98 夜太郎の夢
夕方、ディオンさんがソフィアちゃんを迎えに来た。
警備隊から連絡があったそうで、何度もお礼を言ってくれる。私は申し訳なくてディオンさんの顔をまともに見られなかった。
「ディオンさん、私が魔法使いなのはヴィクトルさんから聞いているでしょう?」
「はい」
「私ね、もう隠さないことにしたの。私の魔法のことで何か聞かれたら、知っていることを答えても大丈夫ですから」
「でもマイさん、俺らが獣人であることを隠しているのは身を守るためで、マイさんだって同じ理由で隠していたんじゃないんですか?」
「そうだけど、私は自分を守れるから。隠さないことにしたの」
ディオンさんは「なにがどうした?」という顔をしながらも深くは聞かず、ソフィアちゃんと帰った。ソフィアちゃんはしょんぼりしている。カリーンさんのあんな姿を見てしまったのだ。ショックだったろう。
ヘンリーさんは心配してくれて繰り返し「カリーンさんの件はあなたのせいではない」と言うけれど、違うよ。
私はおばあちゃんにすごく大きな力を貰っていたのに、優先順位を間違えた。
地面に横たわっていたカリーンさんの姿を思い出すたびに、カリーンさんへの申し訳なさで胸が絞られるように苦しくなる。
ヘンリーさんの呼びかけに曖昧な返事を繰り返していたら、夜になってヘンリーさんが店に来てしまった。サンドル君とアルバート君はちょうど帰る時間で、二人は硬い雰囲気のヘンリーさんを見て何か察したらしく、そそくさと帰った。
「私なら大丈夫ですって」
「大丈夫じゃないから来たのです。マイさんが酷く落ち込んでいるのを知っていながら、仕事なんてできるわけがないでしょう」
「そう……。じゃあ、晩酌に付き合ってください。そうだ、岩蛎をコンフィにしたのがあります」
「コンフィとは?」
「低温の油でじっくり火を通した料理です。そこそこの保存性があるの」
何も食べる気になれなかったが、心配して来てくれたヘンリーさんに白ワインだけじゃ申し訳ない。
自分には麦の蒸留酒を注いで飲み始めた。低温で火を通した蛎は、味見した時はジューシーな仕上がりだった。
酔ってしまう前に、ヘンリーさんに気持ちを伝えなくては。
「魔法が使えることをもう隠しません。前もそう宣言したのに、『隠さなきゃ』って意識が消えていませんでした。今後はもっと意識して自分の魔力を役立てようと思います」
「そうですか。そこまで覚悟したのなら、俺はマイさんの意思を尊重します。それで厄介なことが起きたら、俺が対処します。俺がどれだけ優秀で腹黒いか、知って驚きなさい」
珍しくそんなことを言うヘンリーさんは、私を励ましたいのだろう。
私が黙っていると、ヘンリーさんは自分でワインのお代わりを注いで私に微笑んだ。
「マイさんはポーションを作って多くの人を救いました。今日だってポーションが効いて、カリーンさんの顔の腫れがだいぶ引いていたし、肋骨を二本も折られたにもかかわらず起き上がって食事していましたよ。もしかしたら明日には退院かもしれません。回復の早さに医者が驚いていました」
「また病院へ行ったの?」
「ええ。何を言ってもあなたが殻に閉じこもっていましたからね。カリーンさんの様子を教えたら、少しは元気になるかと思ったのです。マイさんのポーションは、カリーンさんをちゃんと回復させていました。自分を責めて殻に閉じこもる必要はありません」
役に立っているのはわかってる。でも、どうしても自分を許せなくて唇を噛んだ。
「マイさんが顎をしゃくると、面白い顔になりますね」
「はい?」
「あっ、顎をしゃくらせたまま怒った。すごく変な顔。それにしても旨いですねえ、蛎のコンフィ」
ヘンリーさんにからかわれたのは初めてだ。励ましているつもりなのかな? ヘンリーさんは蛎をバクバク食べ、ワインをゴクゴク飲んでいる。
「そんなに急いで飲んだら悪酔いしますよ」
「酔っぱらってあなたに世話をしてもらいます」
「ほんとに今夜はどうしたんです?」
「やっと笑った。この際だから言わせてもらうけど、『この人はこの先もずっと俺に気を使い続けるつもりかな』と思っていました」
「別に気を使っているつもりは……」
「気を使っています。いつも俺に遠慮している。大切なことに限って正直に言わないし、俺を頼らずなんでも一人で解決しようとする」
