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3 じいちゃんの島

 日本にある島の数はおよそ一万四千。うち、人が住んでいる島はおよそ四百。

 つまり無人島がいっぱいある。


 僕の父方のじいちゃんは、その無人島所有者の一人だ。とても小さい島で水も出ないから、永住は難しい。じいちゃんは、水と食料を買い出しに通いながら無人島暮らしを楽しんでいた。

 過去形なのはもう亡くなったからだ。


 その小島に、僕は大量の荷物と一緒に小さな漁船で向かっている。荷物の大半は水と食料。

 島へ向かう僕の顔は、一発でじいちゃんの孫とわかるほど似ているらしい。


良三りょうぞうさんにそっくりだわ」

「よく言われます。祖父の若い時の写真を見ると、僕が写っているみたいですよ」

「そうだろう。おにいさんいくつだね?」

「三十二です」

「そうか。良三さんは、本屋を閉めてからは島暮らしを楽しんでたわなあ」

「楽しそうでしたよね」


 数時間かかってじいちゃんの島に着いた。島はほとんどが鬱蒼とした森だ。

 

「じゃ、五日後に迎えに来ますんで。怪我だけしないように気をつけてくださいよ」

「はい。のんびり読書をするだけですから」

 

 じいちゃんが手作りした桟橋は傷んでいて、用心して歩かないと踏み抜きそうだ。じいちゃんが使っていた家までの細い道は、雑草が消し去っている。膝を高く上げて草を踏みながら、じいちゃんの家を目指した。


 やがて小屋が見えてきた。一段高い場所に建てられた高床式の小屋。安っぽいのではなく実際に安く建てた八畳一間の家は、まだ無事だった。風呂はない。トイレは掘っ立て小屋。トイレの小屋は崩れていた。じいちゃんの家も崩れていたらテントで寝泊まりする覚悟だったから、家が無事だったのはありがたい。


 島には南国っぽい草木が生い茂っていて、ジャングルといってもいい景色。降ってくる太陽の光が強い。夏にはまだ早いのに、何往復もして荷物を運んだ僕はすっかり汗だくだ。

 

 木製の雨戸をあけると、かび臭くはあったが床板は抜けていなかった。置かれたままのほうきと持ってきた雑巾で家中を掃除した。僕は結構まめできれい好きだ。


 使われていた日用雑貨は驚くほど少ない。茶箱がひと箱ある他は、ちゃぶ台、茶碗が一つに箸が一膳、皿が一枚。着替えと下着が五枚ずつ。柱の釘に引っ掛けられた四角い鏡と手鏡がひとつ。こんなに物が少ないのに鏡が二枚あるところは、さすがおしゃれだったじいちゃんらしい。


 電気が通っていないから家電はない。衣類と布団は虫食いだらけカビだらけだったから、海岸まで運んで燃やした。

 青空に昇って行く黒い煙を眺めていると、じいちゃんの思い出を荼毘に付している気分になる。


「よし、休暇の始まりだ」


 夜になり、持参した蚊取り線香を焚きながら、タブレットで電子書籍を読む。充電できるバッテリーとノートサイズのソーラーパネルもある。台風は当分来ない。スマホは圏外だけれど、それもいい。毎日追い立てられるように働き続けてきたんだ。今回ぐらいはデジタルデトックスしよう。


 レトルトカレーとフリーズドライ白米で夕飯を済ませ、星の多さにおののき、その夜は満たされた気持ちで眠った。ただ、じいちゃんが言っていたように獣の気配がすごかった。


道秋みちあき、あの島は人がいなくても生き物はいる。あんな小さな島でも食物連鎖は成立してるってことに感動するぞ」

「動物に襲われないの?」

「人間を襲って食うような獣はいないよ。島が狭すぎる」


 病院のベッドでじいちゃんは懐かしそうに島の暮らしの話をしてくれたっけ。

 年を取っても豊かな白髪を伸ばして、後ろで一本に縛っていた。看護師さんたちにはダンディだと言われていたな。よくよく動けなくなるまで、シャワーは必死の形相で自力で済ませた。

 そしていよいよ息を引き取るとき、うわ言を言っていた。


「同情するなよ。絶対に同情するなよ」

「わかったよ、じいちゃん。同情しないから安心して」


 意味不明なうわ言だったけど、僕がそう答えたら安心した様子だった。歩けなくなってすぐ、眠るように息を引き取った。じいちゃんの最期に、海外赴任中の両親は間に合わなかった。

