5 加賀野桐花と日向さんの話
日向さんが気に入ったので、今回は日向さんの高校時代の話を書きました。
これは実話で、嘘じゃない。
私、加賀野桐花は、秦野日向さんが苦手だ。
お嬢様然とした雰囲気も、クラスで浮いていることを気にしていないのも、私服でおしゃれができる高校なのに昭和みたいな時代遅れで地味な恰好なのも、なのになぜかすごくお嬢様っぽい感じに仕上がっているのも、全部苦手。
だけど彼女は私に一切関わってこないから、まだマシなのだ。
田舎の私立の高校には、県内のお嬢さんお坊ちゃんたちが集まっている。元何々藩の家老の子孫とか、先祖が何町の名主だったとか、戦前からの繊維会社の社長の娘とかがゴロゴロいる。
男子も女子もあまり家から離れないらしく、つまりは井の中の蛙の集まりだ。
東京から引っ越してきた私から見れば、全員が田舎の小金持ち。井の中の蛙たちはダサいだけじゃない。やたら上から目線でものを言う。ケロケロケロケロ、毎日騒がしく大声で鳴いている。
お父さんがこっちの支店長になったせいで引っ越してきたけれど、こんな田舎は本当に嫌い。両親が許してくれていたら、一人暮らしをしながら東京の高校に通いたかった。
仲間はずれが嫌だから話を合わせているけれど、アイドルのコンサートに行ったことがある人が一人もいない。海外旅行の経験者もいない。私はとあるダンスユニットの大ファンで、関東で開かれるコンサートは全部通っていた。一緒に行く友人もたくさんいた。
家族とニューヨークやロンドンに旅行に行くのも大好きだった。
だけどここでは、そんな話を共有する人が誰もいない。
だから毎晩ネットで東京の友人とおしゃべりするのが数少ない楽しみだ。
今夜はサヤちゃんとおしゃべりしていたのだけれど、会話の終わりに、サヤちゃんが笑いを堪えながらショックなことを言った。
「ねえ桐花、あんた訛ってきてるよ。大丈夫?」
「嘘。訛ってる? どのへんが?」
「なんていうか、全体的に? 微妙にイントネーションが変になってきてる」
あまりにショックすぎて気の利いたことを言えず、「お母さんが呼んでるから」と言って会話を終わりにした。クラスで浮かないよう、なるべく相手に合わせてしゃべっていたせいだろうか。田舎の訛りが染み込んでしまったのかも。
翌日から気をつけて東京の頃と同じようにしゃべるようにした。たちまちクラスの人たちと距離ができた気がするけれど、どうせ三年以内に転勤するんだから気にしない。そうしたら……。
クラスのボス、笹山美知に絡まれた。
「加賀野さん? 東京から来たのはそんなに偉いわけ?」
「私、そんなことひと言も言ってないでしょう?」
「言ってるも同然でしょうよ。馬鹿みたい、一人で東京弁しゃべっちゃってさ。気取ってるじゃない」
「こっちで育った人はこっちの言葉を使ってるでしょう? 私は東京で生まれ育ったから東京の言葉をしゃべってる。それだけ。絡まないでよ」
「ふうん。そう。ずいぶん生意気だね」
笹山美智の家は山をいくつも持っている大地主で、林業を営んでいる家らしい。それっぽいことを取り巻き連中がよく話題にしている。昔は庄屋をやっていたというのが本人の自慢だけど、庄屋って! 何時代だって話。
笹山に絡まれた翌日から、マンガに出てきそうな意地悪をされ始めた。物がなくなったり、捨てられたり、すれ違いざまにぶつかられたり。
いい。どうせこの人たちとは縁が切れる。そう思って無視していたのだけど。
体育の授業を終えて教室に戻ったら、お母さんが作ってくれたお弁当が床にぶちまけられていた。茫然と床に散らばったお弁当を眺めた。卵焼き、海老フライ、二色そぼろのごはん。全部が見事にまき散らされている。まさかここまでやるなんて。
笹山とその取り巻きは、そんな私をチラチラ見ながらお弁当を食べ始めた。
