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『泥中之蓮』・3




 ───おとうさん、おとうさん。


 ───なんで鬼さんばっかりつらい目にあうの?


 ───がんばってるのに、なんでみんなひどいことするの?


 ───ひとりはさみしいよ。




 小さな頃に聞かせてもらった一匹の鬼のお話。

 わくわくするようなアクションではあったけど、同じくらい悲しくて。

 感情移入しすぎて泣いてしまったことをよく覚える。


 だから、多分それが始まり。

 秋津染吾郎を継いだ理由。

 きっと、あたしは───




 ◆




 甚夜と貴一。

 二匹の鬼の不合理な戦いに呆れはしたし、今も賛同はできない。

 一番の目的はマガツメとの決着。幼い頃から彼の歩みを聞かされて育ったからこそ、意地の為に命を張るなんて納得し切れなかった。

 男って面倒臭い。それは萌の正直な感想だ。


「ごめんね、甚。後で謝る。メンドクサイのって女もみたい」


 しかし本当は、彼女も似たようなものだったのだろう。

 彼らは生涯をかけた剣の為無用な斬り合いに興じ、彼女は大切な友達が傷付かないよう無意味な戦いに挑もうとしている。

 幼い頃から随分と経って、少しは成長できた気になっていたけれど、結局は馬鹿なままだったらしい。


「おいでやす、鍾馗様」


 だから彼が意地の為に命を張るのなら、萌は正しいと信じたものの為に我を張る。

 間違っていると思ったなら誤魔化すような真似はしない。

 鈴蘭に挑む理由はただそれだけ。意味がないだの無駄だの、周りが何を言おうと心には響かない。

 桃恵萌は己の在り方を示すように駆け出し、鍾馗の短剣を翳す。

 

『……ギ』


 目がない鼻がない口がない。感覚器が殆どないのに鈴蘭は反応をみせた。どうやってかは分からないが、確かにあの鬼は外界の様子を把握している。

 鈴蘭にとって、立ちはだかる者は母の願いを邪魔する外敵に過ぎない。

 故に容赦は欠片もない。先程見せた鍾馗の威力を警戒しているのだろう。鞭のようにしなる、ではない。暴れ狂い隙間なく、瀑布の如く振るわれる白い腕。前方は鈴蘭の攻撃で埋め尽くされ、咄嗟に萌は廊下を蹴り教室の窓へと飛び込んだ。

