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『泥中之蓮』・1



 ──雨……強くなってきたな。

 ──うん……。

 ──鈴音、ごめんな。何も出来なくて。

 ──ううん、大丈夫。にいちゃんが一緒にいてくれるなら、それでいいの。




 歳月を重ねれば記憶も薄れる。

 ただあの夜、雨が降っていたことだけは今も覚えている。

 何もできなくて、でも妹は傍にいてくれればそれで嬉しいのだと言った。

 降り頻る雨の冷たさと繋いだ手の暖かさ。

 いつか、無邪気な笑顔に救われた。

 心からあの子の兄でいたいと願った。

 そんなこともあったという、遠い遠い昔の話。






 鬼人幻燈抄『泥中之蓮』






 ふと過った面影が重なることはない。

 それほどまでにマガツメは変わり果ててしまった。

 同時に、彼もまた変わり過ぎてしまったのかもしれない。

 憎しみに身を窶した日々は遥か遠く、胸にはかつてとは違う暖かさが宿った。

 もはや甚夜はマガツメへの、鈴音への憎悪の為だけには生きられない。その時点で両者は致命的に在り方を違えていた。


『あ、あ。もうすぐ、もう、すぐ…だから……』


 それにさえマガツメは気付けていない。

 彼女はただ遠い遠い昔の話に固執をする。

 懐かしい葛野の地で兄と過ごした日々。白雪と一緒に甚太を振り回して、当たり前のように甘えて。磯部餅をみんなで食べて、馬鹿みたいに笑って。

 確かに在った筈の幸福な過去を求めて、只管に手を伸ばす。


『邪魔を、するなぁ……』


 その為には眼前に立つ青年を兄と理解しながらも、なんの躊躇いもなく牙を剥く。

 疾走という表現ではまだ生温い。体術を修めず身体能力に飽かし、それでいて瞬きの間に距離をゼロとする異常な挙動。

 マガツメにとってあの動きは平時の歩行と何ら変わらず、だからこそ読みにくい。

 例えるなら猫の一足、海月の遊泳、風に揺れる蒲公英の綿毛。技がないから型がなく、ごく自然な踏み込みには余計な力みもない。修練ではなく生物としての絶対的な格差が生む出す天然の無拍子だ。


 ふわり、風が舞ったような。

 一瞬たりとも目は逸らさず、だというのにマガツメの姿が視界から消える。気付いた時には既に間合いの内、側面に回り甚夜の頭蓋を抉ろうと鋭い爪が繰り出された。

 視認できないほどの速度で放たれる死角からの一撃は、明らかに以前とは違う。兄を想いながら兄の為に兄を殺す。支離滅裂でありながらまっすぐな意思がそこにはあり、故に躊躇いは微塵もなく鋭い殺意は突き立てられる。


「久しぶりの再会だというのに、随分せっかちじゃないか」


 動揺はない。生半な使い手ならば何が起こったか理解する前に絶命させる、そういう一手を振り返りもせず愛刀で防ぐ。

<合一>、<剛力><疾駆><御影>三種同時行使。

 己の意思で規格外の膂力と速度を完全に掌握、長時間そのままの状態を維持する。

 体への負担など今はどうでもいい。流れた空気と僅かな気配だけを頼りに、甚夜は突き付けられる爪を一歩も動かずに受け止めてみせた。


「だがこの命、そう易々とくれてはやれないな。……お前と向き合う為に、やれることはやってきたつもりだ」


 マガツメと対峙する為に。彼女の想いを真っ向から受ける止める為に、百七十年をかけた。

 間違えて、失って。その度に小さな何かを手に入れて。無様でも不器用でも抱いた答えがあった。

 ならば後はそれをここに知らしめるのみ。

 始まりより遥かに遠く、辿り着いたこの場所で。

 かつての想いにけじめをつけよう。


「どうせ真面に話を聞く気はなかろう。恨みもある、痛手は覚悟してもらうぞ」


 左足を軸に最短距離でマガツメに向き合い、しかしやはり速い。甚夜が次の行動へ出る前に、既に彼女は距離を開けようと退く。

 だが追い縋れる。

 一息で間合いを踏み潰し、力任せに顔面を殴り付ける。

 それがマガツメにはちゃんと見えていた。

 甚夜の動きを読んだのではない。不意打ちを、不意を打たれてから反応して避ける。それを可能とする、圧倒的なまでの基礎値の高さ。マガツメは上、甚夜は下。百七十年経ってもその力関係は変わっていない。


