている点だ。

 集落を旅立った青年は、ことの顛末を全て当時の長に話した。

 だから「青年の妹がいずれ鬼神となり再び葛野へ戻ってくる」という物語の流れには問題がない。

 ただし青年はどれだけ走っても、決定的な瞬間には間に合わなかった。

 つまり「なぜ兄を裏切ったか」と姫に詰め寄る妹の姿を知らない筈なのだ。

 だというのに姫と青鬼では、青年も当時の長も知らない場面がきっちりと描写されている。

 その理由は何故か。

 簡単なことだ。姫と青鬼は、それを直接見た人間が記したのだ。


 人の知れる範囲には限りがある。

 甚夜を知らない人間にはこの後記の意味が分からない。

 富岡柳は頭が良くて成績優秀だが、そもそも読書の習慣がない。

 十代目秋津染吾郎たる桃恵萌、明治にタイムスリップした梓屋薫も御多分に漏れず。

 いつきひめである姫川みやかは実際にこの本を読んだが、甚夜の過去をあまり知らず、説話には触れても姫と青鬼を書いた編者の後記にまでは興味を示さなかった。


 けれど吉岡麻衣だけは大和流魂記の暖かさを知っている。

 当事者ではなく、何の因縁もなく、昔話が大好きなただの少女だから気付いた。

 何故この書の後記が、“姫と青鬼。先に語る話は、わたくしの初恋を基にしたり”という冒頭から始まるのかを。


“姫と青鬼。この物語は、私自身の初恋の話を基にしている”


