1 龍の神社と伊織
「伊織、今日カラオケ行く?」
「ああ、行こうかな」
「マジで? 珍しいじゃん。今日は神社に行かないの?」
「ああ、うん。しばらくやめることにした」
「ふうん。じゃ、行こうぜ。ここで待ってろ。今、車持ってくる」
新はそう言って、走って行った。新は幼稚園からずっと続いている友人だ。
一年の教養課程を終えて、俺と新は大学の二年生になった。一年生に比べたら時間に余裕がある。白い車が俺の前に止まった。あちこちに傷や凹みがある軽自動車は新のおじいさんのお古だ。
「うちのじいちゃんは『慣れた場所でも目測を誤って車をこするようになっちまった。他人様の命を奪う前に車を手放す』って言って、免許を返納したんだ」
「じゃあ新のおじいさんの配慮を無駄にしないように安全運転で頼む」
「まかせろ」
カラオケ店に行き、新は次々に最新のJポップを歌う。
俺はコーラを飲みながらぼんやりと新を眺めた。新は幼稚園から続けていた剣道を、大学でやめた。「なんで?」と聞いたら「先輩がクソだった」とだけ言ってそれ以上は何も言わない。新は大学の剣道部を退部したあたりからカラオケに行くようになり、俺を誘うようになった。
歌い終わった新が俺の隣に座って「で?」と言う。
「『で』ってなんだよ。お前は言葉を省略しすぎなんだよ」
「あんなに好きだった神社通いを急にやめたのは、何かあったんだろ? 話してみなって。俺が聞いてやんよ」
俺の顔を見て、ふざけていた新が急に真顔になった。
「なんだよ。本当になにかあったのか?」
「あったといえばあった。何もなかったと言えば何もなかった」
「どっちだよ!」
氷が解けて薄くなったコーラを全部飲んで、胸の中で燻っていた感情を吐き出すことにした。
「これ、実話なんだけど」
◇ ◇ ◇
利根川を渡った向こう側に、その神社があった。航空写真で見ると、神社は低い山の上にある。運動がてら自転車で向かい、何の期待もせずに階段を上った。
しかしその神社は予想をはるかに上回る「いい神社」だった。
神職がいない業務神社だけれど、氏子に愛されているのは見ればわかる。参道の落ち葉はきれいに掃き清められていて、参道脇の小さな祠にはコップ酒のガラス容器に野の花が活けてある。
参道の行き止まりにあるのは、八畳間ぐらいの大きさのお社だ。お社も古びてはいるが、ところどころ真新しい板で修理されていて、大切にされているのが伝わってくる。
圧巻だったのは柱だ。
一本の大木を削って、龍が柱に巻き付いた姿を彫ってある。最初から大木の中で眠っていた龍を、彫り手が取り出したかのように見えた。昔は絢爛豪華に彩色されていたのだろうが、年月が絵の具の大半を消してしまっている。青い鱗の龍で金色の目に黒い瞳。それがどうにかわかる程度に色が残っている。
色が褪せていても龍は美しく、力強く、神々しかった。
今はもう生きていないであろう彫り手の人物像を想像しながら、飽きずに龍を眺めた。
週に二度か三度はその神社に行き、龍を眺める。心安らぐ充実した時間だった。
そのメモに気づいたのは、たまたまだ。
龍の柱を眺めた後で今日は他のルートで帰ろうと思った。あまり人が通らない細道を下りかけたら、立派な欅が参道の右手少し奥に生えていた。
俺は大木も好きなものだから、木の周りを一周したら……。
地面から二メートルぐらいの場所にウロがあった。野鳥が巣をつくるにはちょうどいいようなウロに白い紙が入っている。
こんなとこにゴミを入れるなよ。
そう思って手を伸ばし、紙を抜き取った。それは几帳面に四角く折りたたまれた一枚のルーズリーフだった。
何も考えずにルーズリーフを広げたら、黒いボールペンで書かれたメッセージ。
『家族が私を邪魔者扱いする』
「こわ」と思わず声に出した。江戸川乱歩の小説に出てきそうな状況だ。
この紙はいつウロに入れられたのか。どんな人が神社にお参りに来て、なぜ木のウロにこんなメモを入れたのだろう。邪魔者扱いとはどんな扱いか。
なんとなく年配の、気の小さい男性を想像した。このあたりは農家がほとんどだ。これを書いたのは農家の人だろうか。
小説の登場人物になったような気分で、俺はリュックから青色のボールペンで紙に書き込んだ。
『邪魔者扱いとは、何をされるのですか』
そう書いてからルーズリーフを折りたたんだ。四つに折られていた紙をさらにもう一回折って、八つに折りたたんでからウロに戻した。その手紙に返事なんてくるわけもないと思いながら、三日後にまたその神社に行った。
まっすぐに欅の大木を目指し、ウロを見上げると、俺が入れた紙は新しい紙に変わっている。
楽しみなような、恐ろしいような気持ちで紙を抜き取った。ルーズリーフは前回と同じように、几帳面に四つに折られている。その紙を広げると……。
『私が畑仕事をやってるのに、金が一円も貰えない。全部取られる。私に金は渡せないと言われる』
