余談『あふひはるけし』(了)
そうして歳月は流れる。
◆
昔々のお話です。
ある村に一人のお姫様が住んでいました。
お姫様にはいつも護衛がついています。
護衛の青年は幼馴染で、二人はとても仲がよく、中々屋敷の外へは出られなかったけれど幸せな毎日を過ごしていました。
でもそんな二人を遠くから眺めている者がいます。
一人は村長の息子。
村長の息子はお姫様が好きでした。だから青年のことが憎く、いつもいつも辛く当たっていました。
もう一人は青年の妹。
妹にとってもお姫様は幼馴染でしたが、兄がお姫様のことを好きなのが分かるから、大好きな兄を取られたような気がして寂しい思いをしていました。
それでも表面上は何事もなく毎日は過ぎていきます。
ある日のことです。村を二匹の鬼が襲います。
鬼はお姫様を攫おうと考えていたようで、青年はお姫様を守るために鬼の根城へと向かいました。
森の奥にある住処には、一匹の鬼が待ち構えていました。どうやらもう一匹は村へ行ってしまったようです。
青年はなんとか鬼を打ち倒し、急いで村へと戻ります。
ただ不幸だったのは、青年の敵が鬼だけではなかったということでしょう。
「これは好機だ」
村長の息子は青年がいなくなったことを喜び、お姫様を自分のものにしようと動き始めました。
集落での地位を利用し、彼はお姫様に結婚を強いたのです。
お姫様はそれに逆らうことができません。
守ってくれるはずの青年も今はいない。村長の息子は、まんまとお姫様を手に入れたのです。
憤ったのは青年の妹でした。
ですがその怒りが向けられた先は村長の息子ではありません。
「なんでお兄様を裏切ったのですか」
大好きな兄を傷付けるお姫さまこそが悪いのだと妹は詰め寄ります。
それは妹の意思だけではなかったのかもしれません。妹の傍にはもう一匹の鬼がいました。鬼は妹がお姫様を憎むように仕向けたのです。
たとえ仕組まれたものだとしても妹の憎しみが治まることはありません。
嫉妬の心に焼かれた彼女は次第に姿を変え、なんと赤い鬼になってしまったのです。
彼女は憎しみのままにお姫様を殺してしまいます。
「妹よ、お前はなんてことをしてしまったのだ」
そこで運悪く帰ってきてしまったのが青年です。
自分の想い人が妹によって殺された。それを目の当たりにした青年には、妹が許せません。
妹を心から憎み、青年もまた青い鬼になってしまいました。
青鬼となった青年は、妹を誑かした鬼を討ち、赤鬼をも切り伏せます。
赤鬼は兄に憎まれてしまったことを悲しみ、彼の前から去っていきました。
「私は貴方を愛していました。だから貴方に憎まれたのなら、現世など必要ありません。私はいつかこの世を滅ぼすために戻ってきましょう」
最後に、不吉な呪いの言葉を残して。
そうして青鬼は愛した人を、家族を、自分自身さえ失くしてしまいました。
鬼になってしまった彼は「もう人とはいられない」と旅に出たそうです。
或いは、行方知れずの赤鬼を探しに行ったのかもしれません。
以後の青鬼の行方は誰も知りませんが、江戸には人を助ける剣鬼の逸話がごく僅かですが残されています。
おそらくこれは旅に出た青年が江戸に立ち寄った時のことなのでしょう。
一説には、旅をする青鬼の隣にはいつもお姫様の魂が寄り添っていたそうです。
これが葛野の地(現在の兵庫県葛野市)に伝わる姫と青鬼のお話です。
河野出版社 大和流魂記『姫と青鬼』より
◆
2009年・2月
私の家は境内に桜の木が植えられた、市内でもそれなりに有名な神社だ。
お父さんが神主でお母さんが巫女。うちは江戸時代から続く歴史ある神社らしい。私はあまり興味がないから謂れなんかは詳しく知らないけれど。
参拝客の少ない日曜日の朝。
何気なく境内を見てみると結構落ち葉が散らかっていたので、時間もあることだし私は竹箒で掃除を始めた。
一人で境内を全部掃くのは時間がかかるかと思ったけれど案外順調に進む。
一時間もしないうちに掃除は終わり、一角にはこんもりと落ち葉の山が出来ていた。
「……寒いなぁ」
ぼやきながら私は悴んだ手に息を吹き掛けて温めた。
吐息は白い。流れる木枯らしが小さく砂を巻き上げ、空には薄墨のような雲がかかっている。真冬の情景には色がなく、少しだけ寂しく見えてしまう。
「あら、みやかちゃん。境内の掃除してくれたの?」
声の方に振り返ると、いつの間にかお母さんがやってきていて、綺麗になったわと微笑んでいた。
「ごめんなさいね、折角の休みなのに」
「別に。やることもなかったし」
自分でも素っ気ないと思う返し。
こういう言い方しかできない私を、お母さんはくすりと笑う。
「ありがとう。でも、どうせならちゃんとした服を着ない?」
「いいよ、そういうのは」
だって服というのはお母さんが今着ているもの、つまり巫女装束のことだ。
流石にその恰好は恥ずかしい。
お母さんは年齢よりも若く見えるし、綺麗だから似合うとは思う。
だけど私が着たって似合わないし、なにより友達が訪ねてきたらからかわれるに決まっている。
わー、みやかちゃんかわいいー。
