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『マガツメ』・7(了)




 岡田貴一の過去を語る意味はない。

 その歩みはあまりにも単純で、語ったところでどうにもならない。

 武士に生まれたから刀を与えられた。

 刀を与えられたから剣術を学んだ。

 剣術を学んだから人を斬った。

 本当にただそれだけ。悲劇も狂気もなく、貴一は当たり前のように人斬りへと身を落とした。

 けれど彼は殺人に快楽を見出すことのない、極めてまっとうな精神の持ち主である。

 それでも斬るに拘ったのは、善悪よりも清濁で物事を判断するからだろう。





 例えば、苦悶に蹲る者へ手を差し伸べること。

 見返りなど求めず、周囲の評価など気にも留めず、純粋に相手を慮り助けたいと願い行動すること。

 これを岡田貴一は尊いと感じる。

 人を助けることが、ではない。

 助けたいから躊躇いなく助ける。余計な思惑に振り回されず、ただ己が願いに全霊を傾ける。そういう心の在り方をこそ貴一は尊ぶ。

 嘘偽りも打算もない、混じり気のない善意は彼がもっとも好むものの一つである。


 混じり気のない善意は言うなれば澄んだ水で造った酒の旨さ、不純物のない鉄の頑強さだ。

 余計なものがない、だからこそ見る者の心を打つ。

 逆に人を助ける行為がどれだけ素晴らしくても、金の為だの名誉の為だのと思惑がそこに混じれば薄汚い偽善へ成り下がってしまう。

 余分は価値を貶める。

 ならば、それは刀にも同じことが言えるではないか。


“大切な人を守る”“復讐だ”“正義を貫く”“夢を叶える”。


 まこと、濁っておる。

 そのような余分を乗せるから刀は鈍る。

 刀は人を斬るもの、斬ってこそ刀だ。

 ならば忠義や名誉、信念に尊厳、道徳や倫理。刀を鈍らせる全ては余分に過ぎぬ。

 なにかの為に振るう刀はつまり、下心を隠して差し伸べる救いの手に等しい。

 二心のない善意のように、何の目論見もなく人を斬る剣こそがなによりも清廉。 

 剣とは斬る為に斬り、只管に斬るを楽しむべきなのだ。


 いくら華美に飾り立てたとて潤色は醜く、しかしどういう訳か現世はその手のもので溢れている。

 それを悪いとは思わない。澄んだ酒が旨いように、濁ったどぶろくにも味がある。どこぞの夜叉のように濁った在り方を答えとする者もいるだろう。

 ただ彼にはそれを是とできなかったというだけの話。

 だから岡田貴一はただ斬ることにのみ拘った。


 願ったのはただ一つ。剣に生きるということ。

 刀は人を斬る為に造られた。ならばこそ斬る。

 剣術はより上手く人を斬る為に生まれた術。ならばこそ斬る。

 人であれ鬼であれ、武士であろうと町人であろうと、女子共であったとしても関係ない。

 己が剣であるならば、ただ斬る。

 倫理道徳を排した、その真理こそが岡田貴一の全て。

 刀を手に迷うなどあってはならない。

 余分に濁り惑う心が、彼にはどうしても無様と思えてならなかった。




 ◆




「何故だ」


 脇構え。甚夜が最も得意とする構えである。

 油断なく神経を研ぎ澄ませ、けれど彼は僅かに表情を歪める。


「お前にとって刀がどれだけ重いかは、その深さを理解できなくとも知ってはいるつもりだ。答えを見出そうとする心も分らんではない。だが何故今でなくてはいけない?」


 剣に至る、それが岡田貴一の全てと知っている。

 だとしても、どうして今なのか。

 マガツメが動き、古き鬼どもが跋扈する夜。甚夜の望みを知って、何故態々この夜を選び立ち塞がるのか。

 そこに怒りはない。ただ純粋な疑問を貴一にぶつける。


「今だからこそよ。平時に挑めばぬしは立ち合いを避ける。よしんば応じたところで策を巡らせ仕込みに仕込み、互いに命を落とさぬよう、手打ちとなる落としどころを探る。勝ったとて“以前の借りを返す”とでも言って命まで奪うことはすまい。それでは儂の望みには届かぬ」


