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『鬼の娘』・1


 鬼が出る、という噂が流れ始めたのはいつの頃からか。





 天保八年、アメリカ船モリソン号が浦賀港へ侵入する。

 この事件を皮切りに天保十四年にはイギリス船サマラン号が琉球・八重山を強行測量、翌年にはフランス船アルクメール号が那覇に入港するなど、長らく続いた鎖国体制は破綻の兆しを見せていた。


 嘉永三年(1850年)・秋。

 ちらつく諸外国の影。まともな対応を取れぬ幕府。

 不安が少しずつ民の心を摩耗させたせいだろうか。

 江戸では「鬼が出る」という噂が実しやかに囁かれていた。

 元々江戸は怪異譚の多い都だ。嫉妬に狂う鬼女や柳の下の幽霊、夜毎練り歩く魍魎ども。

 数え上げれば切りがなく、しかしここ数年、目撃談は異様と言っていい程に増加している。

 だからと言って江戸の民の生活は変わらない。

 皆不安を抱きながらも日々を繰り返していく。


 ただ誰もが漠然と理解していた。

 何かが、終わろうとしていると。


 甚夜が葛野を出て、既に十年の歳月が流れていた。







 鬼人幻燈抄『鬼の娘』







 善二ぜんじが日本橋の大通りにある商家・須賀屋で住み込みを始めたのは十歳の頃である。

 小僧として使い走りや雑役に従事して早十年。二十歳になり手代を任せられた彼は生来の人懐っこい性格が幸いしたのか、問屋や顧客の覚えもめでたく次の番頭にと期待されていた。


「では、これからもよろしく頼んます」

「こちらこそ。善二さんが相手なら安心して商いが出来ます」

「はは、よしてくだせぇ。そんな大層な男じゃありませんて」


 日本橋一帯には大通りばかりではなく、その裏通りなどにも問屋が並び、人の出入りも多い為せわしない印象を受ける。

 善二もまた朝早くから日本橋を訪れ問屋の主人と話し込んでいた。

 須賀屋は根付や櫛、扇子などの小物を取り扱っている。職人に直接一品ものを依頼する他にも、問屋から大量生産品を仕入れることもある。

 当然問屋並びに足を運ぶ機会も多く、今ではすっかり裏通りの店主達と親しくなっていた。


「さて、帰って飯としますかね」


 発注を終え、帰り道を小走りで進む。

 朝から動き回って流石に腹が減った。今日の飯はなんだろかと鼻歌交じりに帰路を辿るも、店に着けば違和感から彼の足は止まった。


「って、なんだ?」


 須賀屋は通りに面した店と母屋を玄関棟で繋ぐ形の、比較的大きな商家である。

 店舗部は独立している為、滅多なことが無い限り常に玄関が開いている場合が殆どだ。

 しかし善二が戻ってきた時、まだ商いの時間だと言うのに店が閉まっていた。

 なんでだ? 

 疑問に思いながらも取り敢えずは玄関まで戻る。鍵は閉まっていないようだ。ゆっくりと引き戸を開きながら、出来た隙間から中を覗き見る。

 中には二人の男がいた。

 一人は見知った顔、須賀屋の主人である重蔵だ。

 そしてもう一人は見たことのない、六尺はある大男。

 善二は五尺程度しかないため、頭一つは違う。細身に見えるががっしりとした首周り、おそらく服の下は相当鍛えられているに違いない。


 旦那様、一体何話してんだ?

