<< 前へ次へ >>  更新
10/216

『鬼と人と』・9(了)




 夢を見る。





 私は、あなたの、夢を見る。

 朝のひととき。穏やかな時間。陽射しの悪戯。



「おはよ、甚太」

「白雪。おはよう」



 何気ない挨拶。嬉しくて。私は笑う。



「しかし慣れないな。起きてすぐお前の顔があるというのは」

「なんで? 夫婦なんだから当たり前のことでしょ」

「そうだな。……当たり前のことなのにな」



 空々しい声。寂しさに沈む。でもあなたは笑う。



「なにかあった?」

「いや。ただ……夢を見ていた」

「夢?」

「ああ、怖い夢だ」



 いつかの景色。まどろみの日々。胸を過る空虚。



「お前が何処かにいってしまう夢だった」

「それが怖い夢なの?」

「私にはそれが一番怖い」



 手を握る。握り返す。温もりに涙零れて。



「本当にどうしたの、甚太? 今日は甘えんぼだね」

「そうだな……いや違う。本当は、いつだってお前に触れていたかった」



 それを願っていた。でも叶わなかった。朧に揺らめく。



「うわぁ、恥ずかしい台詞」

「茶化すな。……だが私は幸せだ。お前が傍にいてくれる」



 頬が染まる。顔が熱い。だから胸は暖かい。



「私も甚太と一緒にいられて幸せだよ」

「……そうか。本当に。ずっと、こんな日が続けばいいのにな」



 陽だまりの心地良さ。触れ合える距離。でもきっと。






「それでも、貴方は止まらないんだよね?」






 いつまでも、夢を見たままでは、いられない。


「白雪」

「貴方はいつまで此処にいられる人じゃないもの。だってそうでしょう? 甚太は私と同じ。自分の想いよりも、自分の生き方を優先してしまう人……だから立ち止まれないし、今まで貫いてきた生き方を変えられない」


