前へ次へ
96/124

96 泣くソフィアちゃん

 王都の流行り病は終息の気配を見せている。

 だが人の移動と共に王都の周辺へと病が広がっているらしい。昨夜、仕事の帰りに店に寄ってくれたヘンリーさんが教えてくれた。

 魔法部は状況に応じてポーションを現地で作ることになったらしい。キリアス君を含めて八人が地方に向かって出発したそうだ。キリアス君はいろんな現場に引っ張りだこだ。


「魔法部のポーションでほとんどの患者は治りますが、やはり体力のない人は重症化しているようです。それで……陛下はマイさんが同意してくれるのなら、ポーションを提供してもらえたらありがたいということでした」

「喜んで。ポーションはあと二十樽くらい作ればいいかしら」

「それだけ提供してもらえると助かります。何があるかわからないので、魔法使いたちの魔力をポーション作りで使い切る事態は避けたいのです。魔法部には俺が話を通しておきます。今回も『陛下の知り合い』という形でいいですか?」

「ええ、そうしてください。あの、ヘンリーさんも地方に行ってしまうの?」

「行きません。地方にも優秀な文官がいますから。ふふ」


 最後に笑われたのはきっと、(長期出張は寂しいな)と思ったことを見抜かれたからだ。ちょっと悔しい。

 

「おいしっ!」

 

 素直な感想はソフィアちゃんだ。ソフィアちゃんは私の隣でソーセージパンを食べている。ヘンリーさんは今日、いつもより早めに持ち帰りランチを買いに来た。今はまだ外食できないから他の文官さんと一緒の時間をお昼休みに変えたそうだ。そして時刻はそろそろ一時になる。


「この時間までソフィアちゃんがいるのは珍しいのでは?」

「ええ。いつもは十二時前には迎えに来るから。カリーンさんに何かあったのでなければいいけど。伝文魔法用のペンダントはヴィクトルさんがしているだろうから、念のために聞いてみるわね」

「伝文魔法は便利だなあ。俺が使えたら、もっと効率よく仕事をこなせるのに」


 ヘンリーさんが羨ましそうだ。それ以上働くつもりか。


 お鍋を持って持ち帰り用の料理を買いに来た女性が、ソフィアちゃんくらいの男の子を連れていた。おそらく母親と息子だ。モシャモシャとソーセージパンを食べていたソフィアちゃんが口を止めて、その二人を目で追う。ソフィアちゃんの顔に羨望がはっきりと浮かんでいて、私の胸がチクンと痛んだ。

 ソフィアちゃんはお母さんの記憶がないはずだ。でも羨ましさは感じるんだね。

 授業参観の日に、「あ、お母さんだ!」とはしゃいでいる友達を見るとき、私もこんな顔をしていたのだろうか。


 ペンダントに魔力を通して話しかける前に、ヴィクトルさんの指示する声が聞こえてきた。


『そこは通行禁止です。迂回してください』

「ヴィクトルさん、マイです」

『ああ、マイさん。すまない。今、解体予定の古い酒蔵さかぐらが崩れまして。野次馬が多いので私たちが出張でばっているんです。何かありましたか?』

「忙しい時に申し訳ありません。カリーンさんがまだお迎えに来ないのです。ソフィアちゃんをお預かりするのは問題ないのですが、カリーンさんになにかあったんじゃないかと思って。ご存じないですか」

「いえ。何も聞いていません。すみません、私がソフィアを迎えに行くにしても、もうしばらくかかります」

「わかりました。ソフィアちゃんのことはご心配なく。カリーンさんが来るまで預かりますから、お仕事に専念してください」


 通話が終わるなり、「何がどうしたって?」とヘンリーさんが心配そうに聞いてきた。


「古い酒蔵が崩れて大変みたい。でも市場と酒蔵は、全然方向が違うから、カリーンさんが遅れているのとは関係ないわよね」

「ばあば、じいじ、おめでとうなの」


 ソフィアちゃんがぽつりと漏らした。


「ヘンリーさん、カリーンさんはヴィクトルさんのために、何かを買いに行ったんじゃない?」

「そうかもしれないね。ソフィアちゃん、もう一度教えてくれるかい? ばあばはどこに行ったのかな?」

「ばあば、おしごと」


 ソフィアちゃんがきょとんとしている。三歳児にその聞き方じゃだめなのよ。

 