 刀を腰に携えた偉丈夫は、着物こそ綺麗に洗われているが髷を結っておらず、肩まで伸びた髪を後ろで縛っただけの乱雑な容貌だった。

 真っ当な武士ならばそんな髪型はしない。つまりあれはよくて野放図な武家の三男坊、或いは真面な職に在り付けぬ浪人というところだ。


 最初は因縁でもつけられているのかと思ったが、そういう雰囲気でもない。

 ではいったいどういう関係か。商家の主人と浪人なぞ接点もあまりないだろうに、態々店を閉めてまで話し込む理由など想像もつかなかった。


 もう少し隙間から様子を窺おう。

 そう思った矢先、大男がついと玄関へ視線を送り、思い切り目が合ってしまった。

 意識せずびくりと肩が震え、冷や汗が流れる。大男は善二に気付きほんの少しだけ眉を顰めた。

 まだ年若いようだがおよそ真っ当な生き方をしてこなかったのだろう。眼光は刃物のように鋭かった。


「誰か、来たようですが」


 低い声で男が言う。

 重蔵も気づき、こちらを見る。そうなれば覗き見している訳にはいかず、引き攣ったような笑みで引き戸を開ける。


「はは、どうも。なーんか、邪魔しちまったみたいで」


 どうにも居た堪れなくて、ぺこぺこと頭を下げながら仕方なしに店へ入る。

 そんな善二に主人はいつも通りの重苦しい声で語りかけた。


「……善二か」


 須賀屋主人・重蔵じゅうぞう

 須賀屋を一代で築き上げ、五十に届こうという歳でありながら未だに表に立って動く根っからの商人である。

 刻み込まれた眉間の皺が苦労を感じさせる、厳めしい面をした男だった。


「あっと、ただいま戻りました。旦那様。こちらは?」


 特に怒った様子もない。安堵し軽く息を吐いた善二は、視線を大男に送り尋ねる。

 すると重蔵は、眉間の皺を更に深めて答えた。


「今回雇った浪人だ」

「は?」


 思わず間抜けな声を零してしまう。

 雇った? 意外過ぎる答えに上手く頭が回らない。


「ああっと……店で働くんで?」

「阿呆。学もない浪人にそんな真似が出来るか」


 本人を目の前にしてそりゃねぇだろう。

 そこの青年も気分を害しているのではないかと、横目で表情を盗み見る。

 当の本人はどこ吹く風、表情も変えていない。

 浪人というから気性の荒い男かと思えば実に冷静だ。年の頃は十七か十八といった所か、自分よりも年下に見えるこの青年は、目の前で侮辱の言葉を吐かれても然して気にしていない様子だった。


