2 隣の三角さん
隣の空き家に人が入った。
我が家は平屋の貸家が五軒並んでいる西の端だ。うちの東隣りの家はずっと空き家だったけれど、やっと女性が引っ越してきた。
「隣に越して参りました。三角です。これはほんの気持ちです。お受け取り下さい」
「まあまあ、ご丁寧にありがとうございます。女性の一人暮らしがこういうとこに入るのは珍しいのよ。なんでここを選んだの?」
お母さんの悪い癖が始まった。何でも知りたがる。誰にでも平気でプライベートなことを尋ねる。
「お母さん、やめなよ」
「なんで? お隣同士、親しくさせていただきたいじゃないの。三角さん、この子は娘の美里です。中学三年。生意気盛りの面倒くさい時期なのよ」
「こんにちは美里さん。三角です。私、ガーデニングが好きなのでここを選んだんですよ。こんなに広い庭がついている貸家は珍しいもの」
「うちはもう、雑草畑ですけどね。あはは」
母は立ち話を続けている。三角さんは母と同じ四十代くらい。地味な顔立ちだけど、切り揃えたボブヘアが清潔な感じ。挨拶の品は焼き菓子の詰め合わせだった。父さんが事故死してから、うちは猛烈に節約をしている。こんなちゃんとしたお菓子は久しぶりだ。
翌日から三角さんはせっせと庭の手入れをしていた。雑草を抜き、花の苗を植えている。私は敷布団を庭の物干しに干した。ふかふかに乾いた布団の、お日様の匂いが大好きだ。お母さんは昼間に寝ているから、いつも布団乾燥機ばかりだ。
三角さんと目が合ったから頭を下げたら声をかけられた。
「おはようございます、美里さん」
「おはようございます。焼き菓子、ごちそうさまでした」
「どういたしまして。今、バラについたアブラムシを退治しているの。あっという間にアブラムシが増えちゃって」
手招きをされたので三角さんの庭に入った。隣り合う庭の仕切りは高さ三十センチくらいのプラスチックの柵だけだ。
三角さんの足元にはホームセンターで見た覚えのある液体の殺虫剤が置いてある。彼女はそれを湯飲みに移し、刷毛を使って丁寧にアブラムシに塗っている。
「アブラムシはどこから来るのかしらね。鬱陶しいったらありゃしない」
「アブラムシって、何を食べるんですか?」
「植物の汁を吸うだけ。それも柔らかくて栄養が一番送り込まれる場所に集中してつくのよ。文字通り旨い汁を吸っているの」
「三角さんは虫のことに詳しいんですか?」
「まあね。敵のことは知っておかないとね」
なんともいえない居心地の悪さを感じるのは、彼女の表情が原因だ。丁寧に殺虫剤を塗っている三角さんは、アブラムシを殺すのが楽しくて仕方ないという表情をしている。
「あ、そうだ、お菓子を食べない? 頂き物があるの」
三角さんがチョコレートを持ってきてくれた。箱にはチョコクリームが入っているトリュフチョコの絵が描いてある。外国のお菓子だ。チョコはとても美味しかった。庭から茶の間を見るともなしに見たらパソコンとヘッドフォンが置いてある。
「三角さんは家でするお仕事なんですか?」
「ああ、パソコン? そうなの」
「すごいなあ」
知識と技術さえあれば三角さんみたいに自立して生きていけるんだな。母さんはそういう技術がないから苦労しているんだと思う。その母さんは夜明け前に酔っぱらって帰ってきた。今はぐっすり寝ている。
母さんはスナックで働いていて、毎晩のように酔っぱらって帰ってくる。「お客さんに勧められたら断れないし、お店の売り上げにも貢献しなくちゃならないのよ」と言う。
だから私は公立高校に行くつもりだし、大学は何が何でも国立大学に入らなければならない。母さんにこれ以上お金の心配はさせられないもの。我が家は毎日の食事にも不自由するくらい貧乏だ。
まだ中学生だけど、国立大学を目指して毎日図書館が閉まる時間まで勉強をしている。エアコンの電気とトイレの水道代を節約するためだけじゃない。勉強に集中したいのと、疲れて寝ている母さんを起こしたくないからだ。
母さんが出かけたころを見計らって家に帰ると、いつもコンビニのお弁当が置いてある。
料理がしたいなと思うけれど、お金を渡してもらえないから食材を買えない。うち、家計が火の車ってやつだと思う。お母さんが家で食事しているのを見たことがないし。
その日、母さんが夜の十二時ごろに帰ってきた。わりと早い時間だ。
「ただいま。ちょっと美里、聞いてよ。三角さんの家に年配の男が通ってくるの。昼間っから何をしているのかしらね」
「何をしていたっていいじゃない。うちには関係ないよ」
「だって気になるじゃないの。三角さんは独身だけど、通ってくるのはどう見ても五十過ぎのおじさんでさ。二人で二時間も三時間も」
お母さんはきっと羨ましいんだと思う。父さんが死んでから、休みなしにスナックで働いているんだもの。生活に余裕がありそうな三角さんを妬ましく思うのも仕方ないかもね。
翌朝、食パンにジャムを塗って食べていたら、母さんがお酒の臭いをさせながら起きてきた。母さんは水道の水を飲みながら、また三角さんのことを話題にする。
「三角さんとしゃべったんだけどさ、美里のことをいろいろ聞いてきたわ。あんた、三角さんとよくしゃべってんの?」
「会えばしゃべるけど。なんで?」
「あんまりあの人としゃべらないで。なんか嫌な予感がする」
「なにそれ。予感って」
