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『泥中之蓮』・4



 かつて<遠見>の鬼は預言した。

 日ノ本の国は外の文明を受け入れ発達していく。人工の光を手に入れ、人は宵闇すらも明るく照らすだろう。

 しかし早すぎる時代の流れに鬼はついていけない。

 発達し過ぎた文明に淘汰され、説話に語られた怪異は姿を消していく。

 作り物の光に照らされて、居場所を奪われて。

 そうしていずれあやかしは、昔話の中だけで語られる存在になるのだと。


 彼女の視た未来は此処にある。

 平成の世において、かつて跋扈した魍魎など既に架空のキャラクター。皆が知りながら誰も信じない。そういうものになってしまった。

 それを嘆きながらも彼等が動かなかったのは、不満を撒き散らしても意味がないと知っているから。 

 重火器の進化、警察などの治安維持組織、メディアの発展。

 下手を討てば討伐されるし、よしんば生き永らえても住処はなくなる。

 かつては退魔しか太刀打ちできなかったあやかし。

 だが現代において、彼等がどれだけ化け物じみていようとも、人間が組織的に動けば何の問題もなく対処できてしまう。

 半端な個の強さでは群の流れに押し流される。

 多くの鬼は現実を思い知り、抵抗することなく街の片隅へ追い遣られていった。


 結局は人も鬼も変わらない。

 居心地のよくない場所だとしても、とりあえずの命が保障され飢えを凌げるのであれば、“なにもしない”者達の方がはるかに多いのだ。


 だから校庭に集まった鬼共の殆どは初めから助勢も邪魔立てもする気はない。

 時代に流され、街の片隅に追い遣られた彼らは、しかし現状を変える為に動こうとはしてこなかった。

 今迄がそうだったのだ、これからもきっとそうだろう。

 けれど存在を認められぬ現代が怪異達には息苦しくて。

 もしも我らを守り慈しむ鬼神とやらが本当ならばと、マガツメに一縷の希望を託した。 

 鬼達は傍観に徹する。苛烈を極める戦いの結末、その先に訪れる未来を待っている。


 その態度に若干の引っ掛かりを感じないでもないが、正直なところ現状では在り難い。

 百七十年をかけて鍛え上げた。それでも周囲の鬼共を相手取りながらマガツメの対処は無理があり過ぎる。

 傍観に徹してくれるならそれでいい、甚夜は全霊を傾け規格外の怪異に食らいつく。


「ぬ、ぐ」


 暴れ狂う大百足、マガツメの<地縛>は鎖でなく虫。多くの説話で怨霊は虫となって人に害為す。それを体現するかのように彼女の憎しみは害虫となって甚夜へ襲い掛かる。

 拘束する為の<力>の筈が桁外れの威力を誇る。躱した百足は校舎を容易く砕き、叩きつければ校庭が陥没した。

 しかしその威力さえも余技。<地縛>の本質は能力や行動を縛ること。

 まぐれ当たりさえ許されない。甚夜は颶風の如き猛攻を睨み付けた。

 マガツメの動きを目で判断していては遅い。視るのは今ではなくその先。奴の動きの行く末を想定、覗き見る五秒後の未来を標とする。


「……大丈夫だ、“視えて”いるよ」


 知らず手は右の瞼に、こころの想いにそっと触れる。