 不器用で。無様で。でも必死に意地を張って。

 私達はいつだってそうだった。

 二人はそうやって歩いてきた。 


「だが私はお前を亡くしてしまった。大切な家族、守るべきもの、刀を振るう理由。私には、何一つ残ってない」

「ううん、違う。今はただ見失っただけ」

「だが」

「そんなに怖がらないで。甚太ならきっと、答えを見つけることができるよ」


 握った手と手。どちらからともなく離れる。でも心は近付いて。


「大丈夫、私の想いはずっと傍に在るから」


 いつものように、いつかのように、柔らかく笑う。


「貴方は、貴方の為すべきことを」


 そこで終わり。

 意識が白に溶け込む。零れ落ちそうな光の中で、目の前が霞んでいく。


 或いは選んだ道が違ったのなら。

 この夢のように、夫婦となって二人幸せに過ごす未来もあったのかもしれない。

 でもそんな幸福は選べなくて。

 小さな願いが叶うことはなく。

 ぱちんと、水泡(みなわ)の日々は弾けて消えた。


 けれど想いは巡り、いつか私の心はあなたへと還る。

 だから寂しいとは思わない。


 そうしてまた眠りにつく。

 木漏れ日に揺れながら。 

 私は、あなたの、夢を見る。




 ◆




 不意に訪れた目覚め。

 夢の名残を纏いながら、ゆっくりと意識が覚醒していく。いつの間にか意識を失ってしまっていたらしい。社で泣き崩れ、そのまま眠っていたようだ。

 致命傷と思えた腹の傷は既に塞がりかけていた。程無くすれば完治するだろう。

 遠くなった死に、己が本当に人ではなくなってしまったのだと否応なく思い知らされる。

 胸の奥が軋む。苦々しく表情を歪め、薄暗い本殿を見回せば、近くには現実が転がっていた。

 白夜の亡骸が、彼女を殺した夜来が傍にあった。

 溜息を吐き、すくりと立ち上がる。

 眠ってから一刻といったところか。まだ夜は明けていない。板張りの上で直に眠っていたせいか、体が冷えている。なのに何故か暖かいと思った。 

 夢を見ていた。

 誰かを妻に娶り、穏やかに暮らす夢。

 けれど夢の中で彼女は言った。

 貴方はいつまでも此処にいられる人じゃない。

 成程、確かにその通りだ。

 最後の最後で自分の想いよりも自分の生き方を選ぶ、そういう融通の利かない男だ。

 おそらく、甚太はこれからもそうやって生きていく。

 きっと今際の際までも変わらぬのだろう


「悪い、行ってくる」


 だから小さく零し、甚太は社を後にした。

 涙はもう乾いていた。




 ◆




 一夜明け、いつきひめの訃報は集落に伝わっていた。

 葛野の繁栄を願う巫女の死は皆に衝撃を与えた。

 元々いつきひめは白夜の家系が一手に担ってきた役柄である。白夜が年若く後継を生んでいなかったこともあり、その動揺は大きい。

 集落の権威達は白夜の遺体を弔った後、次のいつきひめをどうするかを話し合っている。 

 彼らは白夜の死ではなく葛野の繁栄を願ういつきひめの不在をこそ嘆いていた。

 つまるところ自分達の生活を支えるものがなくなってしまった不安こそが動揺の正体。仕方のないこととはいえ、それを甚太は少し寂しく感じた。


「さて、と」


 社で崩れるように一晩を過ごしてしまった甚太は一度自宅に戻り、着替えを済ませていた。

 普段の着物に布の手甲、脚絆に三度笠。風避けの合羽を身に纏う。

 振り分け籠(現代で言う旅行鞄)には手拭いや麻紐を数本、扇子や矢立てなどの小物を少々。

 替えの着物や草鞋、薬品類や晒し、旅提灯に蝋燭、火打石なども用意している。

 全財産を懐に入れて、路銀が足りなくなった時の為に鉄の小物も少しばかり。葛野の鉄製品は高く売れる。しばらくは食い繋げるだろう。

 二つの籠を紐で繋ぎ肩に掛ける。これで準備は整った。

 本来なら自身の愛刀を腰に携えるのだが、今まで使っていた刀は砕けてしまった。新しいものを調達せねばなるまい。

 粗方の支度を終えて、玄関へと向かう。草鞋を履き、立ち上がって、最後に一度後ろを振り返った。

 十五の時に移り住んだ家。僅か三年ではあったが思い出はある。妹と過ごした幸せな時間だった。思い出が過るも、溜息と共に郷愁を吐き出す。


「未練だな」


 自ずから手放した幸福だ。懐かしむことは許されない。

 けれど誰もいない家の中に、あの無邪気な笑顔がまだ残っているような気がした。

 ただ、それを想うと、黒い何かが胸で蠢く。

 くだらない感傷を振り切り、引き戸を開け、我が家を後にする。すると前からちょうど集落の長がやって来た。

 長は左手に刀袋を持ち、神妙な面持ちで甚太に近付く。


「長……」

「昨夜のことは清正から聞いた」


 正面で立ち止まり前置きもなく、沈んだ調子で言った。

 長は既に鈴音が鬼となったことを知っているようだ。しかし表情に険しさはなく、どこか物寂しい印象を受ける。


