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『貪り喰うもの』・2



 犬の遠吠えが聞こえる。

 夜はますます深くなり、つい先程見た時には月にかかる薄衣のような雲は流れていた。

 この部屋には窓がないため確認は取れないが、江戸の町並みは今頃青白く染まっていることだろう。

 甚夜は四畳半程の部屋に座っていた。

 古い畳敷き、変色した壁。建てられてからそれなりに時間が経っているのが分かる。

 くすんだ色合いと屋の乱雑な様子に、本当にここで長く暮らしているのだと見て取れた。


「……まさか、こんな所に住んでいるとは」


 驚きか、呆れか。一度溜息を吐く。

 先刻出会った鬼に案内され辿り着いた場所は、神田川からさほど遠くない場所にある裏長屋。

 長屋には表と裏があり、裏の方は比較的貧しい町人が暮らす集合住宅である。


「なに、鬼も長ずれば人に化ける術を身につける。中には人に成り済まし生きる者もいます。鬼は嘘を吐きませんが、真実は隠すもの。それは貴方も同じでしょう?」


 言いながら透明な液体で満たされた茶碗を甚夜の前に差し出す、継ぎを当てた小袖に髷を結わった男。

 細身でどこか頼りなさげな印象を抱かせる、如何にも町人といった風情のこの男こそ先刻の鬼、茂助だった。

 言葉の通り、茂助は人に化けこの長屋で生活をしているらしい。眼の色は黒い。流石に高位の鬼、化け方も堂に入ったものである。


「どうぞ。毒なんて入っていませんのでご安心してください」

「どのみち毒程度で死ぬ体でもない。頂こう」


 茶碗の中に入っているのは茶ではなく酒である。

 一口呑む。酒とは言っても水で薄めた安酒だ。蕎麦一杯十六文に対し酒は四十八文、裕福ではない町人にとって酒は高級品のため、庶民の呑む酒は水で薄めたものが一般的だった。


「改めまして。俺は茂助。見ての通りしがない裏長屋に住む町人です」

「そして、その正体は鬼か」

「ええ。これでも百年を経る、高位の鬼と呼ばれる存在です」


 彼の言葉に少しだけ違和を感じる。

 高位の鬼という割には圧迫感というか、それに相応しい空気がない。正直なところ今まで葬ってきた下位の鬼よりも茂助は弱く感じられた。


「しかし、それにしては……」

「あまり強くない、ですか?」

「ああ。まぁ、な」


 一応気を使って濁した言葉を明言されて、少しだけ言い淀む。

 しかし相手は実にあっけらかんとしている。


「それは当然でしょう。そもそも高位の鬼というものは、力量に関係なく固有の<力>に目覚めた鬼を指すのです。ですから高位であっても膂力や速さは下位の鬼に劣る者もいます。恥ずかしながら俺も、ということです」


 確かに以前出会った<遠見>を使う女も然して強くはなかった。

 戦闘に特化した<力>を持たぬ鬼も一括りに高位と捉えているらしい。

 納得して一つ頷き、世間話の為に来た訳でもないと本題へ移る。


「では改めて確認するが、お前は辻斬りではない……こう言うのだな?」

「はい、勿論です。そして甚夜さん、貴方も」


 黙って頷く。そして茂助の目を覗き込む。その瞳は揺らがず真っ直ぐにこちらを見据えており、動揺の欠片もない。

 これが演技だというのなら相当のもの。

 嘘は、吐いていない。少なくとも甚夜にはそう思えた。


「分かった、信じよう」

「ありがとうございます」

「だが先程の口振りでは辻斬りを追っていた……いや、話も聞かず斬り掛かるところを見るに、殺そうとしていたようだが。何か理由が?」

「私怨です」


 間髪を入れず言葉は返る。

 なんと答えるか最初から決まっていた、というよりも、その答え以外頭にないのだろう。

 落ち着いているように見えて、口調はひどく冷たかった。 


「神隠しの噂はご存知でしょうか」

「確か、辻斬りによる死体の数と、失踪者の数が合わないという話だったか。攫われたのか、或いは神隠しにあったのではないか、という噂が流れているのは知っている。私も先程女の悲鳴を聞いたが、女の死体はなかった」

