魔法侍、名刀を追う
夏の夜であった。
男が一人歩いている。
小柄な男だった。年のころはまだ、二十を幾つか越えたばかりであろうか。しかし、その全身はがっちりとたくましく、ただ者ではないという印象を周囲に与えるだろう。
この男、名を松村信為という。
(つけられているな……)
月のない夜である。
外つ国では魔石を動力とした灯りが街を照らしており、夜でも随分と明るいそうだが、江戸の夜はそうではない。
こういう闇が濃い日は、
(悪い奴らが何故かおれを狙ってやってくる、絶対に。 本当に何故なのか。 江戸に帰ってきたばかりというのに)
のである。
こういう時は、大声を出して助けを呼ぶ、というのは確かにひとつの手ではあるが、信為は違う方法を選ぶ。
すなわち、開けた場所で敢えて立ち止まる。
「何者か!」
誰もいない空間に向けて声をかける。だが、信為には複数名がそこに立っていることが見える。
信為は夜目が利く。信為は、相当に鍛えられた剣客である。
故に、不審者達を誘いだし、叩きのめすことにした。
誰何された者共は、しかし焦る様子もなく、ぐるりと、彼を取り囲んだ。
キンと刀が抜かれる音がしたと思ったら、次の瞬間刃が襲いかかってくる。
信為は焦ることなく、一歩足を引いて振り下ろされた刃を躱し、次の瞬間には相手の横腹を拳で叩いていた。
「ぐっ」
襲撃者はたまったものではなく、からんと地面に刀を取り落とした。
二人目。
「鋭っ!」
掛け声とともに、刀が燐光を纏う。魔法である。夜闇ではどうしようもなく目立つそれを用いたのは、信為が存外に与しがたいと判断したためだろう。
だが、それは自らの居場所を教えただけにすぎない。
「せいっ!」
「ぎゃあ」
信為が蹴り出した下駄が唸る様に襲撃者の喉元に突き刺さった。
三人目。四人目。
魔法を纏う刃が、上と下双方向から同時に迫ってくる。
ここでようやく、刀を抜いた。
「しいっ!」
ほんの一瞬。信為の刀が赤く光る。
「うわっ」
上の輩の刀が、斬れた。その勢いのまま、下の輩の脳天に刀が振り下ろされる。
だが、その瞬間である。
「やあああ!」
いささか甲高い、しかし芯の通った気合い声とともに、ガツンと躰がぶつかる。
「ぐぅ!?」
初めて、信為が後ずさった。
「はああああああ!」
「ちぃっ!」
間髪いれずに、追撃が来る。斬られた髪が空に舞う。
(これはかなりまずい)
強い。これまでの敵とは文字通り段違いだ。
『水流天下』
信為は咄嗟に、相手の足元の地面を水で濡らす。
魔法でもって相手を崩すことは、ある種常套手段である。しかしながら二本差しの侍は、こういったことを「邪道だ」と嫌うことが多い。崩すのではなく、直接相手に傷を負わすことができるほどに、強力な魔法を使ってこそが本道であると。
流石の強敵といえど、突然地面の性質が換わったのだから、たまったものではない。
「む」
ずるっと、態勢を崩す。
そして、信為は。
「っ!」
追撃はせず、全力でもって大きく後ろに下がった。
もし今、踏み込んでいたら。
(斬られて──否、何かされていた)
ツウと汗が背筋を伝う。単に幾人とも戦っていたため、ではない。
明確に死の気配が、その一瞬に迫っていた。
(難敵だ)
信為は自身の口元がつり上がっていることに気づかない。それは、もし余人に見られていたならば、楽しそうと、そう評されていただろう。果たして、対峙する敵もまた、同じ表情を浮かべているのだが、それを当人達は知るよしもない。
互いに上段に剣を構える。どちらも動きださない。否、動き出せない。
互いに、互いを、イメージの中で幾度も斬り結ぶ。
じりじりと立ち位置を変える。二人の間には、ある種静寂が生まれている。
その静寂を破ったのは、だから、この二人のうちのどちらかではなかった。
「おおい、 信為殿、信為殿ではないか! こりゃいかん、中止、中止だあ! この人は大丈夫だ、人間違いである!」
なんというか、非常に間抜けであり気が抜ける叫びだった。
信為と、難敵の目が合う。気まずくて、お互いにペコリと会釈し、こっそりと納刀した。
二人の戦いに水を差した主が、のっそりと歩いて近づいてきた。
「すまなかったな信為殿、山本先生」
