82 選ぶ
『酒場ロミ』の帰りに襲われたことは誰にも言わなかった。
ヘンリーさんに言えば心配をかけるし、他の誰かに言えばどうやって難を逃れたか説明しなきゃならない。動物を出した話は魔法の説明が必要だ。あの魔法を上手く説明するのは難しい。嘘をつけば覚えていなければならない。
誰にも何も言わないのが一番簡単だ。
今日は仕事の帰りにヘンリーさんが来てくれたので、閉店後の『隠れ家』で飲むことにした。今夜の肴は砂肝と野菜のアヒージョ。私の大好物だ。
貴族は砂肝などの内臓を食べるのだろうか。ヘンリーさん自身は私をモツ料理の店に連れて行ってくれたくらいだから問題ないけど、貴族の常識的にはどうなのか聞いてみた。
「貴族も食べます。ソーセージは内臓の有効活用ですよ。レバーもよく食べます。なぜそんなことを聞くの?」
「貴族の常識について思い悩んでいるからです」
おばあちゃんがこの世界の偉い人にどんな目に遭わされたか、グリド先生から教えてもらったのがついこの前。あれから迷いが生まれた。ヘンリーさんから結婚や私の養子縁組の話題が出るたびに(このまま進んで大丈夫なのかな?)と心配になる。
私だけなら「身分の高い人に命じられても、やりたくないことはやらないよ」と言えるけれど、結婚してからそれを言えば、ハウラー家や私を養子にしてくれる家に迷惑をかける。
「マイさん、俺には本音を言ってください。二人でずっと一緒に生きてくれるのでしょう?」
「それは、ええ、そのつもりです」
ずっと一緒にいたいけれど、私が主義主張を通せば、私と貴族社会の間で板挟みになるのはヘンリーさんだ。
かと言って板挟みが気の毒だからと偉い人の言いなりになれば、おばあちゃんが苦しんだことまで「偉い人の命令だったのだから仕方ない」と受け入れるみたいで自分を許せないだろう。
「ちゃんと言葉にして伝えてください。何を言われても俺は受け止めます」
「私はヘンリーさんが大好きです。でも、この国の貴族の一員になるのはためらいがあるの」
「そう……。マイさんが婚約とか結婚とかの話をしたがらないことは気づいていました」
気づきますよね。私は婚約や結婚という言葉を一度も口にしないものね。
「マイさんは身分制度がない国で生きてきたから、この国の制度に一年やそこらで馴染むのは難しいだろうなとは思っていました」
「身分制度はなかったけれど、私がいた国は耐え忍ぶことを美徳とする風潮が根強くあったの。年配の人たちの間では今でも、自分を犠牲にして尽くす妻や部下がよしとされていました。でも私はそういうの、すごく苦手でした。そんな私が結婚したら、ヘンリーさんやハウラー家に迷惑をかけますよね。だからやっぱり……結婚はやめたほうがいいんじゃないかな」
おばあちゃんは「笑って生きろ」と言っていた。その笑顔は作り笑いじゃ意味がない。
「陛下は我々に無体な要求をする方ではありませんが、万が一、上位貴族がマイさんになにかを無理強いしようとしたら、俺が相手を黙らせます」
「どうやって?」
「俺は城にある資料を読むのが好きなんですよ。仕事に疲れるといろんな資料を読んで息抜きするんです」
「息抜きに資料……」
「ひとつの家とその親族の資料を何十年分も読み込むと、その家や一族の隠そうとしていることが違和感となって浮かび上がってくるんです。違和感を感じたことを選びながら読み込めば、たいていの隠し事はあぶり出せる。ひとつ嘘をつけば、関連することでも嘘をつかねばならなくなり、必ず辻褄の合わない箇所が出てくるからです。ふふ」
あ、ちょっと怖い。
「後ろ暗いことが全くない家なんてほとんどありません。国に嘘をついていることを足掛かりにして、無理強いをやめさせます。それができない場合は……二人で他国へ逃げましょうか」
「ヘンリーさんにそんなことをさせたくないから悩んでいるんです。結婚しなければ赤の他人だから、私のことでヘンリーさんに迷惑をかけないで済むでしょう?」
「マイさんは結婚しても自由にしていいんですよ」
そんなわけにいかないでしょうよ。
雨が降り出した。二人とも口を閉じると、屋根に当たる雨の音が聞こえてくる。