 否定はできなかった。

 以前ならともかく貴一には随分と世話になった。真っ向から敵として斬り結ぶには、多少距離が近づきすぎた。

 奴の言う通り、もし平時に挑まれればおそらく戦いを避ける。

 それでは貴一の望みは叶わないのだ。


「が、後に鬼神が控えておる今ならばその余裕はあるまい。かっ、かかっ。さて、どうする。時間はない。儂を打ち破らねば、全ては手遅れとなるぞ」


 加減も躊躇も入り込まぬ、真っ向からの命の取り合い。

 その果てにこそ求めた答えがある。

 貴一は決して揺らがず、いくら説き伏せようとしても無駄。そも言葉程度で己を曲げられる男ならばここで立ち塞がりはしなかった。


「……そうか」


 甚夜は夜来の柄をしっかりと握り直す。

 今は問答する時間も惜しいし、なによりこれ以上続けても意味がない。

 結局奴と語らうには剣を見せるしかない。初めから分かり切っていたことだ、納得するまでに然程もかからなかった。


「ならば遠慮はしない。己が意を通すだけだ」


 迷いはない。全霊を以って応じるのみ。

 甚夜の気迫を心地よさげに受け、貴一が返すのは刃。

 淀みない重心の移動が生み出す、一歩目より最速に到達する疾走。頭部は殆ど揺らさない、呆れるほどに卓越した歩法が実際の速度よりもその進軍を速く見せる。

 勢いを殺さず繰り出したのは紫電の刺突。様子見なぞ考えてもいない。瞬きの間に臓腑を貫く確殺の一手だ。

 それが滑らかに、初めからそうであったかのように翻る。

 甚夜が初手の突きに反応した刹那軌道は可変し、切っ先は空気を滑り頭蓋へと向けられた。


 差し迫る死を前にして頭は冷えている。

 脇構えから腕をたたみ、肘を起点に最短で振るう。同時に右斜め前へ大きく踏み込み、足の位置が決まると同時に体を回す。

 刺突を防ぐのではない。刀の腹に夜来を添わせ、ほんの僅か逸らせれば十分。頭蓋を狙う切っ先を逸らし体を捌き。

 が、貴一の刃は更に翻る。突きはそのまま流れるように袈裟懸けへ。

 相も変わらず尋常ではない、滑らかすぎて怖気が走る挙動。いや、以前よりも練磨された業は、死地なぞ数え切れぬほど乗り越えてきた甚夜をして背筋が凍る。


 だがまだ付いていける。

 袈裟懸けに刃を合わせ鍔迫り合いに持ち込もうとするが、一瞬たりとも奴は止まらない。甚夜の刀をかち上げ半歩退き、生じた隙間を埋め尽くすように幾重も太刀が振るわれる。

 ひゅぅ、と風を薙ぐ音。刀が夜に白線を描く。眼前で繰り広げられる光景は、苛烈でありながらどこか静かで流麗。

 ぞっとするほど恐ろしいのに、一切の無駄を削ぎ落とした岡田貴一の剣は、ともすれば見惚れてしまいそうになるくらい美しい。


「ぬ、おぉ!」


 それでも、付いていけるのだ。

 短く荒々しい呼気。颶風を思わせる激しい剣戟は、襲い来る死の悉くを叩き落す。

 かつては翻弄されるだけだった。けれど積み上げた歳月がここまで甚夜の剣を押し上げた。

 流麗とは言い難いが無駄なく力強く、技巧では届かぬとしても喰らい付くことはできる。

 此処に至り二つの剣は拮抗し、だが両者は決定的に違った。

 鍛えた刃に余計な感情を乗せ、惑いに切れ味を鈍らせる。

 弱く無様な、その在り方をこそ誇る、甚夜の剣はそういうもの。互角の攻防を繰り広げても、本質的に岡田貴一のそれとは異なる。

 只管に剣で在ろうとした男からすれば、斬れぬを誇る刀など濁り切って見えていることだろう。


 甲高く鉄が鳴く。

 数多の剣戟を防ぎ、最後に一際大きく刀が交錯し、弾かれるように甚夜は退いた。

 距離が空き、追撃はない。これ幸いと肺に溜まった熱を吐き出す。

 瞬間の拮抗は保てても、剣の腕だけならばやはりあちらに分がある。甚夜にとっては綱渡りのような斬り合いだったが、奴は汗を流すどころか息一つ乱さず、悠々とした振る舞いは崩れない。