「すまない、で済む問題ではないでしょうが。 私でなかったらどうするつもりだったのですか、義兄上」
そして、難敵の名は、山本ということを、信為は知った。
◆
信為には姉が一人いる。
名を、さよ、という。その、さよが嫁いだのは、一応信為にとっては兄弟子にあたるはずの、中村吉右衛門であった。
一応というのは、この吉右衛門、極めて剣の筋が悪い。体を動かすのが下手というわけではない。ただただ、剣を──魔法を組み合わせて刀を振るうことに、才がなかったのである。
「よくぞ、無事で戻りましたね」
「はい、姉上」
「うちのが、迷惑をかけたようで」
「本当に迷惑でした。 弟弟子の面倒は、しっかり見ておいてください姉上」
「返す言葉もありません」
「私がここにいるのだから、もう少し言葉を取り繕えないのか、さえ、信為殿……」
「あ な た」
「うっす……」
あの後、吉右衛門宅に信為は──なぜか山本という剣士も──招かれたのである。
この剣士、暗がりでは気づかなかったが、信為に比べると細身であり、それでいて背が高いものだから、一見すれば華奢である。
それでいて、総髪で色白、顔の造詣もまるで絵巻物から抜け出してきたような美形である。
しかし、刀を抜けばその膂力は、信為とも引けを取らないというのだから、世の中わからないものである。
「拙は、山本京香と申します」
「松村信為と申す」
存外に声が高く、ひょっとすると京香はかなり年若いのかもしれないと思いつつ、信為も深々と頭を下げた。
「失礼ながら、剣はいづこで?」
「始まりは、京の方で少々。 それからは、諸国を巡り、今も修業の身になります」
「山本先生は、すごいぞ。 なにせ、あの強さだ。 江戸でも、十本の指に入るのではないか?」
「そんなことは、ござりません。 到底、信為殿には及びませんでした」
京香はどこまでも、謙遜する。信為は、自身と似た境遇の剣士に好感を持った。
「いやいやいや、あのまま続いておれば、私もどうなっていたか」
信為、本心である。
「せっかくだし、あのまま続けてもらっていた方が良かったか」
「義兄上、それとこれとは別です」
「痛っ!? さよ……」
吉右衛門は、さよに、太股をつねられているらしい。
姉夫婦は、こう見えて仲が良い。
「そういえば、それです義兄上。 山本殿ほどの人物を」
「松村殿、お止めください。拙は、それほどたいした者ではござりませんので」
「京香さん、あなたが大した者でなければ、この人は路上の石にも及ばなくなってしまうので、ほど程にしておいてあげてください」
「辛辣すぎやしないか!?」
吉右衛門はもはや、涙目であった。こういう人間である。だが同時に。
吉右衛門の眼が、細く鋭く光る。義兄のこういうところが、油断ならないということを、信為は知っていた。父に言わせれば「あいつは、食えない奴じゃ。 ならばこそ、さよを嫁がせた。 ああいう男は、尻に敷かれる位じゃなければ、なにをしでかすかわからん」らしい。
そして、義兄は薄く息を吐く。
「なれば、知っておいてもらおうか。 無論、このことは」
「他言無用ですね。 父には?」
「ああ、大先生ならば問題ない。 勘づいているとは思うが、お役目に関わることだ」
義理の兄は、お上に仕えている。それだけは確かであるが、具体的にどういう役目にあるかは、信為は知らない。毎度、毎度、言うことが変わる。ある時は、「奉行所に」と答え、またある時は「天子様の元で少し」と答え、またある時は「御庭番なのだよ」と答える。
さすがに、妻であるさよはもう少し詳しいことを知っているはずなのだが、尋ねたとてさよはさよで「あの人は、どこに勤めていても、吉右衛門様ですよ」と返すばかりである。
それ故に、此度のお役目もまた、お上の御用であるということのみは、確かであった。
「端的に申せば、刀が盗まれた」
「刀──よもや、五名剣が?」
さて、五名剣とは何であろうか。端的に言えば『大きな魔法が使える剣』のことである。
侍という身分の始まりは、平安の頃にさかのぼるそうだ。この頃は、まだまだ公家の権力が強かったころであるから、侍は今と違いこの公家たちを、ひいては都を守るための用心棒のようなものであったという。
