緊急会議:勇者パーティの恋愛事情について
魔王を討伐した日。世界には平和が訪れ、民衆は十年の暗黒時代の終焉に歓喜し、大国アリディミア第一王子であり勇者でもあるラルス率いる勇者パーティに多大な感謝を捧げた。
勇者パーティのメンバーは四人。勇者ラルス、聖女アイリーン、賢者マリア、剣士ジュスト。それぞれが女神より聖なる証を授かった、国内最高峰の実力を持つ若者であった。
三年に及ぶ旅路を経て、見事に魔王を討伐した彼らは、魔王城付近に展開した特殊転移魔法により見事王城まで帰還し、盛大な歓待で迎えられた。
身体を清めて旅の疲れを癒やし、闇の獣との戦いで受けた負傷が残っていないかをくまなく調べ、陛下より報奨と勲章を授けられた。紛うことなき国の英雄だ。
一月後には平和を祝して祭典が開かれることが決まり、各々が本来の業務に加え、衣装の準備や打ち合わせで忙しくしている最中────聖女アイリーンは勇者ラルスの執務室へと、ノックも無しに乗り込んだ。彼女でなければ許されない暴挙であった。
「ラルス! わたくしもう我慢がなりません!! これより緊急会議を開きます!」
「…………アイリーン、見て分かるとおり、僕いま仕事中なんだけど……」
「わたくしが手伝って差し上げます! あと十分で終わらせますわよ!」
「……この書類の山見えてない?」
「二人で進めれば四倍速ですわっ!」
「君の計算式って何処の世界のやつ使ってんのかな……教えてよ……本当に……」
げんなりした顔で書類に向き直るラルスは、それでも積み上げられた書類の中から、聖女であり婚約者でもある彼女ならば見せても問題無いと判断したものを山ごと別のデスクへ移した。
意気揚々と席に着いたアイリーンが、羽根ペンを片手に凄まじい勢いで書類を捌いていく。忙しなく雑務をこなす秘書に申し訳なく思いつつも茶の用意を頼みつつ、ラルスもまた書類へとペン先を走らせた。
十分では終わらないにしろ、別に仕事を進めながらでも『会議』とやらは出来るだろうと判断してのことだ。開け放たれた扉を秘書が締めると同時に、ラルスは端的に問いかけた。
「で? 緊急会議って何」
「マリアとジュストの件ですわよ、決まっているでしょう」
「……二人のことなんだから放っておいてやれって、言ってるじゃんいつも……」
「だってマリアと来たら! 自分はジュストには相応しくないから身を引くなどと言い出しているのですよっ!?」
「え、えっ? それは困るな、なんで……いや……嘘でしょ……?」
思わず手を止めてしまった。信じられないものを見る目でアイリーンを見つめたラルスに、彼女は右手を残像すら見えない速度で動かしながら答える。
「マリアの出自はご存じでしょう?」
「あー……孤児院だよね」
「ジュストのお母様が難色を示していらっしゃって、尚且つ表立っては反対出来ないからとマリアが自ら身を引くように、夜会に招待した際にそれとなく高位貴族の御令嬢ばかりを誘って見せつけていたようですの」
「……どんな貴族だって、『清廉の賢女マリア』の肩書きの前には吹っ飛ぶと思うんだけどなあ」
「わたくしもそう思いますわ! ですがマリアはそうは思わないのです! ラルスだってご存じでしょう!? あの子、いつまで経っても自分は何も出来ない落ちこぼれで足手まといだと、本気で思っているのよ! 冗談じゃないわ、何処の世界に三大陸挟んだ広域転移魔法を展開出来る落ちこぼれがいるっていうんですの!?」
「あの自己評価の低さは、まあ……諸々の事情と、幼少期の生育環境から来るものだとは思うけど、それにしたってね……」
目を伏せ、書類にペン先を走らせながら答える。アイリーンは秘書が差し出した紅茶を八つ当たり気味の礼と共に受け取り、苛立ちを込めつつも優美な所作で口をつけてから、やはり怒りをぶつけるように書類の処理に向き直った。
がりがりがり、ががががが、ととても紙にペンを走らせているとは思えない音が響いている。
「ジュストもジュストだわ! マリアのことを愛しているくせに、愛する人の為に家族と戦えもしないなんてどうかしています!」
「……そう言ってやるなよ、もう充分戦ってはいるだろ。フォランド家はジュストの兄二人を流行病で亡くして、もう跡取りはジュストしかいないんだ。血筋を重んじる風潮を鑑みれば、出自に拘るのは致し方ない部分もあるよ。公爵家だからこそこれ以上立場を危ういものにはしたくない、というのもあるだろうし」
「貴方っていつもそうね、そうやってジュストの肩を持って……本当の恋ってものを知らないからそんなことを言えるのよ!」
「本当の恋なら知ってる。でも現実も知ってる、それだけだよ」
「……ふん!」
少しも信じていない様子で鼻を鳴らしたアイリーンに、ラルスは苦笑を滲ませる。全く、魔王討伐の旅路でも常にそうだったが、彼女の気の強さはちょっとやそっとでは変わらないようだ。
そして、マリアもまた、ちょっとやそっとでは変わらない気の弱さを持っている。それは彼女の生まれもあるが、何よりもあの前髪で隠していた容姿がそうさせているのだろう。
軽く首を回し、溜息を落としたラルスの脳裏に浮かぶのは、勇者パーティとして顔を合わせた時の、あまりにも陰気な様子のマリアだ。
三年前。魔王を倒す為に国内から集められたメンバーの中で、マリアだけが平民出身の者だった。独学で魔法技術を磨き、十六歳にして大賢者の名を欲しいままにしながら森の最奥から出てこようとはしない、謎多き稀代の天才。
そんな肩書きとは裏腹に、彼女は顔の片側を長く伸ばした、陰鬱な空気を漂わせた出で立ちで顔合わせの場に現れた。自己紹介の際には、聞き取れなくて五回も聞き返した程の内気っぷりだ。
その彼女に対し、明らかに好印象を持たなかったのがジュストだった。亡くなった兄二人の代わりに期待を一身に受け、血を吐くような鍛錬でもって国内最高の剣士の称号、剣聖を得たジュストは、戦場に赴く者として、マリアの出で立ちが許せなかったのだろう。
