<< 前へ次へ >>  更新
207/216

『泥中之蓮』・5(了)



 いつだって私は泣いていたように思う。

 

『お前さえ…お前さえいなければ……』


 父親は怒るとよく私を殴ったり蹴飛ばしたりした。

 すごく痛い。でも大きな怪我にならないのは、私が人じゃないから。

 いつだったか聞かされた。

 お母さんは私を産んだせいで死んだ、私の父親は化け物で無理矢理お母さんを犯して産ませた。

 お前など産まれてこなければよかった。

 すごく痛い。殴られるより蹴られるより、父親の冷たい目が、吐き捨てられるたくさんの言葉が痛い。

 必要とされてない、生きている意味などない。何度も何度も父親は語る。

 商家の一番上の父がそうだから、店の人達も私に話しかけようとはしない。

 睨まれたら生活できなくなると、私はいないものとして扱われていた。

 それならそれで完全に無視してくれればいいのに、ひそひそと嫌な話だけは聞こえてくる。


『赤い目だ』

『化け物の子供』 

『あれと同じ場所にいるのは怖いな』

『あの赤色が気持悪い』

『近付くのはよしておこう、旦那様の機嫌をそこねる』


 直接は言われないけれど、店の人達が裏でなんて言ってるか知っている。

 私はずっと疎まれて暮らしてきた。

 その理由が赤い右目に、化け物の証にあることも知っていて。

 包帯で右目を隠していたのは、多分精一杯の訴えだったのだろう。


 わたしはひとです。

 おねがいだから、もうすこしでいいから、やさしくしてください。


 それが叶うことは、結局なかったけれど。





『鈴音……? 泣いてるのか?』


 だけど救いはあった。

 いつだって私は泣いていたように思う。

 そして泣いていると、絶対に“にいちゃん”が来てくれるのだ。


『にいちゃん……』


 私は鬼だから殴られても蹴られても殆ど傷にはならない。

 だからきっとにいちゃんは父がそこまでの暴力を振るっているとは考えていなかった。

 でも自分がいればあまりひどい態度をとらないと知っているから、できる限り傍にいようとしてくれた。

 にいちゃんは、ぽんぽん、と優しく頭を撫でてくれる。


『……ごめんな』


 にいちゃんが悪いわけじゃないのに謝るのは、家族を大切にしているから。

 父の態度を改めさせようとしているって気付いてる。でもどうにもできなくて、にいちゃんにはそれがとても悲しいんだろう。

 けれど私を元気づけるために、にっこりと笑ってくれる。


『そうだ、これ! 磯部餅、持ってきたんだ』


 時々父は磯部餅を焼く。にいちゃんの好物だから。でもいつも私にはくれない。

 代わりににいちゃんはお餅を隠して一緒に食べようと持ってきてくれる。

 みんなの目から隠れながら二人で。それをにいちゃんはいつも申し訳なさそうにするけど、私はとても嬉しい。

 優しくしてくれることも、二人きりでいられることも、どっちも。


『わぁ、ありがと、にいちゃん!』

『へへ、じゃあっちで一緒に食べようぜ』


 照れたように笑う顔が好き。

 当たり前のように手を差し伸べてくれるところも。

 握りしめた掌から伝わる温かさに悲しみは消える。

 ああ、思えば。

 いつもこの手に救われてきた。

 泣いていると優しく撫でてくれて、こうやって引っ張ってくれて。

 だからたぶん、私にとって、あの人の手が全てだった。

 私の喜びは……私の世界は、きっと優しい手で作られていた。






 ───だからきっとにいちゃんは勘違いしている。






