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『貪り喰うもの』・3




「こっちは全然だめですね」


 春の宵。つい、と夜空を見上げれば十六夜月。

 雲を纏い朧に霞む姿は風情だが、躊躇いがちにそっと顔を見せる既望も趣深い。

 とはいえ浸っている余裕もなく、茂助が漏らした声には多少の落胆が混じっている。

 二人は荒布橋で落ち合い、互いに得られた情報を交換し合うも、進展は殆どなかった。

 夜毎江戸の町を見回っているが未だ辻斬りは見つからない。思わず零れた溜息も仕方のないことだろう。


「そちらはどうでした?」

「駄目だな」

「見つかりませんか。やっぱり、探し方を変えた方がいいかもしれません」


 ここ数日は被害もなく、ある意味平穏ではあるが、辻斬りが野放しになっている現状は決して良いとは言えない。

 闇雲に探しても同じ、そうは思っても名案なぞ浮かび上がっては来ない。

 結局、非効率的であっても聞き込みをしながら足で探すしか取れる手立てはなく、二人して難しい顔を浮かべながら、夜の的の探索を続ける。


「おや?」


 しばらくすると、何かに気付いたのか、不意に茂助が声を上げた。


「どうした」

「いえ、あそこ」


 指差したのは堀のように整然と整備された神田川の近く、ちょうど草が押し茂り、柳の立ち並ぶ場所だった。

 よく見ると柳の下には女性の姿がある。あれは……。


「おふう?」


 蕎麦屋『喜兵衛』の看板娘である。

 薄桃の着物に身を包み、すらりとした立ち姿が印象的な少女は、柳に手を添え愛でている。

 月の光に照らされた彼女は淡く儚げで、普段の不器用ながらも明るい娘とは別人に見えた。


「知り合いですか」

「馴染みの蕎麦屋の娘だ」


 簡潔に伝えれば、茂助は「女性の一人歩きはよくありませんね」と眉を顰める。

 ここ数日は辻斬りの被害が出ていないとはいえ危険なことには変わりない。

 妻を失っている彼だ、過敏になって当然。甚夜としても此処で見過して知人が犠牲になっては、流石に寝覚めが良くない。


「すまん、茂助」

「ええ」


 こちらの心中を察して、笑顔で頷いてくれた。

 一声かけて帰りを促しておく。必要ならば送るくらいはしてもいいだろう。

 普段世話になっている店に多少なりとも恩を返すと思えば然程の手間でもない。


「あら、甚夜君?」


 不意に夜風が通り抜け、柳が揺れた。

 流れた風の行方を探すようにおふうの視線は地へと降りて、橋を渡って近付く甚夜と自然に目が合う。

 月に柳、佇む少女。

 普段とは違う、淡く儚げな、消えてしまいそうなくらい緩やかな笑み。

 喜兵衛で見るおふうとは違い過ぎる空気に、ほんの少し戸惑ってしまう。


「いい月ですね」


 柔らかくゆったりとした口調は、月夜の風情によく似合っている。

 案外普段の明るく凛とした立ち姿は余所行きで、この儚げに笑う繊細な少女こそがおふうなのかもしれない。

 そうと思えるくらいに、淑やかな立ち振る舞いは彼女に馴染んでいた。


「甚夜君は、お一人で散歩ですか?」


 いや、連れがいる。

 返そうと思った言葉は、途中で止まってしまった。傍らにいる筈の男がいつの間にかいなくなっていたからだ。

 辺りを見回しても目の前のおふう以外に人影はない。

 茂助はどこへ、と思うや否や、姿は見えないのに耳元で声が聞こえた。


(すみません、俺はこれで失礼しますよ)


 ぼそぼそと小さい、しかしからかいの色を帯びた声音。

 甚夜にしては珍しく、驚きに表情を崩した。

 ここまでされて気付かない訳がない。この男、態々<力>を使って姿を消したのだ。


(その娘さん、送ってあげてください。ここで別れて辻斬りに襲われても困るでしょう)


