94 ep.11【王家の黒い歴史】◆
城の王族が暮らす区域には重苦しい空気が立ち込めていた。アリヤ王妃の病状が良くない。
魔法部で作られた新鮮なポーションでも効果が見えず、続けてもう一本のポーションも使われた。それでも王妃は回復しない。
関節痛、猛烈な肌の痒み、倦怠感、頭痛、発熱。王妃は夜も眠れず会話をする気力も体力も失っていた。
城に詰めている医師のデニスは、診察を終えて頭を抱えていた。そこへ侍従のローマン・エリントンが別のポーションを抱えてやってきた。
「先生、急いでこのポーションを使ってください」
「ポーションなら、もう二本も使いました。まるで効きません」
「これは陛下のお知り合いの魔法使いが作ったもので、効くはずです。平民たちに使われて、素晴らしい効果が確認されています。一刻も早くこれを使ってください。お願いします」
「城の魔法使いのポーションよりも、ですか? ……まずは毒見をします」
デニスはポーションが五本あるのを見て、自ら一本を飲み干す。それから二人で水時計を睨んで一時間が過ぎるのを待った。デニスが立ち上がり、「よし、毒見完了」と言いながら王妃の寝室へと向かう。
アリヤ王妃の部屋には、彼女が嫁いだときに連れてきた侍女が一人。侍女もまた憔悴している。デニスは侍女に「君も飲みたまえ」と言って一本渡した。侍女は「ありがとうございます」とつぶやいて受け取った。
「王妃様、新しいポーションが届きました。これを飲んでいただきます。失礼して頭を起こしますよ」
「デニス……。ポーションはもう飲みました」
王妃アリヤの目は充血し、吐きだされる息は熱い。デニスの持っているポーションを見て、何とも言えない悲しげな顔をする。
「ポーションは効かないみたい。遠くからでいいから、死ぬ前にクリストファーの顔を見たい」
「気弱なことをおっしゃいますな。これは必ず効きます。どうかお飲みください。お願いします。それと、お加減が悪い間は、王子様をこの部屋に入れられません。お許しください」
「そうだったわね……。わかりました。ポーションを飲みましょう」
侍女が王妃を起こして背中を支え、デニスがポーションの瓶を王妃の口に当てる。澄んだ緑色のポーションを、王妃は少しずつ飲む。ひと口飲むごとにつらそうな顔をするのは、ポーションが喉に沁みて痛いのだろう。常日頃から我慢強い王妃は、それでも全て飲み干した。侍女が壊れ物を扱うようにそっと王妃を横たえる。
「王妃様、水をお飲みになりますか?」
「いらないわ。リンジー、お前もポーションを飲みなさい。私の病がうつっているはずよ」
「これからいただきます。ご安心ください」
「早くお飲み」
侍女にそう言ってアリヤ王妃はスウッと眠った。
国王は流行り病の情報が入って以降、王子と共に別の階に移動した。今は限られた人間だけが出入りできる部屋で政務をこなしている。
十歳のクリストファー王子もまた一人の部屋で過ごしている。母を恋しがっているものの、事情を理解して一人で本を読み、模擬剣の鍛錬をして過ごしている。たまに部屋に入ってくる使用人も、最低限の用事を済ませると急いで出て行く状態だ。
眠り始めたアリヤ王妃の部屋を出た医師は、医務室のソファにドサリと座ってそのまま横になった。やたらに眠い。夜になると王妃の状態が悪くなるため、ここ数日は夜に気が抜けずまともに眠っていない。
引きずり込まれるような甘い眠気が訪れ、医師デニスは目を閉じた。
「先生! 先生! 起きてください!」
すぐ近くで女性が騒いでいる。
侍女は業を煮やしたか、乱暴に肩をゆすり始めた。ハッと目が覚め、最悪の事態を想像して心臓が早鐘を打つ。目の前に王妃の侍女リンジーが慌てた様子で立っていた。
「どうした!」
「王妃様の様子が変わりました。来てください!」
デニスは無言で飛び起き、王妃の部屋へと走る。部屋には既に国王の侍従であるローマンが来ていた。大股で王妃のベッドに近寄ったデニスが王妃を覗き込む。
さっきまで熱に浮かされ、弱り切っていた王妃がスヤスヤと眠っている。全身の肌に現れていた水疱は先ほどまでパンパンに膨れていたのに、今は水泡の表面にシワができ始めている。そっと額に手を当てると、熱がない。
「ポーションが効いたようですね」とローマンに言うと、ローマンは何度もうなずいた。
「効きましたね。平民たちがこのポーションで次々と快癒しているとは聞いていましたが、ここまでとは。ポーションを手に入れてよかった」
「陛下にご報告をしなくては」
「私も参ります」
二人は王妃の寝室を出て手洗いとうがいをし、上から下まで服を着替えた。国王の執務室に入っても、部屋の端から声をかけるのが規則だ。長い歴史の中で何度も大規模な流行り病を乗り越えたウェルノス王国では、過去の経験でこの方法が取られている。窓は全て開けられて、風が穏やかに室内のカーテンを揺らしている。
エルドール八世は執務の手を止め、不安が滲む顔で二人を見た。
「アリヤに何かあったのか?」
「あのポーションが効きました。熱は下がり、全身の水疱も沈静化に向かっています」
「そうか。効いたか」
エルドール八世が額に手を当てて「ふうぅ」と息を吐きつつ力を抜く。
