『鬼の娘』・2
夜の庭。転がる鬼。刀を構えた男。
星明かりの下に映る非現実的な光景。
「さて、私の腕はいくらで買ってもらえる?」
何気ない調子で男が言う。
それが「あんたに払うお金なんて一銭もない」と言ったことに対する皮肉だと気付くには、少しばかり時間がかかった。
「……嫌なやつ」
目の前の脅威が去って、ようやく落ち着いた奈津の返しは負け惜しみにもならない言葉だった。
善二も平静を取り戻し彼女の失礼な物言いを諌める。
「それはないでしょう、御嬢さん。助けて貰ったんですから……ていうか、甚夜、だったか。お前なんでここに?」
「私の雇い主は重蔵殿だからな。善二殿に帰れと言われても従う訳には」
「つまり帰ったふりして庭に隠れてたってか?」
「まあ、な」
帰ったふりをしてこそこそ隠れ、庭でずっと鬼が出るのを待ち構えていたらしい。想像するに結構情けない姿ではある。
とはいえそのおかげで助かったのだから、文句などあろう筈もない。善治は気を抜いて、大きく息を吐いた。
「はぁ。まあいいや、助かった。正直あんな化けもんが出てくるとは思ってなかったしな」
「……やっぱり、嘘だと思ってたんじゃない」
安堵してしまったが故に零れた言葉だった。
非難がましい奈津の視線にぎくりとする。失言だと気付いた時には既に遅かった。
「あ、いや、それは、ですね」
誤魔化そうとして、彼女の表情にそれすらできなかった。
歯を食い縛り俯く姿は痛みに耐えるようで、それを与えたのが自分だと分かるから口を噤んでしまう。
「別にいいけどね、もう終わったことだし」
ふいと視線を逸らす。
そう言いながらも横顔からは落胆と寂寞が見て取れた。信じて貰えなかった、その想いが彼女の胸中に昏い影を落としている。
「あの、御嬢さん」
「終わってなどいない」
弁明に声が被さる。
弛緩した空気の中、甚夜だけは意識を研ぎ澄ませ、庭を鋭く睨め付けている。
視界の先には、たった今斬り伏せたばかりの鬼の死骸があった。
「何言ってるの? 鬼は今あんたが斬ったでしょう」
鬼は動かない、完全に息絶えている。
しかし甚夜の表情は厳しく、未だ刀を納めてはいなかった。
見ろ、と彼に促され。言われた通りに二人は鬼に視線を送る。
するとおかしなことに気付いた。鬼の体の向こう側、地面が見えている。
つまり鬼が透明になっているのだ。
「おいおい、なんだ?」
死骸は更に色褪せ、夜に紛れるような自然さで消えていく。
初めて見る光景に奈津達は軽く混乱している。その間も止まることはなく、ものの数十秒で鬼は完全に存在しなくなった。
「死んだ、の?」
「鬼は死ぬと白い蒸気になって姿を消す。今迄、それ以外の死に方をする鬼なぞ見たことが無い」
奈津の呟き、横に首を振って返す甚夜の表情は険しいままだ。
鬼は死ぬと蒸気になって姿を消す。それが普通で、なのに今の鬼は白い蒸気など出さなかった。
だとすれば。
「どういうからくりかは分からんが、あれはまだ死んでいないということだ」
「じゃあ、あの鬼は」
「当然また来るだろうな。鬼の狙いが、その娘である限りは」
緩んでいた空気が再び張り詰めた。
甚夜は血払いに刀を振るい、ゆっくりと納刀する。柔らかく滑らかなその所作に、時間の流れまで緩やかになったような気がした。
「奈津殿。悪いが、今度は無理にでも護衛に付かせてもらう」
反して声は、鉄のようにひどく硬かった。
◆
一夜明け、縁側に甚夜は座り込んでいた。
寝ずの番をしていたが、結局鬼は姿を現さなかった。あの鬼は今まで夜にしか現れなかったという話だ。ならば夜が明けた今なら多少は安心できる。
とはいえ鬼が死んでいないことに間違いはなく、状況がよくなった訳ではない。一夜を越したがまだまだ予断は許さない、といったところだ。
すぅ、と背後で障子の開く音がした。
奈津が目を覚ましたのだろう。振り返れば、何処か陰鬱な様子の少女は声もかけずに歩き始めた。
「何処へ」
「顔、洗ってくる。付いてこないでよ」
ぴしゃりと言い放つ。
既に朝だ、昨夜の鬼が出ることはないだろう。そう思い、「ああ」と短く返し、再び庭を見やる。