 何を勘違いしたのか、言葉とは裏腹に声の調子は楽しげだ。完全に面白がっている。

 反論しようにも姿の見えない茂助に話しかけようものなら奇人扱いは免れない。何も言えず固まる甚夜を余所に、彼は足音を殺して去っていった。

 おそらく去っていったのだろう。流石に姿を消したまま覗き見るような悪趣味な真似はしていない、と信じたい。

 にしても、まさかこんなくだらないことに<力>を使うとは。


「あの、どうかしましたか?」

「……少し、な。考えごとをしていただけだ。それよりも、おふうはこんな夜中に何をしている」


 気持ちを切り替え、少しきつめに問い詰める。

 辻斬りの噂が流れているというのに一人で出歩くのは感心しない。言外の意味を感じ取ったのか、甚夜の語調の強さに反しておふうの表情は穏やかだ。


「桜を見ていました」


 緩やかに目は柳へ流れ、もう一度静々と手を添える。

 まるで愛し子を撫ぜるような優しさ。枝が揺れて、葉が擦れて、ざわりと耳を擽る音が心地良い。


「これは柳だろう」

「違いますよ、ほら」


 そっと触れたのは白い花。

 遠目では気付かなかったが、しな垂れた柳には五弁の真っ白な小花が咲いていた。


「雪柳と言います。咲いた花の重さにしな垂れる姿が柳に似ているでしょう? だから、雪柳。でも実際には、柳ではなく桜の仲間なんですよ」


 寄り集まった白い花は、成程、確かに綿雪が降り積もったようにも見える。

 雪と柳を思わせる桜。

 春の枝に冬を纏わせた嫣然たる姿には、なんとも不思議な趣があった。


「雪柳、か……」


 噛み締めるよう花の名を呟く。

 雪柳は夜風に吹かれ揺れている。

 桜の仲間とはいうが、見目はやはり柳。白い柳と表現した方がしっくりと来る佇まいだ。

 おそらく多くの者にとってこの花は桜ではなく柳だろう。


「桜には、見えないな」


 雪柳は己が身を嘆いてはいないのだろうか。

 ふと過った疑問。花の想いを想像するなぞまるで年若い少女のようで、思わず口を噤んでしまう。

 それでも雪柳を眺めながら甚夜はほんの少しだけ考える。

 仲間の桜と同じ姿ではいられない。

 かと言って柳にはなれない。

 柳にしか見えない桜は、己をどう思っているのだろう。

 考えてもそれを知ることは叶わない。しかし奥ゆかしくも美しい雪柳の姿に、僅かな寂寞を感じてしまう。


「桜で在りながら柳を模し、柳に見えて柳ではなく。柳と桜、どちらにもなれない。……雪柳は憐れだな」


 ちくり。

 柳の姿をした桜が憐れに思えて、無意識に言葉は零れた。少しだけ胸に痛かったのは、きっと身につまされるから。

 柳に見えて柳ではない。人に見えて人ではない。まるでどこかの誰かのようだ。

 枝にはふわりと無邪気に咲いている白い花。物言わぬ白色に責め立てられているような気がした。

 茫然と立ち尽くし、柳の花を眺める。くだらない感傷と分かっていても陰鬱な気持ちを拭い去れない。


「でも、きれいでしょう?」


 けれど絹のようになめらかな、優しい声を聞いた。

 沈み込んでいた意識がゆっくりと引き上げられる。いつの間にかおふうの視線は甚夜に向けられていた。

 それに気付き瞳を合わせれば、小さく頷き彼女は微笑む。


「柳ではないけれど、桜として見られなくても、雪柳はとても可愛らしい花を咲かせるんです。何度散っても、春になればまた咲いて。私には雪柳の心は分からないけれど、きっとこの子は己が身を儚んではいないと思います。だって、自分が嫌いだったら毎年咲こうとは思わないじゃないですか」