「……見事」


 しかし岡田喜一は血生臭い笑みで心からの称賛を贈る。

 久々に剣を見た。漏れた呟きには感慨さえ宿っていた。


「ぬしは強い。濁りきったまま、よくぞそこまで突き詰めた」

「逆だ。余分を背負い私は弱くなった。……が、だからこそ張れる我もあるだろうよ」

「かっ、かかっ。言いおるわ」


 ゆらり、甚夜の体が揺れたかと思えば、既に距離は詰まっている。

 唐竹。容易に受け流され、しかし狙い通りだ。

 初太刀は囮。<合一>、<剛力><疾駆><御影>同時行使。

 底上げした身体能力で正面からの不意打ち、逆袈裟、一気に斬り上げる。

 しかし貴一は僅かも動揺を見せない。

 あまりの速さに霞む刃が斬ったのは空のみ。奴は一寸にも満たぬ距離を完全に見切り、僅かに上体を傾けるだけで甚夜の渾身を躱して見せる。

“太刀風三寸にて身をかわし”は武芸物の講談のお決まりではあるが、人智など軽く超えた速度の立ち合いでそれを体現するとは。卓越し隔絶した技量に、感嘆よりも呆れが先に来てしまう


「中々に驚かせてくれる」

「造作もなく避けておいてよく言う」


 命の取り合いをしながら、心底嬉しそうに貴一は笑う。

 その気持ちが分かってしまう。

 形は違えど甚夜もまた刀に拘った男の一人。

 只管に振るい、半生を費やし。流れ往く時代に半身を奪われ、魂を無価値と断じられた。

 かつて全てと信じた刀は平成の世においてもはや必要とされず、けれどこの男の前でだけは懐かしい重さを取り戻す。

 その事実にほんの僅か心が浮き立つ。

 友人でも仲間でもないが。

 岡田貴一は、誰にも理解されぬ郷愁を分かち合える数少ない同胞なのだ。


「楽しいなぁ、夜叉よ」


 奴もまた同じことを思っているのだろう。

 それを伝えるかのように、翻る刀が饒舌に語る。

 一息で踏み込み、放たれる殺意の籠る刃。全身が泡立つほど恐ろしく、見惚れるほどに美しく。

 心の何処か、忘れていた何かが、刀が認められる今を楽しいと囁いている。


「……ああ、そうだな」


 刀が魂ならば斬り結ぶは想いの測り合い。

 言葉にせずとも合わせた刃から甚夜は貴一の心、その奥底を百余年経てようやく理解する。

 此処には在り方を濁らせる余分なぞ何一つなく、ただ刀と刀がある。

 マガツメのことも今はどうでもいい。

 二匹の鬼は鍛え上げた剣を、練磨し続けた魂を、歩んできた道程を。

 まるで大好きな玩具を自慢する子供のように見せつけ合う。

 刀を振るう為に刀を振るい、斬る為に斬る。

 怒りも憎しみもなく、己の存在を証明するが如く、ただ全霊を一太刀に寄せる。

 くだらない意地、機能としての憎悪、惑い揺らめく復讐。余計な不純物を削ぎ落とし、ただ濁りない殺意のままに振るわれる刀のなんと美しいことか。

 己の全てが剣の為に在る。

 この瞬間をこそ、岡田貴一は“剣に至る”と呼んだのだろう。




 そして、その美しさを知るからこそ、濁りの価値を知りながらも彼には認められなかった。

 藤堂芳彦やその子孫、姫川みやか。澄んだ心根を持ちながらも無力に嘆く者達の為振るう刀が。

 それを悪くないと思ってしまった、重ねた歳月に少しずつ濁っていく己が、貴一にはどうしようもなく醜く感じられた。


「だが、いつまでもこのままという訳にもいくまい」


 楽しい時間というのは早く過ぎてしまう。

 甚夜は一度退き距離を開け、構えるは再び脇構え。

 重心は引き足にかけられている。ゆっくりと呼吸を整え、腰を落とし。切っ先にまで神経が通う、そうと錯覚するほどに刀へ意識を傾ける。


「岡田貴一。いつか預かった命、濁りの果てに得たもの。歩んできた道程の全て、この一刀を以って示す」


 互いの望みは完全に一致した。

 同じく剣に身を窶しながら甚夜と貴一は相反し、そのどちらもが時代に不要と断じられた。


「だから、削ぎ落とした果てに得た全てを見せてくれ。……現代に生きる、ただ一人の同胞よ」


 ならば此処で答えを出さねばならぬ。

 清く澄んだ剣で在ろうとした人斬り、濁り刃を曇らせ尚も足掻き続ける夜叉。

 剣を必要とせぬ平成の世だからこそ、清濁どちらが正しかったのかを、振るい続けた刀の価値を。

 今一度剣の意味を問わねばならぬのだ。


「同胞、か。捨て切れず尚も拘って。成程、言いえて妙だ。所詮我らは同じ穴の貉であったのやもしれぬ」

「ああ、だからこそ」

「然り。儂もまた剣を以って示そう」


 そっと風が吹き抜けて、頬を撫ぜて何処かへ消える。

 その程度で熱は冷めやらず、言葉は要らず。

 岡田貴一は刀を振るう為に刀を振るい、斬る為に斬る。




 ───ならば、それに応えるには。




 張り詰めた空気にきぃん、と耳鳴りがする。

 隙を見せればすぐさま首が落ちる。そうと知りながら、何故だろうか、心はひどく穏やかだ。

 向けられる殺気が心地よくさえある。

 ああ、それでも、終わりは訪れ。

 耳鳴りが止み、無音となった夜に、刀が二つ。


 合図となる変化はなかった。

 だというのに、まるで打ち合わせでもしていたかのように、互いに動き出したのは全くの同時。

 