 自我がないのに、考える頭はある。

 鈴蘭は大雑把ではあるがちゃんと状況に合わせた対応が取れるのだ。


 であれば逃げて隠れて機会を伺う、というのは楽観が過ぎる。

 あの鬼に考える頭があるのなら次の手は間を置かない。萌の想像通り、ガラスの割れるけたたましい音を響かせていくつかの影が教室に侵入してきた。

 追撃は予想済み。既に萌は短剣を構え、左手には携帯。相手がなにを仕掛けてこようと真っ向から迎え撃つ。


「ってタチ悪っ……!」


 追撃は予想済みで、迎え撃つ準備は万端で。

 そのつもりでいた筈が、驚愕に思い切り叫んでしまう。教室に入ってきた影の造形が、差し込む赤い月の光に照らし出される。

 人の複製を造るのが鈴蘭の業、ならばこれくらいはできて当然か。

 影は計四体、皆戻川高校の制服を纏っている。

 姫川みやか、梓屋薫、吉岡麻衣、根来音久美子。追撃は全て萌の友人、その複製だ。

 甚夜の話では造られたばかりの複製は裸だった筈。もしかすると<力>が成長しているのか。なんにせよ、性質が悪いことには変わりない。


「あ、れ……萌?」


 戸惑うみやかの振る舞いは、萌の知る友人のそれと何ら変わらない。

 今の今産み出されたのだ、彼女が偽物であると十分に理解しており、にも拘らず勘違いしてしまいそうになる程だ。

 あまりに普段通り過ぎる空気が、僅かに一瞬動きを止めた。


「ご、ふぅ……!?」


 それが決定的な隙となる。

 みやかの体を貫いた白い腕は、血に塗れて赤く染まり、尚も止まることなく萌の腹部へ突き刺さる。

 福良雀の付喪神、能力は防御力の向上。仕込みが効いたおかげで致命傷にはならなかったが、重い痛みは腹に残る。

 距離を開け、とにかく態勢を整える。足を動かそうとして、しかしそれも儘ならない。


「あ、う」

「…ああ……」


 今度は薫に麻衣、久美子が足に纏わりついて動きを阻害する。

 みやかの時とは違う。胡乱とした目には彼女達の意思は感じられず、けれどそんなことは関係なく、鈴蘭が教室に踏み込んだ。

 萌の表情が強張る。

 机や椅子を壊しながら繰り出される触腕。飛び退くのは無理。鍾馗で一撃、二撃三撃と凌ぎ、まだ終わらない。

 ずきり、太腿に少女らの爪が食い込む。それだけの力でしがみ付かれている。振り払おうとして、それより早く届く鈴蘭の猛攻。

 付喪神が扱えても萌の身体能力は人知を超えたものではなく、普通に鍛えた少女程度。一気に振り払うことはできず、そもそもそちらに意識を割く暇がなく、かといってこのまま受けに回っていてもジリ貧。

 ならばもっと手早く、偽物を叩き潰しひとまず退く?

 偽物とはいえ、親しい友達に手をかける?

 ああ、違う。

 それは桃恵萌の信じる“正しい”ではない。


「にっ、ぎ、ぐぅ……ぁあ!」


 そうするくらいならば無茶をする。

 少女らしからぬ雄叫びと共に白い腕を防ぐ。突きはいけない、振り下しも。頭に四肢、壊れやすい部分も同じ。優先順位をつけて的確に捌き、けれど徐々に追い込まれ。

 ぐぉん、と空気が唸る。

 一際力の籠った薙ぎ払い。頭部へ目掛けての致死の一手をはじき返した、その瞬間を狙った絶好のタイミングでの一撃だ。

 本当に、絶好のタイミング。

 突きは威力があり過ぎる。振り下しでは逃げ場がない。頭は致命傷になりかねず、四肢は細い為砕かれる可能性がある。

 だから胴を狙った薙ぎ払いが良い。左の脇腹へ叩き込まれる衝撃に、萌はにやりと笑う。

 いくら防御力が上がっても少女の体は軽く、容易く吹き飛ばされる。同時に鈴蘭の造る複製は中も外も完璧。だから造られた少女達の力は、あくまでも本人に準拠する。

 ならば人外の威力で吹き飛ばされる萌にしがみついていられる筈もない。彼女自身が振り払おうとしなくても自然に手は離れた。


「あ、はは。おっけ、これで仕切り直しぃ……」


 百七十年戦い続けた鬼や時代遅れの人斬りならもっと卒なく対処できただろう。

 けれど彼女にはこれが精一杯。つまり桃恵萌は成長しても幼い頃と然程変わってはいない。偽物の友人を手にかける頭の良さよりは、自らダメージを喰らう馬鹿の方がいくらかマシ、そういう判断だ。

 そのような心の機微など敵は慮ることをしない。目論見通りとはいえ痛手は痛手、足元がふらつく。それを好機と判断した鈴蘭は更に追撃、不必要と判断したのか虚ろな目のままの薫達を巻き込んで白い腕は迫りくる。