 その言葉は甚夜にではなく、雪柳に向けられたものだ。

 おふうはこの花が可愛らしいと言っただけ。それでも彼女の声が胸に沁み入り、鬱屈とした感情は少しだけ薄れてくれた。


「だから憐れむ必要なんてありませんよ。桜であっても柳であっても、この子は春が来る度にきれいな花を咲かせるんですから」


 たとえ己が何者かは分からなくとも、巡る季節の中で咲いては散り咲いては散り。

 何れ散り往く定めと知りながら、生きた証を鮮やかに咲き誇る。


「それが花の生き方、か」 


 彼女の言う通り、憐れむ必要はないのかもしれない。否、憐れんではいけない。

 雪柳はおそらく、無様な彼よりも遙かに強い。それを憐れむなど傲慢にも程がある。

 一つ頷いて納得の意を示す。甚夜の雰囲気が変わったのを察し、おふうも力を抜いて口元を緩めた。


「でも、なんだか女の子みたいですね」


 弾んだ声でおふうが言う。

 確かに花の心を想像して憐れむというのは年頃の娘のような夢想だった。自覚があるため反論もできない。

 押し黙ったことが面白かったようで、おふうはくすくすと笑っている。

 気恥しかったが彼女の笑い方があまりに無邪気だったから、苦笑しながらそれを受け入れた。


「送ろう。過保護な父親が心配する」

「ふふ、そうですね」


 一頻り笑い終えた後、二人は並んで歩き始めた。

 既に日付の変わる刻限、江戸の町を歩いても商家は軒並み店じまい。普段のにぎやかさは感じられなかった。

 風が吹く。春の風はやはり冷たく、しかし夜は先程よりも少しだけ暖かくなった。


「甚夜君には、少し余裕が必要なんだと思います」


 歩きだしてしばらく経ち、彼女はそんな事を言い出した。

 目の端で盗み見た彼女の横顔は澄ましたもので、自分より年若い娘だろうに、随分と大人びて感じられる。


「私はそんなに切羽詰って見えるか」

「どちらかと言えば思い詰めてる、でしょうか。時々、無理をしているように見えて」


 別に甚夜とおふうは個人的な付き合いがある訳ではない。店主は婿にならないかと言っていたが、あくまで彼らの関係は客と店員に過ぎなかった。

 だというのにおふうは、甚夜の深い部分を正確に見抜いていた。

 彼女が鋭いのか、自分が分かり易いのか。これでも少しは感情を隠すのがうまくなったと思っていたのだが。


「ああ、そうかもしれん」


 図星を突かれても嫌な気分にはならない。

 相手がこの娘だからだろうか。寧ろ素直に受け入れられた。


「私には成すべきことがあり、その為だけに生きてきた。だから思い詰めていると言われれば、おそらくその通りなのだろう」


 思えば、力だけを求めてきた。

 鬼を討つのも鍛錬に過ぎず、義心なぞ欠片もなかった。

 それを間違いだとは思わない。

 かつて妹は現世を滅ぼすと言った。ならばこそ、けじめは付けねばならない。

 事を為すには力が必要で、他のものなぞ余分でしかない。

 おそらく彼女の指摘は正しい。

 無理をして、思い詰めて、暗中を照らす標になると信じ、甚夜は力を求めた。

 ただ、強くなりたかった。


「甚夜君の成すべきことが何かは分かりません。でも偶には息抜きくらいした方がいいですよ。目的があるのは良いことですけど、それに追われるのはつまらないでしょう?」

「……だが、私にはそれしかないんだ」


 想い人も、家族も、自分自身さえ。全て失くしてしまった。

 残っているものなんぞ、淡い希望に縋って先送りした答えと、いつか抱いてしまった憎悪くらい。

 だから強くなりたかった。

 強くなって、けじめをつけて。その為だけに生きてきた。

 どこまでいっても、それが全てだった。


「悪いな。お前の忠告は聞けそうにない」


 彼女の諫言は有り難い。

 しかしつまらないと言われても、そもそも彼には生きることを楽しもうという発想がない。

 酒を呑めば美味いと思うし、笑うことだってある。

 けれど憎しみは、いつだってちらついて。

 何一つ守れなかった。

 そんな男が生を謳歌するというのは間違っているように思える。

 おふうが純粋に甚夜を慮り、そう言ってくれるのは分かる。

 それでも、生き方は曲げられない。

 きっとこの先も、なに一つ変えられないまま、彼は最後を迎えるのだろう。


「そう、ですか……」


 無表情のまま、声色もいつも通り。そんな甚夜に何を思ったのか、おふうは先んじて一歩二歩進み立ち止まり、道の端でしゃがみ込む。

 不思議に思いそれを追えば、彼女の前には四弁の小花が集まり玉のように咲いた白い花があった。


「名前、分かります?」


 話の流れを断ち切って、穏やかな笑みを浮かべながらおふうは問う。

 花の名など、食べられる野草や薬になるもの以外はほとんど知らない。だから甚夜は首を横に振った。


「いや」

「これは沈丁花。秋に蕾をつけて、冬を越して春に咲きます」


 指先でそっと優しく花弁に触れる。

 少し顔を近づければ、ふわりと甘酸っぱい不思議な香が鼻腔を擽った。


「香りが強いな」

「いい匂いでしょう? これは春の香り。沈丁花は春の訪れを告げる花なんです」


 そう言って立ち上がり、今度は家屋の日陰でひっそりと自生する小さな花を指差した。

 道端に咲く細やかな花弁。郷愁を擽る佇まいには覚えがあった。


「あそこに見えるのは繁縷はこべですね。小さくて可愛らしいと思いませんか?」


 普段は意識しなかったが、その花は確かに繁縷。

 江戸の町にも咲いているとは気付かなかった。それは数少ない甚夜も知る草花だった。


「繁縷なら私でも知っている」

「そうなんですか?」

「ああ。茎を煎じると胃腸薬になる。葛野……昔住んでいた集落ではよく使った」


 おふうは意外そうな表情を浮かべた。甚夜は六尺を超える巨躯であり、細身ながら鍛えられた体が着物の上からでも分かる。とてもではないが胃腸薬を常用するような繊細な神経の持ち主には見えなかった。