 距離が詰まる。

 変形の正眼から流れるように袈裟懸けへ。二段目の変化はない、彼奴の一刀には文字通り全てが籠っている。

 対する甚夜は脇構えから更に腰を沈め、鏡合わせの逆袈裟。

 しかし刀を後ろに回している分、技の出は同時でも一手遅れる。

 承知の上だ。不利などとのたまうつもりはない。

 左足はしっかりと地面を噛んでいる。踏み込んだ右足、腰の回転。更に肩から腕、刀へと。全身の連動で練り上げた力を余すことなく乗せる。

 貴一は血生臭い笑みを浮かべた。

 夜叉の太刀は速度で上回る為のものではない。こちらに斬られるのは端から織り込み済み。

 ならば肉を切らせ骨も半ば断たせ、引き換えに骨肉どころか魂ごと切り裂く、そういう一刀だ。

 全身に迸る感覚は恐怖か歓喜か。震える心を今は押し込め、二匹の鬼は刃を交わす。

 そこに優劣はない。

 どちらの身体能力が上か、技巧が勝るか。そんなものは問題にもならない。

<合一>で底上げした疾走も、百を超える歳月磨き続けた人斬りの技も、所詮は添え物だ。

 両者を隔てるは在り方。

 ならば最後の最後を分かつのも。


「――――――っ!」


 言葉にならない雄叫びを上げ、二匹の鬼が交錯する。

 駆け抜け、足を止め、再び静まり返ったように立ち止まる。


「ぐっ……!」


 遅れて舞う鮮血。

 両者を隔てるが在り方ならば決着もまた在り方故に。

 最後の最後を分かつのも、刀を以って示した答えに他ならない。


「……ふむ」


 無駄を削ぎ落とした貴一の袈裟懸けは、甚夜の胸元を大きく裂いた。

 てらてらと血に濡れる刀身を眺め、静かに息を吐く。かつての立ち合いでは甚夜が膝をついた。

 しかし此度は皮膚を裂き肉を斬れど骨にも臓腑にも届かず。

 対して甚夜の剣は、同じく貴一の胸元を斬る。ただし骨肉どころか薄皮一枚が精々、ほのかに血が滲む程度。

 此処に、勝敗は決する。


「儂の、負けか」


 満ち足りた表情で息を吐き。

 岡田貴一は呆気ないくらい潔く、敗北を認めた。








「剣の勝負とは即ち命の奪い合い。互いに生きているならば、勝ちも負けもない。お前の言葉だった筈だが?」


 肉を斬られ血も流したが動けなくなるほどではない。

 甚夜は貴一に向き合い、彼自身これを勝利と考えるからこそ、微かに口の端を釣り上げた。


「かっ、かかっ。いかにも。然れどこの一合は答えを示し合った。ならば生き死に以外の決着もあろうて」


 夜叉の太刀を捨て身と判断した。

 斬られるのは端から織り込み済み。

 ならば肉を切らせ骨も半ば断たせ、引き換えに骨肉どころか魂ごと切り裂く、そういう一刀だと。

 しかしそれは読み違えだ。