整然とした庭には郷愁を呼び起こす風情がある。和やかな心地で眺めていると、戻ってきた奈津がゆっくりと隣に腰を下ろした。
「眠れたか?」
「少しは」
髪も梳かさず寝巻のまま。少女は沈んだ表情をしていた。
隣に座ったからといって親しい訳ではなく、気を許してもいない。二人の間を流れる空気はぎこちなく、無言の時間が長く続く。
「お嬢様、お待たせしました」
沈黙を破ったのは甚夜でも奈津でもなく、なにやら盆を運んできたまだ童の域を出ない須賀屋の小僧(使用人)だった。
「それ、こいつのだから。置いたらもう下がっていいわ」
「はい」
言われるままに盆を二人の間に置いて小僧は去っていく。
盆の上には二つの握り飯と漬物、急須と湯呑。出来たてなのだろう、まだほんわりと湯気が立ち上っている。
「これは?」
「朝ごはん」
そっけない一言。
意味を理解できず眉を潜めれば、苛立ったように言葉を続けた。
「だから、お腹減ったでしょ」
どうやら顔を洗いに行く、というのは口実でこれを頼みに行ったらしい。
護衛の礼というところだろう。不器用というか素直でないというか、なんとも難しい娘だ。
その心遣いに感謝し、甚夜は「ありがとう」と小さく頭を下げる。すると奈津は何故か驚いたような顔をしていた。
「どうした」
「……浪人がそんな素直にお礼、言うなんて思っていなかっただけよ。なんか調子狂うわね」
浪人、ということで粗野な人物だと思われていたようだ。それも仕方ないと思いながら、遠慮なく握り飯に齧り付く。
奈津はまだ何処かへ行くつもりはないらしい。無言で食べている甚夜の隣に座ったまま。二人は並んで庭を見ていた。
「やっぱり、今夜も来ると思う?」
「おそらくは」
「ふうん……」
強がって興味のない振りをしても体は小さく震えた。
全身が爛れた、醜悪な鬼の姿を思い出す。あんな化け物がまた来る。いや、それよりもあの鬼は言っていた。
『娘を返せ』
両親は物心つく前に他界し、奈津はその顔を知らない。
だから思う。あの鬼は、もしかしたら本当に───
「そう不安がるな。これでもそこそこ腕は立つ」
ひどく軽い物言い、朝の挨拶のように何気ない。
どうやら彼は鬼に『襲われる』のが怖いのだと勘違いしたらしい。
的外れな気遣い、しかし納得もする。鬼の存在は確かに恐ろしいが、この男も規格外だ。善二は「相当な剣の使い手」と言っていたが確かにその通りだったようだ。
「強いのは認めるわよ。浪人なんてどうせ口だけで、何かあったらすぐ逃げ出すと思ってたけど。お父様の目は確かだったみたいね」
褒めているとはいえ上から目線。失礼な態度だと奈津自身思う。
だが年端もいかぬ小娘の生意気な言葉など気にも留めていないのか、甚夜はまるで表情を変えない。
浪人というけれど、この男は本当に理性的だ。それが妙に引っかかって、奈津はおずおず問い掛けた。
「怒らないの?」
「怒る?」
「だって昨日から私、結構ひどいこと言ってると思うけど。なのに全然怒らないから」
「自覚はあったのか」
「五月蠅いわね」
強気な態度は臆病な自分を隠す為。そんなこと、ずっと前から自覚していた。
自覚して尚改めることの出来ない自分の無様さが嫌で、だからまた乱雑な言葉を吐いてしまう。
そういう自分が、奈津は心底嫌いだった。
「いいから答えなさいよ」
「ああ……」
もう一度茶を啜り、気負うことなく甚夜は答える。
「半分は演技だ」
「演技?」
「立ち合いの最中に感情を見せれば隙になる。だから普段から意識して平静であろうと努めている」
「表情を変えないのも剣の技の内ってこと?」
「そんなところだな」
常在戦場の心構えとでもいうのか、江戸の世に在ってこうまで戦う為の剣を意識する者など珍しい。
なんというか、言葉の意味は分かってもその考えは理解し難かった。
ただ少しばかり引っかかるところはある。
「……ちょっと待って。それってつまり内心怒ってたってことじゃない?」
「まあ、多少は」
軽い、それこそ茶飲み話のような調子だった。
だから逆に困ってしまう。
どう返せばいいものか。怒っているというのなら謝るべきなのだろうが今更という気もするし、かと言って謝らないのも何か違う。なんとも反応に困る答えだ。