では、何から守るのであろうか。
ずばり、魔獣である。
では、何をもって守るのか。
すなわち──魔法であった。
侍は魔法を用いて魔獣を、時には人と戦うのである。
なればこそ、時の権力者達はいかに侍を──魔法を管理するかが最大の懸念点であった。
今の世を握る徳川もまた、先の戦乱においてあまりにも強力な魔法そのものである五名剣を、有事を除いては使用を禁じ、江戸城の奥に封じている、というのがもっぱらの噂である。
「それは、さすがに天下の一大事がすぎる。もし、本当にそうであれば、此度のことでは私の首も繋がっていないだろうよ」
「では」
「そうではなく、さる、名家の蔵から盗まれた、そうさなあ、まあ、それなりの業物ということにしておこうか」
「ははあ」
なれば。
「それで、私が狙われた理由は?」
「下手人を目撃した者がいたのだ」
曰く、小柄であったと。そして、連日連夜の見回りの後に、運悪くそこを通りかかったのが、信為であったらしい。
「義兄上……」
「言うな」
「ほとんど下手人について、なにも分かっていないのですね?」
「…………」
吉右衛門は、沈痛な面持ちで首を縦に振った。
「否、一応完全になにも分かっていない、ということもないのでござるが」
「ほう」
「曰く、とてつもなく腕が立つ男であったと」
「それで、山本殿も向かわれたと」
「ええ。 吉右衛門殿と、さよ殿には、宿飯の恩義がございますので」
「つまり私は、山本殿のおめがねに叶ったという訳ですね」
「それは、もう十二分に」
京香は茶目っ気たっぷりに返した。
「さて、義兄上」
「うん」
「いつも通りのそそっかしさで、私を危うく斬り捨てようとしたということは、はっきりとわかりました」
「面目ない……」
「冗談です。 此度のことは、私も気に留めて置きましょう」
「すまない、助かるよ」
信為は、あえてひとつのことを尋ねなかった。それは、先頃自身を取り囲んだ者どもがどう考えても、とても公儀の役人達ではなかったことである。
恐らく。
(公儀の者が動いたと知られるとなにか都合が悪いことが、ある)
そう考えると、自ずと犯人あるいは黒幕と黙された人物の素性も絞られてくるわけだが。
(そこまでは、知らないほうが良いのだろう)
「それで、姉上」
「どうしましたか、信為」
「何故、私の前に膳と酒が置かれているのでしょう」
信為は、ぼちぼち帰ろうと考えていたのだが。
「おや、泊まっていかないのか?」
「信為は、それほどに野宿を好むようになったのですか? それとも、帰る宛があるのですか」
何を言われているのか。心底不思議そうな実の姉と、義兄に、信為は今日一番の疑問を抱く。
「帰る宛というか、父上のもとへ」
「ああ、信為。 端的に言いますと、お前の家はなくなりましたよ?」
「はあ!?」
◆
翌朝のことである。
信為と京香は、共に道を歩いていた。空には入道雲が高々と積み上がっていて、白々と輝いている。
「京香さん、結局その荷物はいったい……?」
「拙も、皆目検討はついていませんが、ただ、さよ殿が必要になるから持っていけと」
「一体、父上は何をしたんだ……」
昨夜は結局、信為は家には戻らなかった。さよによれば、信為の家というか実家は「なくなった」そうだし、そうと言われてしまえば夜中にわざわざ実家まで行くのも面倒だったからだ。
そして、いっそ帰らないと決めてしまえば、あとはもう程よく飯を食い、程よく酒をのみ、楽しく新たな知己と語り合った。
その結果、信為と京香の双方ともに昨夜よりは砕けた話し方になっているのである。
「しかし、京香さんまで一緒に来られるとは……」
「拙も、常々興味がございましたので。 かの名人──松村恭之助の名は、京の都にすら及んでいましたし」
松村恭之助は、もちろん信為とさよの父であり、そして同時に名人と称されるほどの剣客であった。信為も腕がたつとはいえ、剣客としての歳月はやはり恭之助にはとてもとても及ぶものではなく、名声も、無論のこと剣士としての腕も言わずもがなである。
「叶うのならば、一手の御指南をお願いしたいほどです」
「……それは、どうだろうか。 本人はすっかり隠居老人の気分になっておられるようだからなあ」
