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『マガツメ』・6




 ただ願ふ。

 おのづから遠きにてこの書を手に取るがありせば。




 ◆




 眠れない夜は少しだけ胸がざわめく。

 暗い部屋で布団に潜り込み、疲れているのに目を瞑っても意識がはっきりしてしまって、朝が近づくほどに気だけが急いてしまう。

 こういう夜はなんだか居心地が悪い。 

 みやかはベッドから抜け出し窓際に寄り添う。誘われるように窓を開ければ、冷たい風が部屋を訪ねてきた。

 寒さに身を捩り、ふと黒い空を見上げた。

 やけに赤い月と瞬く星。冬は空気が冴えていて、いつもより星月はくっきりと映し出される。

 それでも昔、高層ビルも工場もなかった頃と比べれば、星の数は減ったのだろう。

 見たこともない景色に想いを馳せ感傷的になってしまうのはきっと眠れない夜のせい。

 開けた窓の先、広がる街から伝わる、僅かに震えるなにかのせいだ。


「やな夜……」


 みやかはなんとなしにそう感じる。

 眠れない夜は気だけが急いて、居心地が悪い。けれど今宵の胸の騒めきはいつもと少し違う。

 不気味な赤い月、ひりつくくらい冷たい風。

 それに、まるで街自体が震えているような。

 奇妙な感覚に苛まれ少女は俯く。嫌な夜だ。明確な理由はなく、単なる予感。けれど何かよくないことが何処かで起こる、そんな気がする。


 そして、その“よくないこと”というのは。


 浮かんだ想像は多分外れておらず、だからといって何ができるでもない。

 いつきひめなんて所詮名ばかり、結局のところみやかは無力な少女に過ぎず、こうやって遠くで憂い無事を祈るが精々。力になれないのは言わずもがな、彼の過去を殆ど知らない彼女ではその心に寄り添ってさえあげられない。


「悔しい、なぁ」


 意識せずに零れた呟きは、だからこそ素直な感情の吐露だ。

 力になれないことが。それとも、力になってあげられる人がいることが? 本当は何が悔しいのか、みやか自身よく分かっていない。

 でも今はいろんなものが悔しくて。

 ああ、だけど。

 何もできないけれど、せめて───


「………あれ?」


 そこまで考えて、みやかは窓の外に知った顔がいると気付く。

 視線を落とすと、そこにはワンサイドの三つ編みのかわいらしい少女の姿。

 あれは。


「溜那さん?」


 眠れない夜。

 窓の外では何故か、人造の鬼神が手を振っていた。




 ◆




 夜の駅前に人の姿はなく、けれど蠢く影で溢れていた。

 街灯に照らされる異形。折り重なる呻きが冬の冷たい空気を震わせる。


「っ」


 短い呼気、右足で大きく踏み込み横薙ぎ、そのまま体を回し逆風。

 異形は一瞬で斬り伏せられ、しかし一息とはいかない。

 人の死骸を基にマガツメの手で産み出された鬼共は、同胞の死なぞ気にも留めず甚夜へ襲い掛かってくる。

 いや、そも気に留めるほどの知能がないのか。恐怖も躊躇いもなく動く様は、まるで光に吸い寄せられる虫のようだ。襲い掛かるよりも群がる、たかるが的確な表現かもしれない。