「奈津に付けるのだ。これはそれなりの剣が使えるらしい」

「御嬢さんに?」


 奈津というのは重蔵の娘である。

 といっても血は繋がっていない。生まれて間もない頃、家族が不幸に逢い、天涯孤独となった彼女を重蔵が引き取ったのだ。

 顔に似合わず重蔵はこの娘を溺愛しており、奈津の我儘は大抵受け入れてしまう見事な親馬鹿ぶりである。

 其処まで考えて、浪人を雇う理由に思い当たる節があった。


「ああ、もしかして例の?」


 重蔵はゆっくりと、重々しく「うむ」と一言。

 成程、納得がいった。つまりこの浪人は護衛役という訳だ。


「後は任せる。奈津は血こそ繋がっていないが本当の子供と同じくらいに大切な娘だ。しっかりと守れ」


 厳めしい面はそのままに言い捨てる。

 依頼主とはいえあんまりな態度だが、大男は静かに頷いて返答とした。

 折り目の付いた所作に満足したのか、重蔵はほんの少しだけ口元を緩める。彼にしては珍しく、なんとなしに楽しげな表情だ。


「詳しい話はお前からしておけ」

「いや、でも、そういうのは旦那様からするのが筋じゃ」

「しておけ」

「……はい、かしこまりました」


 一睨みで反論を封じられ、従うしかなかった。

 元より店の旦那に逆らうなどという選択肢はなく、それはそれとして若干の不満はある。

 半目で店の奥へと下がる重蔵の背中を見送る。足取りは、何故かいつもより軽いように思えた。


「すまん。悪い人じゃないんだが。っと、俺は善二、須賀屋の手代を任せられてる」

甚夜じんやと申します」


 いつまでも不貞腐れていても仕方がない。善二は一連の遣り取りを無言で眺めていた浪人と改めて向かい合った。

 名乗れば浪人──甚夜もしっかりと頭を下げる。

 ほう、と感心して息を吐く。

 浪人といえばごろつきのような輩を想像していたが、どうもそうではないようだ。無表情ではあるが最低限の礼儀は弁えた青年である。

 多少警戒を解き、にっかりと笑って見せる。


「おう、よろしくな。早速だけど、旦那様からどんだけ話聞いてる?」

「娘が鬼に襲われようとしているのでそれを討ち払え、くらいでしょうか」


 呆れて溜息を吐いた。

 世間体を考えれば秘するべき奈津との関係を簡単に話してしまう癖に、肝心の依頼の内容は全く伝えていない。あの人は何をやってんだ。


「ほんとに何も話してないんだな……。なら、簡単にだが説明させてもらうよ。あんたに頼みたいのは奈津お嬢様の護衛なんだ」

「奈津……店主殿の娘、でしたか」

「ああ、今年で十三になる。ちょいと生意気だが可愛い娘さんだよ。聞いての通り血は繋がっていないけどな」

「奈津殿のご両親は?」

「何でも生まれて一年も経たないうちに亡くなったそうでね。それを旦那様が引き取ったって話だ。んで、だ。その御嬢さんが言うには、どうにも夜な夜な『鬼が出る』らしい」




 そうして善二は事の起こりを話し始める。


 鬼が出る。

 奈津がそう言いだしたのは昨日のことである。

 初めは奈津の部屋、廊下側の障子に黒い影が映ったというだけだった。奈津自身夢でも見たのだと思い然して気にしてはいなかった。


 二日目。影は昨夜よりも大きくなっている。

 障子の向こうは庭。つまり何者かが庭におり、段々と近付いてきているのだ。影は人の形をしている。

 だから奈津は思った。

 ああ、あれは鬼なのだ、と。


 三日目。流石に怖くなり奈津は父に相談する。

「鬼が出る」。重蔵は苦渋に顔を歪め、対策を取ると約束した。

 その夜のこと。唸り声と共に再び鬼は現れる。

 そして、やけにはっきりと通る声で言ったという。







『娘ヲ返セ』






「娘を返せ……」

「ああ。つまり鬼は奈津御嬢さんを娘だと思って攫おうとしてるって訳だ」


 娘を求める鬼。

 荒唐無稽な、いかにもな怪談。にわかには信じがたい話である。

 鼻で嗤うかとも思ったが、話を聞き終えた甚夜は、真剣な表情で何事かを考え込んでいる。


「あんたはその為の護衛ってことだ。本当に出るのかどうかは分からないが、まあ、護衛付けて旦那様や御嬢さんが安心するならそれでいいさ」

「その物言いからすると、善二殿はあまり信じていないようですが」

「ああ、いや、まあ……な」


 図星を突かれたせいで歯切れの悪い返しになってしまった。

 指摘された通り、正直なところ善二は鬼の話をあまり信じてはいなかった。

 そもそも彼は須賀屋に住み込みをしており、しかし昨夜鬼の声が聞こえたなどと言うことはなかったのだからそれも仕方ない。

 奈津は十三歳。子供というほどの歳でもないが、まだまだ父親に甘えたい頃だろう。

 だから「鬼が出る」というのは奈津の狂言で、ただ単に父親の関心を引きたかったのではないかと思っていた。


「ま、まあ、俺がどう思っていようが構わないだろ? 大事なのは奈津御嬢さんなんだから。しかし、なんだな。目に入れても痛くないくらいに溺愛してる御嬢さんの護衛を、なんで浪人なんぞに任せようと思ったのか」

