6 終夜家の祓い刀
僕の実家は、とある国定公園の中にある。と言っても公園の管理人をやっているわけではない。
日本にある国定公園の多くは昭和になってから定められたから、昔から住んでいる我が家が結果的に国定公園の中にあるだけだ。
「清春、俺も頑張るが、炎症の数値だけ見れば、いつぽっくり逝ってもおかしくねえんだ」
「父さん、気の弱いことを言うなよ。大丈夫だって、死ぬ死ぬ言う人ほど長生きするもんだって」
「ははは。違いない」
父さんが気弱に笑う。
重い炎症性の病のせいで、父さんのできることは少しずつ減っている。それでも最新の薬のおかげで、寝たきりになるのは免れている。家事はヘルパーさんに頼っていて、トイレや風呂はどうにか一人でもこなせている。
母さんは俺が五歳のときに岩場で海藻を拾っていて高波にさらわれて死んだ。
「父さん、俺、県庁職員の試験に合格したよ。通うには遠すぎるから一人暮らしをする。父さんは一人で大丈夫か?」
「生きてるだけなら大丈夫だが、もう『新月の祓え』はできねえな」
「それは俺がやるよ。月に一回のことだ。有休をとって戻ってくる」
「悪いな」
「いいよ、終夜家の長男に生まれたのが運の尽きだ」
「そんな言い方をするな。苦労をかけるが、他の家のもんには頼めねえからな」
終夜家ははるか昔から続く家で、新月の夜に海から上がってくる死者の魂を祓う家だ。日本にはそんな家が二十数軒あるらしいが、家同士の交流はない。だから、俺は親から教わった方法しか知らず、我が家の方法がベストな方法かどうかも知らない。ただ教わったことを忠実に踏襲し、こなすだけだ。
これ、実話なんだけどさ。海で亡くなった人の魂は、事情がどうであれ普通は成仏する。だがこの岬周辺で死んだ者の魂は成仏しない。なぜかは誰も知らない。
海流が速く、うねり、海面下に山ほどゴツゴツした岩が隠れているこの海域で命を落とした人の数は多い。
この海で命を落とした者たちはここに縛られ、縛られていることを恨みながら仲間を欲しがる。ますます海難事故は増えて仲間を欲しがる力を強くする。それを新月の夜に祓い清めるのが終夜家の仕事だ。
今夜は新月だ。俺は身を清めて祓い刀を手に崖を下りる。刀はもう何百年も使われている年代物だ。
切り立った崖には大昔の先祖が刻んだ階段が設けられている。今でこそ岩肌に打ち込まれたハンガーとロープが支えになるけれど、何十年か前までは幅一尺の階段に、つかまるロープもなかったらしい。祓いに向かう途中で落下して死んだ終夜家の人間はいなかったのかねと思う。
新月の夜、雨でも嵐でも終夜家の男は海に向かう。『黒い何か』は仲間を欲しがって、暗い海面から不自然に盛り上がり人の形となって上陸しようとする。そのまま上陸させれば国定公園の中に身を潜め、公園に来た人を海へ誘う。誘われた人間は急に海が恋しくなるそうだ。そして崖から身を投げる。
この公園は自殺者が多いことで知られているが、この公園を守っているのが終夜家だと知っているのは、公園の管理をしているお役人の現場担当の最上部の人と、近隣の住民だけだ。事情を知らないよそ者からは「変な儀式をしているおかしな家」ぐらいに思われている。そんな環境で、父さんはよく結婚できたなと思う。
岩場に到着した。
海が不自然に黒く、でこぼこと盛り上がっている。刀を鞘から抜き、藁草履を履いた足で踏ん張る。岩場で足を滑らせて転べば大怪我だ。
やがて一体が海から立ち上がる。立ち上がった黒い何かは海面をゆっくり滑るように進んでくる。俺は祓い刀を構え、袈裟懸けに斬り伏せる。黒い何かは散り散りになって海の一部に戻る。
斬り伏せた何かのために、俺は祈る。
「御霊が安らがんことを願う」
斬り伏せるたびに願う。願いが聞き届けられているのかどうかもわからない。ただただ願う。この海に縛られて仲間を欲しがっている魂に、安らぎが訪れることを願い続ける。黒い何かが俺のことを恨むのか感謝しているのかもわからない。
もう何体斬り伏せただろうか。そろそろ俺の力が底を尽きそうだ。力が尽きれば俺も海に誘われてしまう。引き揚げようとしたところで、声を聞いた。
「清春、清春、清春」
聞き覚えのある声に目を閉じる。俺を可愛がってくれたじいちゃんの声だ。あれが本当に釣り船から落ちて死んだじいちゃんなのか、俺の力が弱ってきたのを見計らって出してきたアレたちの手段なのかはわからない。声を出すヤツを初めて見た。
「じいちゃんなら、成仏してくれ。じいちゃんじゃなくても成仏してくれ」
祓い刀を斜めに振り下ろした。黒い何かは吠えながら消えていく。
「御霊が安らがんことを願う」
やがて東の空が明るくなってくる。黒い何かは急速に数を減らし、海に戻る。俺は少しずつ後ずさり、岩壁に背中が触れたら後ろ向きのまま石段を上る。背中を見せれば引きずり倒されてしまうからだ。
「ただいま」
「お帰り。塩を振るよ」
父さんが俺に清めの塩をふり、背中を叩いてくれる。
「じいちゃんの声がした。初めてだからびっくりしたよ」
「じいちゃんがきたか。俺のときは百合子だった。えげつない手を使うよな」
「そうだね」
父さんが不自由な身体で用意してくれた風呂に浸かり、冷えて強張った手足をマッサージする。風呂から出たら父さんが作ってくれた味噌汁を飲む。具はワカメと豆腐だ。庭の山椒の葉を叩いて浮かべてある。
「山椒は身体が温まるぞ」
「そうだね。大人になってから好きになったよ」
朝飯を食ってから布団に入った。父さんには言わなかったけれど、俺が斬った『じいちゃんの声を出す何か』は、俺の名前の他にもしゃべった。
「清春、清春、俺をその刀で斬ってくれ」
ああ、これ、本当にじいちゃんだと思った。「じいちゃん、安らかにな」と願いながら斬った。
風呂に浸かりながら父さんの言葉を思い出した。
父さんは母さんのことをちゃんと斬れたのだろうか。