「気にしなくていい。得体の知れない輩を信用できないのは当然だろう」
「それは、そうかもしれないけど」
続けようとして、結局何も言えず口を噤んでしまう。
言葉に詰まる少女。甚夜は静かに笑った。自然に湧き上がる、落とすような笑みだった。
「なにがおかしいのよ」
馬鹿にされたとでも思ったのか、奈津は目を細めて睨み付ける。
凄んだところで十三の少女。迫力なぞ微塵もなく、寧ろ我儘を言う子供のような印象を受けた。
それが殊更おかしくて、自然と表情も柔らかくなる。
「いや、不器用なものだと思ってな」
「……ふん」
気にするくらいなら最初から態度を考えればいい。大方そんな風に思っているのだろう。
だけどそんなこと言われなく分かっている。
奈津自身何度も思って、そして結局できなかったのだ。
もう少し優しく。たったそれだけのことが奈津にはあまりにも難しかった。
「まあ生き方なんぞ易々と変えられるものでもないか」
「……あんたも?」
「ああ。変えられんままこの歳になってしまった」
「そんなことを言うような歳じゃないでしょ」
「そう、だな」
声が僅かに強張る。
それを疑問に思ったのか、奈津が不思議そうに小首を傾げる。
「なんか私、変なこと言った?」
そうではない。ただ少しだけ胸に痛かっただけだ。
甚夜の外見は十年前葛野を出た頃から何一つ変わっていない。未だ十八のままだ。鬼となったせいだろう、彼の妹と同じく歳を取らなくなった。
この身はもはや人ではない。
何気ない会話にそれを思い知らされてしまった。
だから胸が痛む。その程度には、まだ人の心は残っていた。
「ふむ、打ち解けたようで何よりだ」
甚夜は言葉に窮し、代わりに店の方から歩いてきたしかめっ面の男が声をかけた。
須賀屋主人、重蔵である。
「お父様」
おかげで今の顔を見られずに済んだ。
すぐさま奈津は立ち上がり、父の下まで駆け寄る。ほんの少しだけ眉を顰めた甚夜に気付くことはなかった。
「おはよう。どうしたの、朝から?」
「様子を見に来ただけだ。奈津、昨夜は寝れたか」
「う、うんっ。お父様が、護衛の人を付けてくれたおかげで! 心配してくれてありがとう」
既に聞かれた問いだが、奈津は何度も頷き笑顔で答える。
生意気そうな娘だが父のことをよく慕っているし、受け入れて目尻を下げている辺り父親の方も娘を大切にしているのだろう。
随分と親子仲がいい。微笑ましい光景ではあった。
「そうか」
娘の無事を喜びながらも厳めしい表情は変わらず、しかし声には満足そうな響きがあった。
重蔵は一度重々しく頷き、今度は甚夜を見る。
「よくやった」
「まだ終わった訳ではありません」
「ならば、しっかりと役目を果たせ」
「努力はします」
無味乾燥な会話だった。
適当で素っ気ない遣り取り、しかも甚夜は茶を啜りながら目線も合わせない。
重蔵は気にしてはいないようだが、依頼主に対する態度ではない。もっとも彼の方も似たようなもので、お互いがお互いを見ようとしていなかった。
「あんた、お父……雇い主が話しかけてるのにその態度はないでしょ!」
奈津は甚夜の適当な受け答えが気に入らなかったらしく、声を荒げて諌めた。
大好きな父に対しての無礼な振る舞い、言わずにはいられなかったのだろう。
「奈津、いい」
「お父様……」
「そいつは信頼できる。多少の無礼くらいは構わん」
それを止めたのは、他ならぬ重蔵だ。
普段礼儀に煩い父は浪人の無礼を軽く受け止め、そのまま踵を返して再び店舗の方へ戻ろうとする。
意外な対応に驚いた奈津は何も言えず去っていく父を見送る。
数歩進んだところで、思い出したように甚夜が彼を呼び止めた。
「重蔵殿」
重蔵は振り返りもしない。立ち止まり背を向けたまま。
それでいい。面と向かって言う程のことでもない。
ただ一応、伝えてはおきたかった。
「借りは、返します」
一言で十分。乱雑に言葉を投げ捨てた後は、再び庭を眺め、ゆったりと茶を啜る。
勿論、奈津には意味が分からない。
しかし重蔵の方は何か思う所があったのか、すっと目を伏せた。
「……精々励め」
声は、どことなく満足そうに聞こえる。
甚夜も口の端を釣り上げた。