ジュストはまず、彼女の隠された片目の視力について尋ね、問題なく見えることと、その上で髪によって視界が遮られていることを確かめたのち、冷たい声で言い放った。
「これから魔物と戦うような場に出る者が、視界の半分を塞ぐような髪型をしているなんてどういうつもりだ」と低い声で詰め寄ったのだ。ラルスも初対面だから穏便に済まそうとは思っていたが、正直その点は後々指摘するつもりだった。
それに対し「男性というのは本当に配慮に欠けますわね!」と声高に反論したのがアイリーンである。マリアの顔の片側が、彼女を疎ましく思った両親によって焼き潰されていると知っていたのは、孤児院の院長と、先に聖女として顔を合わせていたアイリーンだけだった。
涙目で縮こまるマリアに、「ならば最初からそのように申請すれば必要な覆面でも用意出来ただろうが」と吐き捨てたジュスト、そしてそんなジュストを怒り任せに殴りつけたアイリーンを横目に見ながら、ラルスは痛む胃を押さえつつ素直に思った。このパーティ、最悪だな、と。
そんな最悪のパーティが、三年の旅路で強く結束し無事に魔王を倒せたのだから、人生とは不思議なものだ。
何処か遠い目になりつつ記憶を思い返していたラルスは、アイリーンが叩きつけるようにして書類を置く音を耳にして、我に帰る。
「それに、ジュストだって何も手を打っていない訳じゃないよ。マリアには勲章だって与えられているし、陛下からも今回の功労者として多大な報奨を頂いている。あとフォランド家を納得させる為に必要なのは権力者の後ろ盾と、何処かで生きているだろう彼女の両親が、名声を手にし貴族となった彼女につきまとわない、という確証だ。今はそれを得るために必死になって根回しをしている」
「だったら顔を合わせてそう言ってやればよろしいのです! 会いにも来ないのですよ、あの男! マリアがどんな思いであの嫌みったらしい御令嬢の妄言を聞いているか分かっていらして!? わたくし達は英雄ですのよ!? それを、ちょっと歴史のある家柄だと言って、不躾に容姿を馬鹿にするような真似を……ッ、そもそも、頼んでいた医療魔法の使い手はまだ見つからないのですか!」
「聖女である君にも治せないなら、国内どころか大陸にだって治せる人間なんていないよ」
言い過ぎた、と思ったのは言葉にしてからだった。
ラルスは、最近のジュストがどれほど厳しい時間配分で事を成そうとしているか知っている。戦場では不眠不休で三日は戦う男が、まるで気絶するように眠った場面も見ている。
その努力を全て、マリアに肩入れするばかりに不足しているとでも言うように切り捨てるアイリーンへの苛立ちが、そのまま口に出てしまった。
顔を上げたアイリーンが、やや青ざめた顔でラルスを見つめている。そんな顔をさせたかった訳ではないのに、と思ったが、この場で口に出す権利はなかった。
「……分かっております。わたくしの力不足ですわ。全てがそうです」
「そんなことないよ」
「いいえ、そうです。わたくしが聖女としてもっと力があればマリアの傷だって治せましたし、この国の正当な血を引く貴族であったなら彼女の立場の補強だって出来ましたわ。分かっております、八つ当たりですもの。……ごめんなさい、ラルス、お仕事の邪魔をして、」
「アイリーン、これは僕だけじゃなくみんなが知ってることだけど、君は素晴らしい聖女だよ」
「……親友の苦痛を和らげてやることすら出来ないのに?」
普段は勝ち気な光を宿す瞳が、頼りなく揺れている。彼女はいつも強気だが、普段よりも更に強気に、下手をすれば傲慢に振る舞うのは、いわば不安の裏返しだ。
そんなことは三年の付き合いで嫌というほど分かっていたのに、普段と同じく売り言葉に買い言葉で返してしまった。
「マリアは君がいることで随分と癒やされてきたじゃないか。初めて笑顔を見せたのだって君の前でだ。ジュストが好きだって相談されたのも君だし、僕だって知りたかったのに君ばっかり秘密の魔法指南受けてたし、未だに様づけで呼ばれてないの君だけだし、マリアはきっとジュストと同じくらい、君が大事だよ」
「…………ひらめきましたわ、最早わたくしがマリアと付き合えばよろしいのではなくて?」
「ジュストが泣くからやめてやって」
「泣けば良いのですわ! あんな男! 初対面であんな無礼な真似をしておいて、ちゃっかりマリアの心を射止めていきやがったのですもの!! こんちくしょうですわ!」
「……度々思うけど、君、荒くれ者共に言葉遣い影響されすぎ」
とある街で立ち寄った酒場で、アイリーンはそこにたむろす荒くれ者共に酷い侮蔑の言葉を投げられた。とても淑女に向けられる言葉ではないそれに思わず剣を抜き掛けたラルスの前で、アイリーンは片手で優雅に髪を払い、卓上の酒瓶を蹴っ飛ばし、踵を叩き付けるように足を乗せて告げたのだ。
『早々お目にかかれない美人を前にしてはしゃいでいやがる所申し訳ないのですけれど、わたくし、此処に交渉に来てやったんですの! 聖女様のご加護で好きなだけポーションくれてやるから重要事項を洗いざらい吐いていきやがれですわ!!』
その後は逆上した荒くれ者を千切っては投げ、千切っては投げ、最終的には荒くれ者ではなく聖女の方を羽交い締めにして止めるラルスを、ぽかんと見つめてから笑い出した彼らの協力によって、勇者パーティは無事に『業炎の渓谷』を越えることが出来た。忘れようとしても忘れようがないほどに、強烈に刻み込まれた記憶だ。
「それで緊急会議……って訳か……まあ、事情は分かったよ」
頷いて立ち上がったラルスは、アイリーンのデスクに積まれた、すっかり終わっている書類の山を一息に捲り、十枚ほど選んで取り出す。不備がございましたか、と憮然とした顔で呟くアイリーンに、ちょっとね、と苦笑を返す。
「とりあえず僕の方でもジュストには話をしてみる。ただ、やっぱりどうしても当人の問題だから、二人が出した結論を僕らの方で歪めるべきではないと思うよ」