信為が十五の歳から、諸国を修行のために周り始めて数年の間に道場を父は閉めた。曰く「もう体が言うことを聞かんわい」である。ただ、昨夜さよにこのことを尋ねると、鼻で笑って「父上の肉体がたかが歳を経た程度でどうこうなると思いますか?」だそうだ。
信為もそう思う。それほどまでに、父の剣客として鍛え抜かれた肉体は凄まじい。
しかし、どんな立派な体躯を誇ろうと、心が伴わなければいかんともならない。
「まあ、あの父が今更剣を捨て去ることはあり得ないとは思うが」
恭之助の家、つまるところ信為とさよの実家は、川の淵にポツンと建っている。その姿形は、ほぼ十年ぶりの帰省となる信為の記憶とも、ほとんど変わりはなかった。
ある一点を除いてである。
『nyaou』
『みゅうみ!』
『きしゃああああああ!』
「おお、拙の荷物が気になるのですね、少しお待ちください」
『Gyooooooooo!』
住民が増えてた。
人間じゃないし、ただの猫だけでもない。
京香はいそいそと包みを解いて、中にあった煮干しと猫じゃらしを取り出す。みいみいと跳び跳ねる猫と、大型の魔獣。
信為は叫んだ。
「父上ぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
「なんじゃ、なんじゃ、騒がしい…………おお!信為か!よう帰ってきたのう」
「なに考えてんだというかこの魔獣は何ですかあとおれの家が無くなったってこういうことかよただいま戻りました」
「そそっかしいところは変わらぬようじゃな。 そう一気に喋っては余人に伝わらんぞ。 いかなるときも平静を保つのもまた、修行じゃ」
十数年ぶりに再開する親子の心暖まるやりとりであった。
屋敷というには少々手狭ではあるが、作りはしっかりしたものであり、一人暮らしにはむしろ広すぎるくらいだ。信為とさよの母、つまり恭之助の妻が亡くなったのは、信為がまだ幼い頃である。
「あの魔獣は先日、川から流れてきたところを、儂が助けたのじゃ」
「はあ……」
「恐らく、あれは外つ国の魔獣だろう」
「でしょうね……」
大きく開かれた障子からは、中庭の様子がよく見えた。
「待て」
『nyau』
「よしよし、あなたは賢いでござるな、ほれ褒美です」
『Gyoaaaaaaaaa』
「伏せ!」
『みう……』
鬣を持ちそれでいて尾っぽは蛇という、猫というにはいささか獰猛そうな獣──おそらくこれが外つ国の魔獣というやつだろう。それにくらべれば猫にまみれている尻尾が二又に分かたれている魔獣──こちらは古株でもともとは、さえの式神であった──などかわいらしいものだ。
それはそれとして。
「それでは、いきますぞ! せーの!」
『にゃふ』
『gyoa!』
『nyam!』
「おお、誠に賢きもの達ですね、煮干しの大盤振る舞いをごろうじろ!」
出会って間もなくのはずなのに、背中側に一回転する芸までをも仕込めるくらいに猫達を従えている京香はなんなのだ。信為は遠い目をしたくなってきている。
「ところで、信為よ」
「は」
「あの御仁は?」
「あの方は、山本京香殿と申しまして」
「ふむ、なるほどなあ。 でかしたぞ、信為」
「は?」
「いやいや、みなまで言わずとも分かる。剣の腕がずいぶん磨かれたであろうことは、父にもよく分かっていたが、まさかそちらの方も、とはな……」
「はあ?」
何を言ってるんだこの父は。
恭之助は辛党ではあるが、甘党でもある。それ故、茶菓子の類いには事欠かないらしい。恭之助手ずからいれたお茶を出されては恐縮しきりであった京香も、共に出された甘味には目を輝かせた。
その様を見て、信為は、
(ふうむ、京香さんも甘党なのだな)
と思う。 一晩語り合い、今となっては十年来の友のような心持ちであるが、そこはやはりまだまだ知らぬことの方が多い。
父と友の話を聞くともなしに、茶を楽しみながら菓子を口に運ぼうとして。
咄嗟に楊枝をぴたりと隣に座っていた京香の首筋に添えた。
考えてやったことではなかった。ほんの一瞬、ちくりと信為の半身に何か突き刺さる感覚があり、その元へ身体が勝手に反応したのだ。あの感覚は紛れもなく、殺気であった。常人では気づけない程のものであったが、信為は尋常ではない。