「話を聞かせてくれ」


 躊躇いはあった。しかし集落を取りまとめる長には知る権利があるだろう。甚太は隠すことなく、ぽつりぽつりと話し始める。

 鈴音が白夜を殺したこと。

 自身もまた鬼へと転じたこと。

 鬼が語った未来。

 荒唐無稽な話に長は黙って耳を傾ける。

 聞き終えた後、しばらくの間逡巡し、一転真っ直ぐに甚太を見据えた。


「お主はこれからどうする」


 出で立ちを見れば分かるだろうに敢えて問うたのは、決意のほどを知るためだろう。

 だから間髪を入れず、揺るぎなく言い切った。


「葛野を出ます」


 衝動的なものではない。そうせねばならぬと心に決めた。

 全てはいつか訪れる未来、妹と再び出会う時の為に。

 今は故郷を切り捨てでも、前に進まなくてはいけない。


「鬼は百七十年の後、葛野の地に闇を統べる鬼神が現れると言いました。そして鈴音は、現世を滅ぼすと」


 鈴音。その名を口にするだけで黒い感情が渦巻く。

 大切だった。なのに、こうも憎い。

 惑う自身の心を見ない振りするように、静かに目を閉じる。

 瞼の裏には在りし日の面影。選んだのはそれを踏み躙る道だ。


「幸いにしてこの身は鬼。寿命は千年以上ある。ですから私は往きます。いずれこの地に降り立つであろう鬼神を止める為に」


 つまりは、妹と対峙する。

 守りたかった筈のものは消え失せて、残ったのはその程度。

 所詮は、刀を振るうしか能のない男。そういう生き方しかできないのだ。


「まずは江戸へ。私の世界は狭く、技も心も未熟。数多に触れ、今一度己を磨き直そうと思います」

「よいのか。その話が真実ならば鬼神とは」

「……けじめは、つけねばならぬでしょう」


 絞り出した声に滲む感情。

 長は眉を顰め、嘘は許さぬと真剣な表情で問うた。


「だがそこに在るのは義心ではなかろう」


 人を滅ぼす鬼と対峙する。

 成程、耳触りのいい言葉だが、根底にあるのはただの憎悪。

 お前はただ鈴音が憎いだけではないのか。

 見透かすような目、辛辣な言葉。痛いと感じたのは、紛れもない真実だから。


「……かも知れません」


 平静を演じて見せても、声の硬さは隠せない。

 胸には消しようのない憎しみが在る。私怨と言われればそれまでだろう。


「憎しみに身を委ね、妹を斬る。甚太よ、お主は本当にそれでいいのか?」


 対峙する、などと誤魔化してみても結局はそういうこと。

 鈴音が人を滅ぼすと謳うならば、立ちはだかることは斬ると同意。

 お前は何を考えている。強い口調で詰問する長に、甚太は困ったような、場違いな笑みを浮かべた。


「私にも、分からないんです」


 素直な答えだ。自分のことなのに、何一つ分からない。

 風が吹く。初夏の薫風は肌を撫ぜ、しかしその心地よさも鬱屈とした心持を拭い去ってはくれなかった。


「鈴音は、大切な家族で。けれど白雪……姫様を殺された。その憎しみが確かに在ります。今も憎悪が私を追い立てるのです───あの娘を殺せと」


 風の向かう先を捜すように空を見上げた。

 流れる雲。空はただ遠くに在る。晴れ渡る青を眺めながら、甚太は静かに言の葉を紡ぐ。


「故に振り抜いた拳を間違いとは思わない。ですが、間違いと思えなかったことを、ほんの少しだけ後悔もしているのです」 


 白夜を奪われ、自身を踏み躙られたが、鈴音を想う心も決して嘘ではない。

 なのに後から後から憎しみは沸き上がって。斬ることを肯定も否定もできずにいる。

 だから甚太は“討つ”と明確な表現を避け、“対峙する”と逃げた。

 鈴音を放っておけないと理解しながらも、自身の在り方を決められなかった。


「安心したぞ」


 長はそういう曖昧な態度を、殺すと言い切れない甚太の迷いをこそ喜んだ。

 安堵の息が混じった穏やかな声に視線を地上へ下ろせば、そこには初めて見る柔和な笑みがある。


「鬼に堕ちたお主は殺戮を是とするのだと思った。だが、まだ残っているものがあるらしい」


 本当に、そうなのだろうか。

 愛した人。大切な家族。守るべきもの。刀を振るう理由。自分自身。何もかも失くしてしまった。

 その上、妹を憎み斬り殺そうと考える男に何かが残っているとは思えない。

 もし残っているとすれば、淀むような憎悪だけだ。


「鈴音を、殺したくないのだろう?」


 情けないが、明確な答えは出てこなかった。

 家族でありたいと思いながら、ただ只管に殺したいとも願う。そのどちらもが本心で、矛盾する感情に甚太は唇を噛む。


「やはり答えは返せそうにありません。今の私には、あの娘を許すことは出来ない。けれど躊躇いもあります。もう一度出会った時、どうすればいいのか。憎悪の行方も、刀を振るう理由も。本当に、何一つ分からないのです」