「その結論が二人にとっては不幸だったとしてもですか?」
不備のあった書類を引ったくるように受け取ったアイリーンが、席へと戻るラルスに恨めしげな視線を送る。
座り直したラルスはその視線を受け流すように笑い、何処か冷めた声で呟いた。
「恋愛ってのはさ、自分たちで乗り越えられないなら、ある程度は諦めるべきだと思うんだよ」
「…………わたくしはそうは思いませんわ」
「そうだろうね。でも、僕らはもう成人していて、ただそこに愛があるだけで許される立場じゃなくなってる。君だって僕のこと好きでもないのに僕の婚約者になってるだろ? それは必要だからそうなっているんだよ。
だから、ジュストとマリアも、どうしても恋を通したいなら、その『必要』を用意しなきゃならない。勿論、僕だって協力を惜しむつもりはないよ。でも、結局は当人が乗り越えなきゃならない問題だ。違う?」
「ええ、まあ……そうですけれど……、そうかもしれませんけど……」
頭では理解していても心では納得しきれないのだろう。眉根を寄せて唸るアイリーンに、ラルスは苦笑を浮かべて肩を竦める。
「それに、言っとくけどジュストの情熱だって君に勝るとも劣らないよ。マリアが世界で一番好きなのはもしかしたらアイリーンかもしれないけれど、マリアのことを世界で一番好きなのは、君じゃなくてジュストだって断言出来る」
「…………あの朴念仁が? 信じられませんわね」
「そりゃあ、ジュストは人前では大袈裟に愛を示したりしないから。いやあ……凄いよ、なんかもう……怖いよ、アレ」
ラルスがあまり二人の仲を心配していない点が此処にある。当初こそ反りが合わず、下手をすればパーティ内でも最も相性が悪いと言えたマリアとジュストだったが、途中、魔族に襲われた村を奪還する際のマリアの覚悟を見てから、ジュストは随分と変わった。
マリアは炎に対して大きなトラウマがある。小さな火ですら恐ろしくて身体が強ばってしまう。それは幼少の頃のトラウマ故に仕方がないことだった。
そんな彼女が、火を放たれ燃えさかる村の家に取り残された幼子を助けるため、自ら炎へと飛び込んでいったのだ。
あとで話を聞いた時には水魔法で身体を防御したから大丈夫、などと言っていたが、あの時はメンバー全員が既に限界だった。いつ魔力が切れてもおかしくなかったのだ。
ラルスとジュストは村民の救助と襲い来る魔族からの防衛、アイリーンは負傷した者の治療。誰一人、幼子の泣き声が聞こえていても助けにはいけない状況に歯噛みしていた。
避難した村人を守る為の結界を張っていたマリアは、杖に殆どの魔力を込め結界の楔とすると、ひとり外へと飛び出していった。その背に叫ぶように呼び掛けたアイリーンの声を今でも覚えている。
震える足で燃えさかる家へと飛び込んだマリアは、泣きじゃくる子供を腕に抱え戻ってくると、アイリーンへと申し訳なさそうに手渡した。自分に治療は出来ないから、と。思わず怒りと心配で怒鳴りつけたアイリーンに、マリアは何を言うでもなく、ただ眉を下げて笑った。
それからだ。ジュストがマリアを強く気に掛けるようになったのは。防御が足りなかったのか手の甲に水ぶくれを作ってしまったマリアの為に薬を塗ってやり、髪が焼け落ちてしまったことで晒された顔をせめて隠せるようにと帽子を用意してやったり、これまでの非礼を詫び、彼女を気遣うようになった。
勿論、今までもパーティメンバーとして当然の気遣いはしていたが、それ以上に気に掛けるようになった。
ジュストがマリアを仲間として受け入れていなかったのは、彼女があくまでも覚悟もなく、ただ流されるままにパーティに加わったと察していたからだ。
戦う覚悟を持たない者に、ジュストは過剰なほどに冷淡な態度を取りがちだ。それが、何の覚悟もなく戦場に立ち、命を落としていった者への苛立ちと、それを守れなかったことへの後悔であることを、ラルスはよく知っている。
ひとたび仲間として受け入れれば、逆にジュストは驚くほどに情に溢れた男だ。その情がマリアに対してはなんか妙な方向に行っているな、とは察していたラルスだが、怖かったので特に言わないでおいた。馬に蹴られる趣味はないのだ。
旅を続けて一年半が経つ頃、とある街の破落戸がマリアの容姿を揶揄したことがあった。
見たかよ、身体は極上なのにな、あんな化け物抱ける気がしねえぜ、だとか、確かそんなような文言だったと思う。
全く何処に行っても無礼なものはいるものだ、と不快感と怒りは覚えたが、幸いにもマリアとアイリーンの耳には入っていないようだったので、変に意識させるのも忍びなく、後で適当に締めてやるか、とむしろその場から早く離れられるようにと足早に宿へと向かったのだ。
その時、途中で姿が見えなくなっていたジュストは、戻ってきた時には短刀を拭っていた。嫌な予感がしたので突っ込まないでおこうかと思ったが、あまりにも怖くなったので一応聞いておいた。『殺ってないよな?』とだけ。答えは『切り落とした』だった。何をとは聞けなかった。
恐らくだが、令嬢達の口にしていた嫌味をジュストが耳にすれば、剣こそ抜きはしないが、代わりに暴力以外のあらゆる手段に出ることだろう。そういう男なのだ。知らなかったが。パーティメンバーとなる前から付き合いはあれど、流石に友人が色恋でどんな風に心を乱すかまでは把握していない。
「正直、マリアの為には別の男と付き合った方が身のためだと……なんか寒気がしてきたから黙るね……」
「寒気ですか? 部屋の空調魔法に異常はなさそうですが、体調が悪いようなら、わたくしが診て差し上げましょうか」
「あー、いや、いいよ、大丈夫……うん……」
恋する男の怨念が漂っている気がする、とは言えなかったので、ラルスは黙って羽織り物を肩に掛けた。未だに書類の山はふたつほど残っている。これは流石に婚約者であれど任せる訳にもいかない代物だ。
「とにかく、頼られてもいないのに僕らが下手に動くのはよそう。勝手に気を回すことが迷惑になることだってあるだろ?