 ───あまり、舐めてくれるな。


 だが、その差を埋める為に足掻いてきた。

 <疾駆>、連動する全身の速度を瞬発的に引き上げ、振るう拳は急激に加速する。それがマガツメの反応を上回った。

 頬へと突き刺さり、まだ終わらない。いつきひめが守り、集落の長から託された、半生を共にした愛刀。夜来を左逆手、殴り付けた右手を引き、その勢いで一気に斬り上げる。

 いくら身体能力が高くても、崩れた態勢では反応が遅れる。

 練り上げた力を余すことなく乗せた一刀だ、鈍色の刃はマガツメの肉を裂き、傷口から赤黒い液体が滴り落ちた。


『ぎっ、ぎぃ』


 唇から漏れる吐息はその容貌も相まって虫の鳴声を想起させた。

 甚夜に出来たのはそこまで。マガツメは乱雑に右腕を振り回し、僅かに踏み込みを阻害されれば、その一瞬で後退する。

 微かに奥歯を噛む。折角あちらから間合いを詰めてくれたのに、機をものに出来なかったのは痛かった。

 事実マガツメは、こちらの意図を読んだ訳ではなかろうし真面な判断力など残っているとも思えないが、二度目は不用意に踏み込もうとはしなかった。


「すっごい! いい感じじゃん!」


 それでも今の一合に限れば優勢は明らかに甚夜。鬼神と謳われる怪異と対等に渡り合って見せた彼に、萌は全身で喜びを表現していた。

 だが当の本人は油断せずにマガツメを注視する。確かに手傷は負わせたが、あの程度では意味がない。それを経験として知っていた。


「このままなら、ってあれ……なん、で」


 はしゃいでいた萌もまた気付いたらしい。

 喜色に満ちていた顔は戸惑いに代わる。手傷を負わせた、この調子でいけば勝利はこちらに傾く。

 そう思っていたのに、改めてみたマガツメは平然としている。

<疾駆><剛力>、合成した<力>を込めて振るわれた拳が真面に入った顔面。

 練り上げた技を以って繰り出された太刀に切り裂かれた体。

 致命傷とはいかないまでも決して浅くない傷だった。そのどちらもが、ほんの一瞬目を離したうちに、完全に消え去っていた。


『<まほろば>』


 短く呟いた声は、あれだけ喜色の悪い容姿をしているというのに、鈴の音のように涼やかでさえある。

 あれがマガツメの<力>。

 秋津の名を紡ぐものとして、ある程度は萌もその概要を聞いている。


「マガツメの<力>……虫の腕と異常な、回復?」

「いいや、違う」


 甚夜はそれを冷静に否定する。

 確かに三代目秋津染吾郎はマガツメと対峙した時、虫の腕と異常な回復能力を見た。 しかしそれは表に出た形でしかない。


「あれは<まほろば>。マガツメの、心から望みながらも後一歩届かぬ願いの成就」


 虫の腕は散々に心を切り捨て結果残ってしまった憎しみの象徴。

 そして異常な回復能力は、本質的には治癒でも再生でもない。

 あれは、彼女の願いの形。


「その本質は“時間の逆行”。自他の時間を巻き戻して、元通りにする。傷を負う前に、成長する前に、壊れてしまう前に。それがあいつの願いだ」


 回復も赤ん坊も結果が違うだけで同質の現象。

 マガツメの能力は時間の逆行。自身の時間を巻き戻せば負った傷が治り、他者の時間を巻き戻せば行き着くのは生まれたばかりの赤子になる。

 死なないし、一撃で殺せる。

 その<力>がどのような願いに起因するかなど、敢えて語る必要もなかった。


「近付くなよ。触れられればそこで終わりだ」