 自覚があるのか、甚夜はすぐさま続きを話し始める。 


「幼馴染がよく飲んでいた。箱入りで普段食べられないせいか、機会があると甘味を大量に食べる癖があってな。食べ過ぎで腹を壊しては、繁縷の世話になっていた」

「なんというか……幼馴染さんは面白い人だったんですね」

「ああ、私はいつも振り回されていた」


 此処ではない何処かを眺めるように甚夜は目を細めた。

 思い出されるのは幼かった頃。まだ白雪と甚太でいられた幸福な日々だ。

 とても巫女とは思えない、無邪気で好奇心の強い白雪にいつも振り回されて、傍らには鈴音がいて、甚太は二人の後始末に追われ……それでも素直に笑うことが出来た。

 だが、今はもう無理だ。

 あの頃のようには笑えない。


「ほら、“それしかない”なんて嘘ですよ」


 しかし甚夜が浮かべた自嘲を見た少女は、彼の憂鬱を拭うようにゆったりと微笑んだ。


「甚夜君は蕎麦が好きで、花をきれいだと思えて、大切な思い出だってあります。今は“成すべきこと”に囚われて周りが見えていないだけ。だから、それしかないなんて言ってはいけません」


 何も言えない。口を挟んではいけない。

 そう思わせるだけの何かが今の彼女にはある。

 嫋やかな佇まい。ほんの一瞬、甚夜は少女の微笑みに見惚れた。 


「偶にはこうして足を止めてみてください。貴方が気付かないだけで、花はそこかしこで咲いています。見回せば、きっと今まで見えなかった景色が見える筈ですから」


 おふうは花に託けて甚夜を慰めようとしてくれているのだ。然して親しい訳でもなく、深く事情を知らずとも。

 その心遣いを嬉しく思い、しかしそれを無にしてしまうであろう己に嫌気がさす。

 結局、甚夜には彼女の言うような生き方は、足を止めて幸福を探すことなど出来はしない。

 自分の想いよりも自分の生き方を優先してしまう彼は、誰に何と言われても、鈴音を止める為に力を求め続ける。


「そう言えば、花をゆっくり眺めたことなどなかったな」


 しかし鬼に成れども人の心は捨て切れぬ。

 少女の優しさを一太刀の下に斬り捨てるほど冷酷にもなれなかった。

 相変わらず中途半端な男だ。呆れて苦笑すれば、おふうも穏やかに目を細めた。


「他の花の名も教えてくれないか」

「はい、もちろん」


 そうして二人はまた歩き出す。

 空には青白い月。

 春の宵。辿る通い路。少女は数えるように花の名を歌い上げる。


 

