9 大みそかの過ごし方
『隠れ家』を開店して五ヶ月が過ぎた。今日は十二月の二十九日。
この世界はどの月も三十日までだから、明日は大みそかだ。この国では年末年始の祝日はないらしい。さりげなくお客さんにリサーチしておいた。
だから『隠れ家』は今日も普通に店を営業し、ヘンリーさんもいつも通りに遅いランチを食べている。ほぼ毎日通ってくれているヘンリーさんとはだいぶ会話できるようになった。
今日の日替わりはラムとリンゴのソテー。パンとスープつき。ヘンリーさんが「リンゴと羊肉が合うとは知らなかった。旨いですね」と言いながら食べている。
「お城の文官さんは年末年始も関係なくお仕事ですか?」
「いえ……少し関係ありますね。明日は休む人が多いと思います」
「お城勤めの人は休むんですね」
「まあ、休む人は休みますね」
ヘンリーさんの歯切れが悪い。これはあまり突っ込んではいけない何かがある気がする。
「お食事の邪魔をしてごめんなさい。ではごゆっくり」
そう言って厨房に向かおうとしたら、ヘンリーさんが慌てた感じに付け加えた。
「明日は既婚者と恋人がいる人は、『今年が終わる日を一緒に過ごす』ってのが普通ですから。休む人が多いと思いますよ。そういう人がいない場合は同性同士で誰かの家に集まってワイワイやるでしょうし」
そうなの? 全く知らなかったけど、どうやら知っていて当然な雰囲気。
私に祝日はないと教えてくれたお客さんよ。この情報も教えてほしかったです。
「そうでしたね。うっかりしていました。明日はうちも臨時休業にした方がいいかもしれませんね」
「やはりお休みするのですか……」
ほんの少しヘンリーさんの眉が下がった。絶対に悲しんでいる。うちの料理を気に入っているのは知っていたけど、そこまで?
「だって、明日は夫婦や恋人とおうちでくつろぐ日だから、誰も外食しないでしょうし」
「私は仕事をします。ただ、明日は出てくる人が少ないからお城の食堂が休みなんです。ここも休みとなると、今日のうちにパンでも買っておかなくては」
無表情だけどヘンリーさんの元気がゴッソリ減っている。私にはわかる。
「ヘンリーさんが来てくださるなら店を開けますが」
「本当ですか? それなら明日は絶対に来ます」
しょんぼり顔からいきなり喜びいっぱいの顔になった。ただしその変化を読み取れる人は少ないだろう。
「本当です。メニューのご希望はありますか? 明日限定でご注文を受け付けます」
「マイさんが好きな料理を食べてみたいです」
「わかりました。お任せください」
「最終日は例年乾いたパンを食べながら仕事をしていましたが、明日も美味しいランチを食べられるなら、一人きりの職場も楽しみになります」
待って。一人きり? つまり、ヘンリーさん以外は全員休むの? そして薄々そうかなとは思っていたけど、この人は恋人がいないってこと? こんな美形で温厚で筆頭文官様なのに?
「ヘンリーさんが年末にお一人って、意外ですね」
「どうしてですか?」
「筆頭文官様ですし優しいですし。前に酒場を出た私を追いかけて来てくれたことがあったでしょう? あのとき、こんな優しい人はさぞや女性に人気があるんだろうなと思いました。それと、美しく走る人だなと思っ……。す、すみません。お客様にこんなことを言うのは大変に失礼でした。申し訳ありません」
「失礼とは思いません」
面白いことを聞いた、というように目元が笑っている。私の言葉、ヘンリーさんを男性として意識して観察しているように聞こえたのでは? 違うのよ。そういう目で見ていたわけじゃなくて。これ、行きつけの食堂の店主が色目使ったみたいになっているのでは?
「あの、私は美しいものを鑑賞するのが好きで、猫も美しいし花も美しいしヘンリーさんも……」
「私のことを異性として意識しているわけではないと言いたいんですよね? わかっていますから安心してください。そんなに慌てないで」
これはこれで「そうです」って言ったら失礼になるパターン! 冷や汗かきながら焦りまくっていたら、ヘンリーさんがわずかに苦笑して「大丈夫ですよ。答えなくていいです」と言う。
うわぁ、失敗した。
ヘンリーさんはいつものようにしばらくくつろいでから帰った。私は笑顔で見送ってからその場にヘナヘナとしゃがみこんだ。
「あなたは魅力的ですよ」と褒めるつもりがどこで道を間違えた。私の馬鹿。
どうしよう。優しいヘンリーさんを不快にさせた。告白されたわけじゃないのだから、そういう目では見ていないと伝える必要なかった。ヘンリーさんは好きでもない女に振られたみたいになっていたよね?