 零れた呟きは懐かしむような、どこか暖かな響きをしていた。

<地縛>が左から、次は後ろの地面を砕きながら背後に一撃。止まらず、挟み撃ちの形で異形の腕が突き出される。

 大丈夫、視えている。

 今もその先も、ちゃんとこの目に。

 夜来で左の百足を弾き、振り返らず背後に一閃。

 体を屈め踏み出し、異形の腕の下に潜り込む。刀の腹を添え右足で踏ん張り、そのままマガツメの腕を下から掬い上げた。

 更に<疾駆>で距離を詰め、駄目だ、そこまでは許してもらえない。

 前傾になって駆けようとした矢先、顔面に放たれる幾体もの大百足。それも視えている。造作もなく全て叩き落し、しかし好機はそこで潰されてしまった。


『抵抗しないで…怖く、ないよ……』


 途切れ途切れだが優しい語り口、なのに形相は憎悪に歪む。

 支離滅裂な言動は彼女の中では整然としている。マガツメにとって心を注ぐ相手は“にいちゃん”しかいない。

 故に彼女が最も愛するのは兄であり、最も憎むのもまた兄。他のものに興味がなく、だから愛憎の全ては甚夜にのみ向けられる。

 マガツメの世界は其処で完結している。

 誰の声も届かない。

 彼女は兄の幸せの為なら、道にある小石をどける程度の気持ちで、世界を滅ぼしてしまえる。

 例え兄がそれを望まないとしても関係ない。

 鈴音は、遠い葛野で過ごした日々以外に、幸福を知らないのだ。


『だから、邪魔をするなぁ……!』


 相反する感情を撒き散らしながらの強襲、マガツメは息を飲む間も与えない。

 伸ばされた左腕は害虫ではなく、細くしなやかな女のそれだ。ただし込められた膂力は尋常ではない。触れられたらそこで終わり、一握りで頭蓋を砕かれる。

 だがそれも視えている。

 腰を落とす。左足でしっかりと地を噛む。

 加減する気もその余裕もない。突進に合わせて右足を抱え、貫けとばかりに鳩尾へ蹴りを叩き込む。

 ぐにゃり、足に伝わる奇妙な感触。鍛え上げた硬さではなく、かといって柔らかいだけでもない。

 弾力があって壊れない、まるで分厚いゴムだ。衝撃がうまく通らなかったのか、マガツメは平然としており、それどころか即座に反撃へと移る。


 脊髄反射で退くと同時に<地縛>、百足の牙が四方八方から襲い来る。

 一つ一つは脅威ではない。躱し、薙ぎ払い、弾き返し。けれどその度に逃げ場が塞がっていく。

 倒すのではく追い詰める為の挙動。殆ど戦闘経験が少ない割にそういう手を打てるのは、修めた武ではなく捕食者としての勘だろう。

 暴れ狂う百足は布石だと分かっている。だとしても縛られれば大幅に能力が制限される以上、そちらに意識を割かねばならない。

 それをマガツメもよく理解している。

 足を絡めとろうと這い寄る百足を躱し叩き潰し。更に増え集る害虫、横薙ぎで纏めて斬り。


「ぐっ……!」


 その瞬間を狙い澄ます。

 四方を取り囲まれ、他事に気を取られ。そういうタイミングで叩きつけられる害虫の右腕。

 避けられないなら迎え撃つまで。<剛力><疾駆>、甚夜の左腕がめきめきと音を立てる。筋肉が膨張し骨格から変形し、二回り以上巨大になった異形の腕で害虫の腕を叩き落す。