「でも、甚は?」

「私なら問題ない」


 答えには強がりでなく絶対の確信がある。

 理由は分からないが、彼がそう言うのならきっと間違いないだろう。安心した萌がほっと息を吐く。

 その時には、甚夜は既に動いている。

<まほろば>は厄介、いくら傷を与えても無意味だが、まずは近寄らなければお話にならない。

 しかし易々と近寄らせてくれるほど甘い相手でもない。

 振り上げられる右腕。

 深緑に変色した皮膚を食い破り、外骨格と歩脚が生えた異形の腕。例えるならは芋虫と百足の混合だろうか。目を背けたくなる程に気色の悪いそれは、波打つように躍動しながら著しく体長を伸ばし甚夜へと襲い掛かった。


「っ」


 疾走はそこで止められた。

 ぎちぎちと不快な音を立てながら突進する害虫は、鈍重そうな外観とは裏腹に規格外の速度と威力を誇る。

 無理矢理に引き上げた身体能力を用い、尚も真面には防ぎきれない。態勢を低くし下から掬い上げるように逸らすのが精々だ。

 けれど異形の腕はそれ自体が生きているように絶え間なく責め立てる。

 重い、速い。単純な力による攻めは、単純だからこそ対処し辛い。

 一撃一撃が必殺、にも拘らず尋常ではない回転率。僅かでも気を抜けばこちらの方こそ虫のように叩き潰される。

 甚夜は意識を研ぎ澄まし、直撃を避け夜来で受け流し、マガツメの猛攻をどうにか凌ぐ。

 一際大きく虫の腕が躍動する。それを逸らすと同時に一歩を踏み込み、次が来るより早く足を進める。





 そういう瞬間を狙い澄まして、背後から忍び寄る白い腕。

 闇から浮かび上がるように姿を現したのは、目も鼻も口もない無貌の異形だ。

 マガツメの末妹、鈴蘭は意識をマガツメにのみ傾けていた甚夜の無防備な背後へ、鞭のように腕をしならせる。


「させないっての!」


 その一撃を迎え撃つ。

 向日葵は心情では甚夜に肩入れしている。だとしてもマガツメの不利になるような真似は決してしない。

 ならば当然鈴蘭も目的の弊害を取り除こうと動く。

 不意打ちは端から予想済み。故に僅かな動揺もなく、萌は冷静に奇襲へ応じる。

 鍾馗の短剣を振るえば、暴れ狂う髭面の大鬼。三代目秋津染吾郎の生み出した秋津の至宝だ。

 厄病を払い、鬼を討つ鬼神。マガツメの眷属を相手取るには似合いの付喪神だろう。


「助かる」

「どーいたまして。てかさ、ちゃんと反応しようよ。来てたの分かってたっしょ?」


 互いに攻撃を捌きながら、それでも軽口を叩く。

 背後を守ってくれる誰かがいる。その事実に安堵を感じ、死の危機に晒されながらも会話できるくらいのゆとりが生まれた。


「そこまでの余裕はないんだ。悪いが一切合切君に任せる。頼むぞ、その結果如何によって私は簡単に死ぬ」

「いや、そんな自信マンマンに言われても。でもまぁ」


 嬉しくはあるかな、と萌は思ってしまう。

 甚夜が口にしたのは紛れもない事実だ。マガツメを相手に余所見する余裕はない。ましてや鈴蘭を同時に対処するなどいくら彼でも不可能だろう。

 だから最初から決めていた。甚夜はマガツメ、萌が他全部。大雑把すぎるが現状最も合理的な手段でもある。

 そして背後から近付く鈴蘭に気付きながら何の反応も見せなかったのは、僅かでも意識を逸らせばその時点で終わるから。なにより、萌ならば背中を守り切ってくれると信じていたからだ。

