7 スプレーしたような
美晴ちゃんが私を呼び出すのは珍しいことだから、万障繰り合わせて家を出た。
子供を家に置いて留守番させるのは絶対にしたくない。ママ友の空ちゃんママに預けた。借りを作ることになるけれど、空ちゃんを預かったことが2回あるからプラマイでまだプラス1。
美晴ちゃんはそそけた雰囲気でコーヒー店にいた。
少し暗めの照明でも、彼女が疲れ切っているのがわかる。
「どした?」
「疲れちゃった。もう限界」
「いい人のふりをしすぎるからね、あんたは」
「ケイちゃんはずっとそれ言ってたよね。尽くしすぎるとろくなことないって」
「経験者だもの。人間は下手に出続けると相手が勘違いするんだよ。『こいつは自分より下の人間だ』って。尽くす側がそういうふうに育てちゃったって場合もあるよ」
「今それ、すごくわかる」
「わかっちゃったか。何年かかった?」
「七年」
私、折口景は大学生までは男に尽くす女だった。それが男に評価される方法だと愚かにも思っていた。そうじゃないってことに気づいたのは大学を卒業するときで、四年間交際していた彼は、当然のように実家のあるY県に帰っていった。将来のことは何も語らないまま。
(なんだ、四年間必死に尽くしたのは無駄だったか。私は選ばれなかったわけね)
そう思ったが、腹も立たなかった。こっちの打算とあっちの打算が嚙み合わなかっただけだ。特に優れているわけでもないのに、私に尽くされて当然と思うような馬鹿な男に人生を捧げなくてよかったと思ったっけ。
でも客観的に見れば、私はお金も時間も体力も捧げた結果、縁を切られたわけで。
だから伯母に紹介されて結婚した夫に対して、最初から素で接している。適度に喧嘩をして、適度に優しくして、適度に仲がいい。情熱なんてどうせ数年で冷めるのだから、恋をするホルモンが分泌されなくなっても続けていけるように、夫婦のテンションは低めの方がいい。
「私さ、給料のいらない家政婦だったわ」
「ふんふん」
「夫が私に声をかけるときは小言を言うときだけでさ」
「見えるような。尽くすことが喜びってタイプの母親に育てられた男はさ、勘違いするのよね。母親と同じことを妻がしてくれるのを当然と思うじゃん」
美晴ちゃんが顔を歪めた。たぶん苦笑している。
「旦那さんのお母さんて、息子に尽くしまくるタイプだったよね。まるで恋人みたいにさ」
「その通り。自分が産んだ恋人なのよ」
「キモ」
「マジでキモいのよ、あの母子」
喧嘩する気力も離婚するエネルギーも、もうないんだろうな。
「客観的にどう思う? 離婚すべきだったのかな」
「そういう人生のだいじなところを人に聞く辺りが美晴ちゃんの欠点だよ。あなたが夫に尽くしたのはあなたの判断で、不満を抱えながら七年も夫婦をやってたのもあなたの判断だよ。それをやめるかどうかも、あなたが判断すべき」
「正論をどうも」
美晴ちゃんはカップに残っていたコーヒーを飲み干して、暗い顔をしている。「すべきだった」って過去形なのはなんでだ?
「たまにさ、交通事故で死んでくれないかなと思っている自分がいてゾッとするのよ。結婚相手の死を願うって、末期じゃん?」
「それを1度でも願ったことがない妻って、案外少ないらしいよ」
「そうなんだ」
「うん。美晴ちゃんみたいな人が世間にはいっぱいいて、昔はみんな我慢してたけど今は我慢しないで離婚する人が増えたんだよ。結婚相手の死を願う人は減ってないよ。いや、離婚に踏み切る人は違うかな」
私が頼んだアイスコーヒーが結構おいしい。
「ケイちゃん、私ね、事故で死んでくれないかなって妄想が進化しちゃって。最近はどうやったら殺人罪で捕まらずに殺せるかなって妄想するようになっちゃった」
「怖いよ」
これ、実話なんだけど、私は今、警察にいつ電話しようか迷ってる。
美晴ちゃんは丁寧に痕跡を消したつもりだろうけど、疲れ切っているから仕事が雑だ。髪のあちこちに小さな血飛沫が飛び散っている。スプレーでシュッとかけたみたいに。どこを切ったらあんなふうに血飛沫がかかるのだろう。旦那さんの動脈を切ったのだろうね、きっと。
今ここでスマホを手にして通報したら、私も殺されたりするのだろうか。彼女の使い込んだトートバッグに、裸の万能包丁が突っ込まれてることに、今気づいてしまった。美晴ちゃんは最近よく「一人で死ぬのは寂しい」って言っていたっけ。
離婚して一人暮らしになりたくないって意味だと思ってたけど、違ったのかも。
死ぬなら誰か、できれば友人の私と一緒に死にたいって意味だったのかも。どうしよう。
彼女の目がもう常人の目じゃないのよ。
私は殺されたくないし、怪我もしたくない。さっさと距離を置いて安全な場所から通報したい。
でも、それに気づかれたら刺されそうな気がして。
人を殺してきた女が、包丁を持ち歩いている。
火事場の馬鹿力っていうけど、普通の状態じゃない美晴ちゃんは、どれだけの力を出すだろう。どれだけ素早く動けるのだろう。彼女は陸上でインターハイにも出た人だ。文系ひと筋の私とは身体が違う。
「ケイちゃん、なんか落ち着かないね? どうしたの?」
「どうもしないよ。トイレに行きたいなと思ってるだけ」
「それならいいけど」
経験してわかったけど、返り血を浴びた人は血の匂いがする。テーブルを挟んで座っていても鉄くさい。
あとどのくらい美晴ちゃんの相手をしたら殺されずに済むだろうか。彼女を刺激しないよう、なるべく青春時代の楽しい思い出話をしながら、私はずっと笑顔で話をしている。預けた我が子の顔がすごく見たい。