 大和流魂記の後記には、以下のように綴られている。





『姫と青鬼。

 この物語は、私自身の初恋の話を基にしている。

 今から五十年以上も前、かつて私がまだ青年と呼ばれる年代であった頃、私は一人の女性に恋をした。

 その人には仲の良い幼馴染がいて、私はよく嫉妬をしたものだ。

 けれど結局は何もかもがうまくいかず、どうしようもなくなり、私は一人残された。


 旅立った青鬼は、私の掛け替えのない友である。


 もう二度と逢うことはない。そういった彼が、私の命が続くうちに故郷へ戻ることはないだろう。

 故にこの書を編纂する。

 有名無名関わらず様々な怪異を集めたこの書は、記された説話の数々は、いずれは彼の目に留まるかもしれない。

 同時に、姫と青鬼の物語を此処に残す。

 長い長い歳月を越えていく君が、始まりを忘れてしまわないように。


 かつて同じ女性を愛し、同じ苦しみを共有した友よ。

 君のこれからを私は知らず、同じ景色を眺むるは叶わず。

 せめて私はここに伝えたくて、しかし伝えられなかった言葉達を記す。


 道の果てか、道の途中か。

 私には見れぬ景色を見る、遠く離れた君へ。

 君の始まりは決して美しくはなかった。

 けれど君は強い。

 どれだけ苦しんでも、どんなに傷付いても、苦難の道を最後まで歩き抜く。

 その時、君の目の前にはどのような景色が映っているのだろうか。

 残念ながら私には知りようもないが。


 ただ願う。

 もしも遠い未来で君がこの書を手に取ることがあったなら。


 その時には少しだけ立ち止まり、思い出してほしい。

 君の始まりは憎しみに塗れていたかもしれない。

 だがそれを作ったのは、嫉妬にかられた愚かな一人の男であったことを。

 たとえ不幸な結末であれ、それは愚かな男が紡いだもの。だから君が何かを悔やみ、思い悩む必要はないのだと。


 そしてもしも行き着いた先に、小さな幸福を見つけ。

 この書を手に取る時、傍らに誰かがいてくれるのなら。

 笑ってやってほしい。的外れの言葉を残し、恥を晒す私のことを。

 記された姫と青鬼を笑い話に変えて、傍らの誰かと馬鹿にしてはくれまいか。


 人の身では遥か先は見通せず。

 けれど君が歩き抜いた果てに辿り着く景色が、そういう、底抜けに明るいものであることを私は切に願う。

 私はこの葛野の地で、君の物語の始まりを後世まで語り継いでいく。


 だから、どうか。

 この書に記された始まりを、そんなこともあったと笑える優しい日々が、君へ訪れますように。


 大和流魂記 編者・葛野清正』




 かつて、いつきひめたる白夜の巫女守は二人いた。

 流れ者だった甚太と、長の息子である清正。

 清正は剣の腕こそなかったが気遣いのできる人物だった。社から出られない白夜を慮り、読本の類を貸し、自分で物語を書くこともあったという。

 それは麻衣が甚夜に色々な昔話をせがむ中、ぽろりと零れ落ちただけのもの。他の誰も知らない、マガツメと鬼人の因縁と比べればどうでもいい話である。

 しかし偶然とはいえそれを麻衣だけが知って、彼女から甚夜に伝わり優しい笑みが零れたのは。

 物語の本筋からはかけ離れていても、きっと暖かいことだろうと思う。


「……ああ、そっか。これ、手紙なんだ」


 柳は大和流魂記の後記に触れ、なんだか照れくさそうに頬をかいた。

『姫と青鬼』は民俗学的には青鬼が旅立つところから、青丹が取れなくなり産鉄地としての葛野が衰退していく話だと考えられている。

 故にこの後記も『編者と懇意だった鉄師や鍛冶師も集落を離れ江戸へ流れていったのだろう』としか解説されていない。

 誰も説話が真実であったなどと想像もしない。


「うん、遠い昔から届いた、手紙。……想いって、繋がっていくんだね」


 けれど、長い長い時を旅する鬼がいると、彼ら彼女らは知っていた。

 だから暖かい。

 遠い故郷に住まう友から届いた手紙にそっと優しく目を細める。二人は図書室の片隅で、繋がっていく想いの美しさにただ微笑み合う。


「そういや、件の青鬼は?」

「みやかさんと一緒に、屋上だって」

「そっか。いつきひめと青鬼、なんか不思議な縁だよなぁ」

「ちがうよ、やなぎくん。こういうのはね、“ロマンがある”っていうの」


 かつて離れた故郷で、沢山の想いを積み重ねて、姫と青鬼は再会した。

 成程、確かにロマンだと柳は納得し深く頷く。

 まあでも“もしものこと”があったらちょっと年齢差がすごすぎるかな、と思ってしまったのは内緒にしておこう。




 ◆




 そうして物語は静かに終わりを迎える。




 遠い昔、夢を見た。

 惚れた女と結ばれ、夫婦となれたなら。緩やかに年老いていければどれだけ幸せかと、ひどく細やかな未来を願った。

 結局そんな幸福は選べなくて、小さな願いが叶うことはなく。

 ぱちんと、みなわのひびは弾けて消えた。


 或いは選んだ道が違ったのなら。

 いつか見た夢のように、白雪と夫婦になって、鈴音とも家族のままで。子が孫が生まれ、しわくちゃの爺になって。

 妻と共に縁側でお茶でも飲みながら、穏やかに、当たり前のように死んでいく。

 そういう幸せな結末もあったのかもしれない。


 けれど彼は始まりを間違えて。

 憎しみに塗れ、この手で傷付け。手に入れて足掻いて、守れなくて失って。

 ああ、それでも。

 道の途中拾ってきたものは決して間違ってはいなかった。

 だから此処から見える景色も悪くはないと思えたのだ。


「……空が高いね。少し寒いけど気持ちいい」


 まだ二月、屋上に出ると冷たい風が肌を撫でる。

 ぐっと背筋を伸ばすみやかの傍らで甚夜はふと空を仰ぐ。

 遠い空は青よりも灰色に近くて晴れやかとは言い難い。けれど澄んだ空気は確かに気持ちがよく、肺を満たし熱を吐き出せば、頭も幾分すっきりとした。