 それでも奴らの殺意は本物。間違いなく殺そうとその爪をふるう。

 であれば加減はできない。甚夜は冷静に冷徹に、淡々と命を刈っていく。

 袈裟懸け、捌き裏拳頭蓋を砕き、蹴り飛ばすと同時に距離を詰め刺突。

 都合二十一。それだけの鬼を屠り、尚も後続は途切れない。

 強くはない、厄介とも思わない。

 しかし焦燥を覚えるのは、裏にあるものを知っているから。最後の夜が訪れたのだと理解してしまったからだ。


「……いい加減、鬱陶しくなってくるな」


 底冷えするような、低く重い声。

 同時に吹き上がる黒い瘴気が鞭となり刃となり群がる鬼を薙ぎ払う。

<織女>。いつきひめ夜風がその身に宿し、吉隠が奪った<力>。特性は自他の負の感情を溜め込み、物理的干渉力に変換する。

 ならば彼にも扱えて当然、むしろ相性の良さはすこぶる付きだ。

 マガツメがいる、そう思うだけで心が淀む。湧き上がる憎悪は感情ではなく機能。憎しみを以って鬼と化した男だ、放つ瘴気もそれに倣う。

 鋭く苛烈な激情は凶器に等しい。気付けば鬼共は眼を背けたくなる程無残に切り刻まれ、ゴミのように転がされていた。


「……まだ来るか」


 しかし鬼の進軍は留まるところを知らない。

 いったい何処にこれだけの数が隠れていたのか。現代に至り、夜はかつてと違いひどく明るい。だというのに、あやかしどもが人工の光の中で正体を晒し闊歩する。

 いつかも対峙した百鬼夜行を奇妙だと感じる。そのくらいに平成の世はあやかしにとって生きにくい場所だった。


「おいで、“犬神”」


 絶え間なく押し寄せる鬼の群れへ、三匹の黒い犬が疾走する。

 多少デフォルメされてはいるが秋津の付喪神。爪も牙も伊達ではなく、十把一絡げの怪異なぞ容易に蹴散らす。

 十代目秋津染吾郎。

 桃恵萌は駅前に蔓延る異形の前へ、散歩するような軽やかさで躍り出る。不敵な笑みには相応の自信が宿っていた。


「ごめんね、遅くなった?」

「いいや、私も今来たところだよ。と、冗談は置いておくにして。見ての通り、まだまだ残っている」

「ならよかった……いや、よくないわそれ」


 うへぇ、と萌が嫌そうに息を漏らしたのも仕方がないだろう。

 呆れるほどに斬り、しかし未だ群れをなす鬼の数は減らない。彼女でなくとも嫌になってくる。


「ていうかさ、駅前なのに全然人がいないんだけど。なんかおかしくない?」


 不可解に思い萌はきょろきょろと辺りを見回す。

 深夜とはいえ駅前には人が全くいない。騒ぎを聞きつけ集まってくる野次馬さえもだ。こんな派手な切った張った、事件として喧伝されてもおかしくないと思うのだが。


「そこいらにいるだろう」


 甚夜は苦々しく顎をしゃくる。指し示した先には確かに人がいて、だから萌は驚きに目を見開く。

 脱ぎ捨てられた衣服がもぞもぞと動いている。違う、中にいる赤ん坊が動いているのだ。

 道端に寝転び泣いている赤子もいる。なんだこれは。ひどく不気味な光景に思わず声が震えた。


「なに、これ……?」

「マガツメの<力>の一端だ」

「この、赤ん坊が? ていうか、マガツメの<力>って再生能力だって聞いてるんだけど」

「こういうことも、できるんだ」


 何故か悲しそうに、寂しそうに甚夜は呟いた。

 人がいないのではない。皆赤ん坊に変えられている。野次馬もいないのは、ここら一帯の住民は同じような目にあっているからだろう。

 それを可能としたのがマガツメ。そうと知りながら甚夜の横顔に憎悪はなく、動揺さえ見当たらない。

 まるで最初からこうなると知っていたかのような冷静さだ。


「もしかして、ここに居たらあたしらも赤ん坊に変えられる?」

「マガツメは既にいない。直接対峙し、<力>を食らわない限りは問題ないと思うが」

「うわぁ安心できなーい。今からあたしらそいつのトコに行かなきゃなんないのに」


 単純な強さより訳の分からない奴の方が怖い。

 萌とて相応の場数を踏んだ退魔、その辺りは十二分に理解している。

 それにもしこの現象をもっと広い範囲で行えるのであれば、マガツメは比喩ではなく、単騎で現世を滅ぼせてしまう。

 しかもその終わりが「皆赤ん坊になって社会を維持できなくなり滅亡」なんて、正直ぞっとする。


「まあ文句言ってても仕方ない、っか。どう見ても全戦力投入、あばおあくーって感じだし。一発で終わらせられるって考えたらそんなに悪くないじゃん」


 萌は自分を鼓舞するためか、鬼と戦いつつも殊更に明るく振る舞う。

 決して聡い方ではない彼女だが、ずばりと本質を言い当てている。

 おそらくこれはマガツメというよりも向日葵の仕業。一夜ですべての決着をつけるための仕込みだ。乗り切れば勝ち、そうでなければ負け。あの娘はそういう単純明快な勝敗にまで状況を引っ張ってきた。