『ぎ、ぎぃ』


 全霊の拳がマガツメを怯ませる。

 害虫の腕は薄汚い汁を飛び散らせ、けれど<まほろば>。出来た傷は一瞬のうちに再生、いや巻き戻り、そのまま再び繰り出される。

 それも視えていた。視えて、意図も完全に読んだ。

 なのに間に合わない。甚夜の一手目の終わりよりもマガツメの二手目の方が早い。

 全霊の一撃の後だ、次の動きを予測できても体がついていかない。

 避けられない。寸前で腕を潜り込ませ受けに回ったが、あまりの重さに肉が骨が魂が軋む。

 皮膚は裂け血が滴る。一撃で、しかも防いでこれだ。

 積み重ねた研鑽を事も無げに凌駕する身体能力。圧倒的なまでに、生物としての格が違う。


「ははっ。まったく、儘ならないな」


 全身に響く痛み、ごっそりと気力も削ぎ落とされるようで。

 彼我の差を思い知らされ、にも拘らず微かな笑みが零れる。

 マガツメの複眼が甚夜を見た。窮地にあって何故笑うか彼女には理解できていない。

 今に始まったことではない。

 多分二人は、兄妹だったのに、ずっと昔から互いに理解なんてできていなかった。


『なら、死ねばいい。そうすれば、ようやくあなたの幸せが』


 噛み合わない会話、僅かも間を置かずマガツメは攻め立てる。その動きには僅かな躊躇いもない。

 当たり前だ、彼女にはもはや何も残っていない。

 ただ一つの為にあらゆるものを切り捨てきた。だから動作にも心にも躊躇いというものが存在せず、それがマガツメの強さを支えている。


「私の幸福の為、私を殺すか」

『私の<力>がある、鈴蘭がいる。全部、元通りになる。憎しみもみんな、消えてなくなるの』


 兄の幸福を願いながら、自身の願いの為に兄を殺す。

 その矛盾に彼女は気付いていない、気付けないほどに壊れている。

 だからこそ揺らがない。

 マガツメは、鈴音は、捨てることで在り方を純化させ強くなった。

 澄み切った愛憎は明確な殺意となって甚夜を襲う。繰り出される容易く命を奪う猛攻、その荒々しさは瀑布を思わせた。 


「どうした……その程度では命には届かんぞ」


 だが百七十年を共にした愛刀が、瀬戸際でそれを受け流す。

 激しい攻撃を凌ぎながらも口元が緩むのは、思い出す景色があるからだろう。

 おぞましい百足どもが牙を剥き、異形の腕が蠢く。

 彼女が振るえばただの牽制さえ容易く命を刈り取る致死の一手へと変わる。

 本当に、嫌になるくらいマガツメは強い。

 逆に私は弱くなった、甚夜はそう考える。

 あの子は道行きの途中に沢山捨ててきた。ただ一つの願いを叶える為なら他のものなんて要らないと、大切にしてきた心さえゴミのように捨てた。

 甚夜にはそれが出来なかった。

 けじめだのなんだのと口では立派なことを言いながら、温もりを捨てきれなくて惑い、失くすのが怖くて立ち止まり、何度も何度も失敗してきた。

 全てと信じたものを濁らせる余分は、折角鍛え上げた刀を鈍らせる。

 きっと彼はかつてよりも遥かに弱くて。

 けれどその弱さこそが、迷ってばかりの情けない男を此処まで辿り着かせてくれたのだ。


「思えば、こうやって向かい合ったことなど殆どなかったなぁ。巫女守だから鬼斬役だからと、いつも留守番をさせていたような気がする」


 仕損じれば命を落とす。そういう熾烈な殺し合いの最中、口を突いて出る懐かしい日々。

 胸を焦がす憎悪。百七十年を経て、尚も憎しみは捨てられなかった。

 今でさえ鬼へ堕ちたこの身が“奴を殺せ”と叫び、しかし脳裏に過るのは心を切り捨て虫になり果てたマガツメではなく幼い鈴音の姿だ。

 無邪気に兄を慕ういい子だったが、同時に気を回しすぎるきらいがあった。

 甚太が白雪と少しでも一緒にいられるよう、鈴音は子供ながらに心を砕いた。

 ああ、そうだ。

 今も昔も同じ。あの子は、いつだって兄の幸せをただ願っていた。

 未熟な甚太がそれに気付けなかっただけで、多分かつて愛した妹の心にも、マガツメの狂気は確かに宿っていたのだろう。


『煩い、黙れ……』

「それでも大切な家族だと思っていた。なのに殺し合うしかなくなってしまった。私達は、何を間違えたのだろうな?」

『黙れ黙れ黙れ黙れ、間違えてなんかない。まだ戻れる。戻るの、あの頃に!』


 異形の腕が甚夜の体を吹き飛ばす。