そして、この場にいたのはもう一人。
「参りましてでございます、松村先生。 とてつもなく不躾なことをしてしまったことを、どうかお許しください」
京香は平伏している。殺気を恭之助に向けた瞬間、細い針のような光を携えた目で睨まれて。
それだけで身動きできなくなったのである。
先ほど、目の動きだけで若き剣客を制した老いた名人はにっこりと笑った。
「どうか、我が息と末長く仲良くしていただきたい」
◆
松村家を二人が辞したのは、夕刻の頃であった。てらてらとあらゆる場所を照らしていた太陽は黒々とした雲に隠れてしまっていた。
一雨来そうである。
信為と京香の間に会話はなかった。
(やはり、強い……)
信為は、父の背中の遠さに気づき。
(とてつもなく不躾なことをしてしまった…………。 それにしても、凄かった……)
京香は、己を恥じて、それでいてやはり間近に見た名人に圧倒されていた。
と、その時である。
ぽつりぽつりと大きな雨粒が空から落ちてくる。
「む」
「夕立ですね」
京香の言葉の直ぐ後に、ごろごろと雷鳴が轟く。ピカリとまたもや稲光がした。
「これは」
「雨宿りをしなければ」
こうしてはいられない。
色々と落ち込んだり考えたりしていた二人は、同時に駆け出した。
ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする。雨音は先程からだんだんと強まっていく一方であった。
「助かったな」
「ええ」
折よく駆け込んだ小屋は、恐らく近隣の農民達が休んだり食事をする小屋だったのではないだろうか。内部には誰もおらず、ちょうど乾いた薪があったためいくらかの銭を置いて、信為が魔法で火をつけたところである。
それにしてもひどい雨であった。信為が身に付けている衣服はすっかり水を吸って重くなっていて、袴などはその重みでずり落ちてしまってもおかしくない。
故に、信為は一旦全てを脱いでふんどし姿になることにした。脱いだものはそのままなしておく訳にもいかない。囲炉裏の近くに干せば恐らく乾くだろう。
京香はその様をじっと見ている。
「京香さん?」
それを怪訝に思い問いかけると、ぱっと視線がそらされる。
「い、いや、そのなんでもござりません」
なんでもない反応ではなかった。なんか顔も赤くなっているような気がする。
まさか、既に風邪をひいてしまったのか。
「京香さんも、早いこと脱いではどうか。今ならば、恐らく雨がやむ頃には服も乾くだろう」
「そ──うさせて頂きます」
京香の声は上擦っていた。そのことに信為は少しだけ疑問を持ちつつ、一旦土間に降りて服を絞る。予想通り面白いほどに水が出てくる。
どうせならば京香の分も絞ってやろうと思い、顔を上げて。
信為の目に飛び込んできたのは抜けるような白い背中だった。そして男というにはあまりにも薄い肩。
極めつけは、しっかりと盛り上がった胸元。
それは一般的には乳房と呼ばれる部位。
つまりである。
信為は冷静に思考を巡らせる。
要するにである。
深呼吸した。
山本京香殿は。
「お、お、お、な、な、ごごごご!?!?」
鍛え抜かれた剣士による本気の叫びである。めっちゃ響いた。
そして京香は、そんな音量で直ぐそばの男が叫び、しかもどうやら自身の性別を今の今まで知らなかったということに気づいた上で、先程までの彼の態度の理由に思いいたって、自身の今の格好を鑑みるに。
「きゃあああああああああ!」
小屋が揺れた。
そもそもである。
京香は、自身が女であるということを隠してはいなかった。月代も入っていない。
ならどうしてこのような悲劇が起きたかといえば、剣を交えたことでその腕前から信為は勝手に、京香が女子である可能性を排除したからに他ならなかった。
つまり、信為が悪い。
悪いので。
「か、かくなる上は! ええ! 私が腹を切りますので、良いタイミングで介錯を!」
「い、いやいやいやいや、拙の方がお見苦しいものをお見せしたわけでして、ならば拙の方が先に腹を切るのが道理だと思います!」
「見苦しいなんて、そんなことは」
むしろ。新雪のようで。