大丈夫、あと二週間もすればなんとかなるからさ。一先ず二人を信じて待とうよ」
「…………リーダーがそこまで言うのなら、わたくしは従うだけですわ」
旅の道中でも何度か聞いたフレーズだ。思わず苦笑したラルスに、アイリーンは小さく鼻を鳴らしてから、差し入れに渡すつもりだったらしいバスケットを置いて、嵐のような勢いで執務室を去っていった。
本当、変わらないよな、と苦笑しつつ、ただただ無言で、空気のように雑務をこなしていた秘書へと目をやる。
「内緒だよ?」
「……承知しました」
アイリーンはあれで中々、外では淑女らしく振る舞っているのである。頭に血が上っていることと、ラルスの前だということで、旅の時の同じような態度が出てしまったのだろう。
『慈愛の聖女アイリーン』がとんだ荒くれ少女だったとは夢にも思っていなかったらしい秘書がひたすら衝撃に耐えているのを、ラルスは何となく横目で認識していた。特に退室を命じなかったのは、彼ならば大丈夫だろう、と思ったからだ。
ふう、と息を吐き、一向に減らない山を前にひとつ伸びをする。気合を入れるべくアイリーンの作ったサンドイッチを齧りながら、ラルスは帰りにジュストの様子を見に行くべく、脳内でスケジュールの調整を始めた。
◇ ◆ ◇
「まさか……三大貴族との繋がりまで引っ張ってきて説得するとは思いませんでしたわ……」
「そう? 僕はそのくらいすると思ってたけど」
二週間後。王城で開かれた魔王討伐記念の祭典にて、マリアとジュストの婚約発表が行われた。公爵家を黙らせる為の後ろ盾としてジュストが用意したのは、過去の大戦にて多大な功績を挙げた伝説の騎士、グランニール大公だった。実力を認めなければどのような立場の者も切って捨てる、と齢九十を超えて現役騎士の座につく伝説の男を持ってこられては、さしもの公爵家も黙らざるを得なかった。
そのためにジュストがどのような苦労を重ねたかは、やや窶れた精悍な顔立ちに深く刻まれた隈でもって見て取れる。今や無敗の騎士とも名高いジュストにあんな顔をさせるとは、やはり狂飆の黒騎士の名は伊達ではないということだろう。
「にしても、凄いなあれは……」
「……ええ……あんなにマリアを褒めちぎるジュストなんて、初めて見ましたわ……」
掌を返して擦り寄ってくる御令嬢に向け、普段の顰め面が嘘のようににこやかに言葉を返すジュストは、挨拶の端々にマリアを褒め称える文言を挟み込んでいる。
七つの時に全属性魔法を習得しただとか(炎へのトラウマを克服する前なので正確には六属性である)、十四の時に書いた論文が天空都市ファリステアの学会にて高く評価されているだとか、魔王討伐の旅路には彼女の力が必要不可欠だったとか、まさに、『これほど素晴らしい賢女に下手な真似したら叩っ斬るぞ、二度と減らず口叩くなよ』という裏側の声が聞こえてきそうな勢いだ。
普段は言葉数の少ないジュストが惜しげもなく褒め称えるものだから、隣で挨拶のために笑みを浮かべるマリアは、すっかり首まで赤くなっていた。褒められることに慣れていないのである。
時折、助けを求めるようにちらちらと視線を向けられるので、あまりの光景にやや呆然としてしまっていたアイリーンは、急いで、それでいてゆったりと淑女らしく見える足取りで、ラルスを連れて彼女へと近付いた。
「婚約おめでとう、ジュスト、マリア。二人が結ばれてくれて、わたくしとても嬉しいわ」
普段の勝気さが嘘のように淑やかに微笑んだアイリーンの美貌に、周囲が思わずといった様子で吐息を零す。ジュストとマリアは対応に追われ挨拶が遅れたことを詫びてから、それぞれ礼を口にする。穏やかな会話の合間にアイリーンが視線で合図を送れば、ジュストからは目立たない程度の軽い頷きが返ってきた。
「マリアが慣れない場で少し疲れてしまったようですの。向こうで休ませてあげたいのだけれど、よろしいかしら?」
次期王妃たるアイリーンの言葉に異を唱えるものは早々いない。ジュストの許可も得てマリアを連れ出したアイリーンは、場の意識を引きつけるように残ったラルスを置いて、二人で会場の脇に用意された休憩所へと向かった。
旅路の頃から変わらない連携である。扉を閉め、アイリーンと二人きりであることを確認したマリアは、そこでようやく、詰めていた息を安堵と共に吐いた。
「あ、アイリ、ありがとう、私、その、な、何が何だか、き、貴族の人って、大変なんだね……」
「よしよし、よく頑張りましたわね。ゆっくり息を吐いて、吸って、わたくしに身を任せなさい。そしたら落ち着きますわ」
「う、うん、ありがとう……」
着慣れないドレスに身を包んだマリアは、アイリーンに促されるままに深呼吸を繰り返す。背を摩られながらなんとか自分を落ち着かせたマリアの様子を見ながら、アイリーンは先程使用人から受け取った水を差し出した。
「それにしても、驚いたわ。まさかジュストが大公まで引っ張り出してくるだなんて……公爵家は大騒ぎだったのではなくて?」
「あ、あはは……私もびっくりだよ、え、ええとね、うん、挨拶に行くって、言われたからついていったんだけど、馬車に大公が乗ってて、あ、乗っていらして? えーと、と、とにかく、大公と一緒に、突然訪ねに行って、それで、なんとか結婚させてくださいって頼み込んだんだよ」