 もう少しだけ、ゆっくり歩こうか。



 そう思えた、柔らかな夜のことだった。




 ◆




「送っていただいてありがとうございました」


 花を数えて歩く家路、距離は思った以上に短く感じられた。

 帰り着いた蕎麦屋の前でおふうは深々と頭を下げる。


「いや、こちらも面白い話を聞かせて貰えた」

「それならまた今度違う花をお教えしましょうか?」

「明るい時間帯なら、頼む」


 辻斬りの噂が流れているというのに夜歩きをしていたおふうを冗談めかして窘める。

 そういう物言いが出来たのは、先程の会話で少なからず余裕が出来たからだろうか。

 彼女の言う通り、少しは足を止めて見るのも悪くないのかもしれない。

 口元を緩ませる甚夜に対して、少女は不満げな表情を作った。


「お父さんといい甚夜君といい、私の周りの男の人は過保護が過ぎると思います。辻斬りが出ても逃げるくらいなら出来ますよ」

「そう言ってやるな。親というものは、例えそうだとしても心配くらいはするのだろう」


 随分昔に家を出た不肖の息子を、それでも信頼してくれたように。

 親というのは何処まで行っても親なのだろう。


「なら貴方はどうして心配してくださるんですか?」

「さて、な」


 ほんの少しのからかい混じりにおふうは問う。

 明確な答えは返せない。何故かは自分にもよく分からなかった。


「悪いが、そろそろ行かせてもらう」

「すみません。引き留めてしまって」


 小さく首を横に振り気にするなと示してみせれば、返すようにおふうも微笑みを浮かべた。

 穏やかな心地で踵を返し、再び辻斬りの捜索へ戻る。足取りはいつもより軽かった。


「いや、いい娘さんですねぇ」


 隣から急に声を掛けられ、足がぴたりと止まる。

 首を横に向けて見れば、にやにやと笑いを浮かべている茂助がいた。


「茂助……お前、まさか」

「さーて、そろそろ行きますか」


 甚夜が二の句を告げる前にそそくさと逃げ去る。

 誤魔化すつもりもないらしい。この男、姿を消したまま一部始終を覗き見ていたのだ。

 文句を言おうにも既に姿はなく、出来ることと言えば呆れ交じりの溜息を零すくらいのものだった。




 ◆




 おふうと別れ、もう一度探索を続ける。

 訪れたのは日本橋。しばらくこの界隈をうろうろと歩いていたが、辻斬りの痕跡さえ見つからない。とりあえず橋へ戻り、真中辺りの欄干にもたれ掛かる。

 昼間は騒がしい日本橋だが時間も時間、人通りはまばら。一杯ひっかけた帰りなのだろう、赤ら顔の男が通るくらいのものだ。

 静けさが染み渡る。川の流れる音がはっきりと聞こえるくらいに穏やかな夜だ。揺れる月と心地よい風に、これは今夜もはずれかと小さく溜息を吐いた。

 そうして立ち止まっていると、夜も深いというのに茜の着物を纏った女が一人、橋を渡っているのを見つけた。

 年の頃は十五、六。おふうと同じくらいだろうか。

 こんな時間に一人歩きとは危なっかしい。横目で眺めていれば、女の方も気付いたらしく甚夜の前を通り過ぎる途中で視線を向けた。


「あ……」


 すると何故か女は目を見開き、小さく声を漏らした。

 何を驚いているのだろうか。内心疑問に思い改めて女を見て、微かに眉を潜める。

 あの女、何処かで会ったような気が。

 器量は良いが気の強そうな目付き。見覚えがある。一体何処で。

 思い出そうと思索に耽り、




 瞬間、空気が唸りを上げた。




「あ、が?」


 近くを歩いていた赤ら顔の男は橋を渡り切ることが出来なかった。

 突如として血飛沫が舞ったかと思えば体が崩れ落ち、それきり動かなくなった。

 その体躯には爪で抉ったような傷跡が残されている。男は断末魔さえ上げられず、一瞬にして絶命していた。


「……え?」


 短い声。何が起こったか分からず、女は目を点にしている。

 数瞬置いて橋の上にへたり込み、ようやく男の死を理解したのか悲鳴を上げた。


「い、いやああああああ!?」


 その声をどこか遠くに聞きながら、甚夜はそっと腰のものに手をやった。

 何者かの襲撃。意識が冷えて、鋭敏になっていくのが分かる。


 再び空気が唸る。


 対応は速かった。

 襲撃者の存在に気付けたのは、音よりも先に濃密な、淀むような殺気が漏れていたから。