「ああ、悪くない気分だ」


 零れた呟きには字面以上の意味が込められている。

 冬空の下、弱々しい日差しの中。まるで木漏れ日に揺れるような安らぎを感じる。

 憎しみのままに生きて死ぬのだとずっと考えていた。だからこんな気持ちになれるとは正直思ってもみなかった。


「本当はね、ちょっとだけ期待してたんだ」


 くるり舞うように、みやかは甚夜と向き合う。

 微笑みは初めて会った頃とは程遠い和やかさ。少女の成長は早い。この一年でみやかの笑みは随分と優しくなった。


「マガツメの力が時間の逆行だって聞いたから。もしかしたら、それにやられて。甚夜は鬼になる前の、普通の人間に戻れるんじゃないかって。そこは、ちょっとだけ残念」


 もしも彼が人に戻れたなら。

 今度こそ普通のクラスメイトとして一緒に過ごして、いつかは大人になって。

 十年後二十年後、お互い老けたねなんて笑って。

 そういう当たり前のようなやり取りだってできたかもしれない。

 けれどそう上手くはいかない。

 マガツメの願いでは甚夜を人に戻すことはできない。

<力>を喰らった今でさえ、<まほろば>の彼に対する効力は薄い。

 他者ならば赤ん坊にまで戻し存在を消すことさえできるが、自分に使った場合は精々傷を負った時に一分程前へ時間を戻す程度。

 甚夜は鬼のまま、これからも長い時を生きる。

 それをみやかは少しだけ残念に思い、しかし当の本人はあまり気にしてはいなかった。


「逃げるなということだろう」

「なにから?」

「奪ったものから。背負ったものから。なにより、貫いてきた己から」


 人に戻れなかったのは、つまりそういうこと。

 もとより逃げるつもりはない。数え切れぬ罪科を忘れ生きるなど今更できない。

 最後まで己が在り方を曲げず、その果てに野垂れ死ぬことこそ本望。つまるところ彼は、どれだけ変わろうとも古臭い鬼の生き方を捨てられなかったのだ。


「そっか」

「だがそれもいいさ」


 それでも悲観はしていない。

 始まりを間違え、望んだ未来は得られなかった。

 けれどだからこそ出会えた尊さが、美しさがあった。


「もはや人には戻れないが、おかげで君達にも会えた。私ほど恵まれた男は中々にいない。楽な道ではなかったが、歩んだ歳月は十分に報われた」


 巡る季節の中咲いた可憐な花にも、こうして出会えた。

 ならば鬼としての半生も、続いていくこれからも、きっと大切にできる。


「私は、確かに幸せだったのだと。今なら心から言えるよ」


 小さく笑みを落とす。

 そこには重ねた歳月の穏やかさ、染み渡る水のような優しさだ。


「もう、ずるいなぁ、そういうの」


 そんな言い方をされたら何も言えなくなってしまう。

 拗ねて頬を膨らませるみやかに普段のクールな印象はない。いつもより子供っぽい、甘えるような仕草。きっとそれは成長した証だ。

 姫川みやかは親友の薫とは違い、人付き合いが得意な方ではない。

 そもそも感情を表に出すのが苦手だし、不用意に踏み込んで傷付けるのも傷付くのも怖かった。

 だから素直に甘えることができず、肝心なところで退いてしまうのが彼女の悪い癖で。


「……“ももとせの命ねがはじ”」


 けれど今は違う。素直に心を見せられる。

 みやかはまっすぐに、胸の内を取り出すように、甚夜を見詰めた。


「坂口安吾か」

「そう。麻衣と友達になって色々本を読むようになったから。結構好きなんだ、この文」


 ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。

 堕落論に記された一説は決して綺麗な言葉ではない。


“長く生きることは望まない。いつか戦いに赴く貴方と結ばれたい”。


 戦時中、そう健気に男を見送った女も半年も経たぬうちに想いを忘れ、違う面影に惹かれていく。人は元来そういう生き物なのだと坂口は語る。

 鬼は変われない、人は変わる。そこに間違いはなく。

 ただみやかがこの一説を気に入ったのは、実際の意味よりも百年の命は望まないという部分。甚夜のことを知っているから、その一点だけが印象的だった。


「この文章を読んでちょっとだけ考えたの。もしも私が長生きできるのなら。例えば……例えばの話ね? 千年を生きれるとしたら、私はそれを選ぶのかなって」


 そうやって考えてしまったのは、目の前の彼の顔が浮かんだからで。

 しかし答えはすぐに出てしまう。


「考えて、多分選ばないんだろうなと思った。もしも千年生きるって決めて実際そうなっても、すぐ後悔しちゃいそう。今はそうなりたいって願っても、きっと変わらずにいられるほど、私は強くないから」


 例え今がどれだけ楽しくて、こんな日々を続けていきたいと願っても。

 千年の時を無邪気なままいるなんて、きっとみやかにはできない。

 だから一緒の時間は過ごせない。

 彼は人に戻れず、もしも彼女が鬼になれたとしても同じ。彼女に鬼の生き方はできず、長すぎる歳月に想いも変わり果ててしまう。

 結局この一瞬は単なるすれ違い。いくら足掻いたとしてみやかは甚夜よりも早く亡くなってそれでおしまい。

 結末としてはその程度。だけど彼の言葉を借りれば、それも悪くないと思う。 


「だから百年の命は、ずっと続いていく人生は望まないの」


 文章の本当の意味とは全然違う使い方。

 でも彼は間違いを指摘せず、黙って話を聞いてくれている。

 なら頑張ろう。ちょっとだけ照れくさいけど、伝えたいことはまっすぐに伝えないと。


「ずっと続いていく命はいらない。だって私は今の気持ちを大切にしたいから。その上で、いつか大人になって変わってしまった時。それでも昔を振り返って空を見上げて、遠い空を懐かしいと素直に思えたなら、こんなに素敵なことはないって思う」