 そう、何一つ分からない。

 何もかも失い、憎しみだけが残り。

 鬼神を止めねばと思いながらも、斬るかどうかさえ決められず。


「ですが叶うならば、斬る以外の道を探したい」


 しかし、鬼となった今でも、人の心は捨て切れぬ。


「憎しみは消えない、けれど心は変わる。今は無理でも、いつかは許せる日が来るかもしれない。だからもう少しだけ、答えは出さずにいたい」


 胸に淀む憎しみを消す手立てなど本当にあるのだろうか。

 疑いながらも“討つ”ではなく“対峙する”と言った。

 最後の希望か、単なる未練だったのか。今の甚太には何も分からない。

 けれど信じていたかった。

 鬼神を止め、鈴音を救える未来があるのではないかと。

 これだけ憎いと思いながら、まだ淡い夢に縋っている。 


「そうか。……では再び出会った時、鈴音が鬼神と為り果てていたならばどうする」


 夢は夢。どうしようもない現実を突き付けられる。

 もしも長い歳月の向こうで、鈴音を許せたとして。 

 彼女を心から救いたいと思えたとして。

 尚も鈴音が滅びを願ったならば。人を滅ぼす災厄、鬼神と成り果てたのならば、お前はどうするつもりなのか。


「私が其処まで追い詰めた。ならばこそ、けじめはつけねばなりません」


 知れたこと。

 兄として。同じく鬼へと堕ちた同胞として。

 救うにしろ、殺すにしろ、最後の幕はこの手で引かねばならない。


「もしも道行きの果てに、鈴音が滅びを願う鬼神と為るのならば」


 迷いがないと言えば嘘になるだろう。 

 だからこそ、あやふやな決意の輪郭を縁取るように、はっきりと口にする。


「私が……あの娘を討たねばならぬでしょう」


 再び大切なものを斬り捨てる。

 そうなれば、己も生きている訳にはいくまい。

 弔いとしてこの首を彼女の墓前に捧げよう。


「それを含めてのけじめか」

「はい。己が何を斬るのか、百七十年の間に答えを探そうと思います」


 目が前を向く。其処には決意の色が確かに在った。

 甚太の言葉に感じ入るものがあったのか、長はゆっくりと頷き、刀袋から一振りの太刀を取り出した。


「持っていくがいい」


 葛野の刀の特徴である、鉄造りの鞘に収められた太刀。

 戦国の頃より葛野に伝わる宝刀、夜来である。

 いつきひめが代々管理してきたこの太刀は、マヒルさまの偶像であり、集落にとって火女と同じく精神的な支柱だ。

 まかり間違っても外に出していいものではなく、だというのに長は平然それを手渡す。


「夜来は嘘か真か千年の時を経ても朽ち果てぬ霊刀だ。長き時を越えて往くお主の獲物にはちょうどよかろう」


 受け取った太刀から伝わる、ずっしりとした重み。

 冷たいはずなのに、事実金属の冷たさが肌に触れているというのに何故か暖かく感じる。


「抜いてみろ」


 言われるがままに鯉口を切り抜刀する。

 陽光を浴びて鈍く光る肉厚の刀身。波紋は直刃、切れ味はもちろんのこと頑強さを主眼に置いた造りとなっている。

 御神刀として安置されてはいたが、これは決して観賞用ではなく、寧ろ実践を意識して鍛えられた刀だった。