「きれいだと私は思ったが…………あ」
信為。失言である。
「き、きれい……」
「……う、うむ……………」
沈黙が小屋に落ちた。雨がざあざあとうるさいくらいに屋根を叩いている。
あんなことがあったからというわけではないが、さすがに火のそばで干していたこともあり服は乾いていたので、二人とも先程までのような格好ではなかった。
再び沈黙がおとずれた。端的に言えばいたたまれない空気が流れている。
しかしそこは二人とも鍛えぬいた武人である。平常心に戻る方法はいくつも持っていた。
信為は瞑想することにした。
そして、瞳を閉じて目蓋の裏に白い背中を思い出し、自主的に頭を柱に打ち付ける。
京香は丹田に力を込めて、大きく呼吸することで、己の身体のバランスを正常に戻そうと試みた。
そして、耳のうちできれいという言葉が音として何度も繰り返されて、こちらは床に頭を打ち付けている。
もし余人がこれば、間違いなく思うだろう。この二人は気が狂っているのだと。
じっさい平常心を失い、正気ではなかった彼らだが、それでも小屋の外を通りすぎる奇妙な気配を見逃すことはなかった。
全身のうぶ毛が逆立つ感覚になる。
ぱっと顔を見合わせる。
京香が静かに戸をわずかに開く。
歩いていたのは小柄な男一人であった。
「信為殿。 今通りすぎた男の後をつけねばなりません」
「知り合いですか?」
「恐らくですが、あの下手人です。 さる名刀を盗んだという」
「なら、私があとをつけよう。 京香さんは、このことを義兄上に繋ぎ(連絡)をつけて欲しい」
「承りました。 あと、これを念のために持っておいてください」
手渡されたのは一枚の懐紙であった。
「これは?」
「信為殿には必要ないとは存じていますが、拙が作ったお守りのようなものです。 もともとは百鬼夜行避けに作ったので、恐らく気配を薄くするお手伝いはできるかと」
陰陽師のようなことをするのだなと信為は思い、そういえば京香は剣を京の都で学んだと言っていたことを思い出した。ひょっとするとその時に身に付けたのかもしれない。
「ありがたい。 それでは、またあとで」
信為は大刀をひっつかんで、急いで小屋を出た。
◆
信為が尾行した男は、柏屋という看板を掲げた茶店へと入っていった。そこからずっと見張っていたのだが、すっかり日も暮れて他の客が帰っていった後も、その男は出てこなかった。
吉右衛門が寄越した数名の浪人達と複数人がかりでの見張りだったため、実は既に裏口から逃げられているといったことは無いだろう。
遅れて到着した吉右衛門の決断は早かった。信為達からの報告を受けてから、一刻(二時間)もしないうちに、侍達を幾人も引き連れてまたたく間に茶店を包囲してしまった。
侍達の身なりからして、どこぞの藩屋敷か奉行所の同心達なのであろうが、信為は余計に義兄の役職が分からなくなってきた。
「信為殿」
「京香さん」
「どう思われますか?」
京香はその侍達にちらりと目をやりつつ問いかける。信為と京香、そして見張りをしていた浪人達は、侍連中から「じゃまだ!」と退かされてしまったのである。
「さて」
信為の手は既に、柄に掛かっている。京香は鯉口を切っていた。
実の所、信為は尾行をしている時点から、刀から手を離せないでいた。
あの小柄な男の気配はどこかおかしい。人の気配というよりむしろ。
「拙は先程から魔獣……否、もう少し不安定な化生の気配を感じています」
京香も同じ思いだったらしい。
「ひょっとすると、刀の影響かもしれないな」
「ああ、なるほど。 流石は名刀といったところですか。 …………本当は妖刀な気がしてきました」
気持ちはよく分かる。分かるが、おそらく厳密な正体を探ったところで、いいことはなにもないだろうとも、信為は思う。
「いずれにせよ、しっかり備えておくしか無いだろうな」
「はい」
果たしてその通りになった。
侍達は壊滅状態といってしまっても、差し支えなく、だから信為と京香が前線に出ている。
「義兄上、無事ですね?」
「うむ、さえの方がよほど恐ろしい」
小男はにたりと笑っている。バチバチと空気が爆ぜるおとがした。
小男が剣を振るうと、指向性を持つ雷が飛んでくる。