 だから萌の発言に間違いはない。一発で終わらせることができるのなら、確かに好機でもあるのだ。


「君の言う通りだ。そう悲観したものでもない」

「でっしょ? それにさー、こういう共同作業って実はちょっと楽しくない?」

「……はは。かもしれないな」


 私は、本当に良き友を得た。

 刀を振るい、敵を切り裂き。しかし甚夜は不意に笑みを落とした。

 憎しみに濁っていた心が少しだけ軽くなる。

 いつかのように秋津染吾郎と肩を並べ百鬼夜行へ挑む。このような状況にあって懐かしさが混じったようなこそばゆい気持ちになれたのは、間違いなく萌の、そしてあの飄々とした男のおかげである。

 巡り合わせというのは不思議だ。ふとした瞬間に優しくなれるのは、今まで犯してきた間違いが、正しかった証明だろう。


「てかさ、もしかして鬼が出てるのってここだけじゃない?」

「ああ、溜那や井槌、柳も手を貸してくれている。後は久賀見の子倅や古結堂の孫娘、私の知らぬ退魔も多分出てきているのだろう」

「そこら辺会ったことないんだけど、まあ仲間がいるってのは有り難いわ」


 言葉を交わしながらも動きは止まらない。

 左足で地を蹴り一太刀で三匹、瞬く間に異形を斬り伏せる。全力の一刀だ、晒す隙も大きい。

 だがそんなものは問題にもならない。甚夜の背後から襲い掛かる数匹は、萌が割り込んで付喪神で蹴散らす。

 そのまま二人は左手を取り合い、勢い任せに体の位置を入れ替える。

 一閃、一蹴。周囲の鬼共を息一つ乱さず薙ぎ払い、両者は示し合わせたように口の端を釣り上げた。


「よっし、いい感じ!」

「一先ずは、終わりか」

「ほんとにヒトマズ、みたいだけどね」


 もはや数えるのも面倒になるくらいの敵を打ち倒し、ようやく場も落ち着く。

 駅前からは異形の呻きが消え、代わりに赤子の泣き声が響いている。ただし全滅させた訳ではなく、あくまでも一陣目の攻勢を凌いだにすぎない。


『負けぬ。我等は、負けぬ』

『おおよ、人に化けて隠れて、そんなまま生きて死んでいってたまるかぁ』


 甚夜も萌も次いで現れる第二陣の存在に改めて構えをとる。

 迫り来る鬼はマガツメの創り出した知能のない有象無象だけではない。

 平成という時代、街の片隅に隠れながら生きる者達。居場所を奪われ心ならずも人の世で生きる妖異の姿もある。


“マガツメに盾突く者どもを屠りたかった。かの鬼神は、人に虐げられる我らあやかしの希望と伝え聞いた。故に”

“構わん。人工の光に居場所を奪われた我らには十分救いであろう。人に迎合する貴様には分からんかもしれんがな”


 甚夜自身も鬼、正体を隠し人の世で生きる身だ。

 多少窮屈と思わなくもないが、今に満足もしている。失って、手に入れて。積み重ねた日々の果てに得られたものを、確かに大切だと、愛おしいと感じる。

 ならばこそ、あやかしが虐げられる現代も悪くはないと思えた。

 だが逆に、姿を隠し生きねばならぬ平成を不満と感じ、人を恨む鬼だっているだろう。

 そういう輩がマガツメに同調するのはある意味当然だった。


『私達だって、居場所がほしいんだ』

『マガツメが、あやかしに夜を取り戻してくれるというのなら』


 その気持ちは正直分からないでもない。だから知能のない下位の鬼共を斬るようにはいかなかった。

 彼らが上げるのは呻きでなく嘆き、時代に捨てられた者達の悲哀だ。復讐、刀。甚夜とて早すぎる時代の流れに様々なものを奪われてきた。絞り出す嘆きは覚えがないといえば嘘になる。