「な、なんてことを……恐ろしい男……」
先触れ無しの突撃訪問で大公をぶつけるなんて、開戦宣言無しに突然爆裂魔法を叩き込むようなものである。公爵家を焦土に化すつもりだったのかと聞きたくなるような暴挙だった。
ちなみに、この場にラルスがいたら『多分そうだよ』と言ってくれたことだろう。更に言えばジュストがいれば、『多分ではない』と断言した筈だ。
どちらも不在な為、この話はこれ以上広がることはなかった。触れたくなかったとも言う。
「でも、安心もしたわ。大事にされているのね、マリア」
微笑みながら頭を撫でるアイリーンに、マリアは照れ臭そうに微笑んだ。
「う、うん。とっても」
「一時期はどうなることかと思ったけれど、二人がちゃんと結ばれて良かったわ」
「あっ、あの時は迷惑かけてごめんなさい……私、不安で……」
「迷惑なんてことは無いわ、良いのよ。マリアは社交界なんて関わらなくても良い立場の人間だったのに突然引っ張り出されてあんな目にあったら、怖くて不安になるに決まってるわ。
結婚前の花嫁にはそれこそ不安の種が尽きないものだし、相手があの朴念仁なら尚更ね」
新たな婚約者の話すら浮上する中、祭典の準備や討伐の事後処理で、マリアとジュストは言葉を交わす暇すらない時期があった。そんな時、疲れた心でひとり考え込んでしまったマリアは、自分はジュストには相応しくないのではないか、とアイリーンに相談しにきたのだ。
身を引いた方がいいのかもしれない、と泣くマリアを、アイリーンは「有り得ませんわ!」と一喝してから抱き締めた。こんな素晴らしい親友を振って、身分と容姿で他の女を選んだりしたら切り落としてやりますわ、と内心誓ったものだ。
切り落とそう、と決意するより先に緊急会議を提案しに行ったのは、彼女に残った最後の理性だと言えた。基本、直情型なのである。
「……でも、マリアこそ本当にジュストで良いの? あの男、たまに言葉が足りなくて酷い物言いをするじゃない。マリアくらい素敵な女の子なら、きっと他に良い人もいるかもしれないわ」
何か妙な寒気がしたわね、と宙を振り返ったアイリーンに、マリアはそっと微笑む。
「えっとね、アイリ。私ね、ジュスト様に選んで貰えたから、ただ言われるままに結婚するわけじゃないんだよ。私がジュスト様を選んで、この人がいい、と思ったから結婚するの。私がジュスト様のことを一生守りたい、って思ったから」
「……マリアがジュストを? 逆ではなくて?」
「ううん。私が守るの。もうジュスト様が傷つかなくていいように、幸せを得てもいいんだって、自分を許せるように、私がそばで支えていくの」
アイリーンを見つめるマリアの瞳には、力強い輝きが宿っていた。彼女はもう、どんな目を向けられても、自分の焼け爛れた顔を隠そうとはしない。内気ではあれど、決して弱気ではなく、その両目で世界を見据えている。
「いっぱい迷って、沢山悩んだから、もう迷わないんだ。もしかしたらこの先はまた悩んじゃうのかもしれないけど、でも、それはジュスト様となら乗り越えていけるって信じてるから」
だから大丈夫だよ、と微笑んだマリアに、アイリーンは感極まったように息を詰めた。込み上げる涙を堪えるように唇を噛み、微笑むマリアを抱き締める。
お、おわ、と傾いたグラスを急いで支える呑気なマリアの声が耳元で響いた。
「幸せになってね、マリア。わたくし、貴方が望むならどんな時にでも味方になるわ」
「え、ふふ……アイリが味方になってくれるなら、どんな敵にも立ち向かえちゃうな。えと、魔王だって、倒せちゃったもんね」
溶けるような笑みを浮かべたマリアが、鼻を啜るアイリーンの背を宥めるようにそっと撫でる。
大事な親友に自分の幸福を願ってもらえるのがこんなに嬉しいことだとは知らなかった。あの時、逃げずに森から出てよかった、とマリアは心の底から過去の自分の決意に感謝した。
「あ、そ、そうだ、私の方は、その、順調だけど、アイリの方は? ど、どうなの?」
「? どうって? 何が?」
「ほ、ほらっ、ラルス様と……婚約したんでしょ?」
「ああ、あれね。政略として結んだだけだから、わたくし達の間にはマリア達のような愛だとかは無いのよ。つまらない話でごめんなさいね」
目元を拭いながら身を離したアイリーンに、マリアはぽかん、と惚けたように口を開いた。
「えっ? えっ、あれっ? ま、待って、アイリ……ええと、ちょ、ちょっと待ってね」
「勿論、マリアが待てというなら幾らでも待つけれど……一体どうしたのよ、そんなに狼狽えて」
おかしな子ね、と笑うアイリーンをちらちらと見やりながら、マリアは口元に手を当てて小さく呟き始める。思いついた魔法理論を組み立てる時に出るものと全く同じ癖だ。
「お、おかしいな……流石にそろそろ言っている筈だと思ってたんだけど……はっ、まさかまだ芽生えてない……!? そ、そっか、アイリ、そういうところ……成る程……ど、どうしよう……え、でも、それじゃ同意もなく婚約を……ううん、ひ、必要なことだから……貴族様ってそういうのが……ああでも……み、見過ごせない……多分大丈夫だろうけど……やっぱり駄目ってなったときが大変すぎるよ……」
「マリア? ねえ、ちょっと、どうしたのよ。大丈夫?」