 

 父は遺影を見ながら「父さんは自由気ままな人だった。父さんのことは嫌いじゃなかったよ」と言った。

 母は「お義父さんは淡々とした人生だったわね。可愛がっていた道秋が最期を看取ったから、幸せだったわよ」と微笑んだ。


 両親は初七日の法要と納骨を僕に任せ、葬式が終わると成田から出発した。じいちゃんが旅立って悲しんでいるのは、僕だけだった。じいちゃんを姥捨て山にでも捨てたつもりか! 清々した顔をするなよ!  と、心の中で毒づいた。

 

「だめだ。眠れそうにない」


 虫よけを全身にスプレーして蚊帳かやから出た。懐中電灯の明かりを頼りに海岸まで下る。


「嫌いじゃなかったとかさ、幸せだったとかさ、きれいごとで済ませるなよ。それ、じいちゃんにじゃなくて自分に言ってんだろ? 後ろめたいからそう言ってんだろ?」


 八つ当たりを言っている自覚はある。

 じいちゃんは一人暮らしを楽しんでいた。不幸じゃなかった。僕が『じいちゃん離れ』をできていないだけだ。

 

 中学のときにほんの些細なことが理由で仲間外れにされた僕。そんな僕を、当時は本土で暮らしていたじいちゃんが引き取ってくれた。心を病んでいた僕は、じいちゃんのおかげで立ち直った。

 じいちゃんと一緒に店に出て、日がな一日読書をして過ごしていた。そんな中学時代。


「じいちゃん、寂しいよ」


 感傷的になっている。ただただ泣きたい。一切の批判をせず、要求もせず、あるがままの僕を受け入れてくれたじいちゃん。誰かに受け入れられて愛される幸せを、僕はじいちゃんに教えてもらった。


 人がいないのを幸いに、声を出して泣いた。こんなになりふり構わず泣いたのは、幼稚園の頃さえなかった。僕はずっと、聞き分けがいい子供だった。


 泣きすぎて頭痛がしてきた。「戻るか」と立ち上がり、歩き出したら視界の端で何かが動いた。思わず光をそちらに向けたけれど、見えるのは草木と二つの目。小型の動物の目が、光を反射していた。ウサギか狸だろうと家に戻って寝袋に入った。そしてじいちゃんの夢を見た。


 この島を買った頃の、短髪のじいちゃんだった。まだ五十代か。ばあちゃんの遺影を前に置いて、この小さな家で日本酒を飲んでいる。


「俺と夫婦になったばかりに、苦労させたなあ」


 じいちゃんはそう言ってぽろぽろ涙をこぼしている。じいちゃんは本土の田舎町で小さな古書店を経営していて、ばあちゃんの死をきっかけに店を畳んだ人だ。お葬式でも涙を流さなかったけれど、やっぱり寂しかったんだろうな。目が覚めたとき、そう思った。

 

 二日目もいい天気だった。海でひと泳ぎして、ベタつく体は持参した水でタオルを濡らして拭いた。雨が来たらシャンプーをしようと思っていたけれど、雨は降りそうにない。海水に浸かったせいか、頭が痒い。

 

 二日目は一日中読書をして過ごした。三食ともレトルト食品とフリーズドライ白米。僕には十分だ。僕は食にこだわりがない。タブレットで読書するのにも飽きて、茶箱を開けた。樟脳の香りと一緒に、古い本が二冊と日記らしい大学ノートが何十冊も収められていた。

 二冊の本はだいぶ読み込まれていた。ページがめくれ、傷んでいる。

 

 二冊のうちの片方には幸田こうだ骨一こついち著と書いてある。骨一って。ペンネームにしてもセンスがないなと思いながら本を開いた。タイトルの部分に貼ってあった紙は剥がれていた。

 これが読み始めたらなかなか面白い。日本全国の民話や言い伝え、風習などが集められていて、それぞれが不気味だったり恐ろしかったりしながらも僕を惹きつけた。


 その中のひとつに『残魂ざんこん』という話があった。内容はありがちな話で、亡くなった人を悲しみ惜しむ気持ちが強いと死者の魂が残ってしまうという話だった。究極のミニマリストみたいな生活をしていたじいちゃんは、なんでこんな内容の本を後生大事に残していたんだろう。