『雨……強くなってきたな』

『うん……』


 雨が降る。並んで歩く夜の街道。先は暗くて何も見えない。

 傘もなくて、ずぶぬれになって。体は冷え切り、だんだんと重くなってきた。


『鈴音、ごめんな。何もできなくて』


 父親に虐待されて、道に捨てられて。

 にいちゃんは何もできなかったというけれど、そうじゃない。


『ううん、にいちゃんがいてくれるなら、それでいいの』


 だって手を繋いでくれたから。

 私にとってはそれだけがすべて。

 父親も、店の人たちも世界じゃない。

 殴られても蹴られても疎まれても蔑まれても、そんなものはもうどうでもいい。

 いつだって、にいちゃんの手が私の幸せ。他は全て単なる添え物に過ぎない。

 そう、だから。

 冷たい雨の中、この手を繋いだまま死んでいけるのなら、それは例えようもない幸福なのだと。

 多分にいちゃんは、最後の最後まで知らずにいた。




 * * *




 大きくなれば世界は広がっていく。

 繋いだ手の向こうに見えた景色を、悪くないと思う日だって来るだろう。


『私達、これから家族になるんだから』


 連れられて行った先で出会った女の子、白雪ちゃんは私達を家族と呼んだ。

 心が動くことはない。それでも江戸を離れ辿り着いた場所は、ほんの少し居心地が良かった。

 私の世界はにいちゃんの手で出来ていて、他が添え物であることは変わらないけれど。

 此処に来てからにいちゃんはよく笑うようになったから葛野はとても楽しくて。

 幼馴染の白雪ちゃんや、初めてできた友達のちとせちゃん。ほんの少しだけ広がった世界へ差し込む木漏れ日に、時折目が眩んだりもした。


『いいからいいいから、まずはご飯食べよ』

『んー、うん!』

『食べたらみんなで遊ぼ?』

『どこか行くの?』

『今日は“いらずの森”まで行こっか?』


 少しずつ流転する風景。でもやっぱり私は変わらない。

 白雪ちゃんと仲良くなって、三人で遊ぶようになって。ちとせちゃんっていうお友達もできた。

 でもこの場所へ連れてきてくれたのは、やっぱりにいちゃんの手で。私の一番はいつまでも揺らがない。


『甚太もいいよね?』

『ちなみに駄目って言ったら』

『え、連れてくよ?』


 そう、私は何も変わらない。


『じゃ、行こ?』

『いこー』


 二人して笑顔で手を差し出す。

 にいちゃんは木刀を持っているから片方の手しか取れない。

 だから自然とにいちゃんは選んだ。




 ───そう、差し伸べられた二つの手に。

   彼はあの女ではなく、私を選んでくれたのだ。




『ああ、行こうか』


 繋いだ手。

 やっぱり、私の世界は彼の手で出来ている。

 何もかもが変わっても、この手だけは、私のためにあってくれる。 

 だからどうでもよかった。

 父親に捨てられても、周りに蔑まれても。

 ……白雪ちゃんが彼を好きでも。

 大丈夫。この手があれば、この暖かさが私は生きていけるから。

 他のものは全部いらない。

 たとえ白雪ちゃんが彼を好きでも。

 同じくらい彼が白雪ちゃんを好きでも、心からそれを祝福できる。

 私にとって世界は貴方だから、貴方が幸せになれるなら我儘は言わない。

 胸の奥にある想いも必要はない。

 私は妹でいようと思う。貴方の邪魔にならないよう、小さな妹のまま、大好きなにいちゃんと大好きな白雪ちゃんの結ばれる未来を願うのだ。


 だから時々でいいから、手を繋いで、頭を撫でて?