だから私は箒と塵取りでお弁当を掃き集め、クスクス笑っている笹山のグループに近づいてバーッと頭の上から撒いてやった。全員のお弁当に、私のお弁当と床のゴミが降り注いだ。
「ごめんなさい。ゴミが溜まっていたから、ここがゴミ捨て場かと思ったの。悪気はないのよ?」
ニヤニヤ笑いながらそう言ったら、笹山の子分が飛びかかってきた。来るだろうと思っていたから、おなかを思いっきりグーパンしてやったら一発で動けなくなった。ざまあみろ。
翌日から私はクラス全員に空気扱いされた。私はいないものとしてクラスの時間が流れる。まあ、覚悟の上だ。私は出席日数を確保するためだけに学校に行き、保健室で自習をして過ごしている。
いいよ、こんな田舎、こっちから捨てるよ。私の記憶から消し去ってやるんだから。
ところがなぜか保健室に秦野さんが来る。来ては無表情に私に説教をする。
「加賀野さん、今日もここにいるのね。保健室で一人で勉強するの、寂しいでしょう?」
「別に。あんなゴミ溜めみたいな教室より、ずっといいわ」
私がそう言うと、秦野さんは残念そうな顔で教室へと戻る。こんな会話を何日も繰り返した。
今日は、笹山の子分まで連れて来た。たしか三森とかいう名前の、笹山のパシリだ。三森は保健室に入る前から泣いていたらしい。
私の前で涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔で、「ごめんなさい。あのお弁当は、笹山さんに言われてやりました。許してください」と言う。
「うざいんだよ! 今さら謝ったって許すわけがないでしょ? 私は何も悪いことをしていなかったのに、あんたらが意地悪したんじゃないか。泣いて謝るぐらいなら、最初からやるなよ。この田舎もんが!」
私がそう言い返すと、秦野さんが三森になにか耳打ちをして、三森はいっそう泣きじゃくった。ばあか。一生泣いてろ。
秦野さんと三森が出て行き、やれやれと教科書を読み始めたら、秦野さんが一人で戻ってきた。
「加賀野さん、保健室は勉強する場所じゃないの。ちゃんといるべき場所に戻ろうよ。笹山さんなら、もう学校には来ないよ」
「えっ。なんで?」
「彼女は女子少年院に入ってる。そこで矯正プログラムを受けているの」
「女子少年院? へえ! あいつ、何をやらかしたんだろ。あはは! いい気味。そこで虐められればいいのよ」
そう言って笑うと、秦野さんが悲しそうな顔になった。
「笹山さんはもうこの学校には来ない。加賀野さんもここに居座るのはやめようよ。あなたが成仏しないと、あなたのご両親は救われないし、学校のみんなも困るの。ここからあなたの声が聞こえるし、歩き回る気配がするから、学校中の生徒が怯えているのよ」
は? この人、なに言ってるんだろ。
「成仏ってなんのこと? 飛びかかってきた三森を殴って倒したけど、私は何もされてないのに。私はこうして生きて、毎日登校してるじゃん」
すると秦野さんがポケットから手鏡を取り出して、私の顔の前に差し出した。
「鏡になにが映ってる?」
鏡を覗いた。私の後ろのベッドが映っていた。
「あれ……。なんで? なんで私が映らないで、後ろのベッドが見えるの?」
「あなたは死んでいて、もう身体は焼かれて消えたから。ここにいるのは魂だけ」
「嘘! 絶対に嘘! なんで私が死んでるのよ!」
秦野さんが私の隣にきて、そっと私の髪を撫でてくれた。すごく優しい気持ちが髪を通して伝わってくるような。
「昨夜のごはん、覚えてる? 今朝のごはんは? ご家族と何をしゃべった? お弁当は持ってきてる?」
「……」
なにひとつ答えられなかった。私、最後に食べたの、いつだっけ。お父さんとお母さんを見たのは、あのお弁当をぶちまけられた日しか覚えていない。そう言えば、毎日お昼はどうしてたっけ。一人で食べてた? そんな記憶、ない。