「のろけは御勘弁を」
「のろけたつもりは一切無いのだが……。 さて、信為殿」
割ってはいった京香が、雷撃を剣でもって反らした。雷避けの魔法でも用いているのだろうか。
「私は生き残っている侍達を回収するから」
「小男は私達にお任せを」
「助かるよ」
吉右衛門が駆けていく。
信為はそれを見送ることもなく、京香と小男の戦いに割ってはいる。
「京香! かがめ!」
「むっ」
小男が少しつんのめった。
作り出した隙を信為は狙う。
『延真昇芯』
刃が伸びる。小男の首に寸分それることもなく、信為の剣が突き刺さった。だが。
「効かぬ、効かぬわ!」
小男は乱雑に首を振って、刺さった剣から脱け出した。どう考えても致命傷のはずであった。
しかし、小男は口から血を吐いているにもかかわらず、にたりと不敵な笑みを浮かべたままである。
「次はこちらの番だ!」
「っ!」
技もなにもない、でたらめな大振り。かようなものが、信為にあたる道理はなく、しかし多くの雷撃が降り注いでくる。
信為は咄嗟に身を屈めた。いくつかは、彼を通りすぎていく。そして残りのいくらかは、
「失礼致す!」
とんっ、と京香が信為の背を踏み台として空を飛ぶ。
そして。
『一枝束ねて大樹と化す』
京香のことばに呼応して、地に伏している侍達の剣が浮かび上がる。
『拙が乞いしは雷鳴避け』
ばらばらであった刀達が、空で一塊となる。
『それすなわち型の八──くわばらくわばら』
雷が撃ち落とされていく。
小男は顔を歪めた。信為は地を這うようにして、一瞬で敵との距離を詰める。
「むっ!?」
「お前、剣は素人だな」
魔法を用いる必要はない信為はみた。むしろ、下手に魔法なぞ使ってしまえば手加減ができない。
掬い上げるように切り上げた。小男の体が不自然に──まるで糸で無理やり操られるかのように一歩下がった。そして男は上を向いたままで剣だけが信為を斬りつけてくる。
「ああ……あ、あ……あ!」
喉から無理やりに漏れ出したような音を小男は出した。若き剣客は一切あせらず。
「ふっ!」
返す刀で、剣をもつ腕を斬り落とした。
からんと無機質な音が信為の耳に響いた。
「それで、それからどうなったのじゃ」
「この先のことは、私は皆目」
「ま、そうじゃろうな」
日中にうるさいほどに鳴いていた蝉も、その鳴き方が変わっていて秋の到来の気配を感じさせる。とっくに実家の信為の私室は猫と魔獣達に奪われたわけだが、彼は父に三日を空けずに会いに行っていた。
「吉右衛門に尋ねても、まともな答えは返ってこんじゃろうな」
「はい」
「まあ、その方がいいじゃろて。 お上のすることは、我ら下々が気にせん方がいいことの方が多い」
「私もそのように思います」
小男の正体や、その始末について。また、名刀の持ち主に関することも、一切信為は知らない。ただ、数日前に川で背の低い男の死体が見つかったという噂だけは耳に入ってきた。
「ところで、道場の方はどのような調子じゃ?」
「はあ、ぼちぼちといったところです」
父たる恭之助は、橋の近くの小さな道場を江戸に帰ってきた息子のために用意していた。
「ぼちぼちというのは?」
「ようやく、屋根の穴が全てふさがりそうです」
最も、道場といってもほとんどぼろ小屋のようなものであって、そこで剣を学ぶにはかなり修繕が必要であった。
信為の答えを受けて、恭之助はため息をつく。
「霞を食うのみでは、剣の修行にはならんぞ」
「分かってはいるのですが、なにぶん人手が足りず……」
吉右衛門とさえも、手伝いに来てくれたのだが、それだけではとてもとても手が回りきらず、それに吉右衛門には勤めがあり、さえも借りっぱなしと言うわけにはいかなかった。
「馬鹿者、お前にはもっと頼りになる人手があるじゃろうが」
「父上ですか?」
恭之助の膝で眠っていた猫又が、爪を飛ばしてきた。信為は中指と人差し指で挟み込んだ。
「友を頼らんかい! あの御仁ならば、お前よりもはるかに小回りのきく魔法も使えるじゃろうが!」
「あっ……」
とたとたと、廊下から軽やかな足音が聞こえてくる。
信為が新たに江戸で得たばかりの、今のところはまだ友である女剣客がここにやってくるまであと僅か。