短い遣り取りでも二人には十分だったらしい。互いにそれ以上の言葉はなく、今度こそ重蔵は店へ戻った。
「ちょっと、今のなんなの?」
置いてけぼりを喰らったような気分になって、奈津は語気も強く甚夜を問い詰める。
だが答える気はない。
最後にもう一口茶を啜り、とん、と湯呑を盆の上に置く。わざと大きく音を立てるような置き方だ。
「馳走になった」
言うと同時に立ち上がり、甚夜もまた歩き始める。
夜を越えたならば護衛の必要もない。彼が帰るのは当然で、しかしまともに答えも返してもらえないというのは納得できず、奈津は声を荒げる。
「ちょ、何処行くのよ!」
「流石に眠たくなってきた。夜にはまた来る」
軽く手を上げる。
それが挨拶のつもりだったのか、特に何も言わず、立ち止まることなく庭を後にする。
そうして奈津だけがその場に残されてしまった。
「なんなのよ、あいつ」
無視されたことに苛立ちを覚え、去っていく背中を睨み付ける。
その後ろ姿は何故か、父のそれに似ていると思った。
◆
「おう、甚夜。もう帰るのか」
帰り際、店の方に顔を出すと善二が中で何やら店の小僧に指示を出している。店の準備で忙しいのだろう。
しかし少し聞きたいことがある。手の空いたところを見計らって声を掛ければ、仕事の途中であっても人懐っこい笑顔で迎えてくれた。
「ああ。その前に、少し話を聞かせて貰いたいのだが」
「今か? あー、……すんません、兄さん! ちょっと抜けたいんですけど」
おそらくはこの店の番頭なのだろう。
奥で帳簿を片手に商品を数えている、羽織を着た三十くらいの男に声を掛ける。
「奈津御嬢さんの件だろ? 昼までには帰って来いよ」
「分かってますって、そんじゃ行こう」
許可は割合簡単に出た。
どうやら番頭もある程度話は聞いているらしい。「あの我儘娘に付き合わされてお前も大変だな」、苦笑の意味はそんなところか。
なんにせよ有難い。仕事を早々に切り上げ、善二は小走りに店から出てくる。
「済まない、忙しい時に」
「なに、無理を言ってるのはこっちも同じだろ? そう気にすんなって。……俺も、少し話したいって思ってたしな」
鬼を目の当たりにし彼も思うところがあったのだろう。
軽い調子、気のよさそうな笑い方。
なのに声は何処か沈んでいた。
「なんか食うか?」
「いや」
「んじゃ茶だけでいいな。俺は団子を一皿」
須賀屋から離れた二人は、近場の茶屋に腰を落ち着け、手早く注文を済ませる。
流石に朝早いせいか客もまばら、話すには丁度良かった。
「まずは、昨日は助かった。もう一度ちゃんと礼を言いたいと思ってな」
膝に手を置いて、ぐっと頭を下げる。
食い詰め者の浪人相手であっても、しっかりと感謝を示すことが出来る。それだけで善二の気質が分かるというものだ。
甚夜は礼を受け取るが、表情は硬いまま。状況は変わっていないのだ、まだ油断はできなかった。
「終わった訳ではない、と言っただろう」
「あぁ、そうだったか……すまんが、今夜も頼む」
「勿論だ」
きっぱりと言い切れば、善二は何故か暗い面持ちに変わる。
片眉を吊り上げて視線を合わせれば、疲れたように苦笑を浮かべていた。
「お前は、ちゃんと信じたんだよな」
零れた言葉には力がない。
まるで懺悔するような響きに、甚夜の眉が微かに動いた。
店員が運んできた茶に手も付けず善二は視線をさ迷わせ、頼りない苦笑を浮かべる。
「お前は、鬼が出ると思って庭に隠れてたんだろ?」
「ああ」
「でも俺は、本当は信じちゃいなかったんだ。鬼が出るなんて、旦那様に構ってほしい御嬢さんの狂言だってな」
まるでもなにも、それは正しく懺悔だったのかもしれない。
己の過ちを悔やむ声音に、甚夜はただ黙って耳を傾ける。
「だけど御嬢さんは嘘なんざ吐いてなかった。俺は、ちゃんと信じてやるべきだった。なのに」
奈津を想うなら、どこの馬の骨ともわからぬ浪人以上に、信じてやらねばならなかったのだ。
なのにそれができなかった。
鬼なんている筈がないと、ただの狂言だと考えて、結果傷つけてしまった。
絞り出すような痛み。善二の顔に、震える肩に、後悔がありありと滲んでいる。
「すまん、忘れてくれ」
答えなかった。