研究者気質なマリアは、ひとたび思考の海に呑み込まれると中々戻って来ない。下手をすると一時間近く潜ってしまうことがあるので、意識が浅い内に引き戻さなければならなかった。
薄いストールに覆われた肩を軽く揺さぶる。大抵は他者から触れられればすぐに我に帰るのだ。今回もそうだったようで、アイリーンに触れられたマリアは中々見せない勢いで顔を上げた。
「アイリ! その、ラルス様のこと、ど、どう思ってるか、聞いても、いい……?」
「え? ラルスのこと? そうね……リーダーとしては頼もしいし、まあ、一般的に見て良い男なのではなくて?」
「そ、そう……ええと、……アイリはこれから、ラルス様と夫婦になる、んだよね」
「まあ、そうね。流石にわたくしを野放しにしておきたくはないでしょうし」
アイリーンはかつての戦争時に捕らえられ、幽閉されていた敵国の姫を祖母に持つ聖女だ。爵位こそ与えられ、貴族として扱われてはいるが、アイリーンは未だ自身が上の世代からは戦勝の証とされている空気を感じ取っている。光の加護を得た、と聞いてやって来た時の使者の顔と来たら、二三発ぶん殴ってやろうと思ったくらいだった。
だから、聖女として功績を上げたアイリーンを第一王子の婚約者にしたい、という王族の思惑も分からなくもない。褒美と地位を与えるから、禍根は流せ、と言うことだ。
「ただ、手元に置いておくだけなら第四王子くらいの妃にしても良いと思うのよね。正妃の子ではないから権力からも遠ざけられるでしょうし。ラルスはその辺り、希望はなかったのかしら?」
「………………………………………………希望は、したんだと思うよ」
「そう。まあ、第一王子と言えど陛下の意向を捻じ曲げられるほどの権力はないわよね。この国は正妃以外の女性を娶っても良いのだし、わたくしが一人二人産んだら、好みの女性を探すつもりなのかもしれないわね」
「……………………………………アイリ」
「なあに?」
「私は、今から、怒ります」
「えっ」
マリアは滅多に怒りを露わにしない。幼少期から自分を抑え込んで生きてきたマリアには、そもそも他人へ怒りを向けるという行為が不向きすぎるのだ。自分が他者の怒りに虐げられてきた分、誰かにそんな嫌な思いをさせたくない、と我慢する方向に行きがちだ。
そしてそんなマリアが怒る、ということは、それはもう、本当に怒っているということに他ならない。
思わず身構えたアイリーンに、マリアは握り拳を作って立ち上がった。
「鈍感にしても限度があるよ!! それにっ、ラルスがそんな不誠実なことするって思ってるの!? ホントに!?」
「い、いえ、その、これは一般的な、これまでの歴史を見てそう思っただけで……ええと、まさか、ラルスがそんなことするとは思ってないわ、よ……?」
「じゃあそんなこと思っても口にしない! き、聞いてなかったから良いけど、もしもラルスが聞いたらどんな気持ちになるか考えて!!」
「は、はい……」
「そっ、それに、アイリは夫婦になるってこと、ちゃんと考えてないでしょ!」
剥れた顔で腰を下ろしたマリアが、ぐい、と手に持ったグラスを飲み干す。お、お酒でも入っていたかしら、と今更ながらに首を傾げるアイリーンだった。
「子供を作るって事を、なんか、こう、ポーションでも軽くぽんっと作るくらいに考えてるでしょ!!」
「まさか、そんなことはありませんわ! 命の営みですのよ、大事なこととして捉えていますわよ、勿論」
「じゃあアイリはラルスとキスしたり、手を繋いだり、抱き締め合ったり、そ、っ、そういうことするってこと、かんっ、考えたことある!?」
先程までとは違う理由で顔を真っ赤にして叫んだマリアに、アイリーンは流されるままに頷き掛け、そこでぴたりと動きを止めた。
長い睫に縁取られた瞳が一瞬、逃げるように宙へと向けられ、そっと、窺うようにしてマリアへと戻る。ふー、ふー、と興奮冷めやらぬ様子で赤い顔で鼻息を零すマリアを数秒見つめたアイリーンの頬が、対面の彼女と同じく、真っ赤に染まった。
「か、か、考えたことは、ありませんでしたわ……その……いえ、わたくし……ええと、と、殿方とそんな……だって、ラ、ラルスは仲間ですもの……」
「じゃあ、も、もっと、もっとよく考えて! よく考えてあげて! ラルスの為に!」
「え、ええ……そ、そうね……確かに、覚悟もなく臨んでは、し、失礼というものよね……?」
「う、うーん、ッ、ちょっと違うけど、今は、それでもいいから! 約束ね!」
ぎゅ、と手を握られ、力強く約束を取り付けられる。頷きを返したアイリーンに満足したように笑みを零したマリアが、よし、と気を取り直したように立ち上がり、休憩室の扉へと向かう。
流石にそろそろ二人に対応を任せきりにするのも悪いと思い、戻ることに決めたのだ。振り返るマリアに続いてアイリーンが立ち上がり、二人は気の抜けたように笑みを交わして扉を開け──、
そして、扉の前で目を逸らすラルスとジュストを見て固まった。
マリアの口からは、ほわあ、と空気が抜けるような悲鳴が上がった。丁度、ダンジョンで蛇型モンスターの死体を踏んだ時と全く同じ悲鳴だった。
「じゅ、ジュッ、ジュスト様……! い、いつからそこに……」
「…………少し前だ」
「ど、どの、どのくらい前、ですか?」
「……………………」