 少女達の体が弾け、飛び散る体液が目晦ましになった。或いは無残な光景が萌の心を凍らせたのかもしれない。

 目の前以上に頭の中が赤く染まる。反応が遅れた。翳した鍾馗の短剣、髭面の大鬼が迎撃するもいくつかは打ち漏らした。

 だが痛みを感じない。怒りに沸騰した萌にはその余裕がなかった。


「あんた、ほんとムカツク……!」


 偽物であれ死ぬ友人なんて見たくなかった。だから敢えてダメージと引き換えに振り払った。

 なのに鈴蘭はいとも容易く惨殺する。自我がないなんて嘘で、こちらの反応を楽しんでいるのではないかと疑ってしまう程の悪辣さだ。

 ねこがみさま。ファンシーな動きで飛び跳ねる付喪神が鈴蘭へと向かう。牽制の付喪神からの進軍、あの腹立たしい鬼に一発叩き込まないと気が済まない。

 反応し鈴蘭が蠢く。

 身震いした無貌の鬼は体表から粘度の高い水のようなものを吐き出した。ぐちゃり、ぎしり。気色の悪い音を立て、粘液は次第に盛り上がり形を作り、完全な人型となった。


「あのさぁ、別に誰が相手でも躊躇うって訳じゃないから!」


 しかし萌は一切の躊躇なく鍾馗で斬りかかる。

 現れたのは友人達ではない、見たこともないお爺さんだ。先程もそうだが、ちゃんと衣服を着ている。狩衣、だったか。歴史の資料集にでも出てきそうな古臭い装いだ。

 鈴蘭はマガツメの一部、母の知る人間の複製ならば造れる。

 向日葵はマガツメの一部、母の目。つまり彼女の見るものは、同じく母も見ている。

 つまりこの老人は、おそらくマガツメか向日葵のどちらかが、かつて関わりをもった人物。

 向こうの認識がどうあれ、萌が攻撃を止める理由にはならない。


「は……まあ、お師匠ならこう言うやろな」


 自我はあっても状況が理解できていないのか、老人は萌の姿を視認しながらもどこかのんびりとしている。

 その態度はあまりに場違いだが、多少の罪悪感はあれど偽物と分かっている以上手加減はしない。

 一気に攻め、それを老翁は平然と笑う。


「老いぼれ舐めんな小娘」


 ぞくりと背筋に冷たいものが走る。

 なにかヤバイ。力を抜いた老人の態度に萌はそれを察する。

 けれど止まれず、予感は的中した。 

 鍾馗の一撃を見切ったのか、それとも“最初から知っていた”のか。

 僅かな迷いもなく老翁は右足を滑らせ踏み込み、轟音と共に放たれる鍾馗の剣をやり過ごし、萌の懐へと潜り込んだ。


「あぅ……!?」


 そしてそのまま繰り出される、左肩からぶつかる全霊の当身。

 どこかの誰かが得意とする、萌にも見覚えがある体術である。

 胃液が逆流する。やせ細った男の体だというのに、腹へ突き刺さる衝撃は尋常ではない。


「で、“しゃれこうべ”改め、“狂骨”……ん? 念珠がない?」


 更に追い打ち、手を翳す。しかし次の一手は来ない。

 何故ここで手を緩めるのか萌には分からなかったが、疑問は追撃を放てなかった本人の方が強い。

 偽物という認識がないのだろう。自身の腕に念珠がないことを確認し老翁は……四代目秋津染吾郎は小首を傾げている。

 追撃はなくとも無防備な腹にカウンターが決まった形だ、萌の意識を刈り取るには十分すぎた。

 少女は膝から崩れ落ち。

 彼の正体に気付くより早く、世界が暗転した。




 ◆




 すごく痛い。

 体が重い。

 制服が肌に纏わりついて気持ち悪い。

 なんだろ。あたし、どうかししちゃったのかな。

 自分で自分の状況がよく分かっていない。

 でもこれ、夢を見てるんだと思う。

 だって声が聞こえてくる。

 悲しそうな、舌っ足らずな。

 あれは、ちっちゃいあたしの声だ。






 ───おとうさん、おとうさん。


 ───なんで鬼さんばっかりつらい目にあうの?


 ───がんばってるのに、なんでみんなひどいことするの?