 にいちゃんが笑顔で、私が妹でいられて。

 それだけで私は、死んでもいいくらいに幸せ。

 幸せ、だった、筈なのに。




 ◆




 繋がった左腕から流れ込む記憶と想い。

 未熟な甚太では知りようもなかった鈴音の心を見せつけられる。

 大切な家族だと思っていた。

 遠い雨の夜、鈴音の笑顔に救われた。

 だから願ったのだ、最後までこの子の兄でありたいと。

 けれどそれでは足りなかった。  

 結局は測り違えていたのだろう。鈴音にとって甚太は、比喩ではなく世界の全てで。

 どれだけ愛したつもりになっていても、彼女に比肩するだけの心を注いでやれなかった。

 つまりは最初から兄妹は破綻していた。情けない兄が、そうと気付かなかっただけで。


『ちく、しょうっ……はなせ、はなせぇ!』


 喰らわれようとする最中、マガツメはそれでも足掻く。

 走る激痛、朦朧とする意識。狙いもつけられないまま自由になる左腕で幾度も甚夜を殴り付ける。

 だが手は離さない。肉が裂け骨が砕けても今は構わない。痛みというのなら<力>の弊害が遥かに上回る。

 激痛はこちらも同じ。強く自我の残る相手を<同化>で喰らおうとすれば、体の方が耐え切れず自壊する。

 問題はない。土浦の時は中断したが、完全に取り込み自壊すれば倒せなくとも心中はできる。

 この痛みを、押し潰されそうになるくらいの想いの奔流を受け止め切れば、それで片が付くのだ。




“あの人の手が全てだった”




 想いが奔流ならば受け止める彼は削られる淵。

 痛々しいまでに一途で気が狂うほどに真っ直ぐな想いは甚夜の魂を削っていく。

 覗き見る記憶に歯を食い縛る。


 お父さんに殴られた。唾を吐きかけられて、蹴飛ばされた。

 でも頭を撫でてくれた。


“二度と帰ってくるな”


 道端に捨てられて、冷たい雨に打たれて。

 でも手を握ってくれた。


“鈴音ちゃんは、ちっちゃいね”


 いつまでも子供であることを選んだ私は、周りに置いて行かれた。

 此処では誰も責めないけど、人の輪には入れなくて。

 でもあの人だけが触れてくれた。

 だから私にとって、あの人の手だけが、全てで。

 それさえあれば、なにもいらなかった。

 なのに───




“お前が、憎い”




 ───全て壊れてしまった。




 違う、こんなこと望んではいなかった。

 だって私はあの人が傷付く姿を見たくなかっただけ。

 だから売女を殺したのに、私を見る目は憎悪に満ちていて。

 どうしてこうなったんだろう。

 私にとっては、あの人の手だけが世界の全てで。なら売女を殺すのと家の掃除をするのにどれくらいの違いがあるというのか。





『う、あ。あ、ああああああ』


 繋がる左腕から流れ込む記憶に憎しみが沸き上がる。

 けれどそれと同じくらい悲しくもなる。

 どうして気付いてやれなかったのか。

 一つに注がれ、他など塵芥。マガツメにとって、鈴音にとって、愛情とは初めからこういうものだったのに。

<同化>により身を引き裂くほどの激痛が両者を襲う。

 甚夜の腕から抜け出そうとマガツメは只管に攻撃を続けている。

 痛みから逃れる為に? それとも、本当に逃げたいのはもっと別の何かだったのか。

 分からない、思考が続かない。たったこれだけのことを考えるのに、機能として憎しみが胸を埋め尽くしてしまう。

 放たれた一撃に胸骨が砕けた。肉を抉られるような感覚に侵され。気を緩めれば意識が飛んでしまいそうになる。


「ああ……そういえば、元治さんが言ってたなぁ。“憎しみを大切にできる男になれ”って」


 そういう瀬戸際の状況にあって、零れる声は淡々しい。

 郷愁に浸るような、懺悔するような。弱く頼りなく、けれどどこか穏やかで。

 彼の口から紡がれるのは優しいとさえ思える言葉達だ。


「その時は意味が分からなかった。でもようやく、元治さんの伝えたかったことに触れられたような気がするよ」


 いずれ妻を斬る役目と知りながら巫女守になった元治。

 醜悪に捻じ曲がってしまった己を斬り捨てるのは、他ならぬ夫であってほしいと願った夜風。

 妻を己が手で斬り捨てた義父の気持ちは想像するしかない。

 それでも積み重ねた歳月があるから、あの時は分からなかった心にも想いを馳せられる。


「元治さんは知ってたんだな。夜風さんが憎悪に囚われ集落を滅ぼそうとしたのは、それだけ葛野を愛していたからなんだって。本当に愛していたから……絶望も憎しみもどうしようもないくらい深くて。だから愛した筈のものを自分で壊してしまわないよう、元治さんは命懸けで止めた」