「浪人だからでは? まさか鬼が出たと奉行所に助力を乞う訳にもいかぬでしょう」

「あぁ、そりゃそうか」


 ごもっとも、と善二は納得する。

 言い方は悪いが、金で転ぶ浪人くらいしかこんな話を受けなかったというだけのこと。

 その中でもまだマシだったのが目の前の男なのだろう。


「っと、悪い。流石に失礼な物言いだった。一応言っとくけど別に馬鹿にしている訳じゃないぞ? 旦那様の性格からすると考えられないってだけで」

「いえ、お気になさらず」


 またやってしまった。

 重蔵に引き続いての失言を顧みてすぐさま謝るが、やはり甚夜は平然としていた。

 気にしていないのか顔に出さないだけなのか、本当に動じない男である。

 まあ、このくらいの方が有難いと思う。

 なんせ彼が護衛しなければならない奈津は、商家のお嬢様ではあるが、お淑やかとは言い難い。生意気というか、ほんの少し口の悪い娘だ。

 護衛が気性の荒い浪人でなくてよかった。こういう男なら途中で腹を立てて帰ってしまうことにはなるまい。


「そっか、ならいいんだけどよ。あと、話し方も普通でいいって。堅苦しいのは苦手でね」

「商家の手代がそれでよろしいのですか?」

「んな大層なもんじゃないって、小僧が少なかったから俺が選ばれたみたいなもんだし」

「それだけの理由で選ぶような人ではないと思いますが」

「ま、確かに。あんまりの謙遜は旦那様に失礼か、と話が逸れたな。なんにせよ俺は気安い方がいいんだ」


 堅苦しいのが苦手なのは本音で、理由の半分。もう半分はこの浪人が気に入ったから。

 善二の砕けた態度に甚夜は少しの間逡巡していたが、繰り返し「気にするな」と念を押せば、やっと観念して首を縦に振ってくれた。 


「ではお言葉に甘えて」

「まだ硬いが、まあいいか。さ、話してばかりでも仕方ないな。そろそろ御嬢さんの所に行く」

「善二っ!」

「悪い。行く必要なくなった」


 いい感じに話が落ち着いたところで、店に年若い女の声が響いた。

 二人して声の方に視線を向ければ、そこには品のいい茜色の着物を纏った少女の姿。

 須賀屋主人、重蔵の娘。

 奈津なつが両手を腰に当て、不機嫌そうに目の端を釣り上げていた。


「あー、御嬢さん、ただいま戻りました」

「遅い。ちゃんと早く帰ってきなさいって言ったでしょう」


 相変わらずの態度である。奈津は気が強く、歳上の善二にも命令口調で話す。

 生意気、口が悪い。須賀屋の者達が抱く印象はそんなところ。もっとも善二自身は然程気にしてはいないのだが。


「いや、そんなお袋じゃあるまいし。あと一応俺仕事してきたんですけど」

「何か言った」

「いいえー、別にー」


 じろりと睨まれ、思わず苦笑いが零れた。

 血が繋がっていないという割には、父親張りの視線の鋭さである。

 奈津は今年で十三歳。

 多少きついところもあるが、幼い頃から付き合いのある善二にとっては、生意気ながらにかわいい妹といったところだ。

 裕福な商家の娘であってもそれを鼻にかけたりはせず、店の小僧だからといって見下したりもしない。

 辛辣なのは確かだが、根本的には「いい子」であり、善二はこの少女のことが決して嫌いではなかった。


「ところで、そこの人は? お客じゃないんでしょう?」


 言いながら奈津は甚夜に訝しげな視線を送っている。

 というのも、彼は正に浪人といった出で立ちである。浪人というのは殆どが真面な職に付けぬ食詰め者。印象が悪いのも仕方のないことではあった。


「あーと、旦那様がお嬢様につけろと」

「お父様が?」

「はい。護衛ですよ、鬼が出ると仰ってたでしょう」

「ふうん。随分若いけど」

「はぁ、旦那様が言うには相当な剣の使い手らしいですが」

「本当にぃ?」

「ええ、まあ」


 いや俺も見た訳じゃないですけどね、とは言わなかった。

 敢えて疑惑を強めるようなことは言わなくてもいいだろう。


「そう、じゃあ帰ってもらって」


 しかしその気遣いもあまり意味はなかったらしい。

 ふい、と首を横に向け、無遠慮に奈津はそう吐き捨てた。


「って、お嬢様。いきなりそれは」

「護衛につくって、つまりずっと一緒にいるってことじゃない。いやよ、どうせ金目当てで胡散臭い話に飛びついたごろつきでしょう? でもお生憎様。あんたに払うお金なんて一銭もないわよ」