「夜来ならば生半な鬼に後れをとることもあるまい。ふむ……これでお主は夜来の正当な所有者となった。ならば慣例に従い以後は甚夜じんやと名乗るがよい」

「しかし、私が持っていく訳には」

「かまわん。いつきひめの家系が途絶えた以上それはただの刀。社で埃を被っているよりもお主に使われる方が余程いい。なにより……」


 一瞬の逡巡の後、長はおずおずと口を開く。


「その方が、姫様も喜ぶであろう」


 懺悔するような響きに、長が此処へ訪れた理由をようやく察する。

 集落の責任者としての役目ではない。彼は純粋に甚太を慮り来てくれたのだろう。

 どうやら想像は外れていなかったらしい。まっすぐ真意を伝えるように、長は深く頭を下げる。


「済まなかった。お主と姫様が互いに想いを通じ合わせていたのは知っていた。しかし清正もまた姫様を想っていてな。儂は我が子可愛さに、清正と姫様の婚儀を進めた。葛野の未来などお為ごかし……この惨劇は、儂が招いたのだ」


 正直に言えば、長がそんな行動に出るとは思っていなかった。

 頭を下げて、微動だにしない。その所作には心底申し訳ないという気持ちが滲み出ている。

 曇りのない謝罪に気付く。

 長もまた戦っていたのだ。自分が大切に想う誰かの為に。


「顔をあげてください。貴方は息子の幸福を願った。ただそれだけでしょう」


 そうと知れたから、声音は自分でも驚くほどに穏やかだった。

 顔を上げた長の目には、まだ後悔が色濃く残っている。それを拭うように、甚太は首を横に振った。


「そして白雪もまた葛野の民の安寧を願って受け入れた。清正も彼なりに白雪を愛していた。そこに間違いなどなかった」


 そう、悔しいが。

 長の選択は決して間違いではなかった。それが我が子可愛さから出た行動だったとしても。……甚太自身の心を傷付けたとしても。誰かを大切に想っての行為が、間違いである筈がなかった。


「鬼達もまた同朋の未来を愁い戦った。皆、守るべきものの為に己が刀を振るっただけ。是非を問うことではありません」


 善いも悪いもない。誰もが守りたいものの為に刀を振るった。

 その中で甚太だけが憎悪故に刀を振るい、守りたかった者を斬り捨ててしまった。

 自嘲の笑みが零れる。真に鬼と呼ばれるべきは、想いに囚われ憎しみをまき散らした自分だけなのかもしれない。


「すまん」

「もう過ぎたことです。それよりも、長はこれからどうなされるのですが」

「変わらぬよ。長として葛野を守るのが儂の役目だ。それが姫様の弔いにもなろうて。ただ」


 目にあった後悔は随分と薄れた。

 代わりに何かを思いついたらしく、にやりと意地悪く口元を歪める。


「そうだな、お主が長い年月の果てに葛野へ戻ってくると言うのなら、神社の一つでも建てようか」

「神社、ですか?」

「神社の名は……甚太とでもするか。うむ、そうしよう。甚太神社、語呂は悪いがそれもよかろう」


 くつくつと笑う長など初めて見た。

 口にするのも冗談のような内容。しかし長の表情は一転、真剣なものに変わっていた。


「時の流れは残酷だ。百年の後、ここはお主の知っている場所ではなくなっているだろう。人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない」