 夜風はきっと誰よりも葛野を愛していて。

 だから失望した時の憎しみも、誰よりも深かった。

 全てを壊し、民を皆殺しにして。それでも飽き足らないほどに、彼女にとって葛野は何ものにも代え難い場所だった。

 それを苦しいくらいに知っていたから、元治は巫女守になった。

 いずれ愛する妻を斬り捨てることになったとしても。

 愛する人が愛するものを壊す景色なんて、彼には認められなかった。 


「鈴音、お前も同じだったのか。全てを滅ぼすと言った重さを、意味を取り違えていたよ。いや、憎しみに目を曇らせて見ようともしなかった。お前は、そのくらい。……世界を滅ぼしてしまえるくらいに、私のことを想ってくれていたんだな」


 だから元治は憎しみを大切にできる男になれと教えた。

 変わらないものなんてない。あらゆるものは歳月の果てに変わってしまう。

 その中で、それでも変わらずに在り続けられるなにかを愛せる男であってほしいと願った。

 醜悪の憎悪の底にある愛情を見失わず、まっすぐ向き合えるように。

 今際の際であっても息子の行く末を憂い、最後まで父親としての背中を見せてくれたのだ。


「もしも、もしもあの時。正面から憎しみを受け止めてやれたなら、こうはならなかった。元治さんが命懸けで教えてくれたのに、お前がそこまで愛してくれていたのに、私には何一つ見てはいなかった」


 つまり兄妹は最初から破綻していた。

 甚夜の愛情と鈴音の愛情には大きな隔たりがあって、それに気付かなかった時点で、結末は決まっていたのだろう。

 でも今なら少しは理解してやれる。

 だから兄は逃れようともがく妹にそっと右手を伸ばし、そのまま胸元へ抱き寄せる。


『あ……』

「済まなかった、鈴音。ちゃんと愛してやれない兄で。憎んでさえ、世界を滅ぼすと言ってやれなくて」


 伝わるぬくもりと、重ね合わせて響く鼓動。

 こうするのはどれくらいぶりか。思い出せない。

 永い時が経ったから? それとも、そんなもの気にしてもいなかったから? 