 ───ひとりはさみしいよ。






 まあ、つまり。

 馬鹿な子供だったんだなーと思う。

 どれくらいかというと、父親が聞かせてくれる「百七十年後の未来を目指す鬼のお話」に感情移入して泣いてしまうほど。

 今でも頭はよくないと思うけれど、小さな頃はほんっとー馬鹿で。

 悪いことをしてないのに辛い目に合うのは間違っていて、どんな人にでも優しくするべきだし、頑張ればみんな報われて。

 世の中というのは基本的に「いいひと」しかいなくて、「幸せになれる」のが当たり前なのだと本気で思っていた。

 だから頑張っているのに失って、一人になっても戦い続けて。

 そういう鬼さんのお話が、その活躍にワクワクしつつも、とても悲しかったのを覚えている。

 ずっと会いたいと、伝えたい言葉があると、鬼さんと出会う日のことを夢見ていた理由はそこにあるんだろう。

 秋津の四代目と離れた後も戦い続けたであろう彼に伝えたかった。

 あの時の馬鹿な子供も今では立派かどうかは分からないけど取り敢えず高校生。

 誰もがいいひとって訳じゃないし、どんなに頑張ってもどうにもならないことなんていくらでもあるって知ってる。

 それでも、寂しくないよって。

 ずっと一緒にいられなくても辛いことばっかりなんかじゃないって。

 優しくて、不器用で。とても弱くて、けれど誰よりも強い、泣き虫な彼に言ってあげたかった。


 たぶん、それがあたしの始まり。

 退魔の名跡に生まれたからじゃない。秋津の言葉を受け継いだからじゃない。

 秋津染吾郎になったのは、まず初めにあたしの気持ちがあったから。

 望んだのはずっと頑張ってきた鬼さんの頭を優しく撫でてあげられるような自分。

 あたしは、子供の頃に正しいと信じたものを、疑いなく正しいと言える大人になりたかったのだ。




 ああ、そっか。

 甚のやり方を面倒臭いなんて言ったけど、結局あたしも一緒だ。

 今も昔も桃恵萌は面倒臭くて馬鹿な子供のまま。

 鈴蘭に挑んだのは、友達が傷付くのは嫌だなんて言って無駄な戦いに臨んだのは、あの頃のままの私でいられた証拠で。

 それがなんだかバカみたいで、それがなんだかちょっとだけ嬉しい。

 なら立ち上がらないと。

 みやかみたいに物分かりがよくて頭のいい、優しい子にはなれないけど。

 馬鹿は馬鹿なりに通せる意地もある筈だ。


『私とて、できるなら最上の結末を望むさ』


 幼いあたしの声は掻き消えて、武骨な、それでも暖かいと思わせる言葉が聞こえてきて。

 まっくらな目の前に、光が差し込んだような。




 ◆




『……例えばさ。あたしとみやかが殺されそうになって。どっちかしか助けられないってなったら、甚はどうする?』


 意識を取り戻し、いつかの問いが脳裏を過る。

 いったいどれくらい気を失っていたのか、地に伏した萌は教室の床の冷たさに目を覚ます。

 ずきり、全身に走る痛みを無視して、弾かれたように立ち上がり退く。

 相当の痛手を受けただろうに、少女の戦意はまだ挫かれていない。すぐさま体勢を立て直したことといい、老翁は「ほぉ」と感心して短く息を漏らした。


「なんや、案外根性あるなぁ」


 特に構えるでもなく萌を眺める彼は余裕綽々といった風情である。

 油断でも慢心でもない。見た目には単なる老人だが、鍾馗の一撃を完全に見切って躱してみせた男だ。実力に裏打ちされた振る舞いは傲慢よりも泰然と表現するが相応しい。


「いったぁ……女の子のお腹なんだと思ってんのよ」

「は? 感心した矢先それかい。女理由に甘やかしてほしいんやったら、そもそも出てくんな」


 軽口のつもりが相手の反応は予想以上に過敏だ。

 不快げに目を吊り上げ、老翁は語調も荒く吐き捨てる。


「そない軽い覚悟で背負ってええもんちゃうぞ、鍾馗の短剣は」


 それはまるで大切なものを汚されたかのような純然たる怒り。

 辛辣であるが故に彼の想いの深さを感じさせる。その理由に萌は思い至らない。

 単純にそこまで頭が回らないというのもあるし、何より状況が逼迫していた。


「……っ!?」


 鈴蘭は空気を読まない。会話の途中でも容赦なく横槍を入れてくる。

 鞭の数撃、それらを寸でのところで捌くが、息をつく暇もない。意識が削がれた一瞬を物にし、老翁は急速に間合いを詰める。

 鍾馗の短剣を振るいそれに応じ、ようとして萌は動きを止められた。


「鍾馗は強い。ほんでも扱うお前さんが拙いなら、止めようはいくらでもあんで」


 特に力を入れた訳でもない。短剣を振るうより早く、最短距離で肘を殴打。

 たったそれだけで電気が走ったような痺れに全身が硬直し、老翁はそのまま流れるように蹴撃へ繋げる。

 防御して尚も骨が軋む。老人とは思えない体術、細い体からは想像もつかない重さだ。


「鍾馗は単純な威力では最強やけど、挙動は使い手が使役してこそ。止めるんなら距離を詰めて、使い手の動き自体を阻害すんのが一番てっとり早い」


 ねこがみさまや犬神などの付喪神は大雑把な命令さえ下せばオートで動くが鍾馗はそうではない。

 射程距離は精々2~3メートル。扱うためには短剣を手放せず、それを振るい翳すことでその動きをコントロールする。

 つまり彼の指摘は正しい。使い手をどうにかすれば、その力は半減どころの話ではない。


「目潰しで視界を奪う、でかい音たてて耳を塞がせる。焚火で室温暑くしたり、冬に水ぶっかけりゃそれだけで動きは鈍る。香に混ぜて痺れ薬でも焚きゃ一発やし、腕を斬り落とすってのもありやな。女やったら服破るだけでもそこそこ効果はあんで? 敵がまっとうな手段で仕掛けてくるなんて考えること自体舐めとる証拠や」