ノロノロと立ち上がった。
明日は全力で美味しいランチを提供しよう。自分の失敗は自分でリカバリーしなきゃ。
大晦日になった。見事に一人もお客さんが来ない。午後二時にヘンリーさんが口開けの客となった。ヘンリーさんはなぜか焼き菓子と花束を抱えている。
「これ、よかったら受け取ってください」
「ええと、これは?」
「私のわがままで店を開けさせたお詫びです。マイさんはきっと気を遣うなと言うでしょうけど、これは私の申し訳なさを打ち消すための品ですから、受け取ってもらわないと困ります」
「まあ……。ありがとうございます。では遠慮なく。嬉しいです」
ヘンリーさんがニコッと笑った。はっきり笑ったわ。初めて見た。
頂いた花束をテーブルに飾り、料理を並べていくと、ヘンリーさんが驚いている。
「豪華ですね」
「お客さんが多い日にこの品揃えは無理ですから、今日だけの特別ランチです」
私の好きな「少しずつ何品も」というスタイルで、料理は私の好物の中からヘンリーさんがたぶん好きだろうなと思うものを選んだ。
本日の日替わりランチのメニューは、牛肉のサイコロステーキ、トマトソースの麺、冬野菜の温かいサラダ、鶏肉のスパイス揚げ、マスと玉ねぎのマリネ、パンと白米を少しずつ、青豆のポタージュ。デザートは小さなベイクドチーズケーキ。
「私の好きなものばかりじゃないですか。マイさんの好きな料理でよかったのに」
「私の好物でもありますからご安心ください。私の実家では年の初めにこうして何種類も料理を並べて食べるのが習慣だったんです。一日早いけれど懐かしい気持ちで作りました。さあ、召し上がれ。猫舌のヘンリーさんのために、どれも少し冷ましてあります」
「猫舌?」
ヘンリーさんがぎょっとしている。しまった。この世界では猫舌って表現はないんだっけ? それともこの国では失礼な言葉だったろうか。
「猫舌とは熱い料理や飲み物が苦手な人のことです。故郷の言い回しですが、気に障ったらごめんなさい」
「ああ、そういうことですか。バレていたんですね。そうなんです。どうにも熱いものが苦手で。ではごちそうになります。あの、よかったらマイさんも一緒に食べませんか? ご馳走させてください。マイさんの分はないのでしょうか?」
「ありますよ。では私も一緒にいただきますね」
私の分も盛り付けて二人でのんびり食べた。
「マイさんのご実家はこんな豪華な食事で新年を迎えるんですか。やはり裕福なおうちなんですね」
「いえ、本当に普通の庶民の家です」
「私は生まれてすぐにハウラー家の養子になったのですが、養父母は私を可愛がってくれました。子供の頃は年末のこの日を家族三人で楽しく過ごしたものです。ハウラー家の両親は仲が良くて、今日も二人で寄り添って過ごしているでしょう」
ハウラー家を知らないから下手に相槌を打てぬ。今日こそ失敗したくない。
「実母もこの王都で暮らしていますが一人で過ごしているでしょうから、今夜は顔を出してこようと思っています。赤ん坊の時に養子に出されたと言うと不幸そうに聞こえるでしょうが、私はとても恵まれているんです」
「そうでしたか」
ヘンリーさんがすごいしゃべる。しかも踏み込んだ話をしてくれた。いつもは必要最低限のことしかしゃべらない人なのに。そして、自分は恵まれていると言いながら少し悲しそうな表情だ。
客商売をしていると、人の数だけ悲しみや苦労があるのを思い知らされる。ヘンリーさんにもきっと何か苦しみや悲しみがあるんだね。そして私もいろいろある。でも今は生きているだけで大成功だと思ってる。
それを今言えば説教くさくなるから言わないけれど。
結局、ランチをゆっくり食べてお茶を飲んでも、お客さんは来なかった。
「私が余計なことを言わなければ、マイさんはのんびりできましたね。申し訳ないことをしました」
「いいえ。一人で一年の終わりを過ごすより、ヘンリーさんと一緒にランチを食べておしゃべりできてよかったです。店が暇なのは、皆さんが結婚相手や恋人と幸せに過ごしている証拠ですもの、平和でいいことですよ」
「そうですね。平和な証拠ですね」
また笑った。すごく美しい笑顔。貴重な笑顔だから、心の中で柏手を打って拝んでおいた。
「ヘンリーさん、いつもは三時ごろにはお帰りになるのに、もう三時半です。大丈夫ですか?」
「大丈夫です。宿舎暮らしを始めて以来、初めて年末を誰かと過ごせたので嬉しくてはしゃいでいるんです。それに、職場には誰もいませんから。時間は気にしなくていいんです。仕事さえこなせば問題ないです」
一年の終わりに過ごす相手が私で申し訳ないけれど、ヘンリーさんが楽しそうだからよかった。ヘンリーさんは二人分より多い代金を押し付けるようにして払って帰った。断ろうとしたけどだめだった。
店を出て行くまでヘンリーさんは上機嫌だった、と思う。