 きっと長は集落の行く末を思い浮かべているのだろう。

 甚太にはその景色が見えない。

 目の前のことさえ覚束ないのだ。百年先など想像もできなかった。

 変わらないものなんてない。元治も、長と同じことを言っていた。

 多分、その言葉の意味を甚太はまだ理解し切れていない。


「だが瞬きの命とて残せるものもある。せめてもの侘びだ。いつか再び訪れた時、涙の一つも零させてやろう。楽しみにしているがいい」


 だから、その言葉の意図を推し量ることはできない。

 踵を返し去っていく長は、普段と変わらないようだが、何処か楽しそうにも見えた。

 一人残され、ふと握り締めた夜来に視線を落す。

 曰く千年を経て尚も朽ち果てぬ霊刀。その存在がこれからの年月を強く意識させる。


「重いな」


 人も景色も、鬼程長く在ることは出来ない。

 何気ない言葉に、刀は少しだけ重くなった。




 ◆




「あの、甚太様っ!」


 長と別れ、集落の出口へ歩みを進める。

 その途中横切った茶屋の前で、ちとせに声を掛けられた。立ち止まり表情も変えずに返せば、彼女は俯いてしまう。


「どうした」

「あの、姫様のこと、その」


 白夜の訃報を耳にしたらしい。狭い集落だ、或いは鈴音が消えたことも既に聞き及んでいるのかもしれない。

 わたわたと何処か落ち着きない様子で、口ごもり続けるちとせ。落ち着かせるように、甚太は小さく笑みを落とした。


「甚太様……」

「私は何一つ守れなかった。だからそう呼ばれる資格なんてもうないんだ」


 笑ったつもりでも顔の筋肉は強張って、歪な自嘲となってしまった。

 強がるならもう少し上手くやれればいいだろうに、儘ならないものだと口元を釣り上げる。


「悪い、ちょっと行ってくる」


 散歩にでも出かけるような気軽さで別れを告げる。

 あまりの軽さに頼りなく思えたのか、ちとせは不安げに甚太を見た。


「……甚太にい、帰ってくる?」


 縋るような目だった。

 あまりに真っ直ぐすぎて目を逸らしてしまう。無様なこの身を慮る色が今は耐えられなかった。


「また今度、磯辺餅でも食わせてくれ」


 答えにもならない答え。そんなものしか返してやれない自分が、心底情けない。

 けれどちとせは笑った。意味するところを理解しているだろうに、気丈に振る舞う。


「うん、今度は一緒に……だから、いってらっしゃい」


 潤む瞳。いってらっしゃい。いつか、それと対になる言葉が返ることを期待しているのだと分かる。

 分かるから何も言わず背を向け、軽く手を上げることで返事にした。


“その時には。俺が、お前を守るから”