 左足を軸にした最短の動作で音の鳴る方へ向き直り、鯉口を切り一気に抜刀。


「ぐっ……」


 だが相手は更に上。

 甚夜が刀を鞘から抜くよりも何者かの突進の方が速かった。

 幸い抜き掛けの刀でも盾くらいにはなった。刀身で防ぎ、後ろへ下がって完全に抜き切る。反撃に移る、つもりが既に相手は間合いの外へ逃げた後。


「え、なっ、なに? 今の、なんなの!?」


 女は突然の事態に混乱している。だが今は構っている暇もない。

 警戒は維持したまま、動揺する少女に冷たく言い聞かせる。


「あまり動くな。死にたいなら別だが」

「わ、分かったわよ……」


 気の強そうな少女は意外にも聞き分けがよく、大人しく従ってくれた。

 まだ混乱はしているが、それなりには落ち着いてくれたようだ。有難い、下手な動きをされるとこちらもやりにくい。

 そう思いながら甚夜は巻き添えを食わぬよう女から距離を取った。


 人目がある。鬼と化す訳にはいかない。八相に構え、次の襲撃へ備える。

 ごう、と風切りの音を立てながら何者かが襲い掛かる。音が聞こえた方へ体を回し、袈裟掛けの一刀を振るい───間に合わない。

 途中で軌道を曲げ、受けに入る。肉薄する襲撃者。振るわれた鋭利な爪。鍔でいなし半歩下がり、返す刀で切り上げる。

 しかし手応えは微か。傷を与えたとはいえ僅かに掠った程度だろう。

 待ち構え、攻撃を予測し、的中し……尚も振り遅れた。

 その事実に甚夜は目を細める。


 ───速い。


 それ以外の感想は出てこなかった。

 人では為し得ぬ速度。あまりの速さに理解する。容姿を確認することは出来なかったが、間違いなく襲撃者は鬼だ。そう簡単に悟れてしまう程の動きだった。

 四間は離れた場所に鬼は降り立った。

 改めて見据えれば、異形は唸り声を上げている。

 四肢を持つ人型だというのに、四つん這いでこちらを睨みつける鬼。獣人、という表現が最も分かりやすいだろう。浅黒い体毛に覆われた鬼は犬と人の合いの子のように見えた。

 濁った赤の瞳は虚ろにこちらを眺めている。どうやら女を襲う気はないらしく、濃密な殺意は甚夜にのみ向けられていた。


「今度こそ、だな」


 鋭い爪。男を襲う。女は殺さない。

 今度こそ当たりだ。奴が件の辻斬りに相違ないだろう。


「お前は」


 言葉は途中で途切れた。名を問うことは出来ず、舌打ちする暇さえなく鬼が迫る。

 脳天へ向け唐竹に振るうも、鬼は速度を保ったまま横に飛んだ。

 躱された。甚夜は逆手に持ち替え、鬼の動きに合わせ一歩を踏み込み、体を回転させながら追うように剣戟を繰り出す。

 宙では身動きがとれない。それ故の一手、しかし鬼は甚夜の予想を覆す。

 何も無い空を“蹴った”鬼は軌道を変え更に疾駆する。驚愕。だがあまりの速さに驚きの声さえ出ない。

 鬼は止まらない。その、先には。


「ひっ」


 先程の女がいる。

 やられた。こちらへの攻撃は囮。鬼は男を殺し、女を『攫う』。狙いは初めから女の方だった。

 気付いたとしてももう遅い。此処からでは間に合わない。

 鬼はその手を女に伸ばし。


「きゃっ!?」


 だが空を切る。

 女は何故か、誰かに突き飛ばされるようにして鬼から逃れていた。周りには、誰もいないというのに。

 だから気付く。


「茂助……!」


 姿を消す<力>。

 いつの間にか茂助は此処へ来ていたらしい。寸での所で女を救ってくれたのだ。

 助かった。安堵に軽い笑みが零れるも、すぐさま表情を引き締める。そして身を低く屈め地を這うように駆け出す。

 鬼も状況が理解できなければ固まるものなのか、動こうとしていない。それならそれでいい。名を聞けないのは残念だが此処で斬り捨てる。


『う、うう……』


 走りながら刀を水平に構え、左足で地面を蹴り、一気に距離を詰める。

 放たれたのは、絶殺の意を込めた横薙ぎの太刀。横一文字に振るった刀は──何も斬ることはなかった。


『ああああああああああああああっ!』


 既に鬼は此方の間合いから抜け出ていた。

 劣勢を悟ったのだろう。背を向け、雄叫びを上げながら鬼は走り去る。あの速度で逃げに専念されれば追い縋ることなど叶わない。一瞬で見えなくなった背中に、甚夜は奥歯を噛み締めた。