字はとても几帳面で、印刷したように整っている。
きっとこれは冗談だよなと思ったが、見ず知らずの人とやり取りする面白さに負けて、俺はまたそのルーズリーフに返信を書いた。
『働いた分のお金を受け取るのは当然の権利では? なんの報酬もなく働くのは奴隷です』
八つに折ってウロに入れ、(次はなんて返事が書かれるのだろう)と思いつつ、自転車で帰宅した。
待ちきれずに、翌日にまた神社に向かう。もう龍の柱には目がいかない。石段を駆け上がり、龍の柱の脇を通り、欅に向かう。目的の白い紙は、ちゃんとあった。
三通目の手紙には、びっしりと文章が書かれていた。
改行もなく、行を空けることもなく、ぎっちり詰められて綴られた文字が並んでいる。狂気を感じさせて少し恐ろしい。文字で真っ黒な紙からは追い詰められた書き手の精神状態が浮かんでくるようだった。
文字は相変わらず印刷されたように几帳面で、止め跳ね払いが正確に守られている。『几帳面な病人』という言葉が頭に浮かんだけれど、俺は夢中になってその文章を繰り返し読んだ。
そこに綴られていたのは、手紙の主が家族に嫌われ、孤立している様子だった。
家族と一緒に食事することは許されず、食事は毎日毎回一人で自室で食べ、風呂は一番最後。会話はなく、声をかけても無視される。
手紙の主の文章から浮かんでくる家族構成は、五歳年下の妻、中年の娘、その婿、中学生と小学生の孫は二人とも男児。
五十近い娘が、と書いてあるから手紙の主は七十代の後半くらいだろうか。
朝から晩まで畑に出て、野菜を育て、化成肥料を撒き、除草剤を撒き、野菜を収穫する。
野菜を出荷するのは妻の仕事で、男性は金銭のやり取りには関わらせてもらえない。そして無視され会話の無い日々。
『家を出て一人暮らしをしたら? 大変だろうけど、今の生活よりはましなのでは? 市役所に相談窓口があるはず』
翌日に神社へ行くと、もう返事が入っていた。
『家も畑も自分のものなのに、全てを渡して出て行くなんてありえない。一人暮らしをしたい。もう疲れた。つらい』
その先はまた家族に何をされたか、何をしてもらえないかが呪詛のようにびっしりと綴られている。
男性は不動産も銀行口座のお金も手放したくないらしい。だから何十年も苦しみながら家を出られないのだ。男性の家の実質的なリーダーは彼の妻なのだろう。
それはまるで首の細い壺に手を突っ込んで中の豆を握ったまま壺から手を抜けなくなった猿のようだった。
『家も畑も名義があなたのものなら、取り戻すことはできるはず』
面倒になって、これで終わりにしようと思った。
もうこの神社には来ない。欅のウロも覗かない。
壺の中の豆を手放さないからいつまでも猿は手が抜けない。俺が壺を割ってやるわけにもいかない話だ。
神社に行かなくなって十日。俺は手紙のやりとりをしていた相手をニュースで知った。
あの神社の近くの農家で、家長の老人が妻、娘、婿、孫二人を惨殺したのだ。朝からずっとテレビはそのニュースをやっている。ワイドショーは全局でトップニュース扱いだ。
犯人の老人は「家族が自分を邪魔者扱いしてきた。自分を邪魔者扱いする家族がおかしい。家も畑も自分のものなのだから、一人暮らしをするために全員殺した。これは神社の神様のお告げだ」と言っているそうだ。
◇ ◇ ◇
「待ってくれよ。じゃあお前が手紙のやり取りをしていた相手って……」
「うん。犯人だった。俺が良かれと思って一人暮らしをするようにアドバイスしたせいで、犯人の家族は殺されたんだよ」
「いや、伊織のせいじゃないだろう。そのじいさんは心を病んでいたんだろうし、家族にも原因があったわけだろう?」
「コップに盛り上がるまで水が入っていたのに、そこに水を足したのは俺だよ。俺が余計なことをしたばかりに、水がこぼれたんだ。俺が面白がって手紙のやり取りをしたから五人は殺されたんだ」
新は何度も「いずれはそうなった」「お前はじいさんのメンタルがどうなっているかわからなかったんだから仕方ない」と慰めてくれる。
「だけど、今になって思うんだ。俺は手紙に書かれたじいさんの言い分しか知らない。最近、本当に手紙の通りだったのかなと思うようになったんだ。もしかしたら、その人の一方的な思い込みだったかもしれない。お金を渡されないのも、家族がその人を避けるのも、何か正当な理由があったかもしれない。もしそうだとしたら……」
新が絶句した。
俺たちはカラオケ屋を出た。
これを読んでいる人に心から忠告する。
顔も知らない人とのやり取りをSNSですることがあるだろうけど、迂闊にアドバイスはしないほうがいい。たとえそれが善意であっても、とんでもない結果につながる可能性はあるんだよ。
殺された五人の被害者は、誰が老人に余計なことを吹き込んだかを知っているらしい。
最近夜中に鏡を見ると、老女、中年の男女、二人の少年が俺の背後に見える。全員が血まみれの姿で、俺を無表情に見つめているんだよね。