 肉が抉られ血が滴った。いけない、先程もらった一撃が響いている。取り繕ってはいるがかなりの痛手、思った以上に踏ん張りが利かなかった。

 だが問題はない。

 規格外の化生とやり合うのだ、無傷で済むなど端から思ってはいない。

 あれに願いがあると同じくこちらにも通すべき意地がある。

 長い長い旅路の果てに、いつか出せなかった答えにも至れた。

 だからもう少し無理をしよう。

 大丈夫、未来ならちゃんと視えている。

 後は、踏み出すだけだ。


「戻れないさ。私達は、変わり過ぎた」


 吐き捨てた言葉が癪に障ったようだ。マガツメの形相は醜悪なものへと変わり、纏う気配は禍々しさを増した。

 絹を裂くような叫びと共に暴れ狂う。ぎちぎち、ぐねぐね、節足動物特有の気色の悪い動きで<地縛>が迫る。

 こちらも<地縛>、鎖が百足を迎え撃つ。だが数では向こうが勝る、防ぎ切るのは不可能。それでいい、縛ろうとするものを叩き落せれば上等。多少皮膚を肉を食われ血が滴ろうとも然したる影響はない。

 横から叩き付けられる異形の腕を夜来でいなし、返す刀で<飛刃><剛力>。特大の斬撃を放ち、しかしマガツメは左手で握り潰す。

 掌には決して浅くない裂傷、それも瞬きの間に消える。<まほろば>、彼女の願いに時間は巻き戻り、傷が与えられる前へと戻った。

 その光景に眉を顰める理由は、ダメージの有無より濁りを大切にしてきた道行き故に。

 不器用でも無様でも、失くしたもの負った傷も全て背負って歩いてきた。甚夜には痛みを癒すのではなく“なかったこと”にしてしまう彼女の<力>が酷く歪で悲しく見える。


「は、他者の在り方にケチを付けられるほど大層な男でもないか」


 抱いてしまった余計な思考を吐き出し、再びマガツメへ意識を集中する。

 そも他事に囚われていられるほどの余裕もない。<剛力><疾駆><御影>、三種同時合成。規格外の化生に追い縋れているのは、無理矢理に能力を底上げしているからに過ぎない。当然身体への負担は大きく、長引けば形勢は一気に不利へ傾く。

 事実、少しずつ。少しずつではあるが甚夜は押されている。

 基礎能力を高め、相手の動きを予測し、経験に裏打ちされた技を以て挑み。そこまでしても追い詰められる。


『ひっ、ひひっ、あは、はぁ』

「ずっ、ぐ……!?」


 壊れた笑みをまき散らしながら憎悪の害虫が肉を啄む。

 抉られた左肩から血が噴き出す。大腿を百足が貫く。

 読めているのに避けられない、戦っている土俵が違いすぎる。

 マガツメは比喩でもなんでもなく、正真正銘の化け物だ。

 惚れた女を殺し、大切な妹を奪い、愛しい娘の記憶を消した、どれだけ憎んでも飽き足らない仇敵。

 どろりとした憎しみが胸を焼き、目前に死が迫る。

 なのに───にいちゃん───何故、過る景色はこんなにも綺麗なのか。


 異形の腕が、一際大きく蠢いた。


 追想に塞がれた瞳が僅かに一瞬甚夜の動きを止めた。

 致命的な隙を見逃す筈もない。外骨格を持ち歩脚の生えた芋虫の腕が、寒気がするほどの速さで間合いを侵す。

 避ける、遅い。<不抜>、間に合わない。

 害虫は命を食い荒らすもの、マガツメの一撃は甚夜を蹂躙する。


「ぐ、がぁ!?」


 練り上げた膂力でそれを掴みどうにか防ごうとするも、その程度の抵抗などないも同然。

 懐に深く突き刺さり、皮膚を破り肉が爆ぜ、遅れて大量の血液が噴き出す。

 <剛力>、異形の腕を払いのけるが傷は深い。精一杯の意地で膝はつかない。代わりに地面には血溜まりができていた。


「ちぃ……!」


 返す刀、<剛力><飛刃>、特大の斬撃を放つ。

 しかしマガツメ避けない。避ける必要がない。 

 直撃した。防がず捌かず、無防備に一刀を受けた。

 なのに傷一つ付かない。

 甚夜が弱っているからではない。ごく単純に、能力値が短期間で尋常ではない程に向上している。


「……こいつは、少し。読み違えた、かな」


 まだ、変わるのか。

 冗談じゃない。規格外過ぎて、思わず乾いた笑みが零れた。

 皮膚を食い破る害虫。下半身は完全に変容し、彼女は四肢ではなく数多の節足で動いている。

 ごきり、嫌な音が。背骨が曲がり、そこから外骨格が発達し、酷く歪な形状となってしまった。

 体躯は物の数十秒で甚夜を上回り、それでも肥大化は止まらない。

 変容? 成長? 進化? 