「儂は斬るべきを斬れなんだ。ぬしは斬らぬを貫いた。言い訳のしようもないわ」


 岡田貴一は刀を振るう為に刀を振るう。

 斬ろうとして、しかし出来ず肉を斬るに留まった。

 甚夜は逆、先の一手は斬る為ではなく斬らぬ為に。

 全身の連動で練り上げた一刀により相手のそれを相殺し、滑らせるように胸元へ。初太刀を防いだ時点で勢いの殆どを失い、皮を斬るしかできないがそれも狙いのうち。

 奇しくも貴一の得意とする二段階の変化、攻防一体の“斬らぬ太刀”であった。

 技巧はあちらに分があり、防ぎきれず自身も裂かれたが目的は達している。

 此度の勝敗を分けるは生死ではなく清濁。

 あらゆるものを削ぎ落とし、ただ斬る為に在った澄んだ剣は斬るべきを斬れず。

 余分を背負い濁り切れ味の鈍った刀は、正しく斬らぬを貫いた。

 紛れもなく、疑いようもなく、軍配は甚夜に上がったのだ。


「なぁ、岡田貴一。やはり私には刀は捨てられず、お前の言う濁りを削ぎ落とすこともできそうにない」


 しかし勝利を手にしながら誇るでもなく、彼は頼りなく言葉を零す。

 心情を素直に吐露するのは岡田貴一がかつての理想だったから。

 一つに専心し、他の全てを切り捨て。あまりにも純粋なその在り方に、心底憧れていた。

 結局彼のようには生きられなかったけれど。

 遠い昔、そう在りたいと願ったこともあった。


「私は弱くなった、きっといつか背負ったものの重さに潰れる日が来るのだろう。だがそれも本望だ。濁り曇り余分に惑い切れ味の鈍った刀だが、おかげで斬らずに済んだものもある。……ならば時代に必要とされなくとも、斬るべきを斬れぬ無様な剣でも。そこに意味はあると自惚れられる」


 けれど今は余分を背負い濁った在り方こそが誇らしい。

 あの“斬らぬ太刀”が、預けられた命で見せられる全霊。


「濁った剣の描く景色も、そう悪いものではないよ」


 濁りの果てに辿り着いた甚夜の答えが、どのように伝わったのかは分からない。

 貴一はただ血の滴る刀身を見つめるのみで、その胸中を窺い知ることはできなかった。


「結局、ぬしの答えは変わらぬか。まこと、濁った男よの」

「それもいいさ。……お前はどうだ、その剣に意味は見出せたか」


 いつか貴一が口にした問いを今度はそのまま彼へ投げかける。

 返ってきたのは微かな自嘲と、尚も揺らがぬ堂々とした言葉だ。


「さて、ぬしに敗北すれば濁りを受け入れるやもと思うたが。所詮は同じ穴の狢、今更生き方は捨てられぬ」

「では」

「やはり答えなぞ易々と変わるものではないな。濁りを削ぎ落としただ剣に至る、もとよりその為の命よ。平成の世が剣を不要と断じるならば、時代に取り残された人斬りのまま生涯を閉じるとしよう」