「はい。どうやら辻斬りに殺されるのは男だけ。女は軒並み攫われているようなのです」


 茂助は当然のように攫われていると言った。

 女の失踪は神隠しではなく、辻斬りの手によって行われていると、彼は確信している。

 何故知っている、と甚夜が視線で問えば、茂助はぐっと唇を噛む。

 重苦しい沈黙はしばらく続いたが、頭を垂れるように俯いた彼は、苦々しく声を絞り出した。


「俺の妻も、神隠しにあったんです」


 濁った眼。握りしめた手、震える肩。

 端々に滲む怒りが、彼への疑念を完全に払拭する。

 茂助は辻斬りではない。

 隠し切れぬ憎悪は紛れもなく本物だった。


「あいつは人でしたが、鬼である俺を受け入れてくれた。そういう優しい女でした。ですが一月前姿を消し、その十日ほど後の晩に神田川で見つかりました。奉行所の役人の話では、体には乱暴された跡があったそうです」


 男を殺し、女を攫い。発見された妻には性的暴行を受けた跡。

 それが事実ならば確かに神隠しではない。もっと別の、薄汚い感情。下卑た欲望が透けて見えている。


「信じられませんか」

「いや、鬼は嘘をつかないのだろう?」

「ええ、勿論です」


 煽るように杯を空け、茂助は今まで以上に力強い口調で言った。


「お人好しで、てめえよりもよそ様を優先する、そういうやつだった。誰にでも優しくて、鬼の俺を愛してくれて……決して、あんな死に方をするような女じゃなかった。なのに」


 ぎり、と拳を握りしめる音が聞こえる。そうと思えるほどの激情が感じられた。

 彼の気持ちが分かるなどとは言わない。しかし惚れた女を殺された男の無念ならば、少しくらいは理解してやれる

 にも拘らず、憐憫の情は湧かなかった。


「甚夜さん、俺は人に化けて暮らしてますが、決して人の全てが好きな訳ではありません。人として生きるが故に人の醜さも知っています。ですが、それでも異形の俺を受け入れてくれた妻は愛していました。だから正直なところ、彼女を汚し奪った辻斬りが憎くて仕方がない」


 肩を震わせ、血走った眼で歯を食い縛る。傍から見れば痛々しいとさえ思える姿だ。

 けれど甚夜の胸中を過った感情は、今の状況とは不釣り合いなもの。

 抱いたのは憐憫ではなく微かな羨望。茂助が羨ましい、と思ってしまった。

 憎むべき相手として、正しく憎むべき存在がいる。

 曖昧な憎悪しか持ち得ぬ、惰弱な自分とは違う。彼の憎悪の正当性を羨み、そして嫉妬している事実に気付く。

 それを洗い流すように酒を飲み干す。薄い酒だが喉を通る感覚は心地良かった。


「そう、か」

「ええ。ですから貴方はこの件に手出ししないでほしい。俺は自らの手で辻斬りを葬りたいのです」

「それは……」


 頷くことは出来なかった。

 こちらにも辻斬りを、正確に言えば鬼を討つ理由がある。

 素直に「はい」とは言えない。それを悟ったのか、一呼吸置いた茂助は出方を伺うように、ちらりと甚夜の表情を伺う。


「甚夜さんの目的はなんでしょうか」

「辻斬りが真に鬼で在るならば、それをこの手で討つ」


 嘘を吐いた訳ではない。

 だが本当はその先、討った後にこそ目的がある。そこまでは言わなかった。


「……分かりました。では共に探す、というところでどうでしょう。お互い邪魔をせず、各々で辻斬りを探し、情報は共有する。出来れば、辻斬りを殺す役は私に譲ってほしいですが」


 彼なりの妥協なのだろう。

 妻の仇を討つと決めた鬼。憎悪に駆られた彼が妥協してくれたのならば、それを否ということは出来ない。

 ゆっくりと頷き、了承の意を示す。


「分かった。茂助、私はそれでいい。しかし、お前はいいのか」


 甚夜の視線が若干ながら鋭さを増した。


「鬼であれ人であれ、その命を奪うことは罪悪だろう。憎悪に駆られ手を汚す。お前は罪を犯す自身を受け入れられるのか」

「それは」

「私はいい。とうの昔に血塗れだ。だがお前は違うだろう。もし殺しを躊躇するならやめておいた方がいい。幸い、何の躊躇いも持たぬ下衆がここにいる。仇討ちが目的だというなら態々己の手を汚すこともあるまい」