 守れもしない約束を交わす気にはなれなかった。

 背中に注がれる視線を感じながらも、歩みは止めない。

 白夜が死んだせいで慌ただしい集落。

 時折すれ違う人々はなにやらひそひそと話ながら、陰鬱な表情でこちらを見る。

 大方守るべきものを守れなかった情けない男を侮蔑しているのだろう。

 五つの時に流れ着いた、今は故郷となった場所。

 だというのに、この地へ恩を返すどころか最悪の事態を引き起こし逃げるように離れる。

 なんと無様な。しかし今は行かねばならぬ。揺れる心を抑え込み、辿り着いたその先には。


「清正……」


 折れた腕を三角巾で固定したまま、清正は立っていた。

 待ち伏せされていたのだろう。視線は甚太に真っ直ぐに射抜いている。

 鬼女と戦い、敗れたというのは長から聞いた。だが鬼女は彼を殺さなかった。何故かは分からない。衛兵を殺しておいて、何故清正だけ生かしたのか。

 もしかしたらあの鬼女は、あの大鬼も、誰も殺す気はなかったのではないだろうか。


 社の警備を殺したのは、本当は───


 奇妙な妄想。頭を振って追い出す。過ぎたことだ、今更考えても仕方無い。


「出ていくのか」


 力の無い声だった。

 まだ痛みがあるのか、表情は歪んでいる。


「ああ」

「どこに行くんだよ」

「そうだな……まずは江戸へ向かう。話によれば江戸にも鬼は出るらしい。それらを討ちながら己を鍛え直そうと思う」

「鈴音ちゃんを斬るためにか」


 甚太は口を噤んだ。斬りたくはない。だが憎い。

 自分がどうしたいのか、明確な答えがない。何を言っても嘘になるような気がして、清正の問いに返すことが出来なかった。


「あまり動くな。怪我に触る」


 誤魔化すようにそれだけ言って横を通り過ぎようとするも、体で道を塞がれた。

 眉を潜め、文句の一つも言ってやろうと清正の顔を見て、何も言えなくなった。

 清正は泣いていた。

 拭うこともせず、ただ涙を零していた。


「……俺、お前が嫌いだった。強くて冷静で、鬼だって簡単に退治しちまって。後ろ盾なんてないのに皆に認められるお前が。なにより……白夜に想われてるお前が大嫌いだった」


 声は震え、途中でつっかえながらも、なんとか言葉を絞り出す。

 恥も外聞もなく、清正は泣きながら訴えかけていた。


「でも別に俺はお前から白夜を奪いたいなんて思ってなかった。俺は、俺はただ白夜が好きだったんだ……一緒にいれたらよかったんだ、それだけで幸せだったんだよ。なのに、俺は…俺は……」


 悔やむような声音に気付く。

 ああ、そうか。

 本当は、この男も結婚など望んでいなかったのだろう。

 清正は純粋に白夜が好きで、大切に想っていた。伝わらなくていいと思えるくらい、大切な想い。彼女が其処にいるだけで幸せだった。

 例え報われなくとも、白夜への恋慕は時が流れれば過ぎ去りし日々として、美しい思い出となって記憶に埋もれていくだけ。多分、清正はそれで十分に満足していたのだろう。

 だが清正は集落の長の息子。

 本人の意思とは関係なしに、彼の地位はいつきひめに触れられるほど高かった。手を伸ばせば本当に届いてしまった。

 皮肉にも、それこそがこの男の不幸だったのかもしれない。


「私もだよ、清正」


 自然、そう口にしていた。


「え……?」

「ただ一緒にいたかった。それだけを願っていた……それで、よかった」


 たとえ男女として結ばれることがないとしても。

 巫女守として、白雪であることを捨てた白夜の決意を守りたかった。

 どんな形であれ、彼女と共に在ることが出来たなら。

 甚太もまた、それだけで幸せだったのだ。

 一度、ふうと息を吐く。清正と話していても苛立った気分にはならない。寧ろある種の安堵さえ感じていた。


「もっと話せばよかった。そうすれば」


 こんな結末にはならなかったのかもしれない。

 口にしようとして、思い直し首を振った。飲み込んだ言葉はただの夢想に過ぎないし、清正を責めることにしかならないだろう。


「或いは、お前を友と呼ぶこともあったのかもしれない」


 代わりに、落すような笑み。

 誤魔化しではあったが同時に本心でもあった。

 同じ想いを抱え、同じ痛みを共有した。ならばきっと二人は分かり合えた筈だった。


「馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」


 悪態はついても、涙は流れても、その表情は穏やかな色をしている。

 最後に見る顔が、そういう晴れやかなものでよかった。おかげ少しだけ、足は軽くなったような気がした。


「では、な。もう逢うこともあるまい」


 清正の横を通り過ぎ、江戸へ向かう街道へと出る。

 流れ着いて、日々を重ねて、葛野の地はいつしか故郷となった。

 未練がないと言えば嘘になる。

 懐かしい日々に後ろ髪を引かれて、それでも歩みを止めることはしなかった。


「甚太っ!」


 背中に投げつけられる大声。

 涙を止められず、震えたまま。ひどく頼りない、けれど心から絞り出した叫びだ。


「鈴音ちゃんは、俺と同じだ……。俺が白夜のことを好きだったみたいに、あの娘もお前のことが好きだったんだよ。こんな事になっちまったけど、あの娘はお前が好きなだけだったんだ……」