「一応言っておくが、あれを祭り上げたところでどうにもならんぞ」


 知能のない異形とは違い冷静にこちらの様子を伺う鬼達へ、無造作に言葉をぶつける。

 思うところがあるのは事実、しかしマガツメの行き着く先を認める訳にはいかない。

 あれの願いは、人に虐げられた鬼を救う類のものではないのだ。

 けれどそれを知らないのか、知っていてもそこに一縷の望みを託したいのか、鬼共は苦渋に顔を歪め、胸の内を絞り出す。


『だとしても、何の価値もなく消えていくよりは、よほどマシだ』


 先頭に立つ鬼は疲れたように息を吐く。

 いっそ激昂し、怒りをぶつけられた方がやりやすかった。

 彼らは平成の世をつぶしたいのではない。ただ昔に戻りたいだけ。存在を認められ、闇が恐れられた時代へ帰りたいだけだ。

 奇しくもそれはマガツメと同質の願い。

<遠見>の鬼は語った。かの鬼神は“永久に闇を統べる王、あやかしを守り慈しむ”のだと。

 もしかしたらその言葉は真実なのかもしれない。甚夜にとっては愛しくも憎むべき仇だが、前を向けない者たちにとっては、おそらくマガツメは救いだった。


「甚、たぶんさ。もう言葉じゃ止まらないよ」

「そう、だな」


 悲しいが鬼はそういう生き物だ。

 ならばもはや語る意味もない。多少の惑いはあれど、甚夜は鬼共へ刃を向けた。

 鬼達の纏う目付きも物々しく変化する。

 悪意でも敵意でもない。ただ拘った在り方を譲れなかった。

 ぴん、と夜の冷たい空気が張り詰めた。一触即発、何かのきっかけがあれば直ぐにでもこの硬直は瓦解し、後に待つのは殺し合いだ。


「ん、よかった。行く前に会えた」


 そういう絶好のタイミングに、あまりにも気の抜けた調子で少女は話しかける。

 あやかし達など見向きもせず、ふうわりとやわりく微笑む。

 突然のことに毒気を抜かれたのか、甚夜らも周囲の鬼も動きを止めた。


「溜那……みやかも?」


 声の主は溜那。

 そしてその後ろには何故かクラスメイトの少女の姿もあった。


「連れてきた。言いたいことがあるって」


 そう言って胸を張る溜那は自信満々といった様子だ。

 とん、とみやかの背中を押して甚夜と向かい合わせ、自分は鬼共に目を向ける。

 邪魔するな、言葉にせずとも視線がそう語っていた。

 容姿こそ幼いが彼女はコドクノカゴ、怪異としての格が違う。何気ないふるまいでもそれを感じ取り、鬼達は僅かに退く。


「え、と。こんばんは?」

「……何故、此処に?」

「私もいきなり連れてこられて、あんまりよく分かってないんだけど」


 先程とは違う硬直の中、無理矢理連れてこられたみやかは戸惑いに戸惑っていた。

 甚夜や萌も似たような心境らしく、いい反応は返ってこない。大体何の力もない小娘が戦場に来たのだ、それを歓迎するような彼でないのは最初から分かっていた。

 ただ、なぜ連れてこられたのかは分からないが、溜那に間違いはなかった。

 言いたいことがあるのは、本当で。


「その、折角だから。あのさ、甚夜」


 だからみやかは意を決して、自分の心を取り出すように、ゆっくりと言の葉を紡ぐ。