 老獪とでもいうのか、よくぞまあぽんぽんと汚らしい手が浮かぶものだ。

 考えて、萌はぶんぶんと首を横に振る。あの老人に言わせればそれを“汚らしい手”と考えること自体舐めている証拠、鍾馗の短剣を背負うに相応しくないのだろう。

 返ってくる暴言までありありと想像できたから萌は口を噤んだ。反論は実力で、そういう意地っ張り具合が伝わったのか、老人は面白そうに口の端を釣り上げていた。


「ほんで、どうする小娘? 尻尾巻いて逃げんならそれもええけど?」


 老人は鈴蘭と連携し萌を攻め立てる。正確に言えば暴れまわる鈴蘭のフォローをしている、だろうか。

 造られたばかりなのにそういう立ち位置で動く理由は今一つはっきりしない。

 そう在れと産み出されたから? それとも他の理由があるのだろうか。

 疑問は尽きず、しかしそのどれもが今はどうでもいい。

 彼は逃げるかと問うた。未熟は彼女自身承知の上。それでも、そこまで舐められては黙っていられない。


「冗談っ! ボケが始まってるの、おじいちゃん!?」

「おうおう、元気ええなぁ。気が強いんは結構やけど、状況考えて物言うた方がええんちゃう?」

「じゅーぶん考えてるっての!」

「ほー、考えとる、なぁ。なんや、ここで踏ん張れば“あいつ”が助けに来てくれる、とかか?」


 鈴蘭の鞭は縦横無尽に、老人の殴打は的確に萌を追い詰めていく。

 だが逃げるなんて選択肢はあり得ない。


「……舐めんな」

「ん?」

「舐めんなって言ってんのよクソジジイっ」


 そして助けを待つなどある筈がない。

“あいつ”と。

 この老人が何を知っているのか知らないが、あいつと聞いて彼の顔が浮かんだから尚更に。


「助けに来ないわよ」

「うん? いや、んなこともないと」

「絶対に、助けに来ない。あたしが来させない」


 何故か不思議そうな老人の言を完全に無視して、萌は声を絞り出す。

 少し前、彼女は問いかけた。


『……例えばさ。あたしとみやかが殺されそうになって。どっちかしか助けられないってなったら、甚はどうする?』


 以前も同じことを聞いたが答えは変わらない。甚夜は『みやかを助ける』と言った。

 その答えに少しだけ傷付いたのは本当、けれど嬉しくもあった。

 だって彼はその理由もちゃんと教えてくれた。


「言ったのよ、“私とて、できるなら最上の結末を求める”って。だから、みやかを助けるんだって」


 もしも本当にそういう状況で、どちらかを選ばなければならなかった時、私ではきっと二人とも助けることはできない。

 今迄だってそうだった。全てを救うなどと自惚れられない。

 だが君がいるのなら、可能性はあるだろう。

 私はみやかを助ける。その上で君にも手を伸ばそう。

 それでも力及ばず、最悪の結末を迎えるというのならば。


 その時には、君が私を助けてくれ。


 そうすれば三人が無事助かることもあるかもしれない。

 これだけはみやかにも、他の誰にも頼めない。

 背中を、命を預ける。私は君がそれに足ると信じている。


「一人じゃ無理でも、あたしがいればみんな助かるかもしれないって。あたしは守る価値がないんじゃない、守らなくてもいいって信じられるんだって、そう言った」


 頼んだぞ、親友と。

 彼はそう言ってくれたのだ。

 女の子としては多少引っかかるところもある。だけど嬉しかった。

 桃恵萌は葛野甚夜にとって、そういう存在に為れた。

 守ろうとして散々失ってきた彼が、守らなくても傍にいてくれると。まだまだ未熟な小娘にそれだけの信頼を託した。

 ならばそれを裏切るなんてできない。


「助けは来ない。秋津染吾郎が受け継いできた想い、あたしの信じる正しさ、親友と呼んでくれた彼の心に掛けて、助けになんて来させない!」


 命の賭けどころくらいは弁えている。

 今がその時。鈴蘭を、人の矜持を踏み躙るこのくそ爺ごとぶちのめす。


「あ、ああああああああ!」


