9 懺悔29号(1)
これ実話なんだけど、うちのお母さんは小説を書いているのね。
妖精さんが夜中に現れて、一人暮らしの孤独な人の家で小さな奇跡を起こしました、みたいな。
正直「それ、お母さんの願望だよね」って思っちゃうタイプの話。
そのお母さんが、昼からビールを飲んで「は? どういうこと?」とか独り言を言ってる。
「どうした? なにかあった?」
「あったね。花井薫先生のことをツブッターで検索したらさ、先生を名指しして『言うて、あの人四十代だろ?』ってつぶやいてる若造がいた」
「なんだ、お母さんのことじゃないのか」
「違うわよ。花井先生の原作でドラマが何本作られてると思ってんのよ。映画にもなったわ! それが四十代だからなに? 無能な二十代よりよっぽどいいじゃん!」
「荒れてんねえ。私に当たらないでよ」
「ミキちゃん、あんたはあんなクズにならないでね」
「ならないよ」
私は二階の自室で調べものを続けて、疲れたから台所に下りてきたんだけど。面倒なときに顔を合わせちゃったな。
お母さんがビールを飲み干して、冷蔵庫から新しい缶を取り出した。
「頭痛になるよ?」
「頭痛になってもいいよ。なに、若いってそんなに偉いわけ? 素晴らしい作品で多くの人を感動させている花井先生に対して、ただ後から生まれたってだけの凡庸な男が、なんで上から目線なわけ?」
「それしか誇れるものがないんでしょうよ。可哀そうな人なんだから、放置しなよ」
とは言え、花井薫先生は私も大好きな作家なので私も面白くない。何げなくツブッターを検索した。
すぐにそれらしいつぶやきを見つけた。私は麦茶を飲みながら、その投稿者の過去のつぶやきを遡って読んだ。
「あれ?」
そいつが最近載せている画像は、全部見覚えがあった。
家系ラーメン店、古いパチンコ店、チェーンの居酒屋の壁のメニュー。なんてことないアパート。
これ、練馬区のあの地区だ。私が調べまくり、何度も歩き回った場所ばかり。
この『懺悔29号』ってヤツが載せている画像は、私が調べている「カッター男」の事件現場ばかりだ。
私は『練馬事件誌』というノンフィクションブログを書いていて、この事件を調べていた。犯人が捕まったら、裁判にも通うつもりでいる。
カッター男事件はこの半年で六件。
被害者は、酔っぱらいの五十代男性、女子高生、女子中学生、七十代の女性、七十代の男性、パート帰りの四十代の主婦。
非力な人に後ろから自転車で近付き、カッターで背中を切り付けて逃げている。
警察も動いているし、監視カメラもたくさんある地区なのに、まだ捕まらない。
私は『懺悔29号』に興味を持った。
ふと思いついて、『懺悔29号』が事件現場の近くの写真を載せている日時と事件の日時を見比べた。
「こいつ……犯人じゃない?」
鳥肌が立った。
『懺悔29号』がどこかの画像を載せ、その画像が載った三日後にその場所で事件が起きている。規則性があるのだ。
「待って待って。と言うことは、次の事件はこのカラオケスナックの近くで起きるってこと?……今日じゃん! え、どうしよう。警察に届けるべき?」
女子高生の私が現場で犯人に遭遇したとして、止められるわけも制圧できるわけもない。
そこですぐにカラオケスナックに近い警察署に出向いて、事情を説明した。私は善意の市民だから張り切って出向いたんだけど。
結果、五十代のおまわりさんは一応記録してくれたものの、「情報提供、ありがとうね」と言って私を帰した。
たぶん、信じてもらえていない。
むしろ私の住所氏名年齢、高校の名前をしつこく聞かれた。妄想癖の女と思われたのかも。
「なによ。急いで対策本部に連絡してよ。私、スタートラインに戻っちゃったじゃないか」
家に帰ると、お母さんはソファーで眠っていた。尊敬している作家先生のために怒り、頭痛覚悟でビールを飲んで荒れるお母さん。愛すべき人だ。
私は心の中で渦を巻く思考を整理すべく、眠っているお母さんに話しかけた。返事は期待していない。