 清正の叫びに喚起され、脳裏に映る妹の姿。

 大切な家族だと思っていた。

 しかし鈴音の想いは、甚太のそれとは違ったのだろう。

 であれば、気付いていなかっただけで、最初から兄妹は破綻していたのか。

 いや、考えても仕方のないことだ。

 甚太は浮かんだ思考を無理矢理に振り払う。

 きっと、そこには気付いてはならないものが潜んでいる。止まらない歩みは、過る不安から逃れようとしていたのかもしれない。


「だから……頼む。それだけは、忘れないでやってくれ」


 必死の懇願を受けながらも振り返らず、言葉を返すこともしなかった。出来なかった。

 鈴音の想いなど知りようもないし、甚太自身がどう見ていたかも今更だ。 

 過去がどうあれ、二人は互いに憎み合い鬼へと堕ちた。結局のところそれが全てだろう。


 鬼は言った。

 己が為に在り続けることこそ鬼の性。

 鬼は鬼であることから逃げられない。

 鬼となった今、その言葉の意味を真に知る。

 いつだったか、いっしょにてくれればいいと、鈴音は笑った。あの一言に救われた遠い雨の夜。共に在った幸福な日々。

 今もあの娘を想っていると自信を持って言える。鈴音は大切な家族だと、そう思っている。

 なのに、かつて慈しんだ無邪気な笑顔を思い出す度に安らぎを感じ、湧き上がる憎悪が胸を焦がす。

 最早それは感情ではなく機能。鈴音を憎むことで鬼と成ったこの身は、その憎しみから逃れることは出来ない。

 どれだけあの娘を愛し、大切に想っていたとしても。




 ───私は、そういう鬼なのだ。




 胸に在るのは曖昧な憎悪。

 鬼に成れど人は捨て切れず。

 あやふやな憎しみだけを抱き、旅の伴に夜来を携え、甚太は葛野の地を後にする。

 広がる街道の先は遠く、目指す江戸はまだ見えない。


「百七十年、か」


 揺らいで滲む道の果てを眺めながら、江戸より更に先、形すらない未来を想う。




『人よ、何故刀を振るう』




 遠く、声が聞こえた。


 いつか再びこの葛野の地で鈴音に出逢う日が来る。

 その時、己はどうするのだろうか。

 鬼としてこの憎しみを抱えて歩き、鈴音を切り捨てるのか。

 それとも鈴音を許し人へと戻る日が来るのだろうか。

 今は何一つ分からない。

 ただ願わくは、この道行の先で答えが見つかるように。

 眦を強く、前を見据える。




「先は長いな」




 小さく呟く。

 そうして甚太は────甚夜は長い長い旅路を歩き始めた。









 徳川の治世は少しずつ陰りを見せ始め、現世には魔が跋扈していた。


 江戸から百三十里ばかり離れた葛野の地で起こった一夜の惨劇。

 鬼の襲撃によりいつきひめと呼ばれる巫女の一族は絶え、集落は失意に塗れていた。

 巫女は火の神に祈りを捧げる火女。崇めるべき神と繋がる術を失った葛野はこれから緩やかに衰退の道を辿るだろう。 

 だが歴史という大きな流れから見れば、それは取るに足らない事柄。一つの集落の盛衰なぞ騒ぐようなものでもない。

 同じく、彼の道行きもまた瑣末な出来事である。

 葛野で起こった惨劇の後、青年は集落を出た。

 その行く末は誰も知らず、彼自身にさえ分からない。川に浮かび流れる木の葉の如く青年は漂流する。

 それは誰に語るべくもない。

 決して歴史に名を残すことの無い。

 鬼と人との狭間で揺れる鬼人の旅立ちであった。





 時は天保十一年。

 西暦にして1840年のことである。






 鬼人幻燈抄 葛野篇『鬼と人と』 了




<< 前へ次へ >>目次  更新