「あれは、追えんな」


 表情は変わらないが、内心は無念で満ちていた。

 江戸に来てから既に幾度も鬼と立ち合ったが、こうまで後手に回ったのは久々だ。

 ふぅ、と息を吐き熱のこもった体を冷ます。

 逃がしたのは痛いが後悔しても仕方ない。ゆっくりと納刀し、冷たい夜の空気で肺を満たせば、少しは心も落ち着いてくれた。


「甚夜さん」


 耳元で声が聞こえた。 

 姿を消したままの茂助だ。まだ女の目がある。<力>を解き、鬼としての姿を見られるのを嫌ったのだろう。甚夜も女には聞こえぬよう小声で返す。


「すまん、逃がした」

「いえ、俺もあそこまでの相手とは思ってませんでした」


 尋常ではない速さを目の当たりにし、茂助は苦々しく唇を噛む。

 彼の身体能力は決して高くない。正面からぶつかればまず負ける。それを思い知り、苦渋の呻きを漏らしている。


「取り敢えず、逃げてった方へ俺は行きます。ねぐらくらいなら見つけられるかもしれません」

「無理はするなよ」

「分かってます。追いつけるかも分からないし、見つけたとしてもすぐに戻ってきますよ。俺だって命は惜しいですから。甚夜さんはそこの娘さんをお願いします」

「ああ」


 空気が流れた。茂助がこの場を離れたせいだろう。

 甚夜は鬼の逃げ去った方へ視線を向ける。

 茂助ではあの鬼には勝てないが、姿を消したままなら塒だけ見つけて逃げ帰るくらいはできる。

 問題は、仇敵を前にして冷静でいられるか。無謀と知りながらも挑むような真似をしないかだ。

 彼の言葉を信じたいが、やはり不安もある。

 一応、追うべきか。


「ねえ、ちょっと」


 不満そうな女の声に思考を遮られる。

 横目でそちらを見れば、先程の女は地面に座り込んだまま、じっと甚夜を見詰めていた。


「どうした」

「……のよ」


 声が小さくて聞き取れなかった。

 僅かに眉を潜めれば、悔しそうに恥ずかしそうに、女はもう一度ぼそぼそと呟く。


「だから……立てないのよ。ちょっと、手を貸して」


 自身の醜態に頬が赤く染まっている。

 無表情のまま甚夜が手を差し出すと、それを支えによたよたと立ち上がる。見たところ怪我はない。恐怖に体の力が抜けていただけのようだ。


「ありがと」

「いや」

「そういう素っ気ないとこ、なんかすごく懐かしいわ」


 その物言いに少し違和感を覚え、改めて女の顔を見る。

 気の強そうな女。確かに、何処かで見た覚えが。


「もしかして、覚えて無い?」


 何も言わない甚夜を怪訝そうな顔で女は見る。

 目尻が少し吊り上る。しかし瞳には不安が揺らいでいて、その頼りない雰囲気に数年前のことを思い出す。


「……奈津、殿か?」


 須賀屋店主、重蔵の一人娘。

 そう言えば以前護衛に就いたことがある。あの時の少女の面影が少なからず残っていた。

 間違ってはいなかったらしい。安堵に奈津の表情は幾分か柔らかくなる。


「なんだ、忘れてた訳じゃないのね」

「いや、思い出すのに時間がかかった。前はもう少し幼かったしな」


 以前会ったのは十三の時、だったか。

 三年を経て奈津は背が少し高くなり、輪郭も微かに丸みを帯び、少女といった印象から女性らしい佇まいに変わっていた。


「そう、三年も経ってるから仕方ないとは思うけど。でも、あんたは全然変わってないわね」


 当たり前だ。この身は例え百年経とうとも老いることはない。

 指摘されても動揺することさえなくなった。歳を取ったせいか、人から離れたせいかは分からないが。


「あまり老けん性質たちだ」

「世の女の人の大半を敵に回すわよ、それ」


 言いながらも足に力が戻っていないのか、まだ少しふらついている。

 近付いて少し支えてやる。男に触れられたからか、少し照れたような顔で小さくもう一度「ありがと」と言った。


「いつも夜歩きをしているのか?」

「そんなわけないじゃない。今日はお使いの帰りよ。御贔屓にしてくれるお客様の所に届け物をしてきたんだけど、すっかり遅くなっちゃって」

「親の手伝いか」

「そういうこと。親孝行ね」


 記憶の中の奈津は、小生意気な娘といった印象だった。

 しかし目の前でくすくすと笑う姿は、かつての余裕のない少女とは違って見える。


「奈津殿は変わったな」

「そう?」

「なんというか、笑い方が自然になった」


 以前はありがとうと素直に言えなかった。今では意識せず口に出来る。

 些細ではあるが、成長したのは外見ばかりではない、ということなのだろう。


「ま、私だっていつまでも子供じゃないわよ」

「いえいえまだまだ子供ですって」

「ひぃ!?」


 とはいえ、まだまだ大人の女とも言い難い。

 急に声を掛けられて驚いた奈津は、飛び退くように甚夜から離れる。何事かと身を竦ませる彼女には、いつかの面影がちゃんと残っていた。


「御嬢さん、随分遅いんでお迎えに上がりましたよ」

「ぜ、善二? 脅かさないでよ!」

「普通に声かけただけなんですけど……なんかあったんですか、ってお前。もしかして甚夜か?」


 一拍子遅れて甚夜の姿を確認し、驚きに目を見開く。

 三年ぶりだが、相手は鬼を討つ浪人などという珍しい男。その仏頂面を忘れる筈もない。

 以前世話になったということもあり、善二の表情からは再会の喜びが感じられる。


「善二殿、久方ぶりだな」

「おお、本当に久しぶりじゃないか。どうしたんだ、いったい?」