 茂助は息を吞み、だがすぐに思い直し首を振った。

 弱気の虫を噛み潰すように、ぐっと顎に力を入れる。


「ありがとうございます。気を遣ってくださって。ですが甚夜さん、俺も鬼の端くれです。俺は妻の仇を討つと決めた。成すべきを成すと決めたなら」

「その為に身命を賭す、か」

「はい。それが鬼という生き物です。私は、妻を奪ったものをこの手で殺さなければ、まともに生きることさえできない」


 答えは最初から分かっていた。彼の言う通り鬼とはそういう生き物なのだから。

 だが、それでも甚夜は言わずにいられなかった。

 憎しみに身を委ねる必要はないと。別に殺す必要はないのだと。

 或いは、それは自分に向けた言葉だったのかもしれなかった。


「ならば何も言うまい。ただしお前の願いは優先するが、私が先に辻斬りと出会ったとしても」

「はい、それも運。恨みはしませんよ」


 そう言って茂助は笑って見せた。それが強がりか、気遣いなのかは分からない。

 ただ憎しみを呑み込む苦さは知っている。

 だから何も言わず、甚夜はただ目を伏せた。




 ◆




 翌日から二人は夜が訪れるのを待ち江戸の探索に出かけた。

 と言っても当てなどある筈もない。辻斬りが行われた場所を巡るのが精々だ。


「辻斬り? 知らんねぇ」

「さあ私も見たことはないですので」

「あんたら、一体何モンだい?」


 聞き込みもしてみたが結果は芳しくない。

 然して得る物もなく帰る日が三日ばかり続いた。


「今日も収穫はなし、と。上手くいかないものですね」

「仕方あるまい」

「ですね。地道に探すしかありませんか」


 探索の途中で落ち合い情報を交換するが茂助も同じようなもので、事態に進展はない。

 その後も手がかりは見つけられず、結局なんの収穫もないまま重い足取りで二人は茂助の家へ戻る。

 帰りつけば顔を突き合わせて酒を呑む。憂さ晴らしのつもりはないが、この夜会も三日ばかり続いていた。

 仇はまだ見つからないが呑んでいる時まで持ち込む気はないようで、茂助は比較的穏やかな顔をしている。

 それとなく聞けば「同胞と呑むのはいいものです」と答えた。

 成程、その気持ちは分かる。

 お互い人の中で暮らす鬼。隠し事もなく語り合える輩、というのは貴重だ。甚夜自身この関係が案外気に入っていた。


「……くぅ、沁みますなぁ」


 茂助は旨そうに、一息で茶碗を空にする。

 今日の酒はいつもの安酒ではなく、偶には良いものをと甚夜が持ち込んだ下り酒だ。

 江戸近辺は醸造技術が発達しておらず、酒と言えばどぶろくのような濁り酒に近いものが主だった。

 その為上方で洗練された江戸に運ばれた澄んだ酒は下り酒と呼ばれ、大いに持て囃された。

 一般庶民では滅多に呑めない高級品だが、以前の依頼がなかなか実入りのいい仕事であったため、奮発して買って来たのだ。


「いや、申し訳ありません。こんないい酒を」

「なに、毎晩お前に奢らせるのも悪い」


 折角のいい酒、一人で呑むのも勿体ないと持ってきたが正解だった。

 旨い。肴なんぞなくとも、これだけで十分すぎるというものだ。

 しかし酒を旨いと思ったのは、随分と久しぶりのような気がする。

 夜の見回りは何の実りもなく終わった。それでも互いの表情に曇りはなかった。


「甚夜さんは何故同朋を討つのですか?」


 酒を酌み交わしながら、思い出したようにぽつりと茂助は問うた。

 茂助が辻斬りを追うのは私怨だが、甚夜は『辻斬りを』ではなく『鬼を』討つと答えた。それが引っ掛かっていたのだろう。

 ぴたり、と淀みなく動いていた手が止まる。

 何と答えるべきか。

 以前は人だったと答える?