 或いは溶け込む意識では、もう考えることもできないのか。


「自分の憎しみにばかり気を取られて、お前の憎しみに答えてやれず。世界を滅ぼすほどの想いに報いるには、私では足らなかった」

『あ…ああ……違う。私は、わた、しが』

「どこで、間違えたんだろう。上手くはいかなかったけど。私は……俺たち、仲のいい兄妹だったよな?」

『う、ん。わたしは、にいちゃんがだい、すきで』

「ああ、俺もだよ。鈴音のこと、大好きだった」


 少しずれてしまったけれど、お互い憎み傷つけることしかできなかったけれど。

 それでも懐かしい日々は嘘ではない。

 二人には、確かに家族で在れた時期があった筈だ。


『なん、で? なんでいっちゃったの? わたしは、よかったの。嫌われても、憎まれても。あなたが…笑ってくれるなら、それでよかったのに……』


 散々切り捨て、憎しみだけを残し、偽物の心を植え付けて。

 もはやマガツメはかつての鈴音とは別物になってしまった。

 なのに溢れ出る想い。

 報われたいなんて望まなかった。ただ貴方の手があれば、それだけでよかった。

 そんな些細な幸せが、鈴音の全てだと。害虫になり果てた今でさえ彼女は何も変わっていない。


「ごめん」

『帰ろう、よ。私たちの家に、懐かしい、場所に。そうすれば。また、にいちゃんと。私は、にいちゃんって呼んで』


 今も鈴音は夢を見ている。

 遠い遠い、懐かしい夢。

 にいちゃんがいて、白雪がいて。無邪気な妹でいられた“まほろばのけしき”。

 彼女にとって幸福とは、そこにしか存在していないから。

 帰りたいと。

 現世を滅ぼしても、あの日々を求め続ける。


「……本当に、ごめんな。それで全てが救われるとしても、もうお前だけの兄には戻ってやれない」


 でも首を縦には振ってやれない。

 そうするには失くしたものも、傷つけたものも。

 なにより、大切にしたいと思えるものが増え過ぎた。


『なん、で』

「今更何も知らない兄妹へは戻れない。憎み合い、関係のない人を傷つけて。お互い、奪ったものが多すぎる」

『そんなもの、どうでもいい……! あなた、以外のものなんて』

「俺には、そうは思えない。沢山の濁りがここまで支えてきてくれたから。ほら、俺達はもう同じ世界を共有できないんだ」


 百七十年という歳月の果て、大切なものを切り捨てながらも変わらなかった鈴音。

 百七十年という歳月の果て、大切なものを拾い集めて変わってしまった甚夜。

 どちらが正しいという話ではない。

 ただ歩んできた道が違って。その道が、もはや交わらないというだけのこと。


「憎しみの根底に愛情があったとして、何の言い訳にもならない。どれだけ大切な想いでも、それが傷つけ奪う為に残り続けるというのなら。……たぶん、生まれちゃいけなかったんだよ。マガツメも、鬼喰らいの鬼も」


 それでも、きっと始まりにあった心だけは、確かに本当だから。


「だから還ろう。俺達が生まれた遠い何処かへ」


 ずっと前から決めていた答えだ。

 両腕を背に回し、力一杯妹を抱きしめる。

 全身が軋む、意識が酩酊する。限界が近い。

 だが、もう逃がさない。

 このまま鈴音を取り込めば甚夜の体は崩壊する。

 それでいい。現世を滅ぼす災厄も、憎しみに囚われた醜悪な鬼人も、どちらも消え去る。

 最善だとは思わない。全てを易々と放り出せるほど軽い生き方はしてこなかったつもりだ。

 だとしてもこの子の想いを受け止め報いる術が他に見付からなかった。 

 だから、まあ、決着としては似合いだろう。

 甚夜はほんの少しの寂寞を隠し、どれだけもがこうとも手は離さず。


『あ……』

「よかった。最後の最後に、頭くらいは撫でてやれた」


 自由になる右手で優しく、本当に優しく妹の髪を梳く。

 がさりとした奇妙な手触り。抱きしめる体も虫になってしまった今、決して暖かくはない。


『あ、ああ、あああ』


 見上げる呆然とした顔も半分は複眼、可愛らしかったあの頃の面影はなくなっている。

 でもちゃんと妹だ。

 マガツメではない、鈴音として抱きしめ頭を撫でてあげられた。


“人よ、何故刀を振るう”