「鬼に襲われた所を助けて貰ったのよ」


 そっぽ向いたままの奈津がそう言えば、いやに神妙な顔つきで善二は彼女の肩に手を置いた。


「鬼……? 御嬢さん、またですか? 前も言いましたが、旦那様はちゃんと御嬢さんのことを大切に想ってます。ですから」

「今回はそうじゃなくて! 甚夜もちゃんと説明しなさいよ!」


 彼等が遭遇した醜悪な鬼の話は、奈津の深い部分に根差した問題である。

 だから以前の鬼がまた現れたと思った善二は、ひどく重苦しい空気を纏っている。

 もっとも今回は別件、かつての怪異とは何ら関係ない。

 二人の遣り取りに呆れながらも、甚夜は言われた通り現状を説明する。


「辻斬りの噂は知っているか」

「へ? ま、一応は」

「辻斬りの正体は鬼……私は今そいつを追っている。奈津殿が襲われたのは単なる偶然だ」


 ようやく納得したのか、善二は大きく息を吐いた。

 物言いは辛辣だが幼い頃からの付き合いだ。なんだかんだ奈津は彼にとって大切なようで、事情を知った後は見るからに安堵した様子だ。


「ほぉ。お前、相変わらず訳の分かんないことに首突っ込んでんだな」

「……訳分かんなくって悪かったわね」

「あ、いや、御嬢さんのことじゃなくてですね」

「別にいいけど」

「ですから、決して今のは御嬢さんのことを言った訳ではなく」


 確かに今の言い方では以前の事件も「訳の分かんないこと」になる。相変わらず失言の多い男であった。

 拗ねる奈津、機嫌をとろうと慌てふためく善二。

 三年経った今でも力関係は然程変わっていないらしい。微笑ましい二人に多少なりとも肩の力が抜け、そうすると今度は鬼を追った茂助が気になってくる。


「迎えが来たなら私は行かせてもらうが」


 二人の言い争いが落ち着いたところで声を掛ける。

 懐かしいのは事実、しかし茂助の帰りが遅い。

 もしかしたら彼は。過った想像が正しかったとすれば、あまり時間を無駄にはしていられない。


「そう、今日はありがと。そういえば、あんた今どうしてるの?」

「変わらんさ。気ままな浪人だ。今は深川にある喜兵衛という蕎麦屋によくいる。鬼に纏わる厄介事があるなら来ればいい。多少は安くしておくぞ」

「金はとるんだな」

「当たり前だ。私にも生活がある」


 小さく笑い合って、二人に背を向ける。

 歩き出そうとした瞬間、「あ、そういや。甚夜、ちょっと待て」と出足をくじかれる。

 背後から呼び止められ、立ち止まり半身になって善二へ視線を送れば、彼は真剣な表情で口を開く。


「お前、谷中の寺町は知ってるか?」


 甚夜は無言で頷く。

 寺町は江戸の外れに位置し、名前の通り寺院が集中して配置されている。そのせいか、幽霊だの魍魎だのが出たという類の話が多い場所でもある。


「そこに瑞穂寺ってのがあってな。随分前に住職が亡くなって廃寺になってるんだが、お客さんから聞いた話じゃ夜な夜な女性の声が聞こえるらしい」


 女性の声。

 攫われたのは女性だけ。

 少し引っかかる話だ。


「この話結構よく聞くんだ。……中には鬼が住み着いたっていう噂もある」


 廃寺。

 女を拐かして“こと”に及ぶなら、落ち着ける場所がいる。女が声を出してもいいように、人が寄り付かず姿を隠せる場所。寺町なら条件としては見合う。

 それが辻斬りかは分からないが、少なくとも女を攫う何者かがそこにはいるのだろう。

 そして先程の鬼が逃げて行った方角とも合う。


「鬼を追ってるってんなら、こんな噂でも役に立つかと思ったんだが……どうだ?」

「有難い、面白い話を聞かせて貰った」

「そいつは何よりだ」


 これは、案外当たりかもしれない。

 ようやく掴んだ尻尾に甚夜は表情を引き締めた。




 ◆




 走りに走り辿り着いたのは、江戸の外れにある寺町だった。


「方向はあってると思うんだが」


 茂助はまだ捜索を続けていた。

 谷中の寺町。この一帯は寺町の名の通り寺院が多い。夜の闇に浮かび上がる情景はいやに不気味で、怪異の噂が多いのも納得できる雰囲気である。 

 しかしこの辺りは人通りが少ない。辻斬りにしても獲物を探すには不都合な場所だ。これは外れだったか、と考えた矢先。


 ……あああぁぁ……


 夜に響く誰かの悲鳴を聞いた。


「近い」 


 呟くと共に茂助の姿が周囲に溶け込むように消えた。

<力>を行使し、足音を殺しながらも声を辿る。急がなくては。焦る気持ちを抑えただ歩みを進め。


 その時、びゅう、と風が通り抜けた。


 否、それは風ではなく。

 宵闇の中、女を片手で抱えて疾駆する鬼だった。

 すれ違いざまに見たのはぐったりとした年頃の女を抱えた、犬と人の合いの子のような鬼。

 間違いなく先程見た鬼だ。

 爪先からは血が滴り落ちていた。逃げながら誰かを殺し、女も攫ってきたようだ。



 ───あの鬼が、俺の仇だ。



 茂助は背筋を通り抜けるぞわぞわとした感覚にそれを理解した。

 そうして走り抜けた鬼の消えた先を睨みつける。

 狭い路地の突き当りにはうらぶれた寺があった。そこは随分前に住職が亡くなったため廃寺となり、そのまま放置されている場所だった。

 名前は確か、


「瑞穂寺……」


 やっと見つけた。

 あそこが、俺の憎悪の行き着く場所だ。



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