「筆頭文官の地位も、ハウラー家も、あなたを苦しませてまで抱えているつもりはありません。養父母には感謝してもしきれませんが、それでもマイさんのほうが大切です。あなたと別れるつもりはありません」
私だって別れたいわけではない。結婚が不安なのだ。そもそも私のどこにそんな価値があると思えるのか。私が一番不思議に思っているよ。
向かいの席に座っていたヘンリーさんが立ち上がり、私の隣に腰を下ろした。
「俺が筆頭文官になれたのはガツガツ働いてきたのもありますが、優先順位を間違えなかったからです。誰に何を言われても、俺は処理すべき順番を間違えませんでした。母と会うより仕事を優先したことは唯一の間違いでした。でももう間違えません。一番大切なのはマイさんだ」
「ねえヘンリーさん、結婚しない形も……」
「養父母には不出来な養子として甘んじて罵倒されます。いや、養子縁組を解消されるほうが先かな」
いやいやいや。
おばあちゃんに『千住のドラ猫』と言われた私でも、さすがにそんな事態は気が引けるわ。なんで恋人のままじゃだめなのかな。
「ハウラー家は養子を新たに取ることにしたのだから、ヘンリーさんに関しては跡継ぎ問題がなくなったんですよね? だったら恋人のままでいいのでは? 私は恋人のままで十分幸せです」
「俺はマイさんと結婚したい。恋人なんて中途半端な形は嫌です。マイさんは好きなように生きていいし、俺はそれを迷惑とは思わない」
ぐぬぬ。話が平行線だ。
「それと、この前言っていたダイヤの寄付の件は、もう少し待ってください。しかるべき人と相談しています。今更ですがマイさんはなぜダイヤを寄付しようと思うのですか?」
「一番の理由はヘンリーさんとカルロッタさんのためです。気軽にアルセテウス王国と行き来できるようになれば、年に一度か二度、カルロッタさんに会えるじゃないですか」
ヘンリーさんが目を丸くしている。
「俺のため?」
「そうですよ。『会わない』と『二度と会えない』は全然別です。死に別れてしまえばもう、仲良くすることも喧嘩することも、新しい思い出を作ることもできないんです。でも私がダイヤを提供すれば、今よりは気軽にカルロッタさんに会えるようになるでしょう? やりたいことをやらずに後悔しながら終わる人生は、一度で十分」
いきなりギュッと抱きしめられた。そして「そうだったね。あなたが死の縁に立った話は何度聞いてもつらいな」と小さな声。
「ダイヤを提供する二つ目の理由は?」
「この国にいる全ての獣人たちのためです。交流が増えれば恐怖心が薄れるから。知らないことは恐怖を呼びます。ソフィアちゃんたちを知らない人たちは、犬型獣人と聞いただけで怖いと思う人も多いでしょう。でもソフィアちゃんは可愛いし、カリーンさんは優しい。ヴィクトルさんはかっこいい。獣人さんを知れば知るほど差別も薄れると思う」
「あなたはやっぱり心の広い優しい人だ」
そこまで言ってヘンリーさんが急に改まった。
「マイさんはオパールとダイヤを作ることができますが、ルビーは? 作れますか?」
「作れません。成分を知らないので」
「よかった……」
「なんで?」
「ルビーのアクセサリーを贈りたいからです。素敵な景色の場所で言うつもりでしたが……諸事情で時間の余裕がなくなりました。マイさん、私と婚約していただけますか? もちろんその先は結婚して正式に妻となってください」
「話が振り出しに戻ってる」
「俺の気持ちは絶対に変わらないので、うんと言ってくれるまで何度でも求婚します」
びっくりするほど粘り強いね! きれいな緑の瞳が、揺らぐことなく私を見ている。
そっか。どうしても結婚は譲れないか。恋人じゃダメか。
悩ましいのは、私は私でヘンリーさんと別れられないことだ。大切な人をもう手放したくない。
不安はいっぱいある。先で問題が起きる気もする。だけどヘンリーさんがそこまで覚悟を決めているのなら、私も覚悟を決めるしかない……よね。
だってヘンリーさんと別れて一人で生きていくなんて、想像しただけで生きる気力を失いそうだもの。
「何が一番大切か、私も選ばなければなりませんね」