 それだけ残し貴一は踵を返す。

 去っていく姿に陰りはなく、その歩みに迷いはない。

 本当は答えなど変わらないと知っていたのかもしれない。だとしても、散々剣に拘ったからこそ、流されるままではいられなかった。

 けれど生き方は変わらず、岡田貴一は剣に生きて剣に死ぬ。

 時代に無価値と断じられ、尚も彼は剣として在るのだろう。

 所詮は同じ穴の狢。甚夜も貴一も結局は刀を捨てられず、言い知れぬ寂寞を抱えたままこれからを歩んでいく。 


「一つ、聞かせてくれ。お前にも<力>はあるのだろう。何故使わなかった?」


 小さくなる背中に問いかける。

 立ち合いにおいて貴一は剣のみで戦った。最後まで有するであろう<力>を振るうことはなかった。

 何故、奴は全力を尽くさなかったのか。 


「おお、忘れておったわ」


 演技じみた、いかにもな戯言だ。

 貴一はそれ以上何も言わず、立ち止まろうともしなかった。

 その後ろ姿に甚夜は思う。

 勝敗を分けたのは清濁とするならば、言うまでもなく甚夜は濁である。だがもしも、ほんの少しではあるが、澄んだ剣にも躊躇いという微かな濁りがあったとすれば。

 天秤が傾いた本当の理由は、奴の剣を僅かながら曇らせた濁りにあったのかもしれない。

 しかし真実を知る術はなく、知ったところで何が変わるという訳でもない。

 結局甚夜は呼び止めることもせずに貴一を見送った。

 夜の街に消えた人斬りの行方は、己の行く末さえ分からぬ夜叉には見通せないままだった。




 ◆




「男の意地を立てるのがイイオンナってのは、分かってるんだけどさぁ」


 ぼやくような物言い、声の調子は呆れ交じりだ。

 刀と刀、時代遅れの決闘の立会人を務めた萌は、その結末に納得がいかないのか微妙な顔をしている。


「でも言わせて。なんていうか、男ってめんどくさい」


 今時の女子高生である萌の感想はそんなもの。

 馬鹿にしているのではない。彼女もまた古き想いを背負った身、命よりも重いもの、どうあっても譲れないものがあるくらい理解している。

 互いの意地を貫き通す戦いに心を震わせたのも認めよう。

 それでも非合理に非合理を重ねた彼らの斬り合いは、差し迫った状況を考えれば、呆れが混じってしまうのも仕方がないことだろう。


「あんだけやり合って答え変わらないんなら意味ないじゃん。ほんとは、話し合いで解決できたんじゃない?」

「はは、そうだな」


 斬り合って誰も死なず、答えも変わらず。

 傍から見れば確かに茶番、話し合いで解決できたという指摘もきっと正しい。

 しかし刀に生きた彼らにはそれを選べなかった。


「だが私達には刀しかなかったんだ。答えを出すのは刀であってほしかった。本当に、儘ならないものだ」


 甚夜は小さく笑みを落とす。

 年若い容貌には似合わぬ静かで達観した目は、どこか寂寥を感じさせる。

 だから萌はそれ以上何も言えなくなった。たとえ無意味であったとしても、あの一瞬は彼らにとって確かに価値があったのだろう。


「意地っ張りの頑固モノー」

「褒め言葉だな。さて、随分足止めを食ってしまった。急ごう」


 話はここまで、二人は再び前を見据える。

 立ち並ぶ葉のない銀杏並木、その先に校門が見える。通い慣れた道も夜の暗がりでは随分と不気味に映る。

 だが臆している暇はない。異形の呻きを払うように駆け抜け、校門を潜り、辿り着いた校庭。

 見回せばいくつもの目。ここもあやかしで溢れている。動こうとしないのは、主が来るのを待っているからだろうか。


「うわぁ、引くぐらい多い……」

「よくもここまで集まったものだ。とりあえず、大人しくしているのだけは幸いか」


 視線の多さにそれだけで圧力を感じる。