 白い腕をいなし、まっすぐに走る。

 奇は衒わない。自身の想いを貫くように、まっすぐだ。

 距離が近づく。老翁は相変わらず微塵も動揺せず泰然と構えている。

 老獪な手練れではあるが彼自身に特別な力はない。

 今迄後れを取っていた理由は、鍾馗の力不足ではなく彼女自身の練度の低さ故。

 それをこの場で覆すなど不可能に近い。


「その意気やよし。ほんでも、心がけ一つで勝てるもんやない」


 言われなくても分かっている。

 化かし合いでは分が悪過ぎる。そも出し抜く手など思い付かない。

 萌に出来ることなど幾つもない。

 だったらできる一つに傾ける。

 大きな振りでは隙になる。細かな狙いをつける暇もない。

 選んだのは突進からの刺突。あの老人も鈴蘭もまとめて葬る。

 つまりは最短距離を全力疾走、全身全霊を以ってぶつかるだけだ。


「は」


 短く零れた吐息は愚弄か感嘆か。

 分からないしどうでもいい。余計な思考は要らない。襲い来る鞭の如き腕さえ今は意識の外へ追い遣る。

 皮膚が裂け血は舞い痛みに身も軋み、しかし立ち止まりはしない。

 真っ向勝負。

 後のことなど考えるな。

 この一瞬にのみ全てを注ぎ込め。






 そうして、交錯する。






「……はん、やるなぁ。流石秋津の名を継ぐ者。ええもん見せてもろたわ」


 鍾馗は秋津の切り札、三代目染吾郎が作り上げた至宝である。

 それを人の身で受けきれる筈もない。

 老獪な戦術を見せつけた男は、最後はやけにあっさりとしている。 

 風穴どころか左半身を丸ごと吹き飛ばされ、しかし老翁は実に満足げだ。

 まるで大切なものを見つけたような、目論見を達したような、弟子の成長を見届けたような。

 或いは、己が生涯を誇るような、そういう笑み。

 だがまだ止まらない。

 勢いを殺さず、そのまま鈴蘭へ。降り注ぐ鞭の腕は一撃一撃が必殺。暴威に自ら飛び込み、ねこがみさま、付喪神を盾に無理矢理こじ開ける。


「悪いね、鈴蘭。あんたには……いてもらったら困る」


 動きの荒々しさとは裏腹に、少女の呟きは静かで慈悲を感じさせる。

 けれど為すべきを為すと決めたなら、躊躇うことはしない。

 萌が短剣を振りぬけば、連動し髭面の大鬼の刃は翻る。

 まさしく一瞬だった。

 視認すら難しい速度で振るわれた剣、通り過ぎた後には何もない。

 鈴蘭の上半身は斬られたのではなく、消し飛んでいた。

 何度も言うが特殊な力ではない。ごく単純な強さ。それこそ鍾馗の全てである。

 一拍子遅れて鈴蘭はその場に崩れ落ち、白い蒸気が立ち昇る。


 断末魔さえ上がらない。

 萌は命の賭けどころを見誤らず物にした。

 満身創痍、けれど確かに彼女の勝利だった。






「……うまくいってよかったぁ」


 老翁は溶けて粘液へ戻り、鈴蘭の死骸は完全に消え去った。

 それを確認して気が抜けたのか、ほへぇと緊張感のない溜息を吐く。

 今持てる全力の結果ではあるが結構な綱渡り、渡り切った後でも冷や冷やする。もう一度同じことをやれと言われても絶対できない。

 なにせあの瞬間絞り出せた力は今迄にないほど強大。まるで誰かが力を貸してくれたような、そんな気さえする。

 そう、誰か優しい人が、背中を押してくれたような。


「ね、鍾馗。あなたが、力を貸してくれた?」


 手にした短剣へ語り掛ける。

 勿論言葉が返ってくることはない。


『ちゃうよ。君が、想いを継いでくれたんや』


 なのに聞こえてくる幻聴。

 誰のものとも知れない懐かしい声に胸が暖かくなる。

 ああ、そうか。

 もしかして力を貸してくれたのは、紡いできた想いだったのかもしれない。

 理屈のない思い付きがやけにしっくりときて、それが妙に暖かくて自然と萌は微笑んだ。







 体力を使い切り、萌は片膝をつく。

 掛け値なしの全霊だった。少しは体を休めないと動くことも儘ならない。