「いや、別に御嬢さんが払うわけじゃ……あと、旦那様が選んだんだから、ごろつきってほどじゃないと思いますよ。というか自分で胡散臭いとか言っちゃうんですね」

「いちいち五月蠅いわね。とにかく浪人が護衛なんて嫌」


 自分も人のことは言えないが、親娘揃って辛辣な物言いだ。

 思いながらも雇われの身、下手に諌めることも出来ない。だからなるたけやんわりと進言する。


「しかしですね。折角旦那様が御嬢さんの身を心配してくださったんですから」

「どうしてもっていうなら善二がつけばいいじゃない。あんたなら別にいいわ」

「あー、いや、俺弱いですよ?」

「あっそう、ならいい。そいつは早く追い出しなさいよ」


 不満げに頬を膨らませ、奈津は部屋に戻っていく。男二人、どうすることも出来ずに立ち尽くす。

 その一方的な態度は、重蔵のそれと本当によく似ていた。

 二人のやり取りを黙って聞いていた甚夜は表情も変えず、呆れとも感心ともつかぬ息を吐きながら呟く。


「血は繋がってないという話だが、親娘は似るものだな」

「……なんか、つくづくすまん」


 いや、まったく。

 善二は乾いた笑みを浮かべるしかできなかった。




 ◆




 染み渡るように広がる夜、江戸の町はいっそ不気味なまでに静まり返っている。

 草木も眠る頃になり、しかし眠れないまま奈津は布団の上で膝を抱えていた。

 夕食後は自室に籠っていたが一向に眠気は訪れない。寧ろ夜が深くなる程に不安が募り、余計に目は冴えてしまっていた。

 脳裏に浮かぶは醜悪な鬼の姿。

 日を追うごとに庭の影は大きくなっている。

 ならば今度は、この部屋に鬼が入り込むのではないだろうか。自身の想像にぶるりと肩が震えた。


 生意気。気が強い。普段の言動からそう思われている奈津だが、所詮は十三の娘。決して傍目程に強い訳ではない。

 物心つく前に家族を失い、だから一人になるのが怖くて。

 重蔵に引き取られ家族を得て、だから捨てられるのが怖くて。

 怯えてばかりの自分が嫌いで、だから必死に外面を強気な自分で取り繕って。

 素直な自分を出せなくて、だから人に好かれている自信が無くて。

 外面からは思いもしないくらいに彼女は鬱屈とした感情を抱き、しかし意地を張って平気な振りをする。奈津はそういう少女だった。


「御嬢さん」


 不安に沈み込む思考が、聞き慣れた男の声に引き上げられた。


「善二?」


 障子越しに人影が映る。

 声の主は善二。奈津が四歳の時に須賀屋へ来た男である。

 彼とは右も左も分からぬ小僧の頃から付き合いで、奈津が辛辣な物言いをしても決して怒らず、普段からよく気にかけてくれる稀有な人物だった。

 多少情けないところもあるが、人懐っこく話しやすい。恥ずかしさから面と向かって口にしたことはないが、彼女は善二のことを年の離れた兄のように思っていた。


「まだ寝ていないんですか?」

「あんたこそなにしてるのよ、こんな夜更けに」

「いや、まあ。護衛の真似事でもしようかと」


 予想していなかった返しに奈津はあんぐりと大口を開けた。

 縁側に座り込む善二は、鬼が現れた庭をじっと監視している。脇にはお盆と急須、湯呑。奈津の部屋の前から動かず、寝ずの番をするつもりらしかった。


「……なんで?」

「御嬢さんが言ったんでしょう。俺が付けばいいって」


 先程の浪人は帰した。

 元々善二は鬼が本当に出るとは思っていない。だから護衛などいなくても然程問題はないと考えていた。

 けれど奈津が不安を感じているというのなら、その真似事くらいはしてもいいだろう。

 荒事に慣れていない自分では案山子と変わらないし、明日は確実に寝不足だが、それで奈津がゆっくり眠れるのなら御の字というものだ。


「それは、そうだけど」

「剣の心得なんざありませんが。ま、盾くらいにはなれますよ」

「善二……」


 軽く笑えば、安堵したような声で奈津が呟く。

 しかし素直になれなくて、刺々しい憎まれ口に変わる。


「ふん、どうせあんたも私が嘘を吐いているとでも思ってるんでしょ」

「いや、あー……」


 善二は口ごもった。

 事実だから上手い返しが出来ない。奈津の声は悔しさに耐えるように、怯えるようにぐっと唇を噛み締めていた。


「お父様も嘘だと思ってるからあんな浪人をあてがったのよ。そうに決まってるわ」

「いえ、それは違うと思いますよ」


 すぐさま否定する。

 確かに自分は鬼が出るなんて信じ切れてはいないが重蔵は違う。それだけは間違いなかった。


「旦那様は御嬢さんのことをいつも心配して、いつも気にかけてます」


 力強い言葉。

 けれど、そのまま受け取れるほど、少女は強くなれなくて。


「でも、私は」


 ───あの人の本当の子供じゃないし。