二日前、デニスから「全力を尽くしますが病状が重く、この先は体力次第です」と言われた。それからずっとエルドール八世の心に重くのしかかっていた不安が、サラサラと消えていく。
デニスは報告を終えて部屋を出てくかと思ったが、出て行かない。
「どうした」
「陛下、あのポーションを作った魔法使いは王都にいるのでしょうか」
「なぜそれを聞く」
「あれほどのポーションを作ることができる魔法使いならば、城で召し抱えるべきかと思います」
(やはりそうきたか)とエルドール八世は無表情にデニスを見返した。
「デニス、お前はあの話を知らないわけではあるまい? 王家の黒い歴史と言われる大伯母上のことだよ」
「噂程度には」
「あれは城に幽霊が出るという類の話ではない。実話だ。私は父に『魔法使いを権力で囲い込むな』と繰り返し言われて育った。祖父は自分の姉の所業を知って、死ぬまで心を痛めていたそうだ。『魔法部に所属する魔法使いは、自らの意思で参加する者のみとする』という項目をつけ加えたのは、大伯母の件があったからだよ」
「あれは……実話でございましたか」
「そうだ。大伯母の犠牲になったのは、その若い魔法使いだけではない。回りまわって何十万という民も死んだのだ。私が同じ間違いを犯すわけにいかない。今回のように魔法使いがポーションを提供してくれたことを、ただ感謝すべきなのだ」
国王にそう言われてデニスは何も言い返すことができず、執務室から出た。デニスはあの噂をあっさり実話だと教える国王に驚いていた。
エルドール八世の言う大伯母とは、先々代の国王の姉、ロザリンドだ。生まれつき身体が弱かったロザリンドは生涯嫁ぐことなく、離宮でわずかな使用人と共にひっそりと暮らしていた。
ところがどういう伝手を使ったのか、ロザリンドは中年になってから高魔力保有者の子供を探し出して買い取り、奴隷のように閉じ込めてポーションを作らせて飲んでいた。
先々代の国王がロザリンドの悪業を知ったときには全てが手遅れだった。大変に優秀な魔法使いは使い潰されたという。隠蔽されたはずのロザリンドの悪行は滲み出すように漏れ伝わり、貴族たちの間に広まった。
「あれが真実だったとはねえ。だから王家の方々はポーションを積極的には飲まないんだな。そういう過去があるのなら、素晴らしいポーションを作る魔法使いは……諦めるしかないか」
ソファーに座ってから気がついた。首と肩と背中の酷い凝りと鈍い痛みがすっかり消えている。
その頃、エルドール八世は侍従ローマンと二人で話し合っていた。
「ダイヤに続いてポーションか。伝説の魔法使いそのものだな。マイはポーションをどのくらい提供しているのか」
「警備隊員に聞いたところによると、千百人分のポーションが入った樽を、今の時点で二十三樽だそうです」
「二十三? もはや国家規模の功績だな」
そこで二人とも考え込む。最初に口を開いたのはエルドール八世だ。
「ローマン、彼女の功績を讃えて貴族の称号と領地を与えたいが、それは喜ばれないのだろうか」
「そんな気がいたします」
「欲のない人間は対応が難しいな。だが一応、婚約者の筆頭文官に聞いてみてくれ」
「承知いたしました」
ローマンが出て行き、一人になったエルドール八世は父親に聞かされた話を思い出す。
王家の人間だけが知っているロザリンド王女の最期は凄惨なものだ。長年にわたって水代わりに特級のポーションを飲み続けた身体は、人間が本来持っている機能を失っていた。その魔法使いのポーションを飲めなくなってしばらくして、ロザリンドに症状が現れた。
繰り返す発熱、全身にできる腫れ物、咳をすれば血が混じり、下血も始まった。ヘアブラシを使えば頭皮が傷ついて化膿し、着替えをしただけで肌は簡単に傷ついて化膿する。城の魔法使いのポーションではどうにもならない。ロザリンドは自らの血膿の中で苦痛に呻きながら息絶えたという。
伝染性の病を疑った医師が「いつからこうなった?」と使用人たちに尋ね、古株の一人が事実を話したところからロザリンドの悪行が発覚した。
この話にはまだ続きがある。
ロザリンドの死後、何種類もの流行り病が立て続けにこの国を襲った。のちの調査で国民の数人に一人が死亡したとされる大流行である。
魔法部の魔法使いはポーションを作り続けたが、やがて疲弊しポーションの質は落ちた。軍人と貴族は、ポーションを飲んでも弱い者から死んでいく。
ある日、祖父は父をバルコニーに呼んだ。
眼下に広がる王都のあちこちから、無数の煙が立ち昇っていた。流行り病で亡くなった遺体はそのままでは埋葬されない。近くの空き地ですぐに焼かれる。立ち昇る煙の数の多さ、王都の上空に雲のように立ち込める煙の量に、少年だった父は言葉を失った、という。
祖父は父にこう声をかけた。
「しっかり見なさい。そして記憶に刻め。神はロザリンドの悪業を、深くお怒りなのだ」
数年かけて流行り病が収束したあとも労働人口の減少が原因となって、ウェルノス王国は慢性的な食糧不足と産業の不振に苦しんだ。その後の祖父と父の治世は、この国の苦難の歴史だ。記憶の中の父はいつも政務に追われていた。
二十五年前、また病が蔓延した。長男と次男をほぼ同時に失った父の落胆はひと通りではなく、エルドール八世が即位するのを見届けてから心臓の病で永眠した。
今、王都に遺体を焼く煙は見当たらない。マイのポーションのおかげだ。