 その信頼が嬉しい。

 背中を、命を、男の意地を守ってくれと願われた。それに足る女だと見込まれた。

 女冥利に尽きるというものではないか。


「ってことで、任されたっ!」


 横薙ぎに放たれる鍾馗の一撃、鈴蘭は身を固めて防ぐも衝撃に吹き飛ばされる。

 ガラス窓を突き破り校舎の中へ。狙い通り、萌はにっかりと笑って見せる。

 大半の鬼には攻め込んでくる気配はない。大方甚夜とマガツメの決着を見極めようとしているのだろう。

 だが全てという訳にもいかない。鬼のうち幾体かは、マガツメの邪魔をしない為か、甚夜を無視して萌へのみ襲い掛かった。

 

「おいで、犬神」


 犬神を放ち牽制しつつ、すぐさま鈴蘭を追い校舎へと駆け出せば、鬼も怒号と共に押し寄せる。

 幸いだ。こちらに集中してくれるのなら手間が省ける。

 抑えなくてはいけないのは向日葵と鈴蘭、高位の鬼が十数匹に、後は産み出された下位の鬼くらい。

 その全てを叩き潰すだけ。

 甚夜に声はかけない。これ以上彼の意識を他事に割かせる訳にはいかない。身を案じればこそ今は余計なことを言わず、己が為すべきを為す。


「……有り難い」


 本当に、私はよき友を得た。

 萌の心遣いを悟り、ふと緩む口元。それがマガツメには不快だったのかもしれない。


『…<地縛>……』


 追撃は止まない。

 虚空から現れた鎖は縦横無尽に宙を走る。

 いや、鎖ではない。また虫だ。尋常ではない体長を誇る大百足おおむかでが四肢を絡めとろうと鎌首をもたげる。

 こいつはまずい。

 甚夜は四本の鎖を具現化し操ることしかできないが、<地縛>は本来『鎖一本に付き何か一つを制限する<力>』。マガツメが娘達の<力>を十全に使えるのだとすれば、触れられただけで全てが終わってしまう。

 一斉に降り注ぐ大百足、嫌悪感を催す光景だ。<地縛>、<織女>同時行使。鎖と瘴気の鞭でそれを迎撃し、だが異形の右腕による攻めも続いている。


「ぬ、ぐぅっ」


 意識せず苦悶の声が漏れる。

 膂力や<力>の練度ならば土浦。岡田貴一の技は他の追随を許さない。魂をストックし何度殺しても死なない南雲叡善に呪詛の具現たる“かんかんだら”。

 難敵なら今迄幾度も相手取ってきた。しかしマガツメは誰とも違う。

 あれは、ただ強い。

 厄介な<力>、異形の腕、技がないからこその自然体の無拍子、壊れた心故の躊躇いのなさ。強さの理屈なら幾つもある。

 だがそんなものはどうでもよくなるくらいに、マガツメはそもそもの地力が違う。

 強いから強い。努力でも才能でもなく、強く生まれてきたから強い。彼女の存在はあまりに理不尽な、覆しようもない真理の暴力である。


 問題はない。

 初めから分かっていた筈だろう、今更何を怯むことがある。

 その程度で膝をつくならば此処に至りはしなかった。無理無茶無謀、全て承知の上。窮地も苦難も上等、願いがあるならば乗り越えるまでだ。


“何度も繰り返すけど、最後の最後で母さんを止められるのは、あんたしかいない。それを忘れちゃ駄目だよ”


 かつて鳩の町の娼婦に言われた言葉を思い出す。

 マガツメの目的は知っていた。彼女の<力>が何を意味するかも。

 心情的にも能力的にも、止められるのは甚夜しかいないということも。


「ああ、分かっているよ……七緒」


 何一つ分からなかった。

 何もかも失い、憎しみだけが残り。

 鬼神を止めねばと思いながらも、斬るかどうかさえ決められず。

 マガツメと、鈴音と再び出会った時、どうすればいいのか。

 憎悪の行方も、何故刀を振るうのか。何一つ分からないまま故郷を離れた。

 けれど今は違う。

 甚夜は津波のように押し寄せる猛攻を退けながら、決意を新たにする。

 答えは胸に。此処に、原初の想いと重ねた歳月に決着をつけよう。






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