 微笑みは冬空には似合わぬ晴れやかさ。

 甚夜は何も言わず、大した反応も見せなかった。

 あれ、もしかして伝わらなかったかな。不安になって、照れたように俯いて。頬を染めたままみやかはもっと分かり易い表現を選ぶ。


「え、と。だからね? 私は、長い時間生きることはできなくて、ずっと一緒にはいられないけれど。できれば高校を卒業しても、大学に行って大人になっても、どこかで繋がっていて。いつかお婆ちゃんになった時、どんな形でもいいからこうやってまた貴方と一緒に空を見上げられたらいいなって……そういう話」


 その想いに今は名前を付けられないけれど。

 変わっていく中で、変わらない貴方に寄り添い。

 ふと昔を振り返った時、懐かしさを共に分かち合える。

 彼にとって、そういう存在でありたいと素直に願う。


「……ごめん、なんか失敗した。今の忘れて。もう一回やり直してもいい?」


 そう伝えたつもりが、ちょっと回りくどすぎた。その上まごついて弁明も上手いこといかない。

 やってしまった。絶好のシチュエーションでびしっと決める筈だったのになんかもうグダグダ、駄目だこれ。

 恥ずかしさに顔を隠し、みやかは再度のチャンスを求める。


「いいや、駄目だな。折角の君の醜態、忘れないよ。しっかりと覚えておくことにする」

「え、ちょっと」

「なにせ“からかえる”絶好のネタだ。手放すなんて勿体ないだろう?」


 なのに返答は意地悪な笑み。彼にはっきり醜態とまで言われてしまった。

 ああ、どうしてこうなのか。例えば薫ならもっと上手く話を盛り上げられるだろうに。

 慣れないことをしようとして撃沈。想いをまっすぐ伝えようとした結果は、目も当てられない程無残なものになってしまった。


「だから今後はこれで君をからかうとしよう。大人になっても、皺だらけの老婆になっても。なんなら今際の際であっても、私は多分君をからかうよ」


 そう言って優しくみやかの頭を撫で、甚夜は屋上を去っていく。

 ちょうどチャイムが鳴った。もう次の授業が始まってしまう。

 でもそんなことどうでもいい。

 みやかは今の言葉をゆっくりと咀嚼して飲み込む。

 彼が言いたかったのは、つまりそういうことで。


「ま、待って! 今のどういう」

「さて、急がないと授業に遅れるぞ」


 呼び止めても振り向かず、すたすた甚夜は歩いていく。

 小さくなる硬い鉄のような背中。思えば、いつも彼の背中に守られていたような気がする。

 この想いを何と呼ぶのか、みやかはまだ知らない。

 けれど顔を真っ赤にして、遠くなる背中に追いつけと慌てて走り出す。

 高く遠い灰色の空の下、姫と青鬼は同じ教室へ帰っていく。




 百七十年をかけた憎しみの物語は、此処に一つの終端を迎える。

 みなわのひびは弾けて消えて。

 積み重ねた歳月に、変わらずにはいられなくて。

 しかし想いは巡り、心は願った場所へ。

 振り返れば鮮やかな花の咲き誇る、懐かしい“まほろば”に辿り着けた。




 憎しみに身を窶した鬼人の物語はここでおしまい。

 ここから先のことは彼にも分からない。

 けれど今はただ、胸に宿った暖かさを大切に。

 この景色を、いつまでもいつまでも覚えていられるよう、甚夜は空を仰ぐ。



 ───ああ、こんなにも美しい空はいつぶりだろうか。



 眩い星の天幕にも比肩する灰色、あまりの美しさに視界が滲む。

 いつかこの冬空を懐かしめる日が来ますように。

 吹き抜ける風に小さく祈りを込める。

 そうして甚夜はこれから続いていく道に想いを馳せ。


“にいちゃん、だいすき”


 胸にある小さなぬくもりを失くさぬよう。

 穏やかに、初めの一歩を踏み出した。





 鬼人幻燈抄・完



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