 微かに届く、いつかからの問い。

 お前は、守るべきものの為に刀を振るうと言った。

 ならば守るべきと誓ったもの、それに守るだけの価値がなくなった時、お前は何に刀を向けるのか。

 返せる答えは今も見つからず、しかし甚夜は胸を張る。


 歳月の果てに濁った刀は、今も時折迷い戸惑い、向ける先さえ定まらない。

 だけどそのおかげで最後の最後は、かつて守りたかったものへ切っ先を突き付けずに済んだ。

 刀の代わりに手を差し伸べることができたのだ。


 だから、よかった。

 ああ、目の前が白く染まる。

 近づく終わりに。

 兄妹は同じものに為って───









『あ、あああああ、あああああああああああああああああああ!』


 ───けれど。

 マガツメは、残る全ての力を込めて足掻き。

 無防備な頭蓋に、その爪を突き立てた。




 ◆




 にいちゃん、まだかな。

 思えば、いつもにいちゃんの帰りを待っていたような気がする。


 遅いと寂しくて、早いと嬉しくて。

 待っているのは嫌いだけど、楽しくもあって。

 私はいつもにいちゃんが帰ってくるのを待っていた。


『お前が、憎い』


 ああ、そっか。

 私は結局待っていたんだ。にいちゃんが帰ってくるのを。

 嫌われても、憎まれても、いつかは帰ってきてくれるって信じていた。

 信じていた分、憎かった。

 私を忘れて、娘や親友と仲良く暮らす貴方が。


 なんで? 私は、今も待っているのに。


 そうだ、壊せばいいんだ。そうしたらきっと帰ってきてくれる。

 だから娘の記憶を奪って、親友を殺して。

 なのに帰ってこない。

 よし、じゃあもっといっぱい壊そう。

 それには今のままじゃ無理だから。

 いらないものは切り捨てて、足りないものを埋め込んで。

 壊して壊して、そうしていればいつかは帰ってきてくれる。

 そう信じて、みんなみんな、世界のすべてを壊せるように頑張って。



 そこまでいってようやく気付いた。

 本当に壊れていたのは私の方だった。



 ああ、いったいどこで間違えたんだろう。

 いくら考えてもわからなくて。

 あれ? そもそも、私は、どうしたかったのか。

 なにか大切なことを忘れているような。

 わかんない。でも、壊さなきゃ。

 壊せばきっと、帰ってきてくれる。

 にいちゃんが帰って、きて。



『よかった。最後の最後に、頭くらいは撫でてやれた』



 ……そっか、ようやく思い出した。

 私はただにいちゃんに笑ってほしかっただけ。

 それで時々頭を撫でて、手を繋いでくれれば十分幸せで。

 余計な回り道ばかりしていたから、そんなことも忘れてしまっていた。


 でも、あったかい。

 やっぱり何十年何百年たっても変わらない。

 どこまでいっても、私にとっては、にいちゃんの手だけが全てで。


 すごくひさしぶり。にいちゃんが、頭を撫でてくれる。

 ああ、幸せだなぁ。

 本当はずっと、こんな日が続けばいいって願っていて。




 だから、今なら───




 ◆




 此処に長い長い物語は一先ずの終わりを迎えた。

 雲のない深い夜空には血よりも鉄錆を思わせる赤い月。そっと抜ける冷たい風に小さく砂が巻き上がる。

 戻川高校の周囲を取り囲み、ことの顛末を見守っていたあやかし達はただ茫然としていた。遅れて動揺が波のさざめきのように広がっていく。

 視線は一点、悠然と立つ影にのみ注がれる。

 苛烈な戦いも遂に決着が付き、校庭の影は一つだけ。緩慢な所作で周囲を見回し、どこかぼんやりと一匹の鬼は呟く。


<まほろば>


 その特質は時間の逆行。

 自他の時間を巻き戻して、元通りにする。傷を負う前に、成長する前に、壊れてしまう前に。それがマガツメの願いの形だ。

<まほろば>によって周囲の景色が変わっていく。

 陥没した校庭が、砕かれた校舎が、映像の逆再生のように巻き戻る。ものの数秒で学校は普段通りの姿を取り戻し、全身の傷もなくなり、変化はそこで止まった。

 あやかしの戸惑いは収まらない。呻きにも似た声はそこかしこから漏れて重なり合う。

 喧噪の中心である鬼はそれを一瞥し、ただ穏やかに語り掛ける。


「去るといい、あやかし達よ」


 在り方に是非など決められはしない。

 切り捨て己があり方を純化させてきた女と、拾い集め余分に濁り切った男。

 交わらぬ道程を互いに示し、最後まで両の足で立っていられたのはただ一人。

 甚夜は死闘の果てにマガツメを下し、喰らえど自壊もせず、勝利を手にして見せたのだ。


「お前達が祭り上げようとしたマガツメはその<力>ごと私が喰らった。もはや現世を滅ぼすなど不可能。だから去れ……そして出来れば、静かに暮らしてほしい」


 マガツメを喰らったせいか放つ気配は濃くなり、しかし纏う空気に喜びや達成感はない。

 寧ろ穏やかで優しく、寂しげで。どこか川のせせらぎを思わせる語り口だ。


「人を憎むなとまでは言えない、居場所を奪われたと嘆く者もいるだろう。だが栄枯盛衰は世の理だ。遅かれ早かれこうなっていたさ、私達は」


 あやかし達に敵意はない。

 押し黙り甚夜の話に耳を傾けている。


「お前達が現代に如何なる感情を抱いているかは分からないし、よしんば分かったとて曲げさせる権利なぞ私にはない。だがどうか今は退き、少しだけ考えてはくれないか。現世を覆す以外に道はないのか。元より誰にも信じられぬ我らだ。人と化し紛れ込み、暗がりに潜み。変わらずあやかしとして、語り継がれ生きていくことは出来ぬのかと」