一番の親友は多分そう言ってくれるだろうけど、それはそれで反応に困ってしまう。
「いいからいいから」
「ちょ、お母さん!?」
まあどんなに拒否しても、ほぼ強制的に巫女装束を着せられてしまうのだけど。
いつも笑顔で優しいお母さんは、その実ものすごく押しの強い人なのだ。
「お母さんはいつも強引なんだから……」
結局無理矢理服を変えられてしまった。お母さんはにこにことご満悦だ。
いつ着てもサイズがピッタリなのに、釈然としないものを感じてしまう。
「みやかちゃん、とっても似合ってるわよ」
何の裏もなく褒めてくれているのだと分かっているけど、それでも恥ずかしいことには変わらない。
私は呆れるように溜息を吐いた。
「お母さん」
「なあに?」
「前から思ってたけど、なんで私にそこまで巫女をやらせたいの?」
ここは観光名所という程ではないが、ものの本に載る程度には有名な神社で、神主が常駐していることから分かるように敷地もそれなりにある。
とはいえ巫女の仕事は殆どお母さんが仕切っており、大変なのは分かっているからお祭りの時は私も手伝っている。
あとは、行事ごとにアルバイトを雇うことで十分回っており、普段から巫女の恰好をする必要はないと思う。
いや、働きたくないのではなく、巫女装束が恥ずかしいというだけの話ではあるのだけれど。
「そうねぇ。それが、この神社に生まれた女の役目だから、かしら」
私の疑問に穏やかな口調で答えてくれる。
ゆったりと、優しく微笑むお母さんは娘の私から見ても魅力的だった。
長い黒髪はまさに大和撫子という印象。こんな女の人が巫女なら参拝客も増えるかもしれない。
でも私は背が無駄に高いし、長いのは同じでも髪は少し茶色がかっていて、とてもじゃないが巫女なんて似合わない。
「勿論、高校を卒業したらこの神社を継ぎなさい、なんて言わない。貴女は貴女の好きなように生きればいいと思うわ。でも、せめてここにいる時は巫女であってほしいの」
境内に植えられた桜の木を眺めるお母さんは、何処か遠い所を見るような、心ここに非ずといった様子だった。
かと思えば急に歩き始め、お賽銭箱の前で立ち止まり手招きをしている。
呼ばれるままに渡しもついていく。お母さんはお賽銭箱の向こう側、木の格子の奥に在る御神体。確か“狐の鏡”とかいう、戦時中に焼失した京都の神社から移ってきた鏡をじっと眺めていた。
「娘が生まれたなら名前には必ず『夜』を付けること。そして巫女を絶やさぬこと。この二つだけは決して違えてはならぬ」
声の調子はいつもと変わらない。
なのに何故か重々しく感じられる語り口だった。
「これが私達の御先祖様が取り決めたこと。私もお婆ちゃんに、この伝統だけは必ず守って、次の世代に繋いでいきなさいと教わったわ」
「なんで?」
「さぁ?」
予想外の返答にどう反応すればいいのか分からなかい。
もっと重々しい感じの話になると思っていたのに。
「なにそれ」
「何故かは私も分からないわ。でも分からなくてもいいの。この話をする時、お婆ちゃんは凄く楽しそうだった。だから私も守っていこうと思ったのよ」
そう言ったお母さんは懐かしむような、とても穏やかな顔をしていた。
お婆ちゃん。私からすると曾お婆ちゃんになるけれど、一体どんな人だったんだろう。
「それにね。私達には分からなくても、それを決めた誰かにとっては、この伝統はすごく大切だったんじゃないかと思う。なら守ってあげないと。伝統は守らなくてはいけないもの。でも本当に守るべきは伝統という形じゃなくて、そこに込められた想い」
お母さんは私に向き直った。
そして穏やかさはそのままに、真剣さを増した瞳で私に語り掛ける。
「だから、私達は『夜』の名を継いでいくの。遠い昔に在った筈の想いが、長い長い歳月に迷い、帰る場所を見失ってしまわないように」
自分の母親なのに、とても綺麗だと思う。
雲のない空を見るような、すがすがしい不思議な感覚だ。
「今度は、名も知らぬ誰かの想いを貴女が未来に紡いでいくのよ……
ふわりと柔らかい微笑み。
絹のような肌触りは、きっと誰かの優しさなのだろう。
「お母さん」
「さ、私はそろそろご飯の用意をしてくるわね」
言いたいことだけを言って、満足そうにお母さんは家に戻っていく。
その時にはいつも通りのお母さんの顔で、さっきまでの雰囲気とは違い過ぎて戸惑ってしまう。
「……なんだかなぁ」
残された私はどうすればいいのか分からず、ただ境内で立ち尽くす。
まあ、あんまり考えても仕方ない。ご飯になるまでもう少し掃除をすることにした。
そうやってのんびり境内を掃いていると、いつの間にか参拝客が訪れていたことに気付く。
態々休みの日に、それも朝から神社にお参りなんて珍しい。
真新しい制服を着た、背の高い男の子だった。
見た目高校生くらい。剣道部なのか、手には竹刀袋が握られている。
襟元の校章は私が今年の四月から通う戻川高校のもの。もしかしたら同級生なのかもしれない。入学前にお守りでも買いに来たのだろうか。
色々と考えている。思っていると、何故か男の子は私の方に近付いてくる。
もしかしてナンパの類? それとも写真撮影?