 もう一冊のタイトルは『監獄島』。監獄の代わりにされていた島が日本にあった、という内容だ。呪術を行う巫女が時の権力者に疎まれて島送りにされたらしい。さんざん利用されて人生を捧げた巫女の恨みが、島に封じ込められて残っているという民話だった。面白くはない。

 ただ、その島に至る道順の描写がこの島に来るまでのルートに似ていた。


 富士山を背にして西に何日、大きな川を越えてから南に何日。手漕ぎの船で何日。今は動力付きの乗り物ばかりだから費やす時間が全然違うけれど、ルートはこの島までの経路に当てはまる。

 

 じいちゃんはこの二冊を読んでこの島を買ったとか? だとしたらずいぶんロマンチックな話だ。じいちゃんにとって死者の魂を引き留めるほど想っていた相手がいたなら、間違いなくばあちゃんだろう。ばあちゃんのことを、じいちゃんは大好きだった。


 雨は降らず、南国のスコールが欲しいと思った。体調はいいが頭が痒い。仕方なく海水でシャンプーしてから、贅沢だけどミネラルウォーターですすぎを済ませた。頭がさっぱりした。

 

 新鮮な野菜が足りないのか、体が少しだるい。マルチビタミンは飲んでいるけど、足りてないのかも。

 眠りが浅く、またじいちゃんの夢を見た。じいちゃんは海を見ながら泣いていた。その胸に抱きしめているのはばあちゃんの遺影だ。救われない気持ちで目が覚めた。

 

 三日目はじいちゃんの日記をどうするか悩んで過ごした。

 僕だったら死後に日記を読まれたくない。捨てるか燃やすかしてほしい。だけど、燃やしたらもう二度と読めない。燃やすかどうかは最終日にしようと決めて、タブレットで読書に費やした。

 夢の中でじいちゃんは家の中で何事かを叫んでいた。じいちゃんは髪を伸ばし始めていた。


 四日目。我慢できずにじいちゃんの日記を読んだ。「読んでから燃やせばだれの目にも触れないからいい」と自分に言い訳して読んだ。日付順に選んで読み始めると、じいちゃんの文章が上手で驚いた。

 

 最初の頃の日記は、毎日「あれをやった」「これを完成させた」という活気のある内容だった。それが次第に沈鬱な雰囲気になって行く。


「ここを離れたほうがいい。でも離れられない」

「今日も夢を見た。勝子の夢は鮮明で、生きているようだった」


 そこから先はまた淡々とした記述が続き、ある日「取り返しのつかないことになった」と一行だけの日があった。

 取り返しがつかないことってなんだ?


 ただ、その日以降の日記は楽しそうなことが増えた。

 誰かと会話をしたかのような文章が記されている。僕は頭が痒くてボリボリ掻きながら読む。


 「これって誰だ? 実は恋人がいたとか?」


 そう思って読み進めた僕は「は?」と声を出してしまった。日記の中に「勝子が焼き魚を喜んで食べるから」という文章があったのだ。


「じいちゃん、幻覚の中で生きていたのか……」


 最愛の妻を失い、古い言い伝えを信じてこの島に引っ越し、死んだ女房の幻覚と会話しながら暮らしていたらしいじいちゃん。じいちゃんが可哀想で泣きながら読んだ。

 夜中、猛烈な頭の痒みで頭を掻きむしっているうちに目が覚めた。


「やばいなあ。ダニとかノミとか湧いたんじゃないだろうな」


 かきむしっていた後頭部を触ったら、しこりがみっつもあった。


「うわわわ。やっぱりなにかに噛まれてたわ!」


 持ってきた虫刺されの薬を塗りながらゾッとした。三つのしこりは硬くてかなりデカい。二つは十円玉ぐらいでかなり盛り上がり、もうひとつは頭蓋骨の下縁に沿って腫れが広がっている。


「本土に戻ったら最初に皮膚科だなあ」


 そう思って眠ったのだが。

 夜明け前に目が覚めたら枕がベトベトしている。髪の毛も気持ち悪く濡れている。


「うん? 濡れているってなんで?」


 慌てて起き上がり、手探りでランタンのスイッチを入れた。


「わあああっ!」


 枕もシーツも血だらけだ。虫刺されを搔き壊したらしい。


「やばいやばいやばい」


 抗生剤は持ってきていない。化膿しませんようにと願いながら朝を待った。二枚の鏡を合わせ鏡にして自分の後頭部を見た。失禁するかと思うような恐ろしい後頭部が見えた。夢の中のじいちゃんのように悲鳴をあげてしまった。