 鬼と人は相容れぬもの。元々人であったと知ったならば、この穏やかな時間もなくなってしまうのではないか。

 正直に答えていいものか、ほんの少し逡巡する。

 沈黙、そして重々しく口を開く。


「私は元々人だ。かつて想い人を鬼に殺され、憎しみをもって鬼に転じたが、今でも考え方は人に近い。人に仇なす鬼を討つのはある意味で当然だろう」


 止まっていた手を動かし茶碗を空ける。

 甚夜は自らが鬼になった理由を答えた。この関係が気に入っていたからこそ、嘘をついて誤魔化すような真似はしたくなかった。

 結果、この夜会が終わったとしても仕方のないことだ。


「成程。ああ、どうぞもう一杯」


 茂助は大して気にした様子もなく空になった茶碗に酒を注いだ。

 意外だった。もう少し、堅い反応が返ってくると思っていたのだが。


「随分簡単に納得するのだな」

「鬼は総じて我が強い。同胞で殺し合うことも珍しくないし、そもそも見ず知らずを殺されて怒るような善人でもないですしね」


 見ず知らずよりは一緒に呑む間柄を優先しますよ、などと冗談めかして彼は言う。

 鬼でありながら同胞を討つのではなく、人としての立場で鬼を刈る。嫌悪されてもおかしくないと思っていた。

 だというのに茂助は平然としている。そのような話は酒の肴でしかない、とでも言いたげな軽い態度だ。


「しかし私は元々人だ」

「過去がどうあれ今の貴方は鬼。ならば同朋であることに変わりはないでしょう」

「それはそうかもしれんが」


 納得がいかず憮然とした表情になるも、それがおかしかったのか、茂助は笑って酒を飲み干す。

 一度酒臭い息を吐き出した彼は、茶碗を握り締めたままやはり気安い調子で言った。


「閑古鳥は他の鳥の巣に卵を産むそうです」

「閑古鳥……?」

「ええ。ですが例え別の鳥の雛が孵ったとしても、一度親鳥となれば必死に雛を育てるし、雛はその鳥を親だと思う。自分で産んだ雛でなくとも雛には変わらず、雛にとっても育ててくれるならばそれは親。鳥でさえ生まれなど気にせぬのに、私達がそれを憂慮することもないとは思いませんか?」


 そう語る茂助は、実に楽しそうだった。

 今度は彼の茶碗に酒を注いでやる。朴訥な笑みで返し、旨そうに酒を呑む。それは茂助なりの気遣いなのだろう。その意を受け、感謝の言葉を述べる代りに甚夜もまた軽く笑った。


「生まれながらに鬼であっても、人から転じようと、木の股から産まれてこようが鬼は鬼。出自を問うて差異を付けるのは人くらいのものでしょう」

「耳に痛いな」


 人としての言葉だった。それを許されたのが嬉しかった。

 微かに口元を緩め、くい、と茶碗を傾ける。酒の味は変わらず旨いままだった。


「では、貴方が鬼を討つのは人を守るため、ということで?」

「まさか」


 そこはすぐさま否定する。

 想い人を守れず、大切な家族を傷つけた。そんな無様な男が守るなどと言える筈がない。それは口にしてはいけない言葉だ。


「理由は幾つかあるが、まずは金の為だ」

「金、ですか」

「人は鬼を嫌う。ただ出たと言うだけでそれを滅そうとする。私はそういう者達から金をせしめて鬼を討っている……軽蔑するか?」

「いえ、甚夜さんは、意味のない殺しをする方とは思えない。大方、人に危害を加える鬼だけを討つ、といったところでは? 俺が生かされているのが良い証拠です。それにほら」