「貴女は、ここの巫女ですか? 少し聞きたいことがあるのですが」
私の予想は思い切り外れていた。
しまった、私はまだ巫女装束のままだった。境内でこんな恰好をしていたら関係者だと思うに決まっている。
ちょっとぼけてたみたいだ。仕方ない、声を掛けられたからには受け答えはしないといけない。
ただ、間違いは訂正しておこう。
「いえ、巫女じゃなくて、いつきひめです」
「いつき、ひめ?」
男の子は疑問符を浮かべている。
それはそうか。いきなり言われたら何のことかは分からないに決まっている。
そういう人は結構多いので、こちらの対応も慣れたもの。私は営業スマイルで、男の子に説明する。
「この神社では巫女のことをそう呼びます。正確な理由は分かりませんが、昔からの習わしだそうです」
この神社では、何故か巫女のことを「いつきひめ」と呼ぶのだ。
実はそう呼ぶということしか知らないので、最初から予防線を張っておく。
さっきのお母さんの話じゃないけど、いつきひめという呼び方にも誰かの想いが込められているのかもしれない。そんなことを想像したら、なんだか自然と微かな笑みが浮かんだ。
「そう、ですか」
男の子はいつきひめと噛み締めるように呟いた。
かと思えば真剣に、何処か縋るような声で問うた。
「済みません……この神社は、なんと、いうのですか?」
私は小首を傾げた。
鳥居の所に看板があるのに、見てこなかったのだろうか。
まあ、意識していなかったら見ないものなのかも。ちょっと不思議に思いながらも、私は素直に答える。
「はい。甚太神社と言います」
その由来はいくら私でも知っている。
かつて葛野市がタタラ場として栄えていた頃、集落の守り人の名にあやかって建てられたのが甚太神社だ。
昔の葛野の民はこの神社を、甚太という人が葛野を守ってくれたのと同じように守っていこうと支えてきたらしい。
「そう、か」
私の言葉に彼は目を瞑り、ただ静かに一筋の涙を零す。
同年代くらいの男の子が、強がったり隠したりせず泣いたことに私は驚いた。
彼の表情に悲しさはない。穏やかで、だけど込み上げるものを抑えきれず、涙となって流れ出る。そんな風に静かな泣き方をする男の子、初めてだった。
それが、とてもきれいに見えて。私はただ茫然と彼のことを眺めていた。
「長……貴方は、本当に私の帰る場所を守り抜いてくださったのですね」
呟く声は小さすぎて、聞き取れなかった。
けれど万感の意が込められていたのだと思う。男の子は晴れやかに、落すように小さく笑った。
「ありがとうございました。では失礼します」
「え? 聞きたいことがあったんじゃ」
「もう聞けました。貴女は、私が聞きたかった言葉を運んできてくれた」
その意味は、私には分からない。
最後にとても優しげな笑みを見せて、踵を返し、振り返ることなく彼は去っていく。
あまりにも堂々とした背中。同年代にしか見えないけれど、何故かやけに大きく見えた。
「……なんだかなぁ」
境内に一人残されて、でもやっぱり私には意味が分からなくて。
結局何だったのだろうと思いながら、首を傾げてまたしても立ち尽くす。世の中には、変な人もいるんだなぁ、くらいしか感想は出てこない。
「みやかちゃん、お昼ご飯出来たわよ……どうかしたの?」
「ん、別に」
ちょうどお母さんが呼びに来てくれたので、私は先程の遣り取りは忘れ家へ戻ることにした。
ふと見上げれば高く遠い空。
気が付けば薄い雲は晴れて、冬の日差しが境内には満ちていた。
そうして歳月は流れる。
始まりから遠く離れ、原初の想いは朧に揺らめき、水泡の日々は弾けて消えた。
変わらないものなど何処にもなくて。
けれど小さな小さな欠片が残る。
逢ふ日遥けし。
出逢いの日は遥かに遠く。
いつかの想いは今尚此処に。
二人が本当に出会うのは、もう少しだけ後の話───
余談『あふひはるけし』・了