 考えた上で出した答えならば私に否応はない。

 だが願わくは。

 永くを生きる我らだからこそ、これからも変わりゆく時代に寄り添えるよう、ほんの少しだけ周りを見回してほしい。

 そうすればきっと、悪くないと思える景色にだって出会えるだろう。


 静かに甚夜が締め括れば、辺りに沈黙が去来する。

 全てを受け入れた訳ではなく、納得などできる筈もない。しかしそれでも彼は暴れることもせず、素直に引き下がってくれた。

 或いは単に、マガツメさえも取り込んだ鬼喰らいを恐れたのか。

 明確な意図は分からないが、一つ、また一つと赤い目は数を減らし。しばらく後にはあれだけ集まっていたあやかし達はもうどこにも見えない。

 こうして学校は静謐な冬の夜の風情を取り戻した。






「……終わった、のか」


 マガツメは消え、怪異らも去り、戦いの爪痕も巻き戻り。

 長く続いた因縁が片付いたというのにその実感が沸かず、甚夜は一人校庭に立ち尽くす。


「いや、違ったな。まだ、残っている」


 しかし思い直す。

 まだ全てが終わった訳ではない。

 眦強く、前を見据える。視線の先には最後の最後に対峙せねばならぬ相手がいる。


「お疲れ様でした、おじさま」

 

 波打つ栗色の髪の可愛らしい少女。

 マガツメが長女、向日葵は紅玉の瞳でまっすぐに甚夜を見つめている。

 彼女の向ける感情は相変わらず純粋な親愛。母を喰われた今でさえそれに変化はなかった。


「まずは、おめでとうございます、でいいのでしょうか」

「どうだろう。正直よく分からないな」

「少なくとも悪い結末ではなかったと。母は間違えなかったと、私は思っています。だっておじさまを守れたんですから」


 マガツメは<同化>による激痛の中、残る全ての力を込めて足掻き、無防備な頭蓋にその爪を突き立てた。

<同化>は他の生物を取り込み、我がものとする<力>。

 ただし、それを為すには条件がある。

 意識が強く残る者を喰らうことは出来ない。

<同化>によって<力>を己が身に取り込む時、肉体だけではなく記憶や意識も同時に取り込んでしまう。

 しかし一つの体に異なる二つの意識は混在できず、無理をすれば肉体の方が耐えきれず自壊する。

 そうならぬようマガツメはあの瞬間、甚夜のではなく、自分自身の頭蓋を砕いた。

 遥かな歳月を超えて憎しみ傷付け合い。 

 心を切り捨て、虫にまで成り果て。

 それでも最後の最後で、妹は兄を守る為に、死を選んだ。


「何故あいつは……などと分からないふりをするのは卑怯だな」

「卑怯、とは思いませんけど。でもできれば受け止めてあげてください。いろんなものを切り捨てても、偽物の心を植え付けても。結局母にとっての一番は、貴方の妹であることだったんです」


 誤魔化しようのない真実だ。

 変わるものがあるように、変わらないものもある。歳月を経てあらゆるものが変わったように見えても、あの子は妹だった。そこだけは変わらなかった。

 それに気付くのが少しばかり遅かったというだけの話だろう。


「そして過程はどうあれ、おじさまは勝利した。ならば私も母の遺志を叶えねばなりません」


 冬の夜の下、夏の花の笑顔が咲き誇る。

 甚夜は構えもしなかった。マガツメの遺志と語りながら彼女には怪しげな素振りは微塵もない。

 両手を胸の前で組み、ただ真摯に、柔らかく微笑むだけ。


「鈴蘭の最後の役割は、母が勝利した後に。懐かしい故郷を造る為の要が鈴蘭でした。ですが、私は母が敗北した後に。故に、私は最後の役割を果たさせて頂きます」


 マガツメが敗れた今姿を現した理由はそこにある。

 向日葵は初めからその為に産み落とされたのだ。


「私は母の心の一部。“にいちゃん、だいすき”という気持ちが形になった存在。母はまず初めに私を産み落としました。そうしなければ貴方と敵対はできなかったから。母にとって私は、そのくらい大切だった」