「ソフィアちゃん、ばあばは何を買うって言ったの?」

「じいじ、おめでとうって」


 贈り物か。それにしたって義理堅いカリーンさんが二時間も遅れるのは普通じゃない気がする。それに、ヴィクトルさんへの贈り物を買うにしても、ソフィアちゃんを預けた状態で何も言わずに遠くまで買いに行くだろうか。


「私、カリーンさんの職場まで確認に行ってきます。ヘンリーさんは仕事に戻ってください。ソフィアちゃん、ここで待っていて。ばあばを探してくるわね。サンドル君、ちょっと出かけるのでお店を頼みます」


 エプロンを外しながら立ち上がったら、ヘンリーさんにガシッと腕を掴まれた。


「落ち着いて。そんなに慌てて出かけるのは危ない」

「でも心配だから。早く確かめたいの」


 そこで急にソフィアちゃんが泣き出した。しまった。私が動揺しているせいで、この子を不安にさせてしまった。


「ばあばは? ばあば、あいたいよ」

「ああ、ごめんごめん、泣かないで。ばあばは何かご用事なのよ。私がばあばを探してくるから、ここで待っていてね」

「うわああん。ばあば、あいたい。うわあああん」


 人間は一瞬でこんなに涙を流せるんだなって思うぐらい、大粒の涙をこぼすソフィアちゃん。するりと椅子から降り、床にうずくまって号泣し始めた。私が何を話しかけても、そのたびに泣き声が大きくなる。

 しばらく泣かせていたら落ち着くか? と様子見したけれど、いったん小休止しても再び号泣する。そのうちひきつけるんじゃないかと怖くなった。

 

「俺も行きます。カリーンさんの匂いならソフィアちゃんが一番わかる。匂いをたどれるかも」

「え? ダメよ。ソフィアちゃんを連れて出たら、カリーンさんと行き違いになるかもしれないし」


 ヘンリーさんが指先で唇を撫でて考え込んでいる。指が止まり、ヘンリーさんが立ち上がった。

 

「いや、連れて行きましょう。行き違いにはならないよ。サンドル君とアルバート君とはイヤーカフで会話できるんでしょう? ソフィアちゃんなら人間のままでも俺たちよりは鼻が利く。そうだ、あの配達の人たちは頼れない?」

「全員、ぎっしり配達の予定が入ってるの。それよりヘンリーさん、仕事は?」

「遅れても大丈夫。途中で連絡を入れます」


 アルバート君に店を任せて出発した。誰かに連絡を頼むのはどうやるのだろうと思っていたら、近くの洋服店に入り、店主さんと交渉している。メモと硬貨を渡してすぐに出てきた。


「文官の制服は信用されますから。こういう場合に役に立つのです」


 ソフィアちゃんはヘンリーさんに抱っこされてもまだ泣いている。私はついつい悪い想像をしてしまって落ち着かない。念のために自作のポーションを持ってきたけれど、どうかこれを使わずに済みますように。

 

 やがてカリーンさんの職場に着いた。お店の人にカリーンさんのことを尋ねると「いつもの時間に帰ったわ。まだ迎えに行っていないの?」と驚いている。私たちのやり取りを聞いて、やっと泣き止んだソフィアちゃんがまた「ばあば、ばあば」と泣き出した。

 ヘンリーさんは路地まで移動してからソフィアちゃんを下ろした。しゃがんでソフィアちゃんと目の高さを同じにしてから、話しかける。


「ソフィアちゃん、ばあばを一緒に探そう。誰が最初に見つけられるか競争しよう。俺かな? マイさんかな? やっぱりソフィアちゃんかな?」

「フィーちゃんだよぉ!」

「よし、じゃあ、これからばあばの匂いを探そう」

「うん!」


 ヘンリーさんは意外にソフィアちゃんの扱いが上手だった。


「さあ、ソフィアちゃん、おばあちゃんの匂いを探してごらん」

「わかった!」


 目の周りを赤くしているソフィアちゃんが、顔をキリリと引き締めた。


前へ次へ目次