何も聞いていないとでも言うように一口茶を啜る。その態度に善二はもう一度「すまん」と呟き、今までの雰囲気を払拭するように気軽な調子で笑って見せた。
「あー、聞きたいことってなんだ?」
空元気なのは分かり切っているが、それを指摘するのは無粋だろう。
だから甚夜は作り笑いに残る硬さには気付かないふりをして、徐に本題を切り出す。
「奈津殿のことを」
「御嬢さんの?」
「娘を返せ……あの鬼の言葉が少し、な」
「ああ……」
何が聞きたいのか、大凡の見当がついた。
善二は奈津の両親についてこう語った。
『何でも生まれて一年も経たないうちに亡くなったそうでね。それを旦那様が引き取ったって話だ』
つまり奈津の両親は既に死んでおり、彼女自身親のことを知らない。
ならば『娘を返せ』というあの鬼が、本当に奈津の親なのではないか。甚夜はそう考えているのだろう。
「確かに、御嬢さんの本当の両親はもう死んでる。お前の懸念も分かるが……安心しろ、それはない。そもそも、もしそうなら旦那様が御嬢さんを引き取る訳ないしな」
「と、いうと?」
しかしそれは在り得ないと善二は知っている。
とはいえ、話してもいいものか一瞬躊躇う。
しばらく考え込み、うむと一つ頷く。勝手に話すのは失礼な話だが、重蔵はこの浪人を随分と信頼していた。これも奈津お嬢さんの為、ならば少しくらいは良いだろう。
「旦那様は奥方を鬼に殺されてんだ」
善二が語るのは、重蔵の過去。鬼を憎む理由である。
いきなり物騒なことを言い出したせいか、ぴくりと甚夜が強張った。
気持ちのいい話ではない。彼の態度も仕方ないと言葉を続ける。
「兄さん……うちの番頭から聞いた話だけどな。御嬢さんを引き取るよりも前に殺されたそうだ。だからだろうなぁ。今回の件に関しては御嬢さん以上に過敏だし、鬼だのなんだのって話を毛嫌いしている」
「だから、もしも奈津殿が鬼の娘なら。その可能性が少しでもあるなら、引き取る筈がない?」
「そういうこと。それに御嬢さんは旦那様の親戚筋の娘で、両親のこともよく知っているらしい。何事にも絶対はないが、まずないと思うね」
そうか、と小さく呟き、甚夜は目を伏せた。
納得したのかしていないのか、難しい顔で黙り込み、何やら思索を巡らしている。
「まだ疑ってんのか?」
「いや。もう一つ聞きたいのだが、重蔵殿はそこまで鬼を嫌っているのか?」
「そりゃあな。……あー、実はな、旦那様には息子がいるんだ」
「息子……?」
「ああ。まあ息子って言っても俺より年上だし、昔出て行ってそれきりらしいがね。それも鬼のせいだと旦那様は言ってる」
気まずそうに善二は頬を掻いた。
口に出してみたはいいが、その辺りの事情は詳しく聞いていないから、これ以上言えることはない。
重蔵のかつての家族の話になると、奈津は悲しそうな顔をする。
それが嫌だった善二は、興味はあれど無理に踏み入ろうとは思えず、息子の話題には今まで殆ど触れてこなかった。
「奥方を殺され、息子が出てって。旦那様にとっちゃ鬼は家族を奪った仇敵なんだろう」
「……そうか、あの人も傷付いていたのだな」
「そういうこった、だから言葉の足りん人だろうが、悪くは思わないでやってくれ」
甚夜の表情は変わらない。
しかし噛み締めるような呟きを零した彼は、小さく頷き黙り込んでしまった。
不自然に間が空いて、どうにも居た堪れなくなり適当な話題を振ってみる。
「あー、そういやお前の親は?」
「随分と昔に」
一言だけだったが、硬い声にその意味を知る。
「もしかして、お前も」
「
「そう、かぁ」
だから善二は思う。
旦那様が何故浪人に大事な娘の護衛を任せたのか。それほどの信頼を浪人に置いたのか。
その理由を聞くことは出来なかったが、案外同じ匂いを感じ取っていたのかもしれない。
同じく大切な家族を亡くした者同士。多分通ずるものがあったのだろう。
「悪いことを聞いたな」
「いや、話したのは此方だ」
「そう言ってくれると助かるよ」
気まずい雰囲気はぬぐえない。
どうにも噛み合わないまま、二人はしばらく益体もない話をしてから別れた。
一夜明け状況は何も変わらないまま。
そして、また夜が来る。