「お母さん、私、カッター切り裂き男を特定したっぽいんだよね。花井先生のことを小ばかにしてた『懺悔29号』よ。でもおまわりさんは信じてくれなかった。むしろ私が怪しまれた。私の推理が当たりなら、今夜、犯行が行われるんだけど、どうしたらいい? 犯行を防ぎたいけど、我が身も可愛いのよ」
「アイツが犯人ってのは、間違いないの?」
お母さんが目を閉じたまま声を出した。
「わ。起きてたんかい!」
「ミキに起こされたのよ。そいつは腕力に自信がない若い男だろうさ。なにしろ弱者ばかりを狙っているからな」
「とは思うけど」
「よっしゃ、わかった。お母さんがそいつを成敗してくれる。ミキは記録係。安全な場所からスマホで録画しな!」
「いやいやいや、そいつが非力だとしても、お母さんは四十五歳じゃん! おばさんじゃん! 力負けするよ」
少し酔った顔のお母さんがガバリと起き上がって「ふん」と小さく笑う。
「取っ組み合いなんかしないわよ。お前は右手で撮影、左手で通報して。お母さんのスマホ貸す。普段スマホが恋人かってぐらいいじくりまわしてんだから、そのくらいできるでしょ?」
「大丈夫なの?」
「私はね、想像力だけは人一倍あるのよ。考えたことを実行に移す気力だってある。なめんじゃないわよ」
「誰もなめてないわ」
というやりとりがあって、今は夜の八時。
お母さんはカラオケスナックの近くの、建物と建物の間に潜んでいる。おまわりさんに見つかったら絶対に職質かけられる。恥ずかしい。だけどお母さんを止められる人は我が家にはいない。
犯人を待つこと一時間以上。(もう帰りたい。英語の宿題を済ませたい)と思っていたら、塾帰りらしい中学生くらいの男の子が歩いてきた。
(あっ!)
声を出さずにスマホを構えた。一台の無灯火自転車が、ゆっくりその少年を尾行している。ふらつきそうになるほどゆっくり。不自然だ。
カラオケスナックを少年が通り過ぎたところで、急に自転車がスピードを上げた。
少年に追いつきそうになったところで、男が右手をハンドルから離した。なんか持ってる!
次の瞬間、お母さんがその自転車の前に飛び出した。
私は両手のスマホを放り出してお母さんを目がけて走り出した。お母さんを助けなきゃという気持ちでいっぱいだ。だけど……。
「コラ待てぇ!」
「なにやってんだっ!」
どこに隠れてた? と驚くほど大勢の男性が、その自転車男に殺到した。
ガシャンと倒れる自転車、無言で地面に押さえつけられる男。
防犯スプレーと熊避けスプレーを手に持って茫然と立っているお母さん。
「確保! 確保しました! 二十一時三十二分、現行犯逮捕!」
飛び掛かった私服の男性が声を張り上げている。
あれ? あのおまわりさん、ちゃんと上に報告してくれたのかな?
自転車男は引っ立てられ、やって来たパトカーに押し込まれた。
残った中年男性が一人、私に近づいてきた。
「神崎ミキさん、かな? 署まで来てお話を聞かせてくれるかな」
「私?」
「そうですよ。あなたの情報がとても役に立ちました」
「お母さんは?」
「お母さんにも来てもらいます。二人には少々お話ししたいこともありますし」
これ、絶対に怒られる流れじゃん。危ないことすんなってお灸を据えられるよね。
お母さんが私たちのところに来た。
「あのう、一度家に帰って着替えていいでしょうか」
「ぷっ」
母の姿が非日常すぎる。
準備をしているところから見ていたけど、客観的な目で見たら滑稽で思わず吹き出してしまった。
お母さんは、カッターで切り付けられた場合に備えて、胸から腰まで分厚くさらしを巻いて、その上からオーバーサイズのトレーナーを着ている。分厚く巻いたさらしのせいで、めっちゃ寸胴。
指先を切った革のアウトドア用手袋の右手には熊避けスプレー、左手には防犯スプレー。目には花粉防止用の眼鏡。
心臓部分には厚紙も忍ばせている。
しかも目がバッキバキで、完全にヤバい人だ。
「見た目だけで言ったら、お母さんの方がよっぽど犯人だわ」
(次回に続く)