「加賀野さんが三森さんを殴って倒した直後にね、笹山さんが椅子を振り上げてあなたの頭を殴ったの。加賀野さんは頭蓋骨陥没と脳挫傷で病院に運ばれたけれど、意識が戻らないまま息を引き取ったの」
「嘘。絶対に嘘。殴られた記憶がないもん!」
「あなたが保健室に現れるようになって、もう半年。外の景色を見てごらん」
窓の外を見た。六月の青々とした木々ではなく、葉が全部落ちた桜の木が見えた。遠くには白く雪を被った山。
あれ? 季節がすっかり変わっちゃってる。
「加賀野さんのお父さんとお母さんがうちに来てね、『娘を成仏させてください』って、泣いて頼んだの。加賀野さん。加賀野桐花さん。今から私が、あなたを送り出してあげるね」
「やだ。いやだ。私は死んでない! 死んでないんだから、どこにもいかない! もうすぐお父さんは転勤するんだから。私一人じゃ、どこにも行かないもん!」
すると保健室のドアが開いて、お父さんとお母さんが入ってきた。二人とも、ぎょっとするほど痩せて老けている。お母さんは美容室に行っていないらしく、艶のない白髪混じりの髪をひとつに縛って、お化粧も雑だ。
お父さんが、涙を浮かべて私の少し隣あたりを見ながら話し始めた。
「桐花、お前があんなに嫌がっていたのに、無理に連れて来てごめんな。父さんのせいだな。ごめんな。どうか、心安らかに成仏してくれ」
「桐花、お母さんもいつかは桐花のところに行くから。それまで先に行って待っててね」
二人があまりに悲しそうで、私は怒る気になれなかった。二人が見ている場所は、微妙に私からずれていた。お父さんもお母さんも、私のことが見えないんだね。
「ねえ、秦野さん、私が行くべき場所って、どんな場所?」
「明るくて平和で、毎日心穏やかに過ごせる場所です」
ふうん。そうなんだ? もう蛙の合唱、聞かなくていいんだ。それなら行ってもいいかな。お母さんもお父さんも、すごくつらそうに泣いてるもんね。
「わかった。秦野さんにお願いがあるの、引き受けてくれる?」
「私にできることなら、引き受けます」
「お父さんとお母さんに、『次に生まれてくるときも、お父さんとお母さんの子供になりたい』って伝えてくれる? どうせ私の声は聞こえないんでしょ?」
秦野さんがお父さんとお母さんに通訳みたいに伝えてくれた。二人があんまり泣くから、私はもう行かなきゃならないんだって、わかった。
「最後にもうひとつ。私のお墓に来るときには、チョコミントのアイスクリームを供えてほしい」
「わかりました」
秦野さんがまた通訳してくれて、両親はいよいよ号泣し始めた。そんなに泣かないでよ。私が悪いみたいじゃん。仕方ない。先に行って待ってるね。バイバイ、お父さん、お母さん。大好きよ。
◇ ◇ ◇
加賀野弘毅と清子の夫婦は、墓前で手を合わせ、あれこれ墓石に話しかけてから立ち上がった。
「アイスはそこのベンチで食べましょうか」
「そうだな」
「ひとりっ子がいなくなると、夫婦の絆が試されるわね」
「そうだな」
「秦野家って、有名な家だったのね。最初、お祓いしてもらえって言われたときは信じられなかったけれど」
「あれ以来、保健室の気配が消えたって、生徒さんたちがみんな言っているな」
「チョコミントのアイスクリームって言われて、さすがに信じたわ」
清子が立ち上がる。
「お墓が東京だから、桐花も少しは喜んでくれているといいわね」
「うん。そうだな」
「また泣く。桐花はまた私たちの子供に生まれたいって言ってくれたんだから。この先も仲良く夫婦でいましょうよ。そしてあの子と一緒のお墓に入りましょう」
「そうだな」
バイバイ、お父さん、お母さん。
お墓参りにきてくれるときだけ、私はここに来るからね。また来てね。
私は墓石の上に座っていたけれど、またいるべき場所に戻ることにした。秦野さんが言ったとおり、あそこは居心地がいいもん。