 見せびらかすように、もう一口。

 大げさな身振りで酒を一気に飲み干し、美味い、とあからさまに嘆息する。


「その金で買った酒を楽しんでいる俺に何か言える訳もないでしょうに」


 わざとらしい態度が妙におかしくて、二人して声をあげて笑った。

 ああ、本当に。こんなに旨い酒は、こんなに笑ったのは久しぶりだ。

 気分がいいと酒もすすむ。一頻り笑い終え、酒宴は更に続く。

 そろそろ持ってきた酒も尽きようという頃、茂助は何度目かの問いを投げ掛けた。


「いくつか、というからには他にも理由が?」

「質問が多いな」

「俺は全てを話しましたからね。こちらも聞かせて貰わないと不公平じゃないですか」


 そういうものなのだろうか。

 だが他の者ならばともかく同じ鬼相手に隠すようなことでもない。


「……もう一つは、力を得るためだ。私はある鬼を止める為に生きている」


 思えば、この話を誰かに聞かせたのは初めてだ。

 酔いが少し醒めた。仕方ないとはいえ、己の弱さを直視するのは、やはり嫌な気分になる。


「鬼との戦いはそれに備えての鍛錬、ということですか。しかし止めるため、とは? 殺すではなく?」

「殺すのか生かすのかは逢ってから決める。だがどちらにしても最低限の力はいるからな」

「複雑なのですね」

「いいや、私が軟弱なだけだ」


 かつて未来を見る鬼が言った。

 百年以上先の葛野の地に、全ての人を滅ぼす災厄が現れると。

 遠い未来において鬼神と呼ばれる存在は、想い人を殺した鬼であり、同時に大切な妹だった。

 名を鈴音。

 今迄、あの娘を止める為だけに力を求めてきた。


 だが鈴音をどうしたいのか。その答えが今になっても分からない。

 救いたいと願っても、身を焦がす憎悪は捨てられず。

 殺したいと望んでも、かつての幸福が瞼にちらつく。

 葛野の地を離れてから既に十三年。

 だというのに、それだけの歳月を重ねても、未だに刀を振るう理由さえ見つけられぬ。

 そんな己の惰弱さに辟易する。


「茂助。お前は、妻の仇を討ったらどうする」


 話を逸らすように茂助へ問いかけた。誤魔化しもあったが、聞いてみたいというのも事実だった。

 形は違えど同じく愛しい人を奪われた。ならば彼が復讐の果てに何を見ているのか、それが知りたかった。


「特に何も」


 しかし返ってきた答えに、肩透かしを食らったような気分になる。

 気負いなく紡がれた言葉は、嘘でも誤魔化しでもないと分かる。分かるからこそ彼の答えは意外だった。


「そもそも俺が人に化けて暮らしているのは、争うのが嫌いだからです。鬼として生きるのは面倒だ。何かにつけて人は鬼を討とうとするし、鬼は我が強いから同朋であっても意見の違いで殺し合うことがある。そういうのが嫌だから俺は人として生きる道を選んだ。緩やかに、ただ日々を過ごせればと思っていました。……こんな事にならなければ<力>を使って誰かを殺すなんてこと考えもしませんでしたよ」


 投げやりに酒を呑む。

 茂助は無表情に、しかしほんの一瞬だけ顔を顰めた。

 きっと酒が苦いのだろう。そう思うことにした。


「日陰に隠れて誰にも気づかれず生きていければ、それで俺は良かったんです。何事もなく毎日を過ごしたかった……出来れば妻と一緒に。だから仇を討った後は、今まで通りひっそりと生きていくつもりです」