 だからこの子にだけは生まれ落ちた瞬間から自我があった。

 マガツメの娘は皆切り捨てた心の一部。長女である向日葵に込められた想いは、それほどまでに強かった。

 落ち着いてその言葉を受け止められるのはきっとマガツメを取り込んだから。

 向日葵の言葉に嘘はないと無条件に信じられる。


「そう、大切な想いだから、私は長女なんです。母はおじさまのことが本当に大好きで、同時に誰よりも憎んでしまった。このままだと大切な想いまで憎しみに染まってしまう。それがどうしようもないくらいに怖くて、私は最初に産み落とされた。これから先どれだけ長い歳月が過ぎ去っても、“にいちゃん、だいすき”という気持ちだけは汚れてしまわないよう、まず一番に捨てたんです」


 兄を憎んでしまった鈴音は、憎悪に全てが塗り潰されてしまうことをこそ恐れた。

 向日葵が生まれたのは大切にしたかったから。

 すれ違いうまくいかなかった二人だけど、大好きという心だけは最後まで残しておきたかった。


「つまり私に与えられた最後の役割とは、母が完全に壊れてしまった後、本当に大切だった想いを伝えること。私は、その為に生まれてきた」


 そこで一度区切り、呼吸を整え。

 向日葵はあまりにも優しく、愛しさに溢れた言の葉を紡ぐ。




「あいしています、いつまでも」




 それを伝えることが向日葵の役割。

 完全に壊れ、何も伝えられなくなってしまった時に。

 鈴音は、一番大切な想いだけを託しておいた。

 たとえ憎しみに埋もれてしまっても、愛していると。

 この想いだけはいつまでも変わらないと、貴方には知っていてほしかった。


「どうか、受け取ってください。流れ往く歳月になにもかもが変わっていく中、それでも最後まで汚さずに守り抜いた心を」


 汚れた環境の中にいても、それに染まらず清く正しく生きる様。

 それを“泥中之蓮”という。

 蓮は泥の中にあっても清らかな花を咲かせる。

 ならば百年を超える憎しみの中に、一輪の、ほんの細やかな愛情が花開いたとて不思議ではないだろう。


「……馬鹿だなぁ、お前は。いや、それは、私もか」


 本当に、馬鹿だった。

 百七十年もかけて、私達はいったいなにをしていたのだろう。


「鈴音……俺もだ。足りなかったかもしれないけど、俺もお前を……っ」


 胸を焦がした憎悪は何処かへ消え去り、代わりに違う何かがそこへ収まる。

 それがなんなのかは今の彼には分らず、ただ込み上げる感情が涙になって流れる。


「おじさま。どうか悔やまないでください」


 向日葵は零れ落ちる滴を愛おしそうに見詰め、絹の手触りを思い起こさせる、柔らかな笑みをたたえる。


「母は、私達は。道を間違えたけれど、不幸なんかじゃありませんでした。だって最後に、頭を撫でてくれたから」

「そんな、こと。そんな程度で……」 

「それで、よかったんです。母は十分に報われました」


 あの子にとっては、貴方の手だけが全てだったから。

 たとえ擦れ違ってしまったとしても、鈴音は確かに、例えようもない幸福の中で逝けたのだ。


「だからお願い、忘れないでいて。貴方の手に抱かれ、幸福のまま消えていった女の子のことを」


 貴方の思い出になれるだけで、私達が生まれた意味はあったのだと。

 それを忘れないでいて。

 向日葵の切なる願いを受け、甚夜は何も言えずただ空を仰いだ。

 誰にも届かない心は冬の夜に染み渡って、赤い月だけが独り街を見下ろして。

 吹き抜ける冷たい風に、多分、一輪の蓮の花がゆらりと揺れた。





『泥中之蓮』・了



<< 前へ次へ >>目次  更新