思い当たることはある。誰かに頼る生き方をしてこなかったものね。私は十歳のあの日から「しっかり者の明るい私」を意識している。今ではすっかりそれが自分の素のように思っていたけれど。
話をしている間に、蛎は残り一個になってしまった。
「あっ! もう一個しかない」
「最後の一個は譲ります。ワイン、もう一本飲んでもいいですか?」
「いいですけど、そんなに飲むのは珍しいですね」
新しい白ワインと野菜スティックを出し、マヨネーズとコチュジャン風味噌を混ぜたものを添えた。
ヘンリーさんは野菜スティックもバリバリ食べ、「このピリ辛のソースはワインを飲みたくなりますね」と言ってワインもゴクゴク飲む。いつもはこんなに飲まないのに。
二本目の白ワインもほぼ一人で飲み干し、ヘンリーさんは無口になった。
「酔いました? 今日はたくさん歩いて疲れたでしょう。もうお開きにしましょうか」
「今夜はここに泊まりたい。いや、絶対泊まる」
「それはまずいでしょう? 婚約から結婚まで一年置くのは、そういう意味でしょ?」
「そういえば、雲のシャワー、結局あれから一度も使ってない。今使いたい。あの雲を出してください」
話を聞いていない。いや、わざと無視してるのかも。困ったなあ。どうしたんだろう。
ヘンリーさんが「シャワーを浴びたい」と繰り返すから、浴室に雲を出して四十度の雨を降らせた。ヘンリーさんはご機嫌で浴室に向かい、シャワーを浴びている。
長いことシャワーを浴びていたヘンリーさんが「あー、気持ちよかった」と出てきた。猫で。
「なんで? なんで猫になったんです?」
「今夜は泊まります。床でいいからマイさんと一緒がいい。お湯を浴びてから猫になったので毛皮は濡れていません。ご心配なく」
「そこを心配してるんじゃなくて。本当にどうしたんです? なんで猫? 可愛いけど」
それには答えず、猫ヘンリーさんはスタスタと階段を上っていく。慌てて追いかける私。ヘンリーさんはドアノブに二本の前脚をかけて回すのに苦労している。
仕方なく私がドアを開けると、するりと部屋に入っていく。
「俺は床で寝ます。なにもしません。だけど帰りません。俺が帰ったら、どうせマイさんはまた、『私のせいでカリーンさんが』って、グジグジするんでしょう? それが見えるから帰りません。グジグジしてるマイさんを想像したら、俺が眠れませんから」
「だったらベッドにどうぞ。猫は柔らかい寝床が好きでしょ? 私もシャワーを浴びますから、先に寝ていてください」
入り口脇の小さなテーブルに自作のグラスキャンドルが置いてある。常夜灯代わりにそれに火をつけた。
シャワーを浴びて二階に戻ると、猫ヘンリーさんはまだ床で寝ていた。私がさっさとベッドに入り、隣をポンポンして「どうぞ」と言っても首を振る。
「久しぶりに猫の匂いを嗅ぎながら眠れるかと思ったのに」
「なんだ、そういうことか……」
猫ヘンリーさんがそうつぶやいて、のっそり立ち上がってベッドに上がってきた。
「わ、お酒臭い。猫の匂いじゃない」
「たくさん飲みましたから」
「じゃ、おやすみなさい。今日は疲れましたね」
横になったらどっと疲れが出た。精神的に大激動の一日だった。怒りは身を苛むって言葉は本当だ。
本心では、あいつらの脚を全部粉々にしてやりたかった。でもそれはおばあちゃんに貰った力を穢すことだ。あんなやつらにおばあちゃんの餞別を穢すだけの価値なんかない。
今は隣に黒い大猫がいる。よかった。あいつらを憎み自分を嫌悪しながら朝を迎えずに済む。ヘンリーさんはいつだって正解を知っているよ。
猫ヘンリーさんは重ねた前足の上に顎を置いて目を閉じている。夜太郎もこんなふうに添い寝してくれたっけ。
モッフモフの猫ヘンリーさんに顔を埋めているうちに私は眠ってしまった。久しぶりに夜太郎の夢を見た。夢の中で夜太郎がヘンリーさんの声で「頑張りすぎないで」と言った。
どのくらい眠っただろうか。「はあああ」と言うヘンリーさんのため息で目が覚めた。
ヘンリーさんは私にぴったりくっついて隣にいた。きれいなエメラルドグリーンの瞳で私を見ている。グラスキャンドルのおかげで美しい大黒猫の姿が見えるのが嬉しい。
(きれいな猫だなあ)と見とれていたら、「いいから。見ていないで眠りなさい」と怒ったように言って、猫ヘンリーさんは顔を背けた。