ジュストは無言で目を逸らしたまま、マリアの手を取った。答えるつもりは無いらしい。というより、隣の男を思いやって答えられない、と言ったところが正しいか。
マリアは真っ赤な顔で冷や汗をかく、という器用な真似をしつつ、隣に立つラルスをちらり、と見やった。笑顔だった。そう、つまり、一個師団規模のモンスターの群れを相手にどうやって全滅させてやろうかと策を練っているときと同じ類いの笑みを浮かべていた。
「ら、らら、らららラルス様……あの、私、決して……決して不用意な気持ちで……あの……」
「うん、分かってるよ。マリアはいつだって優しいからね」
「…………」
「でも、動機が優しさであれば何をしてもいいって訳じゃないよね?」
「……お、仰るとおりです」
こくこくと、首がもげるんじゃないかという勢いで頷くマリアに、ラルスはそれまで身に纏っていた険のある空気を、苦笑と共に和らげた。
「それと、此処はあくまでも休憩の為に用意された部屋だから密談には向かないよ。外の者が気を利かせて人払いしてくれていたから良かったけれど、重要な案件は此処では話さないようにね」
「は、はい、はい、勿論ですリーダー……」
何処で覚えたのか騎士の礼まで披露したマリアを前にして、苦笑を滲ませていたラルスが小さく吐息を零す。それ以上気にしないで、とでも言うように片手を振ったラルスは、そこでようやく、扉を開けてから完全に硬直していたアイリーンへと目を向けた。
白を基調にした繊細なドレスの肩が、びくりと跳ねる。刃向かう者はたとえ巨岩龍であろうと容赦はしない、と立ち向かってみせるアイリーンにしては珍しいほどの狼狽えようだ。
こうなるのが嫌だったから何も言わずにいたのに、と視線で訴えたラルスに、マリアが無言のままひたすらに頭を下げる。旅の途中で出会った部族の作法だったと思うが、今にも地面に手をついて最大の謝罪を表しそうだったので、視線は程々のところで外しておいた。単純に、あまり責めるとジュストが厄介なことになる、というのもある。
「アイリーン、とりあえず祭典の終わりを告げる挨拶をしに行こう。流石に主役がいないまま終わるわけにも行かないからね」
「え、ええ、そ、そうですわね……」
頷いたアイリーンが、促されるままにラルスの隣を歩く。手を取らなかったのは、彼女が一度にあまり多くの感情を処理しきれないタイプだと知っているからだ。
今、アイリーンの中では初めて想像してみた『殿方との生活』とやらが物凄い勢いで駆け巡っているに違いない。その相手にラルスを当てはめて意識してくれるのは有り難いが、それでも、彼女が一切此方をそういう意味で好いてはいない、とラルスはこれまでの付き合いで嫌というほど理解している。
だからこそ、親友の座も恋人の座も望まず、最も信頼出来る仲間でいられればそれでいいと思っていたし、なんなら、この先もただの信頼出来る家族でいられればそれでよかった。
「アイリーン」
「な、なんですの」
「前にも言ったけど、僕は君が僕を好きじゃないってこと知ってるから、別に無理して恋とか愛とか考えなくてもいいよ」
「…………それは、その……」
「でも、この婚約は必要があって結んだものなんだ。出来る限り君に嫌な思いはさせないから、僕とこの先も道を共にしてくれると嬉しいな」
本心だ。これ以上を望んでいる、という胸の内を隠してこそいるが、嘘偽りのない本心であることも確かだった。
幼少期から祖母の生涯について聞かされ、母の生き様を見て育ったアイリーンは、口にこそしないが、この世に唯一無二の愛があると信じてはない。信じられないからこそ、信じたいと願い、惹かれ合うマリアとジュストが引き裂かれることにあれだけの反発を見せたのだ。
真実の愛だなんて、自分には決して得られないものだと思っている。更に言えば、得るのが恐ろしい、とさえ。手に入れてしまえば、あとは失うだけだからだ。
強気な態度や高慢な物言いとは裏腹に酷く繊細な少女に惹かれていたのはいつのことだったか。ラルスは、気づいた時にはアイリーンを目で追っていた。
どんな敵にも怯むことなく立ち向かい、時には無鉄砲で何を仕出かすか分からない、常識外れで仲間思いな少女。
旅の道中嵐に呑まれ、二人きりの洞窟で幾日も過ごすことになった時、アイリーンは覚悟を決めた顔で言った。
『もしも食糧が尽きそうになった時はわたくしの血肉を糧とし生き延びてくださいませ』と。本気で言っていたのだ。勇者さえ生き延びて辿り着けば、必ずや魔王を討つことができるから、と。
好きな子を食ってまで生き延びてたまるか、と必死に現在地を割り出し、崩れそうな洞穴をなんとか補強し、泥だらけになりながらもなんとか食糧のある草原に辿り着いた時の記憶を、ラルスは今でも夢に見る。正直、割と悪夢に分類されている。彼女に関わる記憶は、いつだって、良くも悪くも強烈だ。
アイリーンは愛を手に入れることに臆病なせいか、自分に向けられる好意にひどく鈍かった。遠回しに言っていれば永遠に伝わりはしない。
その上、旅先で彼女の容姿や強さに惹かれて求婚してくる相手からの直接的な好意には、表面上はさらっとかわしているように見えても、心の何処かで怯えているようだった。ラルスには、恋した女性を怯えさせる趣味はない。
