95 ep.12 【王妃と国王】 ◆
マイのポーションを飲んでから数日。
アリヤ王妃の容態は驚くべき勢いで回復している。侍女のリンジーは目を潤ませながら何度も、「ようございました。本当にようございました」と繰り返している。
「お前には心配をかけたわね。ねえ、リンジー、私、気になっていることがあるの。私、魔法部のポーションを二本飲んでも効かなかったでしょう? 魔法部の人たちは気落ちしているのではないかしら。私が城の外で作られたポーションで回復したこと、彼らは知っているのかしら」
「どうでしょう。確認いたしますか?」
「ううん。それはいいわ。それより、魔法部にちょっとしたお礼をしなくては」
リンジーは「はい」と返事をするのが遅れた。効果のあったポーションの作り手にではなく、効果が出なかったポーションを作った魔法部にお礼? と戸惑ったからだ。
「今回、彼らはきっと落胆しているわ。私に効果が出なかったことを残念に思っているはず。でもね、私や陛下や王子がこの先もお世話になるのは魔法部の人たちです。最初に感謝を伝えるべきは、城の魔法使いたちだわ」
「王妃様のお考えの深さに今、感動しております」
「大げさね。三本目のポーションを作ってくれた魔法使いには、陛下が褒美を出すはず。でも念のためにそれはローマンに確認してくれる?」
「承知いたしました」
アリヤ王妃は「お礼の手紙を添えたいけど、病が完治するまで、直筆の手紙を渡すのはやめておくべきね」と言う。「その代わりに王家のために作られるワインを魔法部へ届けて」とリンジーに託した。
リンジーが出ていって一人になり、そっとベッドから立ち上がる。壁伝いにゆっくり室内を歩いてみた。十日以上もスープと湯冷ましだけで過ごした身体は弱っていた。
「少しずつ。少しずつ。城のポーションが効かなかったのは、私の体力のなさが原因かもしれない。普段からもっと体を鍛えておくべきだった。王子を産んだから、もう役目は終わったと思っていたのが良くなかったのかもしれないわね」
アリヤ王妃がゆっくり壁沿いに歩いていると、背後でドアの開く音がした。今この部屋に予告なしで入ることを許されているのはリンジーだけなので、王妃は振り返ることなく声をかけた。
「お使いをありがとう。魔法部の者たちは喜んでくれたかしら」
「リンジーはまだ帰ってきていないよ」
エルドール八世の声を聞いて、アリヤ王妃は慌てて振り返った。
「陛下! お見苦しい姿で申し訳ござ……いえ、この部屋に入ってはいけません! まだ私の身体に病が残っております!」
「いいんだ」
そう言ってエルドール八世は大股で王妃に近づき、驚き慌てるアリヤ王妃を力強く抱きしめた。
「陛下? なにを……」
「アリヤ、運動は早すぎる。まだ数日は横になっていなくては」
「もうすっかり気分がいいのです。それより陛下、病がうつります! 離れてくださいませ!」
「うつったら、よく効くポーションを飲む。私と王子の分は残っているんだ。それより、君が回復してよかった。君にもしものことがあったらと私は……」
声に涙の気配が潜んでいる気がして、王妃は国王の顔を覗き込もうとした。だが後頭部に回された手が、グッと頭を押さえて見上げさせてもらえない。
結婚して以来こんな国王を見るのも、こんなに強く抱きしめられるのも初めてだ。
「ずっと君に伝えたかったことがある。君は兄上を慕っていたのに、私に嫁がねばならなかった。私の妻となってからは、実によく務めを果たしてくれた」
亡くなった元婚約者のことを持ち出され、思わず国王の真意を探りたくなる。
「私はそのために生まれ、そのために育てられました。陛下をお支えするのは当然のことです」
「当然ではないよ。一度も私の前で悲しむ姿や沈んだ姿を見せなかった。兄上が急死して、君はどれほど寂しく悲しかったか。だが君はいつも穏やかで優しく、思いやりをもって私に接してくれた」
なぜ今、こんなことを言い出すのか。アリヤ王妃は不安になった。
「陛下?」
「君が神に召されるかもしれないと聞かされて、私はみっともなく慌てた。君は今も兄上を愛している。そんな君への遠慮があるばかりに、私は一度も愛していると言わなかった。君を失うかもしれないと聞いて、とてもそれを後悔した。私は愚かだった」
「陛下……」
「アリヤ、兄上のところに行かずに……とどまってくれてありがとう」
(そうだけれど、そうじゃないのです、陛下)
病がどんどん悪化しているとき、アリヤ王妃は全身の痛みに苦しみながら、『もう疲れた。死ぬならそれでもいい。私に課せられた役目は全て果たした。王子のことは心残りだけれど、あの方のおそばに行けるなら、もう死を受け入れてもいい』と思った。思ったけれど、その次の瞬間に別の思いも湧き上がった。心に浮かんだのは、長年連れ添った国王の姿。
旅立つ前に会いたい、と思った。