思わず笑ってしまった。きっと私が他の人と仲良くなることにやきもち焼いているんだ。母さんて、案外可愛いところがあると思った。
だけど、母さんの『イヤな予感』は当たったのだ。
それから数日たった日の朝、五軒並んでいる貸家の前に、パトカーと赤色灯を載せた普通車が四台も並んだ。
(なに? 事件? どこで?)と窓から見ていたらたくさんの男の人が貸家に向かって歩いてくる。どの家だろうと思っていたら、うちのチャイムが鳴らされた。母さんを起こさないよう、走ってドアを開けた。
「伊藤美里さんだね? お母さんは?」
「寝ています。なんですか?」
隣の部屋で寝ている母さんを心配したのだけれど、男の人たちは母さんに話を聞きたいと言う。そのうち外で「待てっ!」という男の人の声、お母さんの大きな声、男の人の怒鳴り声。お母さんの「アアアア!」という獣じみた声が続いた。私としゃべっていた人が家の中に靴のまま突進した。
何が何だかわからないのと恐ろしさで私は動けなかった。
「美里ちゃん。こっちにいらっしゃい」
三角さんが玄関に立って私を手招きしている。
「三角さん! これなに? なんなの?」
「怖かったね。私がいるから安心して」
三角さんが私の肩を抱えてくれる。そして警察の身分証を見せた。
「三角さんは警察の人だったの?」
「ええ」
なにがなんだかわからないまま、私もパトカーで警察に連れて行かれた。
それからは信じられないような話ばかりを聞かされている。母さんの交際相手が睡眠薬を飲まされて交通事故を起こしたという。警察は母さんに疑いの目を向けているのだ。母さんが水商売だからなのか? 全部でっち上げにしか聞こえない。
「待ってください。交際相手? そんな人がいたなんて知らないです」
「そう。知らなかったのね。交際相手がいたの。その男性には保険が掛けられていてね。内縁関係でもない美里さんのお母さんが受取人になっているの」
納得できなかった。休みなく働いていた母さんに交際相手がいたことも、保険金殺人を疑われていることも。だから三角さんが何か言うたびに反論したし質問した。三角さんは根気強く説明してくれる。
「お母さんの交際相手は最近事故を起こしたの。軽傷だったけれど、飲酒をしていないのに朦朧としていたから検査されたの。血液から睡眠薬の成分が出てきたわ」
母さんの交際相手が睡眠薬を飲んだのは自分で飲んだのだろうし、保険金は相手が勝手に母さんを受取人にしたに決まってる。
「美里さん、お父さんとお母さんは仲が良かったかな?」
「待って待って。まさか父さんの交通事故まで母さんがやったと思ってないですよね?」
「それはこれから調べる」
「そんなはずないです! 母さんと父さんは仲良かったもの。母さんは私を養うために毎晩遅くまでスナックで働いているのに!」
三角さんの顔に憐憫の表情が浮かぶのを、私は見逃さなかった。
「お母さんはスナックで働いていると言っていたのね?」
「うそ……。母さん、スナックで働いていたんじゃないの?」
「美里さんはもう十五歳だから、これから環境が激変する前に、事実を知っておいた方がいいと思う。警察が知っていることを話すわね」
三角さんは言葉を選びながら丁寧に説明してくれた。
私は全く知らなかったけれど、母さんは父さんにかけられていた保険金を受け取っていた。母さんが受け取った保険金は、地味に暮らせば働かなくても母娘二人で十年は暮らせるような金額だった。
「じゃあなんでうちは貧乏なの? 三角さんの言っていること、おかしいよ」
「お父さんの保険金が入った直後から、美里さんの母さんの行動が変わったの。美里さんのお母さんはどこにも勤めていないのよ。ホストクラブに毎晩通って豪遊していたの」
ホストクラブ? あの母さんが?
「そんな。嘘。母さんの交際相手のことだって、睡眠薬を飲ませたのが母さんだっていう証拠はあるんですか?」
「男性は『元気になる薬だと言われて、錠剤を飲まされた』と言っているわ。そこから警察が動いたの。結果、その男性に高額の生命保険が掛けられていることがわかったのよ」
「相手の男性が好意で保険に入ったかもしれないじゃないですか」
「ううん。美里さんのお母さんが『知り合いが外交員をやっているから、どうしても入ってほしい』とかなり熱心に頼んだそうよ。一年だけ入ってくれればいいからって。それに……二ヶ月前に、あなたにも保険が掛けられたの」
私に?
「私たちは、あなたを守るために必死だった。私は隣に越して、お母さんの行動を見張っていたの」
◇ ◇ ◇
「美里、それ、実話なの? 冗談だよね?」
「これ、実話です。亡くなった私の父も、母に睡眠薬を飲まされていたそうです。母が自白しました。だからごめんね、山野さんとは交際できません。面倒なことになるに決まってるもの。私、今月いっぱいで退社して、別の会社の正社員になるの。有休を消化するから、もう会うことはないと思います。交際を申し込まれたのは嬉しかったわ。ありがとう」
立ち上がって居酒屋を出た。山野さんは追いかけてこない。
来月行くのは大阪の会社だ。やっと見つけた正社員の仕事。私の事情を知っても「問題ないよ。あなたはあなただ」と社長さんが言ってくれた職場だ。
母さんにはあれ以来会っていない。私を殺そうとしていた母さんに会う気には、この先もなれないと思う。