「色々話聞かせてもらったけど、戦えない私じゃ力にはなれなくて。多分今の気持ちも分かってあげられない」


 あまり表情に出ない彼女ではあるが、コンプレックスがない訳ではない。

 力になれないこと、力になってあげられる人がいることを、悔しいと思う時だってある。


「甚夜が今迄どんなに頑張ってきたか、本当の意味では理解できてないんだと思う。私は、部外者みたいなものだから。結局、なんにも貴方のことを知らない」


 いつきひめだ、想いを受け継いできた一族だといっても所詮は一介の高校生。

 鬼でなく、付喪神使いでも都市伝説を扱えるのでもない。そういう少女では彼と肩を並べて戦えず、因縁や拘り続けた憎しみを知らないから支えになってもあげられない。

 結局みやか自身になにができるという訳でもなく、彼女はただのクラスメイトで、友達で。


「でもなんにも知らなくて、何一つ分かっていないから、無責任に言うね」


 ああ、だけど。

 何もできないけれど、せめてちゃんと向き合って、しっかりと想いを口にしよう。


「遅刻しないように、早めに終わらせて寝た方がいいよ? それで、また明日学校で」


 甚夜のこともマガツメのことも、きっと本当の意味では知らないから。

 重荷にならないよう何気なく、できるだけ軽い方がいい。

 よく分からないけど貴方なら簡単に終わらせられるでしょう? 何も知らない友人として、死地に赴く彼へ無上の信頼を。

 できることなんてこのくらい。それでも信じよう。

 彼は全てを乗り越えて、当たり前のようにまた教室で会えるのだと。


「みやか……」

「私からは、このくらいかな。じゃあ、頑張ってね」

「ああ、そう、だな。少し行ってくるか」 


 伝えたい想いはまっすぐ伝えた。満足そうにみやかは微笑む。

 大仰な言葉じゃなくていい。だってまた明日会えるのだ。別れの際なんて小さく手を振って「じゃあね」で十分。

 そういう心を彼もちゃんと受け取ってくれた。

 まるで日常で談笑のような気負いのなさが返ってきて、それがみやかには嬉しかった。


「ねえねえ、みやかぁ。あたしにはなんかそういうのないのー?」

「あっ」

「あっ、ってどゆことよ。もしかして完全に存在忘れられてた?」

「そういう訳じゃないけど……その、ごめん」


 萌にじゃれ付かれて、そんなやり取りもまるでただ日常のようで。

 だから己惚れられる。なんにもできない自分だけど、できないなりに彼らの背中を押しれ上げられた筈だ。


「溜那、後は頼めるか」

「ん、大丈夫。みやかも……あいつらも」

「任せた。萌」


 弛緩した空気を引き締め、甚夜は萌に目で合図する。

 言葉にしないでも分かる。頷き合い、二人は脇目も振らずに駆け出した。

 その後ろ姿に声をかけはしない。やれることはもうない、後は彼らの戦いだ。

 マガツメの居場所は分かっている。<遠見>の鬼は態々降臨する場所まで教えて逝った。

 溜那が後続を受け持ってくれるならこれ以上留まる必要はない。甚夜と萌は一角の鬼を蹴散らし、最後の場所を目指す。


「……じいやは、たくさんのものを守った。だから今、守られてる。わたしはずっと守られてきた。だから今、守ろうとあがいてる」