 口にしかけた言葉が怖くて、途中で飲み込む。

 傍から見れば重蔵は十分に奈津を大切にしている。

 しかし血の繋がりが無いという負い目か、奈津はそれを認められないでいた。


 両親が死んだのは物心がつく前だったから、本当の親がいないと悲しんだことはない。

 奈津にとって本当の親とは重蔵のことだった。


 けれど聞いてしまった。

 須賀屋の使用人は言っていた。重蔵には、今は出て行ってしまったが息子がいたと。

 だから思う。

 もしかしたら私は、本当の子供の代用品なのではないか。

 だからあの人は、私が想うほどには想っていてくれないのでは。

 不安が消えることはない。


 ああ、いっそのこと──







『返セ』






 やけにはっきりとした声が聞こえた。


「あ、ああ……」


 来た。やっぱり今夜も来てしまった。


「御嬢さん、どうしたんで?」

「来た、来たのっ!」

「来たって何が……っ!?」


 動揺する奈津。

 一拍子遅れて、善二もまたその声に気付く。

 庭を睨めつければ、夜の闇の中うごめく影が。




『娘ヲ』




「おいおい……まさかだろ」


 善二は思っていた。

 奈津は仕事ばかりの父の興味を引きたくて、心配してほしくてあんな嘘を吐いたのだと。

 護衛など意味がない。

 大切なのは奈津が安心できるようにしてやることだ。

 そう、思っていた。

 だから、まさか。

 本当に鬼が来るなんて考えてもいなかったのだ。




『返セ……!』




 一体何処から現れたのか。

 空気が滲み、闇夜が揺らめき、浮かび上がるように鬼は姿を現した。

 酸でも浴びたように爛れた表皮をした鬼。その外観からは男か女かも定かではない。四肢を持った肉塊が腕を突き出し、何かを求めるようににじり寄る。


『娘ヲ…返セ……!』


 いや、何かではない。

 この鬼は娘を、奈津を手にしようとしている。

 どうすればいいのかは分からないが、とにかく立ち上がり善二は身構える。


「ぜ、善二」

「御嬢さん、部屋から出たらいけません!」


 思わず叫んだが遅かった。

 既に奈津は障子を開け、醜悪な鬼の姿をその眼で見てしまった。


「ひぃ……」


 叫び声にもならない。引き攣った声が漏れただけだった。

 善二は庇うように奈津の前に立ち、立って、立って……後はどうすれば?

 あんな化け物を前にして俺に何が出来る?

 分からない。何も分からない。足が震える。なんだこれ。混乱する意識。けれど鬼は止まらず距離が縮まっていく。


『娘ヲ……』


 俺、此処で死ぬのか?

 恐怖で頭がどうにかなりそうだ。だけど御嬢さんを見捨てて逃げるなんて選択肢は初めからない

 鬼がまた近付く。


『返セ……!』


 手は善二を縊り殺そうと伸ばされ。

 なのに逃げることもできなくて。

 ああ、もう駄目だ。

 俺は、此処で。




 突き出された鬼の腕が消えた。





「……あ?」


 善二は死を覚悟し、しかし次の瞬間、鬼の腕が地面に転がっていた。

 一体何が?

 目の前にふらりと人影が現れる。

 突然の出来事に理解が追い付かない。

 意識の外から現れた影に驚愕し、その姿を認めて呆気にとられる。

 影は、背丈六尺近い総髪の大男だった。

 腰に携えた鉄鞘に納められた刀。

 その出で立ちには見覚えがある

 あれは、先程の浪人ではないか。


「一応聞いておこう。名はなんと言う」


 日常の会話と然程変わらぬ軽い調子で大男は問い掛ける。

 鬼は答えない。返せ返せと同じ言葉を繰り返している。


「まあ、元より期待はしていないがな」


 ふう、と一度溜息を吐いた。

 異形を前にしてあまりにも平静過ぎる男。その立ち振る舞いは自然で、普通すぎて、ほんの少しだけ奈津の恐怖は薄れている。


「あんた、さっきの浪人……?」

「今は押し売りだ」


 大男は緩慢とも思える動作で刀を構える。

 それが自分を斬った獲物だと理解したのか。

 先程までゆっくりとしか近付いてこなかった鬼が、突如として大男に飛びかかった。


「あぶ……!」


 ない、とは続けられなかった。

 一太刀。僅かに一太刀。

 鬼の動きに合わせ一気に踏み込み、唐竹に振るわれた刀。善二が気付いた時には異形は両断され、地に伏せっていた。


「つ、つえぇ……」


 尋常ではない。

 男は鬼を刀一本で斬り伏せた。その姿は、まるで読本の中に描かれる嘘くさい伝説を持った剣豪そのものである。

 ゆるりと振り返り、鬼の死骸を背にした浪人──甚夜は表情を変えることなく静かに言った。



「さて、私の腕はいくらで買ってもらえる?」




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