側にいる内に彼女が少しでも自分を受け入れる気持ちになってくれたらそれでよかった。そうしてラルスは、少なくとも他の王子の婚約者に収まるよりはいいだろう、とアイリーンを自分の婚約者にしたのだ。
此処からゆっくり、友情を愛情に変えて、出来れば親愛を恋愛にしていければいいな、と思っていたのに……という何処か恨み言染みた愚痴が、声にこそ出ないが背負う空気に漏れてしまう。
マリアが心配していたのは、恋も愛も分からないまま結婚してしまって、後々考え直したくなってしまわないか、という点だろう。考えに考えてから動きたい彼女としては当然の心配だと言えた。
確かに、ちゃんと伝えていなかった僕も悪いけどさ、と二十三にもなって何処か拗ねた子供のような気持ちで視線を逃がしていたラルスは、そこでアイリーンにそっと手を握られ、隣へと目を向け直した。
「……ずっと聞きたかったのですけれど、ひとつ尋ねてもよろしいかしら」
「なんだい?」
「……ラルスはわたくしに嫌な思いをさせないように、と気遣ってくれているけど、その、……貴方は、どうなの」
「どうって?」
「嫌、ではないの? わたくしとの、婚約」
「まさか、そんな訳ないだろ」
比較的落ち着いた声音で口に出来たのは奇跡だ、とラルスは思った。好きな子に片手を握られて、上目遣いでそんな殊勝なことを聞かれて動揺が声に出ないだなんて、本当に、奇跡みたいなものだった。
四天王を下っ端の魔物の振りをして騙したときより緊張するな、などと、何処か現実逃避染みた思い出に浸りつつ、アイリーンの手をそっと握り返す。緊張に強張る指さえ愛おしいと思った。
「だって、わたくし、この通り、本性は全然お淑やかではありませんし」
「そんなの初対面から分かってたけど。ジュストに殴りかかる令嬢とか、初めて見たよ」
「そ、それに生意気で、しょっちゅう口答えばかりしますわ」
「慣れてるから大丈夫。むしろ、そのくらい元気があった方がいいね」
「あ、あと、その、わたくし、……か……」
「か?」
「……身体が、女性的な魅力に欠けていると思いますの」
いつになく気弱な声で紡がれた言葉に、ラルスは思わずアイリーンの頭の天辺から足の爪先までをすっと目で撫でてしまった。
確かにアイリーンは細身で肉付きの薄い身体をしているが、それが一体どうして『魅力に欠ける』だなんて結論に至る要素になるのだろう。本気で悩んでしまった。
何せ、ラルスにとってはいつだってアイリーンが最上の女性である。
「そんなことないと思うけど」
「ありますわよ! ご覧下さいな! この板のような胸部!」
「ご覧下さらせないで。こんな昼間から。こんな場所で」
「ほ、ほらやっぱり! 見たくもない程に魅力に欠けるのですわ!」
「見せるなら夜に僕の部屋でにして、ってことだよ」
あー、言い過ぎた、と思ったのは、言葉を理解したアイリーンが真っ赤な顔で勢い良く後ずさってからだった。意地でも手を離さなかったので、アイリーンは腕の長さの限界まで離れた状態で歩く、というやや珍妙な格好になった。
誤魔化すように笑うラルスの後ろで、ジュストの咳払いが響く。いいじゃないか、と誰に言うでもなくぼやくような呟きが零れた。
まるで常識人みたいな顔して咳払いを響かせているが、後ろの男こそ、恋によって盲目的な愛を恋人に捧げる困ったやつ代表である。僕なんかまだ可愛い方だ、とラルスは今度ははっきりと口に出してぼやいた。
「アイリーン、流石にそろそろ隣に戻ってきて。人目があるから」
「……承知しました」
伸ばしに伸ばしていた腕が二人の間で揺れる位置に戻り、まるで子供のように握り締めていた手を、エスコートに相応しい形へと直す。まさしく淑女の鑑、とも言える笑みを見事に取り繕ってみせたアイリーンは、周囲の一般客には聞こえない程度の声量でラルスへと語りかけた。
「ラルスがわたくしに嫌な思いをさせないことなんて、もうずっと前から分かっていますわ。考えてみましたけれど、やはりこの先を共に生きるなら貴方が一番だと思いますの」
「それは光栄だね」
「貴方もわたくしが嫌じゃないと聞いて、その、とても安心しました。わたくし、これから良い妻になれるように精一杯努めますわ。どうぞ、よろしくね」
「……うん、もちろん。僕も良い夫になれるように努力するよ」
ああ、これ、まだ本気で伝わってはいないな、と察したが、ラルスはそこで挨拶のための笑みへと表情を変え、それ以上の言及を避けた。
拒絶されなかっただけでも有り難いくらいなのだ。此処からは、当初の予定通りゆっくり時間を共にして距離を縮めていけば良い。二人の間には既に仲間としての信頼は充分にあるのだから。
歓声を受けながら閉会の挨拶を済ませた四人は、その後合同での結婚式の発表も済ませ、今度は式の準備に忙しくなることとなった。
「────ジュスト様! きっ、緊急会議を開きます!」
一年後。恋愛下手のアイリーンと存外ヘタレのラルスが一向に仲を縮めず、他国の王女まで絡んで妙なことになった際にマリアが参考資料片手にジュストの書斎に足を踏み入れた。
が。
「……多分心配しなくとも、あと三日もすれば全部片付くと思うぞ」
ジュストの予測より早い二日後に無事に解決し、二人はめでたく王都でも話題の、乙女が憧れるような理想の夫妻となったので、特に問題は無かった。
めでたしめでたし、である。多分。