 残された溜那はみやかを守るように立ち、くだらないとでも言わんばかりの冷めた目で周囲の鬼達を一瞥する。

 甚夜は時代に捨てられた彼らを同情的に見ていたが溜那はそう思わない。

 マガツメに同調して暴れる鬼共など、人と共に生きてきた彼女にとって、はた迷惑な不良と何ら変わらなかった。


「時代に捨てられた? ちがう、お前たちは付いていくのを諦めて手を放しただけ。それで勝手にふりおとされたくせに、おおきな顔をするな」


 人は優しかった。

 希美子は年老いて尚も溜那を親友と言う。芳彦は鬼と知りながら彼女だけでなく甚夜や井槌、岡田喜一に向日葵でさえ受け入れた。

 でもそれは甚夜や溜那が向き合ったからこその結果だ。 

 そういう努力をせずに、この鬼達はただ不満を口にする。

 居場所がないなんて言い訳だ。

 お前たちが勝手に手放したくせして、それを時代のせいにするなんて、情けないにもほどがある。


「動かないならいい。でも、私はじいやとちがう。これ以上何かするなら、みんなまとめて叩き潰す」


 溜那は珍しく怒りを露わにしていた。

 射貫く視線は鋭く、発する言葉はそれ以上に研ぎ澄まされている。

 見た目十四歳くらいの少女を前に、鬼達は動けず立ち尽くしていた。




 ◆




“あたしが見た景色を教えてあげる。

 今から百七十年後、あのお嬢ちゃんは全ての人を滅ぼす災厄になる。

 貴方は長い時を越えてあの娘の所まで辿り着く。

 そして貴方達兄妹は、この葛野の地で再び殺し合い、その果てに……永久に闇を統べる王が生まれるの。

 あたし達を守り慈しむ鬼神が”




 不吉な予言を忘れたことなど片時もない。

 マガツメが最後の夜、どこに現れるのかなど初めから、百七十年前から知っている。

 あれは歳月の果て、かつていつきひめがおわした社へと再び姿を現す。

 甚太神社ではない。元々火女の社は川が氾濫しても被害が少ないよう、集落の北側の高台に建てられていた。

 現在でいえば、戻川高校が建つ場所である。


「マガツメはそこに。おそらく、向日葵や鈴蘭も。……萌、すまないが」

「まっかせて。甚はマガツメ、あたしは他全部。分かりやすくていいじゃん」

「ありがとう。だが無理はしないでくれ」

「大丈夫、これでも結構場数は踏んでるんだから、命の賭けどころくらいは弁えてるって!」


 道すがらにも異形は襲い掛かる。

 向日葵は本気で全戦力を吐き出しているようだ。甚夜を慮りはしても、手加減するつもりは一切ないらしい。

 足は止めずただ走り、すれ違いざま邪魔立てする鬼は斬って捨て、付喪神が蹴散らす。

 それを何度繰り返したか。走り抜けた先、二人は銀杏並木へと辿り着く。

 兵庫県立戻川高校のすぐ傍には、その名の通り戻川もどりがわという大きな川が流れている。

 元々川が氾濫した時の避難場所である高台に学校を建造したという経緯からか、市やこの土地の古い名家からの援助が多く、学問でもスポーツでも然程有名ではない県立校でありながら戻川高校の設備は近隣の高校に比べ随分と充実していた。