「君が兄上を思う気持ちを責めるつもりはないんだ。兄上が亡くなり、月日と共に皆の記憶から兄上が消えていく。ずっと変わらずに兄上のことを思ってくれている君に、私は感謝している。私も兄上のことが大好きだった」
「それは……陛下も同じでございましょう? 陛下も愛する方がいらっしゃった、いえ、今もいらっしゃるのですよね? その方のために王位継承権を放棄し、臣籍に下るお覚悟だったと聞きました」
エルドール八世の腕が緩み、驚いた表情で王妃の顔を覗き込んだ。
「誰がそんなことを言った?」
「誰だったかは忘れました。同情するふりをして言葉の毒をそっと耳に注ぐ。そんなことは女性の常套手段です」
「だからそれが誰なのかを言いなさい!」
「本当に忘れました。ただ、それを私に教えた女性全員が、陛下の想い人が誰なのかを知りませんでした。陛下、座ってもよろしいでしょうか? すっかり身体が弱ってしまって、長く立っているのは少々つらいのです」
エルドール八世が王妃の肩を抱えてベッドに座らせても、王妃は話を続ける。
「私たちの婚姻は互いに想い人を諦めるところから始まりました。ですが、陛下は善き王であり、善き父であり、善き夫でした。こうして弱ったときに陛下に心配していただけるのは、ありがたく嬉しいことでございます。陛下、病から生還した今こそ、陛下にお伝えしなければならないことがございます」
エルドール八世はアリヤ王妃が何を言い出すのかと、眉間にシワを刻んで聞いている。
「陛下は私の気持ちを誤解なさっています。私のことを、『仕方なく嫁ぎ、仕方なく子を産み、仕方なく王妃を務めた可哀想な女』と、そうお思いなのでしょう? それは間違いなのです」
黙っている国王に、アリヤ王妃はわずかに微笑みながら続ける。
「私は……愛しいと思っていた殿下が亡くなられても、違う誰かをまた愛することができる強かな女でございます。そんな自分を浅ましいと恥じて、今日まで生きてまいりました。ですが、もうすぐ死ぬのだと悟ったとき、私は陛下にお会いしたいと、お顔を拝見しながら逝きたいと思いました。私は……もうずっと以前から……陛下をお慕いしております」
エルドール八世は驚き、そして目を閉じた。目を閉じたままアリヤ王妃の耳元で白状する。
「アリヤ、私もだ。君がこの世から消えるかもしれないと思ったら、目の前が暗くなった」
「本当でございますか?」
「本当だ。私も君を愛している」
エルドール八世が王妃の髪を撫でる。しばらくの静寂のあとで、アリヤ王妃が口を開いた。
「命あればこそ、そのお言葉を聞くことができたのですね。あのポーションのおかげです。陛下、三本目のポーションを作った者には、どのような褒美を?」
「それなのだが、彼女は欲がない。だが恩には報いるつもりだ」
「彼女? 女性なのですか!」
「これはリンジーにも言わないでほしいのだが、あのポーションを作った魔法使いは若い女性で、食堂の店主だ」
「まあ。高齢な男性の魔法使いなのかと思っておりました」
「君が大喜びして食べた料理を作ったのも、その魔法使いだ」
「まあ! そうでしたか」
(褒美を渡そうとしてそれきりになっていた料理人が、あのポーションの作り手?)
「陛下、私をその魔法使いに会わせてください。会って直接感謝を伝えたいのです」
「それはどうだろうなあ。彼女は望まないかもしれない」
「そうですか。魔法使いは気難しいと言いますものね」
エルドール八世が首を振る。
「彼女は気難しくはない。ただ、褒美、名誉、称賛、そのどれにも興味がないようだ。彼女の婚約者も同じく。彼もまた、大切な婚約者が目立つことを望んでいないのだよ。私は二人に会ったことがあるが、彼女の婚約者は、見ているこちらが困るほどに彼女への愛が駄々洩れだった」
「愛されて幸せな魔法使いなのですね。そして結婚前のまだ若い女性」
「そうだ。ともあれ、ここはいったん感謝状くらいで諦めてくれ。私がなにか別の形で感謝を示そう」
「残念ですが、陛下のおっしゃる通りにいたします」
「わかってくれて助かるよ。我々の感謝で彼女を煩わせてはいけないからね」
結婚して初めて、アリヤ王妃が国王にもたれかかった。隠し続けてきた想いが、やっと成就したのだ。
(もうこの思いを陛下に隠さなくてもいいのだ)と思ったら、泣けてくる。
「アリヤ、これからはもっと寄り添って生きていこう。君と私には、やり直す時間がまだ残っている。だからそんなに泣くな」
エルドール八世はその日、王妃に長い時間付き添い、語り合った。
後日、エルドール八世に「マイに褒美を出したい。爵位でも領地でもいい」と言われたヘンリーは、無表情に「本人に確認します」と答えた。そしてその翌日、「本人は特に欲しいものはなく、お気持ちだけありがたく頂きますということでした。私も彼女が今のまま静かに暮らせることを願っております」と、素っ気ない返事をして国王を苦笑させた。