 逃れるように見上げれば夜空には赤い月。毒々しいまでの色彩は否応なく不安を掻き立てる。

 赤い月は大気の影響による現象で、朝日や夕日が赤く見えるのと同じ理由だという。単なる自然現象、原理も解明されており、騒ぎ立てるようなものではない。

 しかし今よりも昔、まだ科学の光が夜を照らしていなかった頃、赤い月は不吉の象徴だった。

 現代を生きる萌には、また周囲を埋め尽くす古き鬼には、この月はどのように映っているのだろうか。


「……っ!」


 下らない感傷が過り、しかし凍てつくようなひりつくような、痛みさえ覚える空気の震えに甚夜の全身は強張った。

 感じた熱さは負った傷のせいばかりではない。

 懐かしい気配にどろりと淀む。百七十年の歳月が過ぎ、尚も消えぬ憎悪が己の意思とは関係なしに湧き上がる。

 最早それは感情ではなく機能。愛した筈の妹を憎み鬼と為ったこの身は、憎しみから逃れることは出来ない。

 故に憎悪は胸を焦がし、けれど逸る心には、たぶん別の感情もあった。


「あ、はは。やっば。あたし、震えてる」


 萌もまた近づく気配を感じ取り、小刻みに肩がは震えている。

 怯えではない。心よりも早く、彼女の体が勝手に反応してしまった。

 二人は咄嗟に構え、同じ方向を睨み付ける。

 宵闇に紛れ、ゆらり揺れる影。

 暗がりから浮かび上がるかのように女が姿を現す。

 野放図に伸びた、波打つ眩い金紗の髪。

 年の頃は十六、七といったところか。

 黒衣を纏う女はみやかよりも小柄で、面立ちは未だ幼さを残し。

 けれどその容姿を可愛らしいとも美しいとも思えない。


「これが、マガ、ツメ……」


 か細い声は動揺のせいか、或いは嫌悪か。

 萌は今度こそ怯えに体を震わせた。

 気持ちは分からないでもない。実際甚夜の背中にもぞわりと寒気が走り抜けた。


『ぁ…ぁ……』


 マガツメの喉からかすれた音が漏れる。

 昭和の頃、七緒に聞いた。

 母は散々心を切り捨て、憎しみだけを残したせいで化け物に近づいていると。

 理解しているつもりだった。だがそれでも足らなかった。

 寒気の正体は憎しみではなくおぞましさ。妹の姿を目にした瞬間、憎悪よりも生理的な拒否感が勝った。


「……そうか、お前は」


 お菊虫や平四郎虫。

 憎しみを抱いたまま死んだ者は怨霊となり、更に害虫へと変わる。憎しみが虫に代わるという信仰は、日本に古くから残されている。

 おそらくマガツメの虫の腕はそこに起因する。あれは散々心を切り捨てた結果、残された憎悪の象徴だ。


 だとすれば、こうなるのは当然だったのかもしれない。


 かつての美しい容姿はもはや見る影もない。

 長い髪に隠れているがマガツメの顔の半分は昆虫の複眼で埋め尽くされ、体の至る所から生えた節足がぎちぎちと嫌な音を鳴らす。

 右腕は大百足を思わせ、服の下でも何かが蠢いている。

 けれど残された眼は、確かに甚夜を捉えて。


『ああ、ようやく。願いが、叶う。あなたの。幸せが、すぐそこに』


 壊れたようにケタケタとマガツメは笑い続ける。

 憎しみは消えない。それでも、あまりにも哀れな惨状に甚夜は思わず歯噛みする。


「お前はもう、そんなにも壊れてしまっていたのか……」









 百七十年後、妹は全ての人を滅ぼす災厄になる。

 兄は長い時を越えて妹の元まで辿り着く。

 そして兄妹は、葛野の地で再び殺し合い。

 その果てに、永久に闇を統べる王が、あやかしを守り慈しむ鬼神が生まれる。



 予言の時は此処に訪れる。

 マガツメは、再び彼の前へ姿を現す。

 もはや手遅れの、どうにもならない災厄として。




 『マガツメ』・了





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