 妻の墓を守りながら、ってのも悪くないかもしれませんね。

 冗談を言ったつもりなのだろうが、浮かんだ表情には疲労の色が見て取れた。聞いてはいけないことを聞いたのかもしれない。


「儘ならぬものだな」

「まったくです」


 謝罪するのも失礼だ。だから愚痴のように零した。

 沈黙。二人は黙って酒を呑む。お互い酔いは完全に醒めてしまっていた。


「ああ、そうだ」


 視線は合わせず、目を伏せたまま。

 気分が沈んでしまったからか、思い出したように甚夜はぽつりと呟いた。


「先程のお前の話だが、一つだけ否定しておこう。お前は私が意味のないことはしないと言うが、そうでもない」


 そうして、乱雑に茶碗を煽る。


「私は、意味もなく妹を憎悪している」


 喉を通った酒は血の味だった。




 ◆




「あら? 甚夜君、いらっしゃいませ」


 翌日、茂助と探索へ向かう前に腹ごしらえでもと、日が落ちてから訪れた蕎麦屋『喜兵衛』。

 甚夜を迎えたのはいつも通りの奇麗な立ち姿で微笑むおふうだ。

 今日は杜若を模した簪で髪を纏めている。


「かけ蕎麦ですか?」

「ああ、頼む」

「はーい。お父さん、かけ一つ」

「あいよ!」


 元気よく答えた店主が忙しなく動き出す。

 そのまま適当な席に座ると、おふうが傍らに立ち、客など殆どいないというのに声を潜める。


「ところで、辻斬りは見つかりましたか?」


 前置きもない問いに、ぴくりと甚夜の眉が動いた。

 茂助のことは、おふうには話していない。

 何故彼女は辻斬りを追っていると知っているのか。


「話してはいなかったと思うが」

「何を言ってるんですか。御自分で言っていたじゃないですか、鬼退治が仕事だって。だったら鬼の噂を追うのも甚夜君の仕事のうちでしょう?」


 真相は訝しむほどのこともなかったようだ。どうやら彼女は、以前零した冗談としか思えない甚夜の言葉を真実として受け取ったらしい。

 実際真実ではあるのだが、それを額面通りに受け取るのは純粋なのか、言葉の裏を見る聡明さか。或いはただの世間知らずか、今一つ判断し辛いところだ。

 おふうは軽く膝を曲げて視線を落とし、甚夜の回答を待っている。おそらく言うまでこうしているつもりなのだろう。


「いや。中々上手くはいかない」


 諦めたように溜息を吐いて答える。

 と言っても進展はないため伝えられる内容はほとんどないが。


「そうですか……あまり気を落とさないで下さいね?」

「端から易々と見つかるとは思っていないさ。何を成すにもそれなりの苦労や面倒はある。鬼退治にしろ、商売にしろ、な」


 そう言って辺りに視線を漂わせる。

 店内は相変わらず客が少なく、甚夜の他には身なりの整った若い武士が一人いるだけ。この店も上手くいっているとは言い難い状況だ。


「あはは、相変わらず客足が悪くて」と、おふうは苦笑するように零すが、その雰囲気はどこか楽しげである。

「せっかくの看板娘が目に入らないとは、江戸の町も忙しないことだ」

「いやですねぇ、あまりからかわないでくださいな」


 君のような看板娘がいるのなら、もっと繁盛してもいいだろうに。

 遠まわしに世辞の一つも言ってみれば、満更でもないのか頬を染め、ふうわりと口元を緩める。

 とはいえ曲がりなりにも店屋の娘、仕事ぶりはぎこちないが、世辞には慣れているようだ。さらりと流し、後に引きずることもしない。


「お、旦那。なかなか手が早いですね」


 食いついたのは寧ろ彼女の父親の方だった。

 狭い店内、店主にも聞こえてしまったらしく、厨房から顔を出し話に加わる。

 娘を誑かす不埒の男に対して物申すのかと思えば、なぜか嬉しそうに笑っていた。


「おふうのこと、美人だと思いますか?」

「……十人に問えば、八人は美人と答えると思うが」


 素直にそう答えると、店主は前掛けを外して厨房から出てくる。

 そのまま傍に寄ってきて、ばしばしと甚夜の背中を叩く彼は、いかにも上機嫌といった様子だ。


「そうですかそうですか、いやぁ旦那は見る目がある! どうです旦那? なんなら、おふうを嫁にとってうちの店をやるっていうのは? 鬼退治もいいかもしれませんが小さい店を夫婦二人でってのも悪かないと思いますよ?」