 校門へと続く歩道にはガードレールがなく、件の市の援助で植えられた銀杏の木がその代わりを成している。

 冬の銀杏に葉はなく、灰色の並木道が続くのみ。夜の暗がりに立ち並ぶ木々はどこか不気味にも見える。

 とくん、と鼓動が跳ねたのは再会を予見しているからだ。


「甚」

「ああ、行こう」


 だが今更尻込みする筈もない。

 この先でマガツメが、あの子が待っている。胸にはどろりと淀む憎悪。百七十年を経て、尚も機能となった憎しみは捨てられなかった。

 けれどそこに混じる違う色も確かにあって。

 きっと、今ならかつて出せなかった答えとも向き合える。

 そう信じられるだけのものを積み重ねてきた。

 だから今度こそ決着を。

 覚悟を胸に、甚夜は一歩を踏み出す。

 そして、






「かっ、かかっ」


 空気が漏れるようなかすれた笑みと共に凶刃は放たれる。

 赤い月を映し翻る、絶殺の意が込められた鈍色。怖気が走るほどに冷たく滑らかな一太刀が、桃恵萌の細い首を落とそうと夜に白線を描く。


「………え?」


 死ぬ。 

 過った想像に背筋が凍る。

 それでも咄嗟に反応できたのはマガツメとの戦いに向け集中していたことと、なにより恐怖故。

 すぐにでも戦えるほど昂った心と体は、差し迫る濃密な死の気配を前に殆ど反射で動いていた。


 きぃん、と甲高い鉄の音が響く。


 僅か一寸。本当にぎりぎりだったが、どうにか夜来を割り込ませて致死の一撃は防いだ。その時点で萌は既に付喪神“ねこがみさま”を放っている。

 が、相手もそれは予測済み。一息で付喪神を斬り伏せ、襲撃者は悠々と距離を開ける。憎たらしくなる程その振る舞いは余裕に満ちていた。


「どういう、つもりだ……!?」


 僅かでも反応が遅れていれば萌は死んでいた。

 湧き上がる怒りに甚夜は語気を荒げる。襲撃者を睨み付けたまま取ったのは脇構え。もっとも慣れ親しんだ構えは意識してのものではない。

 ただ体が知っていた。ほんの一瞬でも気を抜けば命はない。あれは、そういう輩だ。


「これは異なことを。刀を振るうたのだ、斬る以外の答えなぞある筈もなかろうて」


 襲撃者、岡田貴一は常識を説くような迷いのなさで、桃恵萌を殺すつもりだったと語る。

 その言葉に嘘はない。

 防げたのは奴が態々声を漏らしたから。それは奇襲を知らせるためだったのかもしれないが、込められた殺意は本物だった。

 間に合わなければ間違いなく萌の首を落としていただろう。


「まこと濁った男よ。ぬしとて鬼を人を斬って生きた身。今更転がる死骸が一つ増えたとてそう騒ぎ立てる話でもあるまい」

「お前……!」

「……もっとも、ぬしはそれで良いのかもしれんな」


 殺気交じりの激情を涼風のように受け流し貴一は笑う。

 普段の血生臭さを感じさせるものではない。空気が漏れるような気色の悪い笑い方だというのに、どこか老成し落ち着いているようにも聞こえた。


「夜叉よ、以前語ったな。“儂は人を捨て、鬼へ堕ち、その果てに……剣へと至る為に斬っておる”。剣に生きた。ならば只管に斬り、剣に至ってこそ意味のある命よ」


 その在り方は変わらない。

 願ったのはただ一つ。剣に生きるということ。

 刀は人を斬る為に造られた。ならばこそ斬る。

 剣術はより上手く人を斬る為に生まれた術。ならばこそ斬る。

 人であれ鬼であれ、武士であろうと町人であろうと、女子共であったとしても関係ない。

 己が剣であるならば、ただ斬る。

 倫理道徳を排した、その真理こそが岡田貴一の全てだった。


「しかし時代は変わり、もはや刀に価値はない。ああ、勘違いしてくれるな。その道行きに後悔はない。剣のために生きた、その在り方は変えられず、今もって変えようとも思わぬ。儂は事切れるその瞬間まで剣としてあろう」


 だが、と貴一は刀を構える。

 切っ先を僅かに傾けた変形の正眼。

 それは奴が最も得意とする構え。掛け値なしの全霊だ。


「儂もまた歳月の果てに濁った。藤堂芳彦、その子や孫ら。みやか君もそうだな。刀を持たずとも澄んだ者達を見た。そして彼ら、或いはぬしを含めてもいい。気に入った者達の為、剣を振るうのも悪くないと思ってしまった。……それは、儂の望んだ剣ではない」


 濁りは純度を下げる。だから散々切り捨ててきた。

 しかし濁りの美しさを知り、おそらくは岡田貴一もまた濁ったのだ。

 甚夜はそれを是とした。“濁った剣では切れ味は鈍る。だが、おかげで斬らずに済んだものもある”と。


「ならばこそ、今一度剣の意味を問わねばならぬ」


 けれど貴一は、そう割り切るには剣でありすぎた。

 斬らぬを誇るなぞ歩んだ道程が許さず、今更刀も矜持も捨てられぬ。


「かっ、かかっ。夜叉よ、付き合ってもらおう」


 故に彼は立ち塞がる。

 最後まで“岡田貴一”で在る為に。


「儂は、この一合を以って己が剣の答えに至る」


 時代遅れの人斬りは、道理を斬り伏せるが如くそう言い放った。




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