 今日は船が迎えに来る。

 日焼けして前歯が一本欠けているあの漁師さんに会えることを、こんなに待ち焦がれる日が来ようとは。


 殺虫剤と虫よけの薬を使い切る勢いでまき散らし、蚊取り線香を同時に五個も焚いた。

 煙で白くなった部屋で朝を待った。


 日の出と同時に荷物を持って、家を出た。

 キャップを深くかぶり、僕はボロボロの桟橋で膝を抱えて船を待っている。約束の時間までまだだいぶあるけれど、もう恐ろしくてあの家にいられない。

 船に乗っている間中、何度も漁師さんに心配された。


「あんた、大丈夫かい? 顔が真っ白だわ」

「ええ、ちょっと虫に刺されちゃって」

「島に虫は多いわなあ。都会の人は刺され慣れてないから、腫れ上がったかい?」

「はい」

 

 本土に着いたその足で、皮膚科に行くべきなのはわかっている。でも、これ……。病院に行ったら僕の人生は詰む。

 僕はマンションに直行した。そして帽子を脱ぎ、風呂場へ。


「頼む。頼む。頼む。嘘だと言ってくれ」

『だから言ったじゃないか。同情するなと』


 聞こえる声は幻聴であってほしい。鏡に映っているのは幻覚であってほしい。

 キャビネットの三枚続きの鏡を動かして、僕は自分の後頭部を見る。

 髪の毛の中、そこには懐かしい爺ちゃんの目と口があった。


『道秋、俺は注意したぞ、同情はするなと』


 僕の後頭部にできた口がじいちゃんの声でしゃべる。今気がついたけれど、鼻に当たる部分も盛り上がり始めた。実物より三割ぐらい小さなじいちゃんの顔が、僕の後頭部に完成しつつあった。


 それから一週間。有休を消化しても出社しない僕を心配して、仲のいい同僚が自宅に来た。


「近藤、大丈夫か? 流行りの感染症じゃないんだろう? いったいどうしたんだよ。てか、なんで家の中で帽子をかぶってんだ?」

「林、俺が正常かどうかお前に判断してほしいんだけど」


 林は一気に心配そうな顔になった。


「わかった。どうした? 俺に全部話してみろ」

「あのさ、これ、実話なんだけど」

 

 僕が全部話し終えたところで林がうなずく。


「ふむ。お前は働きすぎたんだよ。頭のできものがたまたまそういう配置にできたんだろうなあ」

「と、思うよな。林、お前の目で見てくれるか? 俺にはじいちゃんの顔にしか見えないんだ」


 そう言って帽子を脱ぎ、後頭部を林に向けた。

 林はジャッジを下さなかった。「ひゃああああっ!」という悲鳴を上げて逃げ帰った。


『馬鹿だなあ、道秋。あいつに見せちまったら、もう会社に行けないぞ』


 後頭部から呆れたように言ったのはじいちゃんだ。初めて声を出した。


 ◇ ◇ ◇


 それから一年。

 僕はじいちゃんの島で暮らしている。ささやかな貯金を切り崩し、ほぼ自給自足の日々だ。髪がすっかり伸びた。本土に渡るときはひとつに縛っている。これが一番じいちゃんの顔が目立たない。じいちゃんが髪を伸ばして縛っていたのも、死ぬ間際まで自分でシャンプーしていたのも、このためだったんだ。


「ねえじいちゃん、ばあちゃんが頭にできたとき、怖かった? 嬉しかった?」

『半々かな。いや、三分の一ずつだ。残りの三分の一は、申し訳なさだ』

「申し訳なさか。そうだよね。成仏できないってことだもんね」


 僕はあとどのくらいじいちゃんと一緒に生きればいいのか。

 よくよく生活に困ったら、騒ぎになるのを覚悟で大学病院に行こうと決めている。


『道秋、今日はタコの捕まえ方を教えてやるぞ。ぬめりを取ったら塩焼きにしてくれるか?』


 海の幸を好んで食べるじいちゃんが、後頭部から話しかけてきた。

 

 

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