 戦いの最中に尚も力を増し、マガツメは今や全力でさえ届かぬほどのあやかしと為った。

 神すら追い落とす勢いで刻一刻と変わり続ける異形。

 渦巻く圧倒的な悪意を目の当たりにしながら、甚夜は恐怖より脅威より、ただ哀しいと感じていた。


『にい、ちゃん』


 そこまで変わり果てても、まだ彼女はにいちゃんと呼ぶ。

 それが哀しい。どこまで行っても、あの子の心は遠い故郷に囚われている。

 頸木くびきとなってしまったのは他ならぬ彼自身。ならば此処はかつての過ちの末路だ。


『あ、あ、あああああ………っ!』


 もはやマガツメの攻撃は視認さえ難しい。

 <地縛><織女><犬神>。手数を増やし殆ど勘で迎え撃ち、その悉くを叩き潰された。

 鎖は砕け、瘴気の鞭は千切れ、黒い犬は弾け飛び。数え切れぬ害虫が甚夜の体を抉る。


「は、はは。が、はぁ……」


 既に満身創痍、乾いたような笑いと共に吐血。彼の周りは赤く染まっている。

 微かに足が震えている。おそらく小突けばそれで倒れるだろう。

 甚夜は吉隠と、かんかんだらと対峙したが上回ることはできなかった。

 鬼神に比肩する怪異を下せなかった以上、肥大化し続ける鬼神に正面から勝てないのは道理。血塗れの姿は順当な結果でしかない。


『ああぁ……やっと、手が、届く』


 甚夜は動かない。吐息のかかる距離までマガツメが近付いても、構えさえとらない。

 立つだけで限界。そこまで傷付いた兄の姿が妹には嬉しかった。

 これでもう邪魔するものはいない。 

 ようやくだ。

 ようやく失ったかつてを取り戻せる。

 長かった、辛かった。でもそれも終わり。もう一度、戻れる。懐かしい故郷に帰れる。

 だからその為にも現世を滅ぼそう。<力>を解き放ちすべての時間を逆行させ、赤子を餌に新しい命を生み出し。

 造られた心を自身に植え付けて。


 もう一度兄妹で暮らし、今度こそ幸せな日々を。


 その為に先ずは。

 マガツメは血の泥濘へ踏み出し、左手でそっと甚夜の頭蓋に触れ。


『<まほろば>』


 その特質は時間の逆行。

 白く淡い光が、彼の全身を包んだ。











───何度も繰り返すけど、最後の最後で母さんを止められるのは、あんたしかいない。それを忘れちゃ駄目だよ。







 昭和の頃、鳩の街で不思議な娼婦と出会った。

 七緒。マガツメに本当の意味で捨てられた、水仙を意味する娘だった。

 彼女は語った。母を止められるのは能力的にも心情的にも甚夜以外に存在しない。

 それは紛れもない真実だった。


「……勝ち目のない戦いへ挑むには、少しばかり歳を取りすぎたよ、私は」


<まほろば>は確かに発動した。

 その特質は時間の逆行。時間を巻き戻し、元に戻す。

 だから甚夜は元に戻る筈だった。傷が治り、鬼ではなく人へ。

 大好きなにいちゃんに、もう一度会えると。また暖かな視線を向けてもらえると信じて。

 けれど彼はいまだ満身創痍。マガツメを見る目には、憎しみと哀れみが滲んでいた。


「忘れたのか、或いは知らないのか。鬼の<力>は才能ではなく願望だ。心からそれを望み、尚も理想に今一歩届かぬ願いの成就。……ならお前に、私をどうにかできる訳がないじゃないか」