 この男はいきなり何を言っているのか。

 別段親しくもないただの客に対して嫁だのなんだの、流石に話が飛び過ぎている。

 おふうは甚夜以上に付いていけないらしく、顔を真っ赤にして父親を怒鳴りつけた。


「お父さん! 行き成り何を言ってるんですか!?」

「いや、お前の婿候補を探そうと」

「そんなの自分で探せます!」


 娘に責め立てられ、先程までの上機嫌から今度は弱気な表情でおろおろとしている。

 一度声を出して多少溜飲が下がったのか、おふうは説教でもするように父親を窘めていた。

 そして甚夜は放置されている。かけ蕎麦はまだ来ない。


「だがなぁ、お前もそろそろ男の一人や二人作らんと。知ってるんだぞ? お前そういうお付き合い、今までいっぺんもしたことないだろ?」

「そ、それはそうですけど。でも時期が来ればちゃんと考えます。甚夜君にも迷惑でしょう?」

「いや、俺はただお前のことを心配してだな。俺もいい加減歳だし、任せられる男を探してぇってのが親心だろう」


 店主にとって甚夜は娘を任せられる男らしかった。

 特に評価されるような何かをした覚えもない為、彼の発言には違和感しかない。

 そもそも甚夜は定職を持たない浪人である。そんな男に大事な娘を任せていいのだろうか。


「それは、とても嬉しいです。でも私には私の考えがあるんですから」

「そうかぁ。旦那なら、お前と似合いだと思ったんだかなぁ」


 説教が一段落ついて、ぼやくように店主は言った。

 おふうはその言葉に不満げな様子で俯く。顔を上げた時には、瞳の端にほんの少しの寂寞を浮かべていた。


「もう、お父さんは私を追い出すことばかり考えているんだから」


 頬を膨らませるおふうの姿は普段よりも幾分幼く見える。

 彼女の物言いから察するに、こういったことは別に甚夜が初めてではないのだろう。

 案外若い男を見る度に婿にならないかと声をかけているのかもしれない。


「そういう訳じゃねぇよ。ただ俺は」

「分かっています。お父さんが、私をいつも心配してくれていることくらい」


 怒ったように見せても、そこにある愛情を感じるから決して冷たくはない。

 おふうは激昂しているのではなく、自分を嫁に出そうと急かす父親の行為を寂しく感じているだけである。

 対して店主の方は、娘が誰かと夫婦となって仲睦まじく暮らす、当たり前の幸福を願っている。

 二人の喧嘩は、結局のところお互いを大切に想っているからこそ。じゃれ合いと何も変わらなかった。


「大丈夫、ちゃんといつかは家を出ますから。でも、もう少し貴方の娘でいさせてくださいな」


 花が咲くような、とはこんな笑顔をいうのだろう。

 そう思わせるくらい鮮やかで、しっとりと優しい、柔らかな微笑みだ。


「すまねぇ……」


 その笑顔に打ちのめされたのか、すごすごと厨房に帰っていく。

 父親が奥へ引っ込んだのを確認して、おふうは心底申し訳なさそうに甚夜へ頭を下げた。


「甚夜君、すみません、父が変な事を言ってしまって」

「いや、気にしてはいないが」


 それに、いいものを見せてもらった。

 厨房に戻り、店主はようやくかけ蕎麦を作り始めてくれた。ちらりと盗み見た横顔からは、その内心を察することはできない。

 けれど父は娘を案じ、娘は父を慕い。

 親娘というのはこう在ってほしいと思う。

 在れなかった親娘を知っているからこそ、尚更に。


「良い父親だな」

「はい、自慢の父です」


 まるで自分のことのように喜ぶおふう。彼女の笑顔が眩しくて、甚夜は目を細めた。

 真っ直ぐなものを真っ直ぐに見ることが出来ないのは、自分が歪んでしまったからだろう。それを思い知らされたようで、花のような笑顔はほんの少しだけ痛かった。


「あの、こんな事を聞いてもいいのか分かりませんが」

「ん?」

「甚夜君のお父さんは違ったんですか?」


 感情を隠したつもりだった。

 しかし彼女にはお見通しだったようで、心配そうにこちらを覗き込んでいる。

 別に話す必要はない。誤魔化せばいい、そう思いながらも口は自然に動いていた。

 或いは、聞いてほしかったのかもしれなかった。


「私には妹がいてな」

「妹さん、ですか」

「ああ……鈴音という。父は鈴音に辛く当たっていた。自分の子ではないと言って虐待し、最後には捨てた。だから私も鈴音と一緒に家を出た。まあ、昔の話だ」


 父が鈴音を捨てた理由は伏せた。

 話して、「鬼を捨てるのは当たり前だ」と言って欲しくなかった。


「お父さんのこと、憎んでますか?」

「いいや。……正直に言えば、あの人の気持ちも分かるんだ。ただ」


 そうだ、今なら父の気持ちが少しだけ分かる。

 鈴音はおそらく、鬼が母を無理矢理に犯した末生まれた子だったのだろう。鬼に愛した妻を汚され、鈴音が生まれたことで命まで落とした。

 父が鈴音を虐待してきたその意味を今更ながらに理解する。甚夜もまた白雪を、大切な人を亡くしたからこそ、理解できるようになった。

憎悪とは培った愛情を塗りつぶす程に昏く淀んでいるのだと知ってしまった。

 だからもう、あの人を責めることは出来ない。

 何より己も結局は鈴音を見捨てた。父のことをとやかく言う資格はないだろう。


「ただ?」

「なに、儘ならぬと思っただけだ」


 僅かに歪んだ表情。おふうが気遣わしげな眼で見ていたが気付かないふりをした。

 脳裏を過ったのは茂助のこと。おふうと店主のこと。そして自分のことだった。


 愛した者を奪われ、それ故に憎しみに囚われる。

 お互いを想い合って、だからこそ言い争う。

 そして私は───


「綺麗にはいかないものだな」


 まこと人の世は儘ならぬ。

 己の感情一つとっても容易ではない。

 誰かを愛し、誰かを憎む。

 ただ生きて、ただ死ぬ。

 たったそれだけのことが、こんなにも難しい。




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