「秋津さん、お見事でした」


 そういう彼女の前に立つ向日葵は、皮肉でもなんでもなく純粋な賞賛を贈る。

 萌は警戒心を強め、しかしすぐには構えられず、どうにか立ち上がるのが精々だ。


「鬼とは違う強さ……人は不思議です。弱く脆いのに、儚く容易く消えてしまうのに、時に条理さえ覆す。どうしてでしょうか」


 秋津の三代目は友の為に当然の如く命を懸けた。

 大正の頃に出会ったキネマ館の少年は、何の力もないのに意地だけで南雲の当主へ立ち向かった。

 華族の娘は年老いて尚思い出の場所を守り続けている。

 そして今、桃恵萌は己が在り方を此処に貫き通した。

 百年も経てば消える命がどうしてこうも強いのか、永くを生きる鬼には理解ができない。

 けれどほんの少し羨ましくも思う。向日葵は眩しさを堪えるように、そっと目を細めた。


「それは、どうも。次はあんた?」

「そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。鈴蘭がいない今、私に戦う手段はありません」


 嫋やかな微笑は言葉以上にそれが真実だと語る。

 実際に観察して分かった。向日葵はマガツメの長女ではあるが戦闘能力は皆無、有する<力>も視認に傾倒したものである為戦力にはならない。

 はっきり言ってしまうと彼女は見た目通りの普通の小さな女の子でしかないのである。


「どうします? 私のことも、葬りますか?」


 だというのに向日葵は抵抗せず逃げようともしない。今の萌でも対処は十分にできるだろう。

 マガツメの長女。言ってみれば悪の四天王の筆頭とか、そんな立ち位置だと萌は判断する。討てるなら討つに越したことはない。


「……あー、やめとく」


 けれど萌はそうせず、敵意がないと示すようにごろんと床へ寝転んだ。

 鈴蘭は赤子を喰らい、代わりに人の複製を生み出す。放置するには危険だし、明確な自我がなく楽だった。

 けれど向日葵は単体では危険がなく、甚夜とも親しいし、できれば命までは奪いたくない。

 勿論ムカついてはいるので横っ面をひっぱたくくらいはしたいが、今の体力ではそれも厳しい。


「いいんですか?」

「甚が勝ったら改めてあんたにもお仕置きするから別にいい」


 どうせマガツメの願いは叶わない、勝つのは甚夜だと萌は疑っていない。

 鈴蘭は兎も角、戦闘能力のない向日葵を生かすデメリットはそんなにない筈だ。


「それに、あんたにも役割があるんなら、今は死にたくないでしょ?」

「え?」

「だからさ、鈴蘭の最後の役目が“マガツメの勝った後の話”なら、向日葵の最後の役目は“甚が勝った後の話”じゃないの? だったらあんまり危険でもなさそうだし、寧ろ甚の為になりそうな感じ?」


 その発言に向日葵は驚かされる。

 桃恵萌は決して頭がよくないし、そもそもあまり深く考えない。

 だから時折、本人も意識せずに、なんでもないことのように核心を突く。

 他の可能性も沢山あるのにそれを考えず、ピンポイントで正解を射抜くのはちょっとした才能だろう。


「実は秋津さんって、すごい人ですね」

「へ? なにが?」


 勿論萌自身はよく分かっていないから、褒め言葉もあまり響かない。

 そんな少女の不思議顔が妙に可愛らしく思えて、向日葵はにこにこと楽しそうにしている。


「貴女の言う通りです。私の役目は最後の最後、おじさまが勝った時に。どう転がるかは分かりませんが、結末をここで待ちましょう」

「そうしてくれると助かるわ」


 教室からは赤い月がよく見える。

 おそらく今頃校庭では苛烈な戦いが繰り広げられていることだろう。

 けれど助けにはいかない。彼が信じれくれたように、彼女もまた勝利を信じる。

 為すべきは為した。後は待てばいい。

 当たり前のように訪れる、彼の望む最上の結末を。






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