 それこそがマガツメの願いの本質だから。

 肉体の復元、対象を赤子へ変える。そんなもの副次的な効果に過ぎない。

 時間の逆行、その<力>へ至る彼女の願いはただ一つ。


“あの頃に帰りたい”。


 取りも直さず、もう一度大好きなにいちゃんに会いたかった。

 どれほど心を切り捨てようとも、憎しみに染まろうとも、結局はそういうこと。

 どこまでいっても、それが全てで。

 だからマガツメの<力>は甚夜には通用しない。

 いくら規格外の化け物であっても前提条件は覆せない。

 神をも追い落とし、あらゆるものを凌駕する勢いで彼女は変わり。

 それでも。

 鬼の<力>では、心から望む願いだけは、叶えられないのだ。


『……っ!?』


 マガツメは驚愕し、咄嗟に後ろへと退く。

 対して甚夜は全身に傷を負いながらも平静だ。

 勝ち目のない戦いへ挑むには、少しばかり歳を取りすぎた。真正面から打ち倒せると考えるほど自惚れてもいない。

 ならば細く頼りない勝機を掴む為の仕込みはあって然るべき。

<まほろば>が効かないと悟らせないのはその一つ。


「<血刀>」


 そして満身創痍の現状も血溜まりもまたその一つだ。

 血液を媒介に刀剣を生成する<力>。無警戒に血の泥濘へ足を踏み入れたマガツメは、突如意識の外から突き立てられる刃に足を取られる。

 友人がくれた<力>は、最後まで刀でありたいという切なる願いは、此処に鬼神へ届き得る刃となった。

 致命傷には程遠いかすり傷、<まほろば>を使えば一瞬で復元してしまう。

 だがこちらの間合いで、マガツメが無防備を晒している。

 それで十分。この距離ならば、ようやく手が届く。


『ぎっ!?』


<剛力>で練り上げた膂力を以って、彼女のか細い首を掴む。

 この瞬間をこそ狙っていた。

 マガツメには<まほろば>がある。あらゆる損傷を一瞬で復元される以上、殆どの手立ても決定打にはならない。

 もしもそうでなかったとしても、斬り捨てるは甚夜にとって勝利ではない。

 百七十年前、惚れた女を殺した妹なぞ許せぬと憎み。けれど殺すことも躊躇った。

 もう一度出会えた時、どうすればいいのか。憎悪の行方も、刀を振るう理由も。本当に、何一つ分からなかった。 

 だけど百七十年をかけて答えに辿り着いた。


「マガツメ……お前を倒すのは並みの力では不可能。だが私にはあるんだ、どのような相手でも確実に葬る手段が」


 彼女の首を掴む左腕が、どくりと鳴動する。

 他者を喰らい、その<力>を我がものとする異形の腕。

 ああ、よくよく考えてみれば始まりはこの腕だった。それが最後の一手になるのだから何とも皮肉な話だ。


「いくら考えても、これ以上は思いつかなかった」


 かつて葛野を襲った鬼から与えられた<同化>。その特質は食らった高位の鬼の<力>を奪うこと。

 ただしそれには条件がある。

 意識が強く残る者を<同化>で喰らうことは出来ない。

<同化>によって<力>を己が身に取り込む時、肉体だけではなく記憶や意識も同時に取り込んでしまう。

 しかし一つの体に異なる二つの意識は混在できない。

 そんなことをすれば肉体の方が耐えきれず自壊してしまう。

 つまり道連れ覚悟なら、相手がいかなる能力を持っていたとしても、己が内に取り込みそのまま自壊できるのだ。


「なあ、鈴音。……一緒に地獄へ落ちよう」


<まほろば>は意味がない。<同化>する以上彼と彼女は同じもの、そもそも効果がない。

 逃げるのも遅い。既に両者は繋がっている。

 どくり、鳴動する左腕からマガツメが流れ込